どんな私も受け入れてくれた街・高知|文・かずさまりや

著者: かずさ まりや

生まれ育った場所を褒められるのは嬉しい。私の地元・高知県は「自然が豊かで食べ物が美味しくて、人が温かい」とよく言われる。田舎ならどこにでも当てはまりそうな言葉だけど、実際に高知はその通りだと思う。

25歳でフリーランスの編集者として仕事を始めた。地方を拠点にすると「どうして編集者になったの?」よりも「どうして高知県なの?」と聞かれることが多い。「高知が好きだからです」と返すけれど、すごく曖昧な答えだと思う。好きだというのは簡単だけど、生まれ育った場所をいつ好きになったのか、どんなところが好きなのか、はっきりしていない。

自然豊かで食べ物が美味しくて人が温かいのは事実だけれど、私が高知を拠点にしている理由とは少し違う気がする。

生まれ育った高知市・潮江地区

高知市の潮江(うしおえ)地区と呼ばれる場所で生まれ育った。「車が無いと移動できない」と言われる高知県で、路面電車が通っている比較的便利な場所だ。大通りには飲食店が程よい間隔を空けて並んでいて、学校やスーパーも徒歩圏内。

通りから少し外れると住宅街で、放課後になると子どもの声やリコーダーの音色が聞こえてくる。

シンボルとなるような建物は無いけれど、「鏡川(かがみがわ)大橋」という大きな橋がある。橋の下を流れる鏡川は、名前の通り水面が鏡の様に街の風景を映し出す。高い建物が無いから空を邪魔するものがなくて、青空から夕日になるときのグラデーションがものすごく美しい。特に天気がいい日は、この橋を渡って少し遠くまで散歩をするのが好きだった。

鏡川大橋のたもとにある「三日月堂」さんのランチがお気に入り。高知の野菜の美味しさが凝縮されたパスタ。聞くと、私たちでも利用できる地元の野菜の直売所で購入しているらしい。

日常で手に入る高知の野菜も十分美味しいけれど、三日月堂さんで食べるとさらに美味しく感じる。ほくほくのさつまいもが乗ったピザや季節のフルーツを使ったデザートも、生まれ育った地域に帰ってきたことを思わせてくれる安心する味だ。

三日月堂さんの「三日月ランチ」のパスタ

潮江地区は海が近い。東日本大震災を機に南海トラフ大地震への警戒が高まり、この辺りに住む人は減ってしまったように思う。季節関係なく冷房が効きすぎていた馴染みのスーパーも、映画の面白さを知って毎週のように足を運んだTSUTAYAも、湾に面した母校も無くなってしまった。

けれど、新しくできたものもある。より遠いスーパーに通わなくてはいけなくなったお年寄りのために、小学校の同級生のお母さんが始めた場所だ。

「Copan marche(コパンマルシェ)」という名前で、野菜やお弁当などを販売している。歩くにはスーパーが遠いエリアへ、個人で青果を売るお店を作ったことに地域への思いやりを感じる。定期的にイベントも行っていて、路面電車を使っても行けないような距離にあるお店の美味しいパンやお菓子を運んできてくれる。

防災意識が高まったことでこの地域は少し寂しくなったけれど、コパンマルシェのおかげで潮江地区の日常は以前より彩られている。

高知で進学したから、将来やりたいことが見つかった

私は高知市から車で1時間ほど南東に移動した、香美市の大学に通っていた。山林が8割を占める香美市はもともと団塊の世代が多く住んでいたが、大学ができて県内では珍しく、高齢者より若い世代が行き交う地域になった。

駅から大学までは車で10分、歩いて1時間。その間に山があり飲食店があり住宅地があり、また山があり川もあり。山林と住宅と商いが程よく混在していて高知市よりゆっくりと時間が流れている気がする。

バスは1時間に1本程度。大学の図書館が充実していたこともあり、待ち時間を利用して本を読むようになった。私にとって、香美市は本の面白さに気づかせてくれた場所だ。加えて、インターンで雑誌作りの楽しさを知った私は出版社で働くことが夢になった。

大学3年生から4年生にかけて、キャンパスが香美市から高知市へ移動した。経済学部であれば企業やお店が近くにあった方がいいという理由もあり、県内で最も規模が大きい帯屋町商店街の近くにキャンパスが建てられたのだ。

同時期に、私は出版社から内定をもらった。本を作るなら、本を売ることも知っておきたい。ちょうど商店街にある本屋が移転オープンのためアルバイトを募集していた。県内で7店舗展開する本屋「金高堂(きんこうどう)」の本店だ。就職が決まっているためアルバイトは1年もできないけれどダメ元で面接をしてもらった。

