
東京都新宿区余丁町(よちょうまち)。新宿駅から東へ2キロ弱の距離にあり、東新宿駅(東京メトロ副都心線・都営大江戸線)、若松河田駅(都営大江戸線)、曙橋駅(都営新宿線)に囲まれた大変交通の便が良いエリアだ。
この街で2007~2010年頃に暮らしていたのが、現在はフードライターやコラムニストとして活躍中の白央篤司さん。雑誌の編集者からフリーライターに転身したばかりの頃、ウェイターのバイトをしながら己の道を模索し続けていた当時の様子を、約15年振りに訪れたという余丁町を散歩しながら伺った。
編集者からフリーライターへのリスタートをした街、新宿区余丁町
「親が転勤族で、ある程度時間が経ったら引越すのが当然という人生でした」と教えてくれた白央さんは、東京都小金井市で生まれ、生後4カ月から4歳までは兵庫県尼崎市、小学校卒業の直前までを宮城県仙台市、そして高校卒業までを埼玉県川越市で暮らす。
大学生になると、今とはだいぶ雰囲気が違ったという中目黒で一人暮らしを始めて、そのまま32歳まで過ごし、転職をきっかけに新宿区余丁町へと渡った。今回紹介していただく街は、その余丁町である。
丸い建物が特徴的な伊勢丹の駐車場前からスタート。こんな都心に住んでいたのかと驚いた
伊勢丹前の「新宿五丁目東」交差点で待ち合わせ、靖国通りを東に進んで「三番街」を抜け、「東京医大通り」を少し進んで路地に入って余丁町へ向かうと、新宿区とは思えない静かな街並みが続いていて驚いた。
二階建ての一軒家やアパートの合間に、豆腐屋、パン屋、布団屋、花屋、寿司屋、畳屋などが点在している。写真だけを見たら、まさか新宿駅から2キロ以内の場所とは思わないだろう。
白央篤司さん(以下、白央):「店はちょこちょこ変わっているけれど、雰囲気はそんなに変わっていないかな。
当時は三番街に東順永っていう水餃子のおいしい中華料理屋があって、僕が普通にランチを食べに来たら、客のおじさんが水餃子とかをつまみにビールを飲みながら、のんびり新聞を読んでいた。
ああいうことしてみたいって思ったんですよ。まだ小童(こわっぱ)だったから、昼ビールとか昼飲みに憧れているけれど、ちょっと怖くてできなくて」
――白央さんにも、そんな初々しい時代が!
三番街の東順永があった場所は別の中国料理店になっていた。どうやら新宿三丁目に移転したようなので、今度昼ビールを飲みに行ってみようかな
白央:「今は普通のことになりましたけど、記念すべき昼ビールのデビューをしたのがその東順永。ちょっとギャラが入ったら、昼間っから水餃子を食べて瓶ビールを飲んでボーっとするのが、たまの贅沢でうれしかったんですね」
――その気持ち、わかります。
東京医大通りを曲がった路地。新宿とは思えない渋い街並みが続いている
白央:「こっちの路地のあたりは、全然、超都心っぽくないでしょう。肌馴染みがいいんですよ。当時はお肉屋さんがあって、そこのすき焼き弁当がすごくおいしくて、それを買うのも楽しみだった。園芸が好きだからお花屋さんで苗を買って、ベランダで育てた覚えがあります。
余丁町周辺はこういった個人商店がまだ残っていて、昭和にタイムスリップした感があって楽しかった」
お肉屋さんはパン屋さんになっていたが、苗を買った花屋さんは現役だった
余丁町に住んだ理由
路地を抜けると、抜弁天(ぬけべんてん)と呼ばれる厳嶋神社の前、抜弁天交差点へと出た。ここから曙橋方面へと向かう。
この周辺は神社仏閣が多く、七福神巡りをする人も多いのだとか。
この路地を抜けてきた
余丁町の端にある抜弁天の交差点
白央:「この街に31歳から34歳くらいまで住んでいたのかな。出版社の編集部を辞めてフリーライターになって、取材に行きやすくて帰りやすい街に住もうと決めて探していたら、たまたま知り合いに余丁町の安い物件を紹介してもらったんです。
当時は週刊誌や月刊誌の飲食店の取材が月に8件とか10件あって。とにかく取材がいつ入るかわからないし、夜遅くなることも多い。関西まで出張することも頻繁にあったから、交通の便がすごく大事。
例えば、今は埼玉の京浜東北線沿いに住んでいるけど、その電車が止まっちゃうとどうにもならなくなる。それこそ急いで赤羽までタクシーで移動とか。
余丁町に住んでいれば、都営大江戸線、東京メトロ副都心線、都営新宿線のどれかが動いていれば取材に行けるし、帰りも新宿までたどり着けば、どうにか歩いて帰れるじゃないですか」
――すごく便利な分、家賃も凄そうですけど。
新宿で七福神巡りができるとは知らなかった
白央:「それが安かったんですよ。当時で5万円だったかな。ボロボロの一軒家で、一階に大家さんが住んでいて、空いている二階を借りていました。一口コンロの小さなキッチンとトイレとベランダがついていて、風呂は大家さんと共同」
――私が20代の頃に住んでいた新小岩の1Kアパートよりも安い!
