ヴィジュアル系バンドから落語家へ転身した男の「天神橋筋六丁目」【関西 私の好きな街】

取材・執筆: 吉村 智樹 

 

関西に住み、住んでいる街のことが好きだという方々にその街の魅力を伺うインタビュー企画「関西 私の好きな街」をお届けします。

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遅咲きの落語家が選んだ「天神橋筋六丁目」

「うちの最寄駅は『天神橋筋六丁目』です。このあたりに住むようになって、ほっとしたんです。街の風景が雑多で、ごちゃごちゃ。よく言えば気取らない。物価が安いし、定食屋さんのごはんもおいしい。呑み屋さんが朝から店を開けています。すごく居心地がいいんです。『ここは自分が帰ってくるべき場所やな~』と、しみじみ感じました」


そう語るのは、落語家の桂りょうばさん(48)。上方の人気落語家、桂ざこばさんのお弟子さんです。50歳を目前にしているとは信じられない、少年のようなあどけない表情。そして、落語家としてのキャリアも、わずか4年。かなり遅咲きなニューカマーなのです。

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*二代目・桂ざこば……豪快かつ涙もろい人情派として不動の人気を誇る落語家。やんちゃな少年時代を過ごし、15歳で三代目・桂米朝(かつら べいちょう)に弟子入り。師匠の桂米朝を実父のように敬い、兄弟子の桂枝雀を実兄のごとく慕っていた


桂りょうば(以下、りょうば):「43歳で落語の世界に入りました。だから、まだ若手なんです。遅いスタートでしょう。それまで紆余曲折がありましたからね……


そう、りょうばさんは落語界では新米です。けれどもこれまでの生き方をひもとくと、「日本のサブカルチャーを総括できる」と言って大げさではないほど、生き様は波乱に満ちていました。

りょうばさんはこれまで、どのような道をたどってきたのか。なぜ、四十路になってから落語家を志したのか。街をぶらぶら散策しながら、お話をうかがいましょう。

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日本一長い商店街。まっすぐ歩けば寄席もある

「天神橋筋六丁目」駅はOsaka Metro堺筋線と谷町線、阪急千里線の3路線が乗り入れる、キタの要衝。大阪北部へも、ミナミ、天王寺あべのエリアへもアクセス可能。さらに徒歩圏内にJR大阪環状線『天満』駅まであるのです。大阪市内で指折りに交通至便な駅と言えるでしょう。

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「天六」(てんろく)の略称で親しまれる天神橋筋六丁目。日本一長い商店街「天神橋筋商店街」の中途にあたります。商店街は、ここからさらに北へ延び、八丁目まで続きます。天神橋筋一丁目から六丁目までだけでも約600店舗がひしめくというから驚き。と・に・か・く長~い!

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りょうばさんは、この「天六」周辺に2017年に転居し、今年で3年目を迎えます。


りょうば:「天神橋商店街をまっすぐ歩いていけば、『天満天神繁昌亭』があります。電車一本で『動楽亭』へも行きやすい。それに師匠のお宅が阪急の山田にありまして、うちの実家が阪急の南千里。移動が本当にラクなんです。天神橋筋六丁目駅は『僕のためにある駅やないか』と思うほどです」

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*天満天神繁昌亭(てんまてんじんはんじょうてい)……天神橋二丁目に建つ上方落語を中心とした寄席。大阪天満宮に隣接しており、落語の風情が味わえる環境にある。名前は六代目・笑福亭松鶴の発案により上方落語協会が主催していた定席「千里繁昌亭」に由来。俳優の東出昌大がNHK連続テレビ小説『ごちそうさん』出演の際に天満天神繁昌で落語を聴いて大阪弁を学んだ逸話がある

*動楽亭……桂ざこばさんが後進育成のため、2009年にOsaka Metro「動物園前」駅前の元自宅の土地に建てたマンションに開いた寄席。桂りょうばさんは修業時代、動楽亭の上の階に住みこんでいた


