著者: 桒田萌
タイヤの空気が抜けた自転車をこぎながら、必死に橋をわたる。地元・大阪市大正区から難波へ向かうためにわたる大浪橋は、坂は緩やかだけど距離が長く、こちらの体力をジリジリと削る。

ようやくのぼりきった橋の上で見えるのは、特段美しいわけではない、ドブのにおいのする深緑色の川。今日も濁ってるなあ。一息ついて、13歳の私は橋を下る。
第九と縁がある大正区
母のアップライトピアノを譲り受けてピアノを始めたのは、6歳の頃だった。私はたちまち音楽が好きになった。鍵盤の前にいる自分こそが、本当の自分である気がした。大正駅前のTSUTAYAで、クラシックやJ-POPなどいろんなCDをディグってレンタルしてはMDにダビングし、何度も自室のコンポで再生した。ピアノが上手でキュートな大塚愛のようなアーティストに憧れた。

音楽の道に進む決定的なきっかけとなったのは、中学1年生のとき、吹奏楽部に所属していた縁で参加した区民合唱団だった。私の生まれ育った大正区では、毎年冬にベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」=通称“第九”の演奏会が行われていた。
正直言って大正区は、一見クラシック音楽とは縁遠いようなまちだ。もっとも栄えている北端の大正駅前はややわい雑な飲み屋街で、区の輪郭の大半はメーカーの工場や運送・海運会社、倉庫がびっしり詰まっている。私はもっと内側にある住宅街に住んでいたが、そこも工場跡地だと聞いている。私の祖父も、自宅の1階部分で個人工場を営み、機械をつくって母たち3姉妹を育て上げた。クラシックとリンクする部分がまるで少ないように思える。

が、大正区内には1910年代、第一次世界大戦中に捕虜とされたドイツ兵の収容所があったらしい。そこではドイツ兵たちが音楽などの娯楽を楽しんでいた記録も残っているようで、そこには“第九”をのちに日本で初演した指揮者もいたそう。
そんな歴史に端を発して、大正区では“第九”が演奏されていた。その背景を知ったとき、それまで特別な感情を抱いたことのなかった地元に、初めて愛着を感じたのを覚えている。

その合唱団は、多分100人くらいで構成されていたはずだ。声と声が重なり合い大きな波動になり、それに身を委ねる時間に快感を覚えた。「この瞬間を何度も経験したい」「音楽の道に進もう」と思い、音楽高校を目指そうと決めた。
専攻の楽器を一つ決める必要があり、迷わずピアノを選んだ。だって、私は中学校で一番ピアノがうまい、そんな自信があったから。

難波まで自転車で15分、川をわたって
それまで近所のピアノ教室に通っていた私は、志望校への合格者を輩出した実績のある教室の門をたたいて、毎週、大阪屈指の繁華街のミナミ(難波)までレッスンに通うことになった。

大正区は四方八方を川に囲まれていて、島のような形をしている。別のまちに行きたければ、電車に乗る以外に、橋をわたるか、渡し船に乗るか、だ。難波へ行くには、大正区の北側にある「大正橋」か、もう少し南側の「大浪橋」を東にわたる。市営バス(現在の大阪シティバス)を使う手もあるが、お金がないから自転車を使う。

自宅からの距離は3kmくらい、自転車で15分くらいの近さだったが、「グリコ」のネオンサインで有名な道頓堀や、吉本新喜劇が上演されている「なんばグランド花月」、あらゆるショッピングモールのある難波は、中学生の自分には大都会だった。
川をわたって難波のピアノ教室に行く行為は、冒険や旅に近い。だって、それまでは徒歩3分くらいのピアノ教室に通っていたのに、「音楽高校に合格する」「自分の専門性を極める」という大きな目的のために、校区はおろか大正区を離れた大都会へわざわざタイヤを走らせるのである。まるで人よりもえらいことをしているようで、1人で誇らしくなって胸がキュッとした。

