ヤフーからの復興支援として石巻に移住し、水産業の課題解決に取り組み、震災から10年が経った今も住み続ける理由【いろんな街で捕まえて食べる】

著: 玉置 標本 

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ヤフー株式会社に勤務している長谷川琢也さんは、2011年に起きた東日本大震災のボランティア活動をきっかけに、宮城県石巻市に「ヤフー石巻復興ベース」という事務所を構えて移住した。そこで漁業・水産業というまったく未経験の分野をサポートする道を選び、震災から10年が経ち事務所を閉じた今、ヤフーの社員のまま石巻に残るという決断をした。

彼がなぜ石巻という場所に、漁業というまったく畑違いの業種に惹かれたのか。そして会社側はなぜ10年に渡って彼の行動を許容しているのか。

あの3月11日に34歳の誕生日を迎えて

長谷川さんは1977年3月11日生まれの44歳。生まれた場所は東京の阿佐ヶ谷で、幼稚園の途中から高校を卒業するまでは神奈川県横浜市で過ごした。

東北には旅行で来るくらいしか縁のない人生だったが、東日本大震災が起きた日に34歳の誕生日を迎えたことで、彼の運命は大きく方向を変えた。

f:id:tamaokiyutaka:20210726220640j:plainビーサンで出迎えてくれた長谷川さん。18年間ヤフーに勤めるベテラン社員だ

長谷川琢也さん(以下、長谷川):「じいちゃんばあちゃんは地方から出てきた人で、俺も関東で育ったから田舎がない子どもだったんです。夏休みの絵日記で、田舎にいって川に飛び込んだとか、クワガタを捕まえたとか書いてくる友達がずっと羨ましかった。

両親が旅行好きで日本のいろんなところに連れて行ってくれたし、大人になってからはバイクで旅をするようになったこともあって、日本の田舎ってメチャクチャいいなと思いつつ、少子高齢化とか過疎化で田舎がやばそうな気配も強く感じていた。

地方に対して自分がなにかできたらなという想いがずっとあって、ヤフーに入ったきっかけもそれなんですよね。インターネットで日本の端っこを元気にすることができないかなって。2003年に中途採用でヤフーに入社して、震災前はショッピングとかヤフオクの部署で販促責任者をやっていました」

――そこから石巻で漁業のサポートをするようになったのは、どういう流れだったのですか。

長谷川:「とにかく誕生日に東日本大震災が起きたというのが大きくて、なにかしなきゃという想いが強かった。最初は休みの日にボランティアとして石巻や南相馬にいって、泥かきの手伝いとかをしていたけれど、時間や体力が人よりもすごくあるっていう訳じゃないから、そんなに役に立てない。俺がやるべきことはこれじゃないなって。

ヤフーの社員であるという立場を武器に何かをやりたいなと思ったので、社内で東北を応援するプロジェクトを立ち上げたりしていたら、翌年に上司だった宮坂学(現東京都副知事)が社長になって、ヤフーにしかできない事業として『課題解決エンジン』というミッションを掲げた。世の中の課題を解決する会社になろう、サービスになろう、人になろうって」

f:id:tamaokiyutaka:20210727021433j:plain震災から10年が経ち、その爪痕はだいぶわからなくなったが、海から2キロ以上離れた石巻駅でもフランソワーズ・アルヌール(サイボーグ009の003)像のスネの高さまで津波は押し寄せた

長谷川:「東北を担当する『復興支援室』という部署をつくるから、お前が自由にやれって言ってもらったんです。そこでなにをやるかはゼロから考えろと。まず東北の人とか復興庁の人とか、関わっている人にヒヤリングをたくさんしたところ、これは東北に事務所をつくって、そこに暮らしてみないと本当の課題解決は見えてこないという結論が出た。

ヤフーみたいなIT中心の会社って、ただでさえバーチャルな存在というか、リアル(現場)と離れてしまうところがある。その上東京に住んでいたら、東北の課題を解決するなんて到底できないと思ったんです」

――9年前だと今ほどテレワークが当たり前じゃないし、まずは東北に拠点を持とうと。

長谷川:「石巻にある河北新報社(仙台市に本社がある新聞社)のビルの一階が空いていたので、そこを借りて『ヤフー石巻復興ベース』という事務所をつくりました。

そのころは子どもも小さかったので家族も一緒に引越したけど、しばらくして妻と子どもだけ東京に戻りました。自分はこっちにシェアハウスをつくって、単身赴任生活8年目。といってもコロナ前までは出張が多くて住所不定みたいな暮らし。どこにいるのかわからない。

