便利さと不便さ、都会っぽさと田舎っぽさ。相反するものが共存する「戸越」

著: 高橋ユキ 

就職難で想定外の上京。新宿では悪徳セールスに捕まり……

ずっと福岡から出たくないと思っていた。修羅の国などといわれる北九州市で生まれ育ち、大学進学を機に福岡市で一人暮らしをした。この福岡市の住み心地があまりにもよすぎて、できれば住み続けたいと思っていたが、おりからの就職氷河期により、東京に出てきた。

いつか福岡に帰る……そんな思いは、いまもしぶとく私のなかにある。なのに、なんだかんだ、福岡を出てからの人生のほうが長くなってしまった。結婚し、子どもまで育てている。すっかり“生活”をしながら、それでもどこか旅人のような気持ちで、東京での暮らしを続けている。

そんな自分が、かつて独身時代に住む場所として戸越を選んだのには、いくつか理由があった。一つは単純に当時の職場へ通うための乗り換えが楽だったから。また、心地よい池上線沿線であることも大きい。

気分は旅人だから、休みの日に東京のいろんな街に出かけた。ところが新宿、渋谷など、テレビで観たことがあったような超有名な街は、地方出身の田舎者である私にとって、やや疲れる場所でもあった。やたらとキャッチセールスに声をかけられるのである。

もともと知らない街でも頻繁に道や時間を聞かれる私は、おそらく話しかけやすいのだろう。それに加え、上京したばかりの田舎者だ。目の肥えた彼らは、私から漂う田舎者オーラを見逃さず、必ず声をかけてきた。そして高い絵やコスメ、美容機器を売りつけようとする。

ある日、新宿で少し年上らしき女性に声をかけられ、喫茶店に連れて行かれたことがあった。高いコスメか何かを、ローンを組んで買えば老化を防げるといったようなセールストークをされた。

話しかけやすい私は気が弱いと思われたのかもしれない。でも実家は蜘蛛の糸のように細く、収入も多くなかった当時の私に、予定外の高額な買い物は1ミリも選択肢にない。引き下がらない相手に何度も断りを入れると、コーヒー代を払わされた。「10年後のお前の肌はボロボロになるぞ」といったような捨て台詞を吐き、その女性は立ち去った。

面白いものの、こんな体験をたびたびしなければならない超有名な街は、住むには面倒だ。

ローカルながら好アクセス 池上線のこぢんまりとした魅力に惹かれ

そんなことを思っているときに住んでいたのが、東急池上線沿線の、旗の台だった。五反田から延びる3両編成の電車は私の郷愁を誘った。東京なのに3両編成。その短さは、地元北九州で馴染みのあった『筑豊電鉄』のようである。しかもやたらと駅間が短い。五反田駅から大崎広小路駅間の短さには、たまげた。

そんな池上線に乗り換えるため、JRの五反田駅の端っこから階段を上りながら、もう変なキャッチセールスのいない場所に着く!とホッとしていた。戸越に住んだのは、やっぱり池上線沿線がいい、という思いも強かった。あの3両編成の電車に感じる安堵は捨てがたい。長い旅には休息の時間も必要だ。

前置きが長くなったが、戸越である。住んでいたのは、約10年ほど前までで、少し前のことになるが、独身時代の楽しい思い出も悲しい思い出もほとんど戸越にある。同じ戸越内で一度引越ししたりもしているから、どれだけ戸越が好きなんだという感じである。

なぜそんなに戸越に長いこと住んだのかと聞かれれば、意外と移動に便利だったということもいえると思う。戸越には、愛する東急池上線「戸越銀座駅」だけでなく、都営浅草線「戸越駅」もあり、もう少し離れたところには、なんと東急大井町線の「戸越公園駅」まである。

例えば新宿で飲んで、池上線の終電を逃しても、五反田から戸越銀座駅までは2駅で、しかも駅間は短い。気合を入れれば歩ける。ちなみにJR大井町駅からも歩けないことはない。さらにはJR大崎駅からも歩けたりする。地味に、どこに行くにも便利なのだ。

意外にも、チェーン店もある「戸越銀座商店街」

いま、私は主に裁判所で傍聴して記事を書いたり、何か事件を取材して記事を書いたりする生活を送っているが、戸越に住み始めたときは、よもや自分が傍聴マニアになるなどとは露ほども思ってはいなかった。戸越生活の途中から、仕事を辞め、裁判所に通い始め、傍聴記をブログにアップするようになり、本を出し、ときどき裁判記事を書くようになった。

