著:松本潤一郎
なんのために生きているのだろう。
子どものころからいつも考えていた。
その答えはまだ見つかっていない。
けれど、この土地へ来てから少しだけれど分かってきた気がする。
幼稚園中退から不登校 旅のはじまり
愛知県で生まれ、すぐに横浜へ移り住んだ。
幼稚園は半年で中退、小学校へ上がるものの中学2年から登校拒否。管理されながら学ばされることがとても苦痛だったのだ。
学校へ行くことをやめると同時に一人で旅へでかけるようになっていく。
修学旅行のために積み立てられたお金を学校から返金してもらい、一人用のテントを手に入れると電車とヒッチハイクで少しずつ日本を周り出すようになった。
このころになると周りの同級生たちは受験という行為に必然的に乗っかり始める。
高校受験、大学受験、就職。そのために生きるのだろうか?
自分は外の世界がどうなっているかをもっと知りたい。旅をするための「進路」をこの時に自分で選んだ。
高校は通信制を選択し、自宅でレポートを書いて月に2回ほどスクーリングへ通いながら働きはじめた。
16歳になりすぐにオートバイを手に入れると、行動範囲はさらに広がった。
まとまった休みを取る度に日本を走りまわったが、旅に目覚めたばかりのティーンエイジには日本の国土は小さすぎたようだ。翌年には高校に在籍しながらヒマラヤのトレイルを目指し、ネパールへ通うようになる。
この時に、その土地の最少の交通網であり、地元の人たちが生活のために行き交うトレイルを旅する面白さを知り、高校を卒業すると1年単位でヒマラヤ、カラコルム、アンデスなどの辺境地ばかりを選んでは出かけていった。
日本に戻るのは旅の資金をつくるためだけであり、次の旅のことだけを考えて暮らしていたが、そのころにはぼんやりと自分は日本では生きていけないのだろうと思いはじめていた。
最後の長い旅となったのは中南米。
中米は陸路をバスで。南米に入るとオフロードバイクを買い、アンデス山脈を越えながらパタゴニアまでぐるりと23,000㎞を走り日本へ帰国した。
この時、25歳。
伊豆での暮らしへ
次の旅はウラジオストクへオートバイで渡り、ヨーロッパ、アフリカを走る計画で、最終的にはチリ辺りに住もうかと考えていた。
それと同時に、そろそろ自分の手でお金を生み出せる力が欲しくなり、世界のどこでも生けていける技術を身につけようと思いはじめた。
ちょうど旅の資金が尽きるころ、ヨーロッパでは日本食レストランのシェフの報酬は、日本で働くシェフよりも良いと耳にした。次の旅への準備として、日本食の料理人になることを決めた。
次に住むところを探してみる。
横浜で育ったので、せっかくなら日本の田舎をもっと知りたかった。
住む場所を選ぶうえで
・電車が通っていないこと
・海と山があること
・人がたくさん住んでいないこと
を条件とした。
候補地はいくつかあったが、西伊豆・堂ヶ島の旅館の調理場に住み込みで働ける募集があったので応募したところ、あっさりと採用が決まった。そのおかげで、はじめて就職というものをすることになる。
調理場といっても、要するにそこは「板前」の世界。
親方と呼ばれる料理長をトップに、完全なる日本の封建社会の縮図が出来上がっていた。
今思えば、このせいで若い人材がまったく集まらず、慢性的な人手不足だったから採用されたのだろう。
ただ不思議に、その環境さえも楽しめる余裕が自分の中にあった。
本来、登校拒否児童だった自分が、このような職場に適合できるのかと少しの不安はあった。けれど、「もう日本には住むのはこれが最後」と決めていたので、この環境を楽しもうという気持ちでいられたし、同時にこれが日本という国の文化だと、どこかで理解できるようになれていたのだ。
旅をして色々な文化を見てきた経験が、自分を成長させてくれていたらしい。
伊豆に住むようになってからの生活は、いままで日本では感じたことがないくらい充実していた。
朝5時には調理場へ入り朝食の支度をし、夜の仕込みに入る。10時過ぎから休憩を数時間取り、14時から20時くらいまで働く毎日。
働く時間は長いけれど、今までのようなただ旅の資金をつくるためではなく、技術を得るための投資の期間だ。ヨーロッパで働くためならば、人一倍がんばれた。
味付けのセンスが良いと評価され、数年後には煮方と呼ばれる料理の味付けを決める重要な仕事も任せられるようになり、調理師免許も取得した。
夏の繁忙期や正月などは一切休みが取れないけれど、目の前には駿河湾という豊かな海があり、釣りやシーカヤック、オートバイで林道探検など、やりたい遊びのすべては自分の住むすぐ近くにある。その環境に不満はなかった。