ところが、レッスンで褒められたことなど、片手で数えられる程度だった。先生は厳しかった。指の形がおかしい、みたいな小学生の時点でクリアしておくべき課題を抱えた私を根気強く指導してくださった。同じ高校を目指すライバルの中には、あなたより上手な子がごまんといて、すでにコンクールの全国大会に出ている子だっている。そんなことを言われた。これまでの私は、井の中の蛙だった。
ピアノ教室の発表会で、同世代の生徒の発表を聴いて、自分の演奏なんて小石とくずをむりやりくっつけたガラクタのようだと思った。これまで自分のアイデンティティとしていたピアノが、戦うべき相手へとオセロのようにひっくり返っていく。レッスンのために橋をわたる自転車のペダルが、より重く感じるようになった。
橋の上にたどり着くと、必ず足を止めてぼんやりと川を眺めた。「阪神タイガースが優勝しても、体調が終わるから飛び降りてはいけない」と言われる道頓堀川につながる一級河川の木津川。一体何の成分が混ざればこんなに濁った深緑色になるんだろう。それまでの空虚な自信ともろい自尊心、少し叱られただけで芽を出すピアノへの嫌悪感、「音楽の道に進もう」と決断したのは自分やんという我への疑念、でもやっぱりうまくなりたいという底なし沼のようなドロっとした気持ち。それらを混ぜてくたくたに煮込んだ色に見えて、イライラして橋を下った。

川の向こうに新たな居場所を探す
でも、練習に疲れたときも、呼ばれるように川に向かった。川に囲まれている大正区は、自転車さえ走らせておけば突き当たりの堤防にたどり着く。友達とコンビニで落ち合い、リプトンのレモンティーを買って、堤防に向かい、そこでひたすらおしゃべりをする。他愛のないうわさ話、部活の愚痴、好きな人の話。発された言葉たちはすべてそばの川に放り込まれた。

堤防にとどまらず、時にはその向こうへわたった。あえて地元ではなく難波のマクドナルドへ自転車を走らせ、100円マックでお腹を満たしてからゲームセンターでプリクラを撮った。大正橋をわたって、CDや楽譜が多く収蔵されている西区の大阪市立中央図書館にも行った。

時には渡し船を使うこともあった。大阪市内には公営の渡船場が8つあるのだが、うち7つは大正区にある。北部の大正駅から遠く離れた南部の住民にとっては貴重な足であり、なんと無料で乗ることができる。


私も友達と渡し船に乗って、隣の港区のドン・キホーテや、同じ大正区内だけど川を挟んで少し離れた場所にあるIKEA鶴浜などに行った。ここのカフェは安価にソフトクリームやホットドッグを食べられるので、お小遣いの少ない中学生にはありがたかった。
当時、2010〜2012年ごろの大正区にはこれといったショッピングモールや娯楽施設が少なく、とりあえず川の向こうを目指した。川は、新たなステージへの扉であるとともに、安らぎの場所、そして思春期の小さな世界を拡張させるハードルにもなったのだ。

川のまちを離れて
そんな中学時代を経て、何の気まぐれか、もしくは強い執念が効いたか、音楽高校には無事に合格できた。実技試験はボロボロだったのに。運がよかったとしか思えない。合格発表からの帰り道、「これが夢なら覚めませんように」「今、いんせきがぶち当たってきてうっかり死にませんように」と心から願ったのを覚えている。
無事に高校生になり、ますますピアノは本格化した。先生に言われたように、クラスには私よりうまい子しかいなくて、楽器との付き合いはますます苦くなっていったのだけど、それはまた別の話。
そうして、あらゆる本番やイベントの忙しさゆえに大正区で過ごす時間は徐々に減った。そこから時間は飛んで、京都の芸術大学に通うようになった20歳のとき、家庭がのっぴきならない状態になって突如区外へ出ることになり、そこで大正区との思い出は一度ぷつんと途切れた。
そこからはいくつかのまちに住んだ。慌てて探して数日で見つけた、阪神高速と大阪メトロ中央線に面したバイクの騒音にあおられてばかりのマンション。下町に飽きてのどかで美しい場所を求めて見つけた、北摂エリアで緑あふれる府営公園近くの明るい部屋。より広い部屋をと移り住んだ、空気の澄んだとある山の麓。