高知に住んでいて金高堂のお世話になったことがない人は、ごく少数だと思う。小学校へ入学して辞典を買う時、好きな漫画ができて初めて単行本を買う時、受験勉強のために赤本を買う時。個人で運営されている移動映画館のチケットも取り扱っていて、大学や美術館内でも書店を展開している、地域に根ざした本屋だ。

本屋で働くことで将来の勉強になるならと、金高堂は1年も働けない私をアルバイトとして受け入れてくれた。本を取り寄せる流れ、そこから売り場に本を並べるために必要なことなどエンドユーザーに届けるまでの流れは大変勉強になり、編集者を志す自分にとって大切な経験だった。今でもすごく感謝している。高知を好きという感情は、なんだかこれに近いものがある。受け入れてもらった。恩返ししたい。

地方で編集者になること

高知から出たくなかったけれど、新卒を採用している出版社がなかったため、中国・四国地方で就活をして、広島市で働くことになった。

広島では、街を歩くだけで地元の少子高齢化を突きつけられるようだった。人口、企業の数、コンテンツの数。情報だけで理解していた過疎化と、実際に他県に住んで体感した過疎化は全く違っていた。けれど、生まれ育った場所が好きな気持ちは変わらない。長期休暇には必ず帰省した。高速バスの窓から見える景色が徐々に高知らしさを取り戻していく。取材を通して広島の魅力をたくさん知ったけど、やっぱり高知に帰りたかった。

五台山から一望した高知市

約3年間、編集業務を学んで高知へ戻ってきた。就職先は特に決めておらず、前職の繋がりで仕事を頼まれたので個人事業主になった。インターンでお世話になった高知の出版社へ挨拶へ行った際に「編集だけでは高知ではやっていけないよ」と言われたことが印象に残っている。

その通りで、今でも「編集」という肩書きは理解されないことが多い。デザイナー、カメラマン、ライターはわかるけど、編集は何をする人? と尋ねられる。形になった時にどの部分に働きかけているのか確かに分かりにくい。帰省した後、まずは目に見える物を作ろうと意気投合したデザイナーと高知のインスタマガジンを作った。

インスタマガジンとは、雑誌のようにデザインした情報をInstagramに投稿するものだ。2019年のInstagramはほとんど写真単体の投稿で、今ほどメディアのように情報発信するアカウントで溢れていなかった。しかも地方に特化したものは珍しく、私たちの投稿を見てくれる人はどんどん増えた。

取材を通して気づいた高知の豊かさ

自分たちで媒体を立ち上げてから始めた、「インスタマガジン」という聞き馴染みのない名前でのアポイント。広島でも取材の許可取りはたくさんしたけど、ふたつ返事でOKしてくれることなんて稀だった。高知でも、初めは半分以上断られる気持ちで電話をかけていたけど「とりあえず来てみいや」という反応がほとんどだった。なんの実績もない私たちの取材を損得勘定抜きで受け入れてくれて、応援してくれる人までいた。結果的に100件以上投稿して断られたのはたったの数回だ。

Instagramの取材を通して気づいた高知の豊かさがたくさんある。特にイメージが変わったのは、高知城下で300年以上続く街路市「日曜市」だ。

普段は車が行き交う約1000mの道にずらりと露店が並ぶ。季節によって野菜や果物が変わり、人気の品は朝8時に行っても売り切れている。凍えるほど寒い冬の朝も、まだ空が青白い夏の朝も、どこかしこからおばちゃん達の土佐弁が聞こえてくる。学生の時にはわからなかった、生活のために買い物や料理をするようになって気づいた、高知だけの豊かさだ。

日曜市ではビンやペットボトルに入ったゆずの果汁「柚の酢(ゆのす)」がよく売られている。果肉を食べるのではなく、果汁を絞りかけるゆずやぶしゅかん、直七などの柑橘を総称して、高知では「酢みかん」と呼ぶ。この「柚の酢」をタバスコ風にアレンジしたperritoさんの「ユノスコ」が美味しくて、インスタマガジンでも紹介させてもらった。

青唐辛子の辛味と柚子の爽やかさ。パスタやピザと相性抜群だ。perritoさんは夫婦で日曜市に出店しているほか、鏡川大橋の近くにお店があって不定期で営業している。奥さんの戸梶知佐子さんはおしゃべりが大好きで、料理のことや季節の食材のことをたくさん教わった。