白央:「フリーランスになってから最初のうちは羽振りがよかったんですけど、こういうときに生活を引き締めないとと思って、安いところを探しました。そのうち毎年のように家賃が上がって、最終的には6万5000円だったかな。それでも安いんだけどね。余丁町とか抜弁天っていう名前も、なんだか余ったり抜けたりしていて好きだったんですよ。
新大久保や歌舞伎町に連なるエリアだから、この辺ってそこで働いている人も多くて、なかなかカオスでしたよ。別に交流はないんだけれど、いろんな人と交差するのがおもしろかった。朝になるとシャンパンのボトルを抱えたホストが寝転んでいたりして」
――そこで楽しく暮らせるかどうかは、人によりそうですね。
白央:「怖いもの知らずの年代だったから。次第に慣れちゃうんでしょうね。だんだん無反応になっていく自分がいる。でもさっき歩いたからわかると思うけど、路地に入った場所は静かだし、暮らしやすかったですよ」
――不便な部分はありましたか。
白央:「当時は外食が多くて今ほど料理をしていなかったけど、近所にスーパーが1軒しかなかったから、買い物は割と大変だったかな。買いたいものが高くても、他で買うという選択肢がない。今の家なら徒歩圏内に3軒もあるんだけど」
――自炊生活に重きを置くなら、ちょっと物足りないですかね。
白央:「高級食材なら伊勢丹のクイーンズシェフとかでいくらでも買えたんだけれど、そんなお金はなかったから」
新大久保や歌舞伎町へも歩いてすぐという立地
余丁町の思い出巡り
――よく通ったお店を教えてください。
白央:「抜弁天交差点のあたりに季節のお品書きがあるような素敵な飲み屋さんがあって、ちょっと大人っぽい飲み方をするデビュー店が、その『彦や』だった。
今思えば、よく勇気を出して入ったなと感心します。自分の中の『いい店レーダー』が働いて、入らなきゃ絶対後悔するって思ったんでしょうね」
――飲食店の紹介記事をメインの仕事にしていた白央さんのレーダーに反応したのだから、相当の名店だったんでしょうね。近所にそういう店があるのは心強い。
白央:「センス溢れるメニューばかりで、その料理が抜群においしくて、本当に毎度ワクワクさせてくれる。すごい好きだったんですが、僕がこの街を出てまもなく、立ち退かれてしまったようです。
『なんちゃって志村軒』っていう変わったの名前のラーメン屋も意外とおいしかったけど、そこもなくなっちゃのかな」
彦やがあったあたり。白央さんを探そう
現在やっていない店ばかり巡っても寂しいので、白央さんが当時通っていた店で、まだ営業しているはずの店へと向かったのだが、なんと本日から臨時休業の張り紙が貼られていた。
白央:「残念。この店はいつも生ビールがキンキンに冷えてて、グラスもすごくきれいで。雰囲気も良くて、仕事が終わってからここのウィンナー炒めでビールを飲むのが好きだったんですよ」
二人でポカーンとしていたら、ちょうど店主が店の外に出てきたので少しだけ話をすることができた。またいつか
飲食店でなくてもいいから一軒ぐらいは思い出の店が残っていてほしいのだが、道路拡張工事の影響でこのあたりの個人店はだいぶ減ってしまったようである。
白央:「このあたりにおもしろい酒屋さんがあったんですよ。娘さんの夫が外国の方で、たまに店番をやっていて、『これは私の国のお酒です』って勧めてくれて。
当時はプライベートでいい酒を飲むって感覚、まるでなかった。酔えればいい時代で、お金もないし。でも千円ちょっとのスパークリングワインを買ってたまに飲むのが、楽しみだったんですよねえ」
そんな話を聞きながら歩いていたら、なんとその酒屋がまだ残っていてくれて、まったく関係のない私まで感動してしまった。
ワインや地酒、クラフトビールなどの品揃えが素晴らしく、我が家の徒歩圏内にも欲しいと心から思う店だった。こういうところで晩酌用のお酒を選ぶ生活に憧れる。
変わらず残っていた升藤酒店。タバコや葉巻の種類も豊富で喫煙所も完備している
「実は昔、この近くに住んでいて……」と、15年振りの訪問に会話が弾む