りょうばさんも「天六の交通の便のよさ」に、「もうここから離れられへん」といった様子。

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大阪でも「シュっとしてはる側」と呼ばれるキタサイドにある駅。にもかかわらず、駅前の雰囲気は「浪花の原風景」と呼べるレトロ感に包まれています。

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そんな天神橋筋商店街のなかでも、りょうばさんが勧めるのが大衆酒場「七福神」。午前中から開いているのがうれしい。


りょうば:「七福神さんで串カツとおでんをよくいただきます。冬場は、おでん3品と麦焼酎を2杯頼んで1000円いくか、いかへんか。安くて、おいしいんです。仕事が終わって、ほろ酔いで商店街を歩いて帰る。この時間が好きなんです」

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天才落語家「桂枝雀」は「やさしいお父さん」

りょうばさんは、天才・奇才と謳われた桂枝雀家の長男。そのため幼いころから、落語が身近にあったのだそう。


りょうば:「僕が幼稚園に通っていたころは桂雀々師匠が内弟子として住み込んでいて、家の中で稽古をしておられました。父親も稽古熱心で、家のなかでつねに誰かが落語をしている状況でしたね。幼稚園児なんてヒマですから、横で聴いているだけですぐ落語を記憶してしまうんです。憶えた落語を語ると、大人たちが、『こんな小さい子なのに落語ができるやなんて、すごいやないか』と喜んでくれました。それで、うながされるままに、まったく緊張することなく人前でよく落語をやっていましたね。え、いまですか? いまはめちゃめちゃ緊張します。ほんま、子どものころに戻りたい(苦笑)」

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*二代目・桂枝雀(かつら しじゃく)……故・三代目・桂米朝に弟子入りし、師匠とともに上方落語を支えた関西のヒーロー。「緊張と緩和理論」を提唱し、古典落語を踏襲しつつ観客を笑いのめすスタイルは不世出。現在も受けつがれる英語落語のパイオニアでもある。家庭では次男とスーパーマリオブラザーズを競いあう子煩悩な父だった。うつ病を患い、1999年4月に逝去

*桂雀々(かつら じゃくじゃく)……桂枝雀の弟子。落語家としてのみならずタレントとしても大人気。2007年には芸能生活30周年を記念し、親友の故・やしきたかじんのプロデュースにより6日間連続独演会を成し遂げた。51歳を機会に東京へ移住


家のなかに大人気の落語家がいる。その状況を、りょうばさんは長男として、どのように受け止めていたのでしょう。


りょうば:「父は偉大な落語家だったと思いますが、家では普通の、やさしい、いいお父さんでした。一緒に銭湯へ行って、帰りにふたりでごはんを食べてね。落語家としての父よりも、なにげない日常のなかにいた父のほうが記憶に残っていますね」

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落語ではなく「ヘヴィメタル」にハマった高校時代

関西はもとより日本の演芸史に大きく名を遺す名人、桂枝雀。しかし家では、おだやかな『やさしいお父さんだった』と、りょうばさんは振り返ります。そう、りょうばさんが父・枝雀の落語に関心を抱くのは、ずいぶん後なのです。


りょうば:「学生時代は正直に言って、落語への関心はまったくなかったです。父の落語も聴いていませんでした。それよりも興味は『音楽!』でしたね。中学時代は『ザ・ベストテン』『ザ・トップテン』といったランキング形式の歌番組が流行していて、熱心に観ていました。特にサザンオールスターズとTHE ALFEEが好きになりましてね。親にねだってギターを買ってもらい、学校から帰ってきたら部屋にこもって弾き語りをする、そんな毎日でした」

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落語よりも音楽。前田一知(まえだかずとも/りょうばさんの本名)少年は、楽器演奏に夢中になりました。それは弟の一人さん(かずひと/のちのCUTT)も同じだったといいます。そうして大阪吹田市の高校へ進学。さらに音楽へどっぷりとハマる日々へ突入。