木曜市に出店するたねまるさん

日曜市の他にも、火曜市や木曜市が展開されている。木曜市で取材させてもらったのが「たねまる」さん。移住してきたご夫婦で営むパン屋さんで、高知では珍しくハード系の生地が多い。ベーグルやスコーンが有名だが、私が大好きなのはキューバサンド。自家製のきゅうりの漬物とベーコンや卵の組み合わせが最高だ。ハンバーガーに入っているピクルスが好きな人はぜひ食べてみてほしい。木曜日以外は高知市の升形商店街のお店でパンも買うことができる。

若者に伝えたい思いが仕事に繋がった

地方では若者に向けたメディアは少なく、私たちのインスタマガジンは若い世代にリーチすることが強みとなった。高知県は19歳と22歳、進学と就職での県外転出が最も多い。大学の課外活動で地域のために共に活動した先輩たちも揃って県外で就職した。地域のために活動する先輩たちを心から尊敬していたので、ほとんどの先輩が「高知には戻らない」と考えていたのにショックを受けた。

県外で就職して20代で高知に戻ってくる人なんて、ほとんどいない。その経験からインスタマガジンを通して若い人にも高知の良さを伝えたい気持ちが強かった。県外に出た同世代の人からDMでインスタマガジンの感想などが届くと嬉しかった。

高知のインスタマガジン 「chuu!

1年もしないうちに「写真が撮れる」「デザインができる」という認識が広がり、少しずつ仕事が入ってきた。初めは写真だけの依頼でも、クライアントへの提案を重ねて編集としての役割も仕事になっていった。

依頼は若者をターゲットにした制作物が多く、インスタマガジンで私たちの表現方法を見て連絡してくれているので、擦り合わせもスムーズに進んだ。インスタマガジン単体で運営費を工面するのは難しかったけれど、マガジンが広告塔になって、たくさん仕事を持って来てくれた。

しかし、フォロワーが1万人になる頃には、個人の仕事とインスタマガジンの制作時間のバランスを取ることが難しくなってきた。投稿を続けたくて、かなり足掻いた。人を増やそうとしてみたり、デザインもやってみようとしたり。けれど上手くいかない状態が続き、2021年11月、毎週続けていた投稿をとうとうお休みした。2年かけてたくさんの人に見てもらえるようになった媒体を止めてしまうことが悔しかった。

仕事はすごく順調だったけれど、自分の表現ができないことにもやもやしたまま毎日を過ごした。お休みして1年が経った頃、インスタマガジンへの投稿の依頼をもらった。広告ばかりの媒体にはしたくないと掲載依頼も更新と一緒に止めていたが、コラボという形でインスタマガジンらしさも保てる案件だった。久しぶりの制作のためインスタマガジンを改めて見返すと、なんだか今の自分とギャップを感じた。1年ぶりに制作したインスタマガジンは以前のようには作れなかった。

どんな私も受け入れてくれた高知に

自分のメディアを動かしたいという気持ちがあるのに、以前のようにインスタマガジンを作れなくて落ち込んだ。高知への想いがなくなってしまったのかと、なんともいえない気持ちになった。若い人に高知の良さを知ってほしいという立ち上げ当時の気持ちも、なくなってしまったのだろうか。

気づけば高知へ戻って4年が経ち、インスタマガジンや仕事を通して、行ったことのない市町村はなくなっていた。そこで初めて、高知のことをほとんど知らなかった 4年前の自分と全く同じものを作ろうとしていたことが間違いだった、と気づいた。

ただ生まれ育った高知を好きだった時、他県との違いを知って等身大の高知を知った気になった時、大人になって高知の豊かさを知り、それを若者に伝えたいと奔走した時。私の見方が変わっただけで、高知の本質は何も変わっていない。生まれ育った場所は、どんな私も受け入れてくれていたのだ。

「本屋で働くことが勉強になるなら」と受け入れてくれた本屋さんに、何の実績もない私たちの取材を受け入れてくれた人たちに、編集者として何か作ることで恩返ししたい。それと同じように、どんな私でも受け入れてくれた高知へ恩返しがしたい。その想いが、高知に居続けたい気持ちに繋がっている、と今なら言える。

もうすぐ30歳になる。きっと20代ではできなかった、今の私だから表現できる高知があるはずだ。40歳、50歳になった時、未来の私が「あの時だから表現できた高知だ」と悔しがれるものを、これから残していきたい。

著者:かずさ まりや

荒井優作

1994年生まれ。高知県高知市出身。高知工科大学マネジメント学部を卒業後、広島県の出版社へ就職。3年間雑誌の編集術を学び、2018年12月に高知県へUターン。編集と写真を仕事にしながら、SNSを通して高知県の魅力を内外に発信している。
Instagram:@sen_ko_sya

編集:友光だんご(Huuuu)