自然がこれほど豊かにある場所に住んでいても、たまには街の喧噪の中へも出掛けて行きたくなる。そう思い立てば、3時間で東京の用賀インターまで行くこともできる。
もしかすると伊豆は、自分が日本で住むのにはベストな選択かもしれないと思えてきた。
街中に住んでいたときには怒りっぽくすぐにイライラしていたこともあったが、伊豆に住み始めるとざわついた気分というものをほとんど感じなくなっていた。
そのころ、こちらに移り住んだ時から付き合い始めた彼女と籍を入れることになる。
結婚はいつでも解約できるし何度でもできるけれど、自分の気持ちとしては「伊豆と結婚する」という感覚だった。
そして大きなきっかけを与えてくれたのが、旅館の洗い場で働いていた西伊豆の老人たち。
あるおじいさんは船乗りで、マグロの遠洋漁業の船に乗り南米まで通っていたそうだ。こんな西伊豆のじいちゃんからコロンビアのカルタヘナの港の事や、コカインの密輸船が目の前で海軍に撃沈された話などを聞くことができるなんて思いもよらない。
あるおばあさんは白髪を紫に染め上げ、緋色のスカーフをいつも首から巻き、その姿はジミ・ヘンドリックスかロマ族の婦人みたいだ。清掃や洗い場のアルバイトのボスとして君臨していて口癖は「旦那は早く死んだほうがいい」だった。
みんなマグロやカツオが大好物のせいなのか、回遊魚のように動き回っていないと死んでしまうのか、ことごとくせっかちで声は大きく、そして驚くほどによく働く。
自分が伊豆へ来たばかりのころもよく世話を焼いてくれた人たちだ。
ある日、そんな”西伊豆原人”たちから、とてもわくわくする事を聞くことになる。
見つけたライフワーク 失われた古道の再生
「わしらの子どものころはおまいやー(おまえ)、集落はぜんぶ昔の道で繋がっていたんさー」
なるほど。地図を見てみると、車の道というのは急峻な伊豆の山を避けるようにつくられている。人や馬が通る道というのは最短距離で登り、尾根沿いに移動していくのが一番効率もいい。
それは昔歩いたことのある、ヒマラヤのトレイルでも同じだった。
調べてみると伊豆半島はもともと炭焼きが盛んに行われていた歴史があり、山で焼いた炭を江戸まで出荷していたそうだ。
子どものころに家族の炭焼き仕事を手伝っていたという老人に山への入り口を教えてもらい、休みの日にその道を探しに行ってみることにした。
そこには、ヒマラヤでもアンデスでも見たことがない形の古道が埋もれていた。
ハーフパイプ状に深くえぐられてできた道の形。
荒れた古道の途中には、折り重なるように土に埋まった石仏や馬頭観音。
なんだこれは、こんな道が自分のすぐ近くの裏山にあったのか。
最初はなぜ道の形がハーフパイプ状になっているのか分からなかったが、それは橇(そり)や馬で炭や木材を引きずって運んでいたからだと教わった。何百年と使われていくうちに浸食して、削れていったのだろう。
長い年月使われなかった古道は倒木と枯れ枝に覆われて、まともに歩くのも困難な状態になる。
昭和30年ごろから家庭でガスを使うようになり、炭の需要は無くなった。同時に交通網が発達して車移動がメインになると、古道はだれも通らくなり、次第にこの地域から忘れ去られようとしていた。
しかし、この道の造形は凄い。
それからは毎晩のように明治時代につくられた古地図や歴史書を読み漁り、時間を見つけては古道を探索するようになる。
そしてその埋蔵量に圧倒された。山中に網の目のように張り巡らされた古道。総延長は軽く100㎞を超えていた。
エンジン付きのオートバイは道を壊してしまうが、マウンテンバイクであれば面白いかもしれないぞ――。
移り住んだころは目の前の海ばかりに目がいっていたが、里のすぐ背後まで山が迫っている伊豆半島。
観光やアクティビティも夏をピークにした海のシーズンがメインで、山を使った遊びは自分が住んでいる西伊豆エリアでは皆無だった。
「この古道を直してマウンテンバイクのツアーをやれば、西伊豆に山の観光がつくれる」
ヨーロッパで働くにしろ結局は人に雇われることには変わりがないのであれば、思いがけず気に入ってしまったこの土地で、自分で仕事をつくりながら生きるのも手かもしれない。
仕事がまわるようになれば、好きなように時間をつくりまたどこへでも行けるようになるだろうか……。
帰りのチケットを持たずに旅をするときに似た感情が、自分の奥から湧いてくるのを感じた。
新しい観光をつくり 山を【まわす】
そうと決まれば板前の仕事を続ける理由がなくなってしまう。
木こりをやっている仲間のツテで、チェーンソーの使い方や山を使うための交渉の仕方などを学ぶ。