りょうば:「高校生になって、バンドがやりたくて軽音楽部に入りました。僕はサザンのコピーがやりたかったんです。けれども先輩が、『おい前田、そんなん聴いてる場合ちゃうぞ。聴くんやったら、やっぱりジャパメタやで!』と言うんです。先輩が勧めるままに日本製のヘヴィメタルバンドを聴いたら、これがまあ、どのバンドもかっこよくて。すっかりハマりました」


*ジャパメタ……ジャパニーズ・ヘヴィメタル。1980年代に日本のロックミュージックに台頭したシーン。「関西メタル」と呼ばれるほど大阪出身のバンドが多かったのも特徴。さまざまな和製ヘヴィメタルバンドが本場ロサンゼルスでのライブを成功させ、海外からも注目された。その後はスラッシュメタルやデスメタルへと分岐したり、蝋人形にしてさしあげましょうかと迫ってきたり、BABYMETALになったりとジャンルはさらに細分化


りょうばさんが強く影響を受けた日本のヘヴィメタル。その激アツなシーンは、ギターとは別の、ある楽器と出会うきっかけとなったのです。


りょうば:「アースシェイカーのコピーをやるためにギターを練習するんですが、シャラさん(石原愼一郎)のギターソロが速すぎて、ついていけない。指がつりそうになりまして。『こりゃ自分にはギターは無理やな』と。それでドラムに転向したんです。なぜドラムだったのか、ですか? 『ドラムやったら、両手を激しく動かしておいたら上手そうに見えるやろう』って(苦笑)。はじめは、そんなナメた理由でしたね」


*アースシェイカー……EARTHSHAKER。ジャパンHR/HMムーブメントの中心的存在。1978年に結成し、「関西ライブハウス動員ナンバーワンバンド」として新聞報道されるほどの人気を誇る。1986年に元ノヴェラのキーボードプレイヤー永川敏郎が加入し、さらに深みがあるサウンドとなった。1994年に一度解散したが、1999年に再結成


そう、りょうばさんのもうひとつの顔、それは「ドラマー」。ドラム歴は約30年になります。

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りょうば:「同級生とバンドを組み、音楽漬け、メタル漬け、ツーバス叩きまくりの毎日でした。アースシェイカー、デッドエンド、リアクション、44マグナム、アンセム、いろんなバンドの曲をコピーしました。ラウドネスのコピーもやったんですが、ヴォーカルの子が二井原実さんの高い声が出せなくて、ラウドネスだけインストゥルメンタルで(笑)。メタルのカバーをやるうちに次第に音楽の興味の幅も広がり、ガスタンク、ジギー、ジュンスカなど、パンクやグラムロック、ビートパンクも演奏するようになってゆきました」


*デッドエンド……DEAD END。メンバー全員がテラ・ローザ、ラジャス、サーベルタイガーの元メンバーという強烈な布陣で1984年に結成。1985年、大阪梅田のライブハウス「バーボンハウス」での初ライブになんと500人もの観客を動員。インディーズでリリースしたアルバムは2万枚を売り上げた。ヴォーカルMORRIEの美意識は多くのヴィジュアル系バンドに影響を与えた

*リアクション……REACTION。目黒鹿鳴館をつねに満員にし、「ライブの帝王」と呼ばれた。1985年に自主制作アルバム『INSANE』がインディーズメタル初の1万枚台を売りあげ、「シーンを変えたバンド」としてその名を遺す

*44マグナム……44MAGNUM。デビュー35周年! 1977年に結成され、現在も活躍中というジャパメタを語るうえで欠かせないバンド。ヘヴィメタルバンドがメイクをし始めた先駆け。1982年にマリノとともに新宿ロフトで開催した「関西ヘヴィメタル東京なぐりこみギグ」でメジャーシーンに銃口を向け、一躍その名を知らしめた。バンド名はヴォーカルPAULが好きな映画『ダーティ・ハリー』に使われるピストルから名づけられた。女子プロレスラー時代のダンプ松本にも楽曲を提供