そんな作業のためにパソコンに向かう時間の多くを過ごしたのが、戸越銀座商店街沿いに今もある、ベローチェだ。まだ重くて白かったMacBookをバッグに詰めてはベローチェに行き、アイスコーヒーを頼み、傍聴記や記事を書きまくっていた。

戸越銀座商店街は巣鴨並みに元気な高齢者が多く、日中のベローチェは高齢者らの社交場の様相を呈しており、店のあちこちで井戸端会議に花が咲いていた。そんな中でパソコンをいじるのはとても気が楽だった。ときどき休憩しながら、そんな周りの客を眺め、自分が歳を取ったらどこで過ごしているだろうとぼんやり考えたりもした。

就職のために田舎から東京に出てきた人はおそらく、東京で仕事をして、収入を得て、自分1人で生活を立てようという覚悟をもって来ていると想像する。私もその1人だった。ところが戸越に住んでいたころ、自分の先行きは見えず、よくわからない傍聴ブログなどを書き、これから増えるともわからない執筆仕事を時折こなすような時期があった。

本来であれば、旅人の私は、このとき福岡に帰ってもよかったのだろうと今は思う。しかし、なぜかこういうときこそ「今帰ったら負け」というような、謎の考えに囚われ、もがいてしまうのである。旅人として来ているのに、なかなか離れられないのが東京だ。

不安定で、しかもよくわからない生活に突入していた私は、きっと同級生からも笑い物にされることだろう……そんなネガティブ思考を爆発させてもいた。東京に出て来ている同級生たちは順調に、それなりにキャリアを積んでいるところだ。誰にも会えない。そんなふうに思っていた私が住む戸越に、大学の同級生だった桃ちゃんが引越して来たのだった。

戸越は友達とはしゃぐにも、暮らしにも、万能な街

食べることが大好きな桃ちゃんは料理がうまく、大学のころから、よく彼女の住むアパートで鍋を食べたり、お好み焼きを焼いてもらったりしていた。戸越に引越してきてもそれは変わらず、彼女に誘われては遊びに行き、ご飯をご馳走になったりした。仕事の話をすることもなく、ただ大学のころのようにのんびり過ごした。

たまに2人で中原街道まで歩いて荏原健康センターに行き、初心者向けダンスレッスンなんかを受けて、その足で戸越銀座駅前にあった老舗カラオケ屋「L.BOX」(2021年閉店)に向かい、大映ドラマの主題歌をはじめとした私たちの懐メロを歌いまくって1日を終えたりもした。古いのになぜか居心地のいい「L.BOX」はストレス発散に最適だった。

こんなふうに過ごしながら、当時の私は、人間誰しも順風満帆ではいかないことを身をもって知り、またそれを人に知られても、別にいいではないかというマインドになったと、たぶん思う。戸越という街を楽しむようになったのも、このころからだ。

戸越という地名の由来は諸説あるといわれる。「戸越銀座商店街アーカイブ」というサイトには、現在の戸越を超えると神奈川県に入ることから「江戸越えの村」と呼ばれ、やがて戸越になったという説が紹介されている。そんな江戸のはずれの街に残るのんびりした雰囲気は、やっぱり地方から出てきた私にとって居心地がいい。キメキメに身なりを整えなくても、ふらっと歩けるのが何よりよかった。

商店街のイメージが強い戸越だが、先述したベローチェやその2階にあるサイゼリヤを筆頭に、広域展開するチェーン店も実はいろいろある。スーパーマーケットでいえば、鮮度よく品ぞろえ豊富な「オオゼキ」が私のお気に入りだった。OZカードのポイント還元率が高いのも文句なく素晴らしい。

そのうえ圧倒的な安さを誇る「オーケー」戸越店まである。こうしたチェーン店と、個人商店を組み合わせてお得に買い物ができるのが戸越の楽しさであり、よさでもある。たぶん戸越在住の人々はそれぞれお気に入りの個人商店があるだろう。私は「肉の雲野」の新鮮な肉と丁寧な接客が好きでよく利用していた。

コロナ前から時代を先取りしていて、お惣菜をテイクアウトできるお店もやたらとあった。有名な後藤蒲鉾店のおでんのほか、焼き鳥、焼きとん店も並んでいる。週末の昼下がりは、テイクアウトのお惣菜を食べ比べるのもまた楽しみだった。