当時買っていたスパークリングワイン、ピノ シャルドネがまだ売られていた
当時の暮らしと仕事を振り返る
――これは街の話とは関係のない個人的な興味ですが、なんで『編集する側』から『書く側』に転職したのですか。
白央:「人が書いた原稿を読んでいたら、もっとこう書いたら面白いのに……と思ったんですね、しばしば。でもそこで編集が『直す』のは、私は違うと思ってて。だから、書く側に行こうと思った。
ライターになってからは、飲食店の紹介以外だと都内各地の商店街や散歩向きの街を紹介する取材が多かったですね。
今と比べたら雑誌のギャランティがグンとよくて、ボリュームのある特集記事とかのギャラが入ると、ちょっと贅沢するのが楽しみでした」
――水餃子で昼ビールとか、肉屋のすきやき弁当とか、お気に入りの飲み屋とか、ピノシャルドネとか。人生にご褒美は大事ですね。
白央:「当時の優雅スペシャルは宅配ピザとって、発泡酒じゃないビール買い込んで、『こち亀』(集英社)の増刊2冊ぐらい買って、食っちゃ寝することだったな(笑)。あの頃のご褒美タイム」
――最高じゃないですか。
升藤酒店で買った酒を飲みながら、盆踊りを眺めたという公園。余丁町通りの延長工事の影響で、盆踊りは今年限りだとか
白央:「余丁町に住み始めたのがフリーライターになった年だったから、税金だの保険だのの手続きにいったら、役所の人がみんな優しかったのを覚えている。今はどうかわからないけれど、そこに人情味を感じたんですよね。
初めて確定申告で税務署に行ったときも、『あなたは自宅作業をしているんですよね。電気代とかの申告がないけれどいいの?経費になりますよ』って教えてくれて。
後ろに人が並んでいたから、『来年からちゃんと出します』って答えたら、『そんな適当なことではダメです!払わなくてすむものは払わないようにしなければいけません!』って、その場で計算してくれたんですよ」
――優しい。
白央:「私の微々たる申告金額を見て、この人から税金を取っちゃダメって思ってくれたんでしょうね」
公園を抜けた先に、これまた昭和な景色が広がっていた
白央:「まだ駆け出しのフリーライターだったから、なんでもやりましたよ。編集プロダクション経由の仕事で会社の広報誌のライターとかもしたし、無署名で外国人観光客向けの会話サンプルを何百種類も書いたり、あまり特徴のない飲食店のPR記事を20軒くらい書いたり。
正直面白い仕事ではなかったけれど、そこにやりがいがあった。こういうの面白がれないと次はないだろうなって。鍛えられた気がします」
――書くことがあまりない内容でも、読める文章を成立させる能力の特訓だ。
白央:「mixiで好き勝手に書いたものを読んでくれた編集さんが、映画コラムの連載をくれたこともありました。いい時代でしたよね。
ただこのまま、なんでも屋みたいなライター仕事を続けていても、自分のキャリアにはならないなと思い始めていて。『名刺になる仕事』をつくらないとダメだ、どうしたらいいんだろう……と悩んでもいました。私はこれが得意です、これに詳しいですって売っていかないと、だんだん仕事を取りにくくなると思って」
――フリーライターとして得意ジャンルは欲しいですよね。誰でもいい仕事ではなく、自分にしかできない仕事、この人でと指名される仕事をするために。
白央:「35歳までに自分の名前で本をつくると決めたけど、全然無理だった。企画も立てられず、自分がなんのライターとしてやっていくのかも絞り込めなかった。コラムやエッセイを書きたいのか、おいしいお店や街の情報を伝えたいのか。
その頃から関わっていた雑誌の休刊が続いたり、お世話になってた担当さんが退職・異動されたりもあって、グンと仕事が減ってしまい、『はじめての胃もたれ』(太田出版)という本にも書きましたが、転職を考えた時期です。
ライターとして『持っていないんだな』と絶望していて、近くの神社のある公園を通りがかったらたまたま神主さんが出てきて、『私これからどうしたらいいんでしょう…』と相談したいと本気で思ったことあります」
――私も最近、そんな感じでした。