*アンセム……ANTHEM。1981年に結成。重くブ厚いサウンドは海外のメタルファンからも絶賛され、デビューアルバムはアメリカやイギリスからもリリース。海外向けに英語バージョンまで新録するほどだった。ヴォーカルの坂本英三は脱退後にタクシー運転手をしながらヘヴィメタルの演奏でアニメソングを歌う企画に参加。デビューアルバム『アニメタル・マラソン』は30万枚の大ヒットとなった

*ラウドネス……LOUDNESS。『赤頭巾ちゃん御用心』などで知られたバンド「LAZY」が、アイドル的な楽曲や衣装に疑問を抱き、1980年12月にへヴィメタルサウンドを追求した『宇宙船地球号』を発売。ラウドネスの序章となる名盤として、いまなお聴き継がれている。LAZYを解散後、樋口宗孝と高崎晃を中心にラウドネスが結成された。その後は全米ツアー、ヨーロッパ・ツアーを成功させるなど、日本のというより世界を代表するヘヴィメタルバンドとなる。ラウドネスの音盤をファーストアルバムからずっと購入し続けているアーティストに、意外にも斉藤和義がいる

*ガスタンク……GASTUNK。日本を代表する現役パンクバンド。特に名曲『GERONIMO』は現在も多くのパンクバンドにカバーされ続けている。1985年にNHK特番「インディーズの襲来」にて、ヴォーカルBAKIの白塗りや激しいパフォーマンスのライブ映像が放映され、人気が爆発する

*ジギー……ZIGGY。1984年結成。多様な音楽性で、ヘヴィメタル、グラムロック、バッドボーイ系、ヴィジュアル系など、さまざまなJ-ROCK系譜に重要バンドとして語られる。バンド名の由来はデヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』。ヒット曲『GLORIA』を作詞作曲したヴォーカルの森重樹一は高校時代から東京福生市の横田基地そばにあるライブハウスに出演しており、日常のなかにアメリカの音楽があった

*ジュンスカ……JUN SKY WALKER(S)。1980年に自由学園の仲間たちで結成。1980年代後半に原宿「ホコ天」(歩行者天国)でのストリートGIGで人気沸騰。ティーンエイジャーのリアルな心情を歌った曲が支持され、デビューわずか1年で武道館ライブを成功させた。豪雨に見舞われた日比谷野外音楽堂での初ライブが現在も伝説となっている。ベースの寺岡呼人は「ゆず」をはじめ多くのアーティストのプロデューサーとしても知られている

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話題に出てくるバンドが、どれもこれもなかなか音がラウドしそうな方々ばかり。ヘヴィメタルにかぶれる息子を父親の枝雀さんはどのように受け取っておられたのでしょう。


りょうば:「当時、弟はギターをはじめていまして、僕はドラム、父は落語と、家のなかでいつも誰かが何かの練習をしている、そんな家でした。父はロックに理解があったか、ですか? ヘヴィメタルがなんなのかまでは、分からなかったと思います。けれども稽古事に真剣に向き合う様子を見て、『頑張ってるな』って、とても喜んでくれていました」


ほっとしました。どうやらご子息たちが音楽に没頭する姿を、決しておいやではなかったようです。

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関西小演劇ブームを経由し、中島らもと出会う

ぶらぶらめぐる天神橋筋商店街。顔なじみの店から、「りょうばさん」「兄ちゃん」と声がかかります。


りょうば:「よく大阪って『コテコテ』と言われるでしょう。人間関係が濃密なイメージで。でも天六あたりは梅田に近いからか、もうちょっとあっさりしてるんです。呑み屋の前を通るとき、『あ、どうも』『また寄ってや~』『また来ますわ~』って、コミュニケーションが薄めなんです。もともとインドア体質で人づきあいが苦手な僕には、ちょうどいい距離感なんですよ」


ちょっとゆるめな、気さくなんだけれど無理に踏み込まない。いい雰囲気の街ですね。

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多感だったりょうばさんは高校時代、音楽だけではなく、関西でブレイクしていたもうひとつの“あるシーン”にも触発されます。それが「小演劇」