銭湯も外せない。「戸越銀座温泉」には、関東南部にみられる黒湯の温泉だけでなく、露天風呂まである。スーパー銭湯並みの設備を誇りながら、銭湯価格で利用でき、これまた休みの日に利用するのが楽しみの一つだった。風呂上がりにはフルすっぴんで外を歩くことになるので、否が応でもモードはオフになる。戸越銀座温泉であったまって、商店街をのんびりぶらぶらしながら、焼き鳥をテイクアウト……なんて過ごし方が、とにかく気分がゆるんで最高なのである。

「東京一長い商店街」であるといわれる戸越銀座商店街は夜が早く、20時を過ぎるとかなりの店が閉まる。飲食店でも21時に閉まったりする。その健康的でちょっと不便な感じも好きだった。

戸越のスター・CharとJESSE、そして新たな文化も

またギタリストのCharが住んでいる街としても有名で、たしかに商店街や立ち寄った店でCharを見かけることはたびたびあった。なんとなくCharを見かけた日はいいことがありそうな気分になったから不思議である。戸越銀座商店街の公式アイドルキャラクターは「戸越の銀次郎」だが、Charも銀次郎に負けぬ戸越のアイドルであろう。

Charの街ということは、彼の息子、RIZEのJESSEが育った街でもある。あるゴールデンウィークの日、のちに夫となる彼と二人で、ピクニックでもやってみようと、サンドイッチをつくって戸越公園に行ったときのことだ。ベンチに腰掛け、池を見ながらランチしていたところ、やけに人が増えてきた。

趣味の集団の昼飲みかな? なんて思っていたところ、できあがった小さな集団のなかから音楽が聞こえ始めた。「あれJESSEじゃねーの!?」と興奮する夫と一緒にその集団に近寄ってみると、どうも音楽フェスらしき催しのようだ。若旦那も登場するなど、やたら豪華なメンバーに仰天しつつも、思わず最後まで鑑賞。興奮冷めやらぬ夫は若旦那に握手を求めていた。

偶然ピクニックしていただけでこんなフェスに出会えるなんて、戸越はなんてすごい街なんだ。Charを見かけたときと同様、何かいいことがありそうな気分になった。しかも住宅街のなかにひっそりとある、“和”の雰囲気ムンムンの戸越公園で、インディペンデントな音楽フェスが許されることに、戸越の人々の懐の深さを思い、ますます戸越が好きになった。

いま調べると、その日は2010年5月4日。なんと「戸越の日」と称した音楽フェスが初めて開催された日であり、このフェスは今年も行われたという。JESSEの公式サイトを見ると同年発生のハイチでの震災を機に始まったのだそうで〈イベント初回の2010年5月4日(と.ご.し)に集まったのは100人いないくらいでした〉とも書かれている。私と夫は、100人に満たないオーディエンスの2人だったようだ。なんという幸運だろうか。歴史的フェスが産声を上げる瞬間に立ち会ってしまったのである。

ほどよい距離感が心地よい飲食店

ほどよい抜け感がありながらも、時折びっくりするようなことが起こる街・戸越とは、結婚を機に別れることになったが、私は今も戸越を愛している。悲しいことに私は、待ち合わせでも相手になかなか気づかれず、飲食店で注文した料理を頻繁に忘れられるような存在感のなさから、通っている飲食店でも常連認定されづらい。

ところが唯一、当時うっすら存在を認識されていたと思われるのは第二京浜沿いにある「やまと」という定食屋だ。早食い、大食いの私は、お店のご婦人に食いしん坊の女性だと記憶されていたのか、たまにアイスクリームなどをサービスしてもらった。いまでも、腹ペコ状態で「やまと」に行きたい、さんざん読み古された『美味しんぼ』をめくりながら料理が出てくるのを待ちたいという気持ちになることがある。

旅人のつもりなのに、戸越に郷愁を覚える矛盾が生じている。誰が待っているわけでもないのに、たまに戻りたくなる。

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著者:高橋ユキ

高橋ユキ

傍聴人。フリーライター。『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』(晶文社)、『木嶋佳苗 危険な愛の奥義』(徳間書店)、古くは『霞っ子クラブ 娘たちの裁判傍聴記』(新潮社)など殺人事件の取材や公判傍聴などを元にした著作多数。2022年6月に『逃げるが勝ち 脱走犯たちの告白』(小学館)が新たに出版された。

 


編集:小沢あや(ピース)