白央:「なにもやることがないような日は、さっきの升藤酒店で100円の缶チューハイを買って、家で飲んで憂さを晴らしていましたね」
――ご褒美のお酒ではなく、憂さ晴らしのお酒。
白央:「今はもう少しカジュアルにお酒と付き合えるようになったけど、当時は仕事もないし先行きも見えないのにお酒を飲むなんて、そんなのダメだと思っていた。
でもやりきれないから、昼間から家でこっそり飲む。缶チューハイを3本くらい飲んでベロベロになる。楽しい半分、憂鬱半分だったことを思い出します」
――白央さんにもそんな時代が。
白央:「そんな時代を経て、ツイッターで注目してくれた人が今につながるお仕事をくれる時期に入って30代後半へ。フードライターと名乗ったのは39歳ぐらいかな。もっと早くに道を定めて、方向を絞ってがんばればよかったって今になって思うんですけど」
バイトしていたレストランを訪ねる
曙橋を経由して、ウェイターのバイトをしていたという四谷三丁目方面へ向かいつつ、引き続き昔話を伺った。経歴に私と少し似たところがある白央さんの話は、なにを聞いてもとても興味深かった。
白央:「ライターだけじゃ生活ができないから、ウェイターをやっていました。いろんな料理を知りたかったし。スペイン料理を知りたかったからスペインレストランを探して働く。ワインを勉強したかったらワインバーで働くっていう時代でしたね。取材で食べておいしかった店で働かせてもらったり」
――いいですね。そういう飲食バイトの経験に憧れます。働きながら学べるやつ。
白央:「四谷にあるバイト先のレストランまで、運動がてら25分くらい歩いて通っていたんですが、その道をこうして通ると、当時のことを強く思い出しますね。
この先どうなるんだろうって気持ちが沈んでいたこと。友達は順調なのに自分はなんでって勝手に比べてドヨーンとしていたこと。
そのレストランは良いワインを出している店で、よく『飲んでごらん』って試飲させてくれたんです。そこでグラスによって味が変わることだったり、高い安いの理由を学んだり。たまに荒木町や麻布の寿司居酒屋などに連れていってくれたりもして、こういう店に一人で飲みにこられるようになりたいなって思いました」
――なかなか道を定められなかったという話ですが、すべての経験や葛藤が、今の白央さんにつながっているんでしょうね。
バイト先の主人に連れて行ってもらったという荒木町界隈
バイトをしていた店は、大規模開発によって商業ビルになっていた
白央さんは3年間の余丁町暮らしを経て、渋谷の店でバイトをすることになったため、渋谷と三軒茶屋の狭間にある比較的安いエリアに引っ越し、現在は埼玉県川口市で暮らしている。
――最後に一つ。なにも制約が無かったとしたら、今ならどこで暮らしてみたいですか。
白央:「関西の食文化を知りたいから、二拠点で大阪あたりに住んで、一年を通じてどんな魚や野菜が出回るのかを肌で感じつつ、料理をつくってみたいです。
大阪だったら、京都、兵庫、奈良、滋賀あたりにも行きやすい。向こうは昼酒に寛容なイメージがあるし、『これやっているの?』っていう怪しい店もたくさんあるじゃないですか。関西でたくさん飲み歩いて、もっと揉まれて鍛えられたいですね」
これはあくまで妄想の話なのだが、大阪の新しい拠点で楽しく暮らす白央さんのもとへ遊びに行き、白央さんにとっての名店へ連れて行ってもらう未来がはっきりと想像できた。
■この頃の話も書かれている白央さんの著書「はじめての胃もたれ 食とココロの更新」(太田出版)
【いろんな街で捕まえて食べる】 過去の記事
著者:玉置 標本

趣味は食材の採取とそれを使った冒険スペクタクル料理。週に一度はなにかを捕まえて食べるようにしている。最近は古い家庭用製麺機を使った麺づくりが趣味。同人誌『芸能一座と行くイタリア(ナポリ&ペルージャ)25泊29日の旅日記』、『伊勢うどんってなんですか?』、『出張ビジホ料理録』、『作ろう!南インドの定食ミールス』頒布中。
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