往時の関西は、小演劇、小劇場のブームがあったのです。内藤裕敬さん演出の「南河内万歳一座」、古田新太さんや羽野晶紀さんらを輩出した「劇団☆新感線」、辰巳琢郎さん(前:つみつくろう)や生瀬勝久さん(前:槍魔栗三助)などが座長をつとめた「劇団そとばこまち」、佐々木蔵之介さんが看板役者だった「惑星ピスタチオ」など、関西で人気劇団が同時多発しました。


りょうば:「僕は当時、すごい人気だった劇団『売名行為』の芝居を観て、『わあ、こんな世界があるんやな。おもろいな~』と感激しましてね。そうして芝居を観に劇場へ通ううちに小演劇全体に関心がひろがってゆき、同じく人気だった中島らもさんの劇団『リリパットアーミー』に定期出演されてた桂九雀師匠に『お稽古の見学をしてもいいですか?』とお願いしたんです。これが演劇に関わる始まりでした」

*売名行為……1985年に立原啓裕、升毅、牧野エミ、妹尾和夫らにより旗揚げされた劇団。劇団員たちが読売テレビのコント番組『現代用語の基礎体力』『ムイミダス』などに出演し、舞台以外のメディアでも活躍した

*中島らも……コピーライターとして1982年に雑誌『宝島』に神戸の魚肉練り物製造会社「かねてつ食品」の広告記事『啓蒙かまぼこ新聞』を企画・制作。どう考えてもかまぼこやちくわの売り上げに貢献するとは思えない異色すぎる広告で一躍その名を知らしめる。1984年から朝日新聞で『明るい悩み相談室』連載が始まり、以来エッセイストとして人気を博す。1986年、劇作家・演出家のわかぎゑふとともに劇団「笑殺軍団リリパットアーミー」を旗揚げした。小説『今夜、すべてのバーで』が第13回「吉川英治文学新人賞」を受賞。52歳で逝去


りょうば:「中島らもさんは関西が生んだ大スターでしたから、もちろんその名は知っておりました。けれども面識はなかったんです。ただ、リリパットアーミーの演出をやっていたわかぎゑふさんが落語がお好きで、僕のことを知ってくれていたようで、『とも(桂りょうばさんの愛称)、舞台に出えへん? そんで事務所も手伝ってくれへんか』と誘っていただけて。それで、高校を卒業してから中島らも事務所の所属となりました」

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中島らもさんといえば、朴訥とした話しぶりが印象に残っています。そして、決して自分から前へと出る性格ではなかったりょうばさんは、感情を表に出さないらもさんに自分と同じにおいを感じ、シンパシーを抱いていたのだとか。


りょうば:「僕はいつもぼーっとしてたんで、よく『小らも』と呼ばれていました。そんならもさんと東京のホテルでふたりきりで飲んだ日があるんです。でも、らもさん、まったくしゃべらないんです。ふたりでずっと黙っていて、その時間がとても心地よかった。声を出さなくても、気持ちで理解しあえる、通じ合うことってあるんやなって」


飾らない人柄が愛され、ロックに劇団にと引く手あまただったりょうばさん。中島らもさんのバンド「PISS」に加入。

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並行して、弟CUTTのバンドshame (シェイム/2006年より大文字表記)」にもドラマーとして加入していました。

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*SHAME/shame……1994年と結成。デモテープがX JAPANのギタリストhide氏の耳にとまり、主宰するレーベル「LEMONed(レモネード)」への加入が決定する。中学時代からのX JAPANフリークであるCUTTは興奮のあまり眠れない夜を過ごしたという。以降、活動休止している期間もあったが、結成20周年を迎えた。CUTTは現在X JAPANのToshlのサポートアーティストとしても活躍