どのまちも、大正区にはないものを探してたどり着いたところだ。それぞれに違うよさがあった。でも、川は遠かった。かつては東西南北ではなく川を我流の方角にしながら移動していたから、最初は何をコンパスにして動けばいいのか困惑した。心が疲れたら、わざわざ住んでいるまちを出て川や海のまちに行った。映画『花束みたいな恋をした』で麦くんと絹ちゃんが住む多摩川沿いのリバービュー物件を心底うらやんだ。私には川が不足していた。
でも、そこで大正区に行こうとは思わなかった。ネガティブなかたちで離れてしまったから気まずさがあったし、濁った深緑色の自尊心を思い返すのも小っ恥ずかしかった。
時を経て、大正区と再会する
その間に、私はピアノから少しだけ離れて、音楽について文章を書く仕事についた。息を切らしながらピアノを弾いていたあのときよりも、気持ちよく息をしながら音楽と触れ合えるようになった。そうして20代中盤になり、ふと大正区を巡ってみた。すると、川の向こうばかりを見ていた昔とは違い、今の私が十分楽しめるまちであることに気づいた。
例えば、20代半ばでよくお酒を飲むようになったから、大正区はお酒好きに優しいまちであることを再認識した。10代の頃は「酔っ払いばっかりやな」とまるで傍観者のように興味のなかった駅前の飲み屋街を、当事者として楽しめるようになった。
昔ながらの雰囲気を感じられる居酒屋の「クラスノ」はその一つで、くわ焼きが有名なお店だ。6品と生野菜のおすすめセットで1100円。自家製ソースでつくられているというピーマンの肉詰めがおいしい。そして、安い。

あと、「いちゃりば」も最高だ。住民の4分の1が沖縄にルーツをもっているとされている大正区は「リトル沖縄」と呼ばれている。沖縄料理店もいくつかあって、中でも「いちゃりば」は気軽に立ち寄ることができて、とってもおいしい。区外から友達が来たら、まずはここに連れて行く。おすすめのメニューは、ジューシーな「くんちゃまベーコン」。


2020年には「タグボート大正」がオープンした。西区の京セラドーム大阪に向かってかかる岩松橋のそばで、尻無川沿いに佇むフードエリアだ。

お昼に行くときはハンバーガーを食べ、夜はクラフトビールを飲んだり、イタリアン「PIZZERIA DA DOTS」で生パスタを食べたりする。たまに行くとDJイベントやライブが行われていて、お酒と音楽が好きな自分にうれしいスポットだ。

お酒だけではなく、大正駅のすぐ近くにある「井尻珈琲焙煎所」も外せない。扉を開けた瞬間、駅前の喧騒から場所をトリップしたような落ち着いたお店で、ゆったりと流れるレコードに耳を傾けながらコーヒーを静かに楽しめる。レコードも販売していて、そこでジャケ買いしたShannen Moserの『The Sun Still Seems To Move』は自宅のプレイヤーで何度もリピして聴いている。


清濁あわせのんだ川を、再び見つめて
こうして今、大正区を楽しめているのは、私が住んでいた頃にはなかったスポットができていることや、歳を重ねてライフスタイルが変わったことが大きいだろう。同時に、きっと自分自身の心境にも変化があったのだと思う。
自信のなさを音楽で埋めようとしていた10代。地元はそんなネガティブな自分を象徴する場所であって、だからこそ自分を満たしたり装備したり飾ったりできる何かを川の向こうに求め続けた。別に、今だって自信があるわけじゃないし、自分は不完全だと思うことばかりである。まぁ、ほんでもなんとかやってこか、やっていくしかない、そう思っている。これは、痛みを伴いながら拙くとも音楽に向き合った時間が、今の私を確実にかたちづくっているからであろう。

そして私は、再び大正区の川を訪れた。すると思わず驚く。相変わらず深緑色に濁ったその川の水面に、日に照らされて生じた無数のきらめきがあることに初めて気づいたからだ。
別に今さら水質が格段ときれいになったわけではなかろう。きっとかつてもきらめいていたはず。当時の私が、それに気づけなかっただけなのだ。目前でその輝きが弾ける瞬間に出合えたいま、私とこのまちの関係が再び動き出した気がした。
著者: 桒田萌

大阪生まれの編集者/音楽ライター。音楽高校と芸術大学を卒業後、編集プロダクションで編集者として働きながら、クラシック音楽に関する取材・執筆の活動を続けている。音楽雑誌や音楽系Webメディア、音楽ホールの広報誌などでのアーティストインタビューやコラムの寄稿、ブックライティングなどを行っている。
編集:吉野舞(Huuuu)