同時に「西伊豆古道再生プロジェクト」という名前の団体を立ち上げた。町や区など古道の管理者一人ひとりに企画書を提出し、荒れた古道を直してマウンテンバイクで案内する観光をつくりたいとプレゼンしにまわり続ける。
その過程で反対意見が出たり、よそ者の戯言だとあしらわれたりすることも覚悟していたが、地元の人たちはみんな応援してくれた。
陽が海に沈むどこかメローな西伊豆の土地ならではの寛容さがそうさせたのかもしれないし、地元の人たちが大事に使い続けていた古道が甦ることへ期待を持ってくれたのかもしれない。
自分が想像していた以上に物事は速く、そしてスムーズに進んでいった。
1年かけて15㎞のほどのコースをつくったところで、マウンテンバイクで古道を案内する「YAMABUSHI TRAIL TOUR」を立ち上げた。
もともと風光明媚な観光地であり温泉に海の幸とホスピタリティも充実していた西伊豆。
温暖な土地のおかげで積雪もなく、1年を通して楽しめるアクティビティとして定着していき、現在では全部で約40㎞までコースも拡大した。日本の歴史が感じられる”Ancient Trail”として海外メディアの取材も来るようになった。
里山整備の事業を平日に行い、週末はツアーという形態をとることで人も安定して雇うことができるようになると、【観光】の視点で課題が目に付くようになってくる。
お土産物をみると伊豆にはまったく関係のない物を他の土地でつくり販売している。
何か伊豆の名刺代わりになるお土産をと思い、松崎町の名産、桜葉のナッツバター。汽水域で育つ川のりを使ったジェノベーゼ。伊豆のひじきのパテをつくった。
もうひとつの大きな課題が宿泊施設の激変。調べてみると10年前に140軒あった宿泊施設はいまでは70軒までに減り、高齢化と後継者不足からこれからさらに少なくなるのが分かった。
山を整備しているので必要なだけ木は手に入る。近くにペンションが売りに出ていたので買い取り、自分たちで伐採した広葉樹を使い、リノベーションしたホステル、LODGE MONDO -聞土-【ロッジモンド】を立ち上げることにした。
ウェブサイトにはローカルメディア「ヤイヤイ通信」を構築し、今まで点で散らばっていた伊豆のいろいろを”面”にして発信している。
ライターは20代から82歳の翁まで。移住者と地元民の混合チームだ。
それぞれの立場でこの土地を切り取っていく。
気が付くと伊豆で過ごした11年はあっという間だった。
子どもは4人いる。
伊豆に生きていこう。
■大沢温泉 山の家
木の橋を渡っていくと、限りなくシンプルな建物と露天風呂のみの炭酸泉が待っている。
備え付けのせっけんや洗い場なども無いけれど、一度も空気に触れることなく足元から湧き上がるお湯を素朴に味わってほしい。昭和へ迷い込んでしまったような空気が漂う休憩所には、たくさんの著名人のサインが掲げられている。
■鮎の茶屋
海の幸が豊富な伊豆で、あえて山の幸で勝負しているお店にとても親近感あり。
鮎の塩辛ともいえる「うるか」を混ぜて土鍋で炊き上げてくれる「鮎ご飯」は、そのまま酒のつまみにもなってしまうほどの強さと奥行きがある味わい。
他にもイノシシやシカ料理の種類も豊富で、伊豆の山の味覚を楽しみたければぜひここへ。
■地魚さくら
注文が入ってから1合炊きの羽釜で炊き上げてくれるご飯と、茶碗に山盛りのあじのたたき。漁師が船の上で”まごまご”せずに食べる郷土料理「あじまご茶」で有名なお店。
羽釜からどんぶりにご飯をよそい、あじのたたきを載せ、出し汁とにんにく醤油でお茶漬けにして食べるボリューム満点の定食屋。
いつもその年の干支の動物が入った手ぬぐいを巻いている店主の「アッコさん」を含め、全員が地元のおばちゃんたちでお店を切り盛りしており、西伊豆ローカルを肌で感じられるおすすめの食事処。
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著者:松本潤一郎
株式会社 BASE TRES 代表取締役
西伊豆の山を【まわす】BASE TRESのシャチョー。幼稚園を中退する輝かしい学歴からスタートし、中学はもちろん不登校。修学旅行の積立金を返してもらったお金でテントを買い、一人旅へ出掛けるようになり早々とメインストリームからドロップアウト。 17歳にはヒマラヤのトレイルを歩きはじめ、その後カラコルムやアンデスへ。南米大陸をオートバイで走りまわったあと西伊豆へ移住。ギターを弾いて飲み代を稼ぐのがライフワーク。
Twitter:@basetres_jp
編集:Huuuu inc.