X JAPANのhideのレーベルからメジャーデビュー

そんなりょうばさんに、大きな大きな転機が訪れます。


りょうば:「現在の妻と玉造(たまつくり)で同棲しながら中島らも事務所に所属して、芝居とドラムに明け暮れながら、僕は26歳になっていました。弟は当時21歳。そしてある日、弟が興奮しながら『兄ちゃん! メジャーデビューできるで! 東京へ行けるで! プロのアーティストになれるで!』と言うんです。弟がデモテープをあちこちのレコード会社に送っていて、その音源に反応してくれたのがX JAPANのhideさんだったんです。そうして僕たちはhideさんのレーベル『LEMONed』(レモネード)に所属することになりました」

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りょうば:「まさか自分が、あのX JAPANのhideさんのレーベルからメジャーデビューできるなんて、信じられなかったですね。上京する前の打ち合わせでhideさんの『ピンク スパイダー』を発売前に聴かせていただけるなど、『わあ、プロの世界やな』と感激しました。ところが上京直前にhideさんがお亡くなりになって、結局お会いすることはできなかったんです。でも、お葬式のときに事務所の方が僕らを集め、『hideの想いを継いで、頑張っていこう』とおっしゃっていただけて。それでデビューしました」

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りょうばさんは「東京に連れて行ってくれた弟には本当に感謝しています」、そう顧みます。しかしshameは2002年に、ひとたび解散。りょうばさんは東京で宙ぶらりんな状態に。

ヴィジュアル系バンドの「白塗りドラマー」

そうして、いよいよりょうばさんの「ヴィジュアル系バンド時代」が幕を開けることになるのです。


りょうば:「大阪にいた時代からガーゴイルのヴォーカルKIBAさんと仲が良かったんです。shame と同じくライブハウス『バハマ』出身だったこともあり、意気投合して、よく一緒にイベントをやっていました。ある日、KIBAさんから、『どないすんねん、今後の人生』と電話がかかってきましてね。『もしも東京で音楽を続けるのならば、紹介したい人がいるねん。グルグル映畫館っていうヴィジュアル系バンドの天野くんっていう子やねんけど、メンバーが脱退して困ってるらしいんよ』と加入を勧められたんです」

*ガーゴイル……Gargoyle。1987年にヴォーカルKIBAを中心に結成され、現在も活動中。インディーズ時代に渋谷公会堂でのワンマンライヴを何度も完売させた。ヘヴィメタルに分類されるが、バイオリンや和太鼓を採り入れるなどの実験精神、ミステリアスな視覚的要素などにより「ヴィジュアル系バンドの先駆的存在」としても、非常に重要なバンド

*バハマ……1963年、大阪ミナミのアメリカ村のはずれにオープンしたライブハウス。ハードロックやヘヴィメタル、ヴィジュアル系に理解があり、オーナーの藤田淑子さんは「バハマのお姉さん」と呼ばれ親しまれた。アースシェイカー、44マグナム、インスパイア、バレンタインDC、アイオン、アインスフィア、マリノ、SHAZNA、ラジャス、X-RAY、すかんちなど多くの人気バンドが出演した。1984にはデビュー前のプレゼンスが実名で出演した青春映画『魔女卵』の舞台となった

*グルグル映畫館(えいがかん)……1995年より活動開始。「昭和・エログロ・イノセンス」というコンセプトのもと奇想音楽を貫いた。2012年に「閉館」。リーダーであるヴォーカルの故・天野鳶丸の歌詞は深い抒情性をたたえ、音楽のみならず文芸や演劇界からも評価が高かった。バラエティー番組「パパパパパフィ」の企画「ドキッ! ヴィジュアル系だらけの大運動会」に2度出演


りょうばさんはこうして東京で、30歳から「閉館」(解散)までのおよそ10年の永きに亘り、グルグル映畫館白塗りドラマーとして在籍します。

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40歳を目前とし、改めて父の落語に触れる

さらにほぼ同時期に、音楽を離れ、ひとりだけの活動を模索しはじめます。それには理由がありました。


りょうば:「10代から30代までを、ずっと音楽にのめりこんで生きてきました。そんなある日ふと、『もうすぐ40歳やぞ。自分には音楽活動以外にできることはないのか』と不安になりましてね。世田谷区の経堂にある居酒屋『さばのゆ』で、ワンマンのトークイベントをやり始めたんです」

*「さばのゆ」……モンティ・パイソン研究家として知られるプランナーの須田泰成さんが開いた居酒屋。桂吉坊の落語会、ぜんじろうのスタンダップ・コメディ、高泉淳子の演劇ワークショップなど文化発信の拠点でもある。東日本大震災の津波で流された缶詰工場「木の屋石巻水産」の窮地を救った店としても知られる


このままアラフォーになる危機感。音楽どっぷりな日々への危機感。そこから脱するために試しはじめた、ひとり喋り。このチャレンジのおかげで、りょうばさんは、あるひとりの落語家へと辿りつきます。それは……お父さんでした。


りょうば:「トークイベントをスタートさせ、『ひとり喋りの参考になれば』と、何十年ぶりかに父の落語を聴いてみたんです。すると……めちゃめちゃ面白かった。『落語って、こんなに面白いんや!』と驚きました。40歳手前なりに人生経験を積んでから聴くと、十代や二十代のころには気がつかなかった部分の笑いが分かってくるんですね。『落語、やってみようかな』。そう考えるようになりました」


高校を卒業してから約20年間、父親である枝雀さんの高座も含め、「落語をまったく聴いていなかった」というりょうばさん。幼少期に父のそばで稽古の声を聴いていたあの日へと回帰していったのです。

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「方正兄さんがいらっしゃらなかったら落語家にはなっていない」

二十代からずっとプロのドラマーだったりょうばさんの、落語への挑戦。新しい世界への背中を押した、もうひとりの人物がいます。


りょうば:「機会って、出会いって、重なるもんなんですね。米朝師匠に文化勲章が授与された記念パーティーが大阪でありまして、僕は帰省して母とともに枝雀家代表として出席したんです。するとそこに落語家になった月亭方正兄さんが挨拶に来られたんです。方正兄さんがうちの母親に、『枝雀師匠の影響で、40歳で落語家になりました』と頭を下げておられ、『いまは若手の落語家と集まって稽古会をしている』と、こう言わはるんです。40歳で落語家に……。同じく40歳になろうとしている自分の胸に響きましてね。僕は本来はあまり出しゃばるタイプではないのですが、思わず、『稽古会を見学させてください!』とお願いをしました。それが落語を始めるきっかけとなりました。方正兄さんがいらっしゃらなかったら、僕は落語家にはなっていなかったでしょうね」

*月亭方正(つきてい ほうせい)……本名および旧芸名は山崎邦正。『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』放送2回目から前説として参加し、以来不動のレギュラーに。春に放送される「さようなら山崎方正(月亭方正)」は2001年から続く名物企画。40歳を目前に桂枝雀の「高津の富」を聴いて落語の面白さに目覚め、2008年に月亭八方に弟子入り。2013年に芸名も高座名「月亭方正」に統一される


りょうばさんはそれ以来、アマチュア落語家として稽古を重ねます。決して遊び半分な気持ちではありません。しかしながら、プロになる勇気は、まだ湧いてはきませんでした。


りょうば:「自分がプロの落語家になるだなんて、考えられなかったです。『あの枝雀の息子が落語家になったところで、枝雀を超えられるわけがないやろ』と、自分でもよく分かっていましたから。東京の片隅で、ファンを相手に楽しく素人落語をやってるほうが、きっとええんやろなって。桂小米朝さん(現:五代目・桂米團治)も『一知くん、落語家になったらどないや』と勧めてくださったんですが、『いえいえ、めっそうもない』とお断りしていました。……でも4年、5年と素人落語を続けるうちに、じわじわと野心って出てくるんですね。このまま味方ばかりの前で落語をやっていても、実力はつかない。次第に『本物の落語家になってみたい』と夢みるようになりました」

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幼少期は「おじちゃん」と呼んだ桂ざこばへ弟子入りを志願

りょうばさんの心の奥底から落語家への憧れがふつふつとこみあげ、遂に帰阪を決意。それまでは「おじちゃん」と呼んでいた桂ざこばさんへ弟子入りを志願します。ところが――。


りょうば:「ざこば師匠から弟子入りを断られました。『俺がお前を預かるなんて無理や。尊敬する兄ちゃん(故・桂枝雀)の息子やし。よう怒らんわ』って」


尊敬する兄弟子の息子を指導するなんて自分にはできない。それが、ざこばさんの気持ちでした。しかし反面「悩んでいる人を放ってはいけない」のもまた、ざこばさんの人情味なのです。


りょうば:「弟子入りは断られましたが、単に拒否するのではないんです。当時は桂米朝師匠がご存命だったので、『ちゃーちゃん(桂米朝師匠の愛称)の弟子になるのも可能やで』など、さまざまな道を示してくださったんです。心が熱い方で、真剣に考えてくださって、その聡明さとやさしさに胸を打たれました。そして改めて、『この人のもとで落語を学びたい。この人についていきたい』と希望するようになりました」


弟子入りを断られた日をさかいに、ドラムを激しく打ち鳴らすかのようにさらに弟子入りを熱望するようになったりょうばさん。その後も、ざこばさんとの交流は続きます。


りょうば:「高座にあがってひと言しゃべるだけで一瞬にして空間をざこばワールドにしてしまう。なんというすごい芸風なんやと、感動を通り越してショックでした。それで、『今日もしも断られたら、いさぎよくプロの落語家になるのはあきらめよう』と決意しました。すると、『……ほな、うちに来るか』と許してくださって。さらに、『俺は今後、お前を兄ちゃんの息子やとは思わんと接していく。お前がこの先どうなるかは、お前次第や』とおっしゃったんです。それで僕も、すっごい気が楽になったんです」

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こうして晴れて弟子入りが許されたりょうばさん。そんな恩あるざこばさんに対し、たった一度だけ「師匠の言葉を飲み込めなかった」経験があるのだそう。それは、高座名を決める日でした。


りょうば:「師匠の言うことは、すべて『はい』と答えるのが弟子です。でも一度だけ、師匠にお願いしたんです。師匠が気を遣われて僕の高座名に桂枝雀の一文字、”枝"か"雀"を入れて考えようとしてくださっていました。そのとき僕は、『それだけは堪忍してください。ひと目で、師匠の弟子だと分かる名前をいただけませんか』と懇願しました。そういういきさつがあり、『りょうば』の名をちょうだいしたんです」

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流れのまま、自然にやっていきたい

天神橋筋六丁目周辺を歩きながら「りょうば誕生」のいきさつを聴くうちに、淀川に着いていました。川風はまだ冷たい季節ですが、僕はとても温かい気持ちになっていたのです。

りょうば:「淀川は好きな場所です。川風が吹いていて散歩していて気持ちがいいし、落語の練習もできます」

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そう語るりょうばさんの横顔は、どことなく、お父さんの面影を感じます。

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りょうば:「やっぱり親子なんでね。このごろはよく、『枝雀さんに似てきましたね』と言われます。意識して似せているわけではありません。自然にやって似てしまうのは仕方がない。似せないようにするのも不自然ですし、流れのままにやっていきたいと思います」

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りょうばさんは現在、定期的に勉強会を開きながら精進しています。天神橋筋商店街の雑踏へ溶け込んでゆく背中を観ながら、さまざまな人生経験に裏打ちされた、新たな庶民派の誕生を確信したのです。

 

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著者:吉村 智樹

吉村智樹

京都在住の放送作家兼フリーライター。街歩きと路上観察をライフワークとし、街で撮ったヘンな看板などを集めた関西版VOW三部作(宝島社)を上梓。新刊は『恐怖電視台』(竹書房)『ジワジワ来る関西』(扶桑社)。テレビは『LIFE夢のカタチ』(朝日放送)『京都浪漫 美と伝統を訪ねる』(KBS京都/BS11)『おとなの秘密基地』(テレビ愛知)に参加。

Twitter:@tomokiy Facebook:吉村 智樹 

 

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