高校生と中学生の子どもとは、離れて暮らすおかげで程良い距離感。コロナ以降は家族も帰ってこなくていいよっていうので、ずっとこっちにいます」

f:id:tamaokiyutaka:20210727112805j:plain2012年に設立されたヤフー石巻復興ベース(写真提供:長谷川琢也)

f:id:tamaokiyutaka:20210727113600j:plain立ち上げに携わったメンバーとの記念写真。左が当時社長だった宮坂学さん(写真提供:長谷川琢也)

水産業者のための団体『フィッシャーマン・ジャパン』を立ち上げる

震災からの復興支援のために移住した長谷川さんだが、いつのまにか漁業・水産業の世界にどっぷりと浸ることとなる。

――石巻に事務所を構えて、具体的にどんな仕事をしたのですか。

長谷川:「これは否定する訳じゃないですけど、コールセンターとかサーバーセンターを建てて雇用をつくりましょうというのは、ここじゃなくてもできちゃうじゃないですか。ここだからできる課題解決をしてなんぼだなと。

まず『復興デパートメント』というサイトをつくり、被災地から前向きな情報発信をしながら、流されずに残ったものとか生産再開したものを販売する場所を用意した。しばらくして復興という言葉がしんどくなり、東北にエールを送るという意味で『東北エールマーケット』に変えて、今は東北もとれて『エールマーケット』という名前で、全国の応援したい生産者さんをサポートしています。復興支援室も『東北共創(きょうそう)』という部署名に変えました」

――これまで通り東北の応援は続けたいけれど、だんだん復興支援という言葉が似合わなくなってくるというのは、なんとなく感覚としてわかります。

ここまでの仕事はヤフーで担当していたショッピングサイト運営の延長だと思いますが、そこからどうして漁業の道へと進んだのでしょうか。

長谷川:「世界三大漁場が目の前の三陸沖にある。だったら漁師と海のことをやったら、なにかいろんな意味で、東北の、ヤフーの、自分自身のアップデートにつながるんじゃないかと、水産業者による水産業者のための団体『フィッシャーマン・ジャパン』をつくったんですね。

若い漁師は震災前から漁業の課題を感じていたけど、発言権がまったくないから悶々とやっていた。いつか変えなきゃと思っていたところに津波がきて、船が流され、家が流され、人が流された。今こそ変えないでいつやるんだって立ち上がろうとしていた二十代の漁師がポツポツいたんです。

彼らとならなにか変えられるかもしれない。俺がここ石巻だからこそできることは何かと考えたとき、若い漁師を盛り立てることじゃないかと」

――それがここでしかできない課題解決だと。

f:id:tamaokiyutaka:20210727021324j:plain蕎麦屋の居ぬき物件だというフィッシャーマン・ジャパンの事務所にお邪魔した

f:id:tamaokiyutaka:20210727021540j:plain漁業をかっこいい仕事にするため、アパレルブランドとのコラボなどもやっている

長谷川:「漁業に興味を持ったのは、復興デパートメントの仕事をやっていく中で、だんだん生産者に近づいていったのが大きかった。消費地育ちだから生産のことがまったくわからなかったんですよね。最初は加工屋のおじさんにいろいろ教えてもらって、次に漁師と一緒に海にでました。

今でこそ俺も『SDGs』とかいっていますけど、恥ずかしいくらい生産の現場を知らなくて、知ることで人生がひっくり返った。例えば食べ残しとかつくりすぎで捨てる都会的フードロスだけでなく、流通に乗せられない魚を海に捨てているっていう現実、生産地のフードロスがある。他にも海藻が海中から無くなってしまう磯焼けとか、海には課題がたくさんあったんですよ」

f:id:tamaokiyutaka:20210727022416j:plain仮面ライダーブラックと昭和5年に開業した百貨店の旧観慶丸商店。現在は芸術文化発信拠点として運営されている

長谷川:「フィッシャーマン・ジャパンは漁師8人、魚屋3人、事務局2人っていう13人で立ち上げました。これまでは漁師と魚屋が縦割りだった。漁師は魚屋に高く売りたい、魚屋は漁師から安く買いたい。そこが争うことで消耗し合って生産性が落ちている。でもこれからは、少なくても石巻ではワンチームになって、お互いが高め合って付加価値をつくってやっていこうぜって。縦割りだった水産業の壁をぶっ壊す言葉が『フィッシャーマン』」

――漁師=フィッシャーマンじゃないんですね。

長谷川:「漁業・水産業を本気で変えて、持続可能な生業にすることを目指す人がフィッシャーマン。だから漁師や魚屋だけでなく事務局のメンバーもフィッシャーマンだし、我々の考えに賛同してくれる加工業者や料理人だってフィッシャーマンです。

3K(きつい、汚い、危険)と思われている海の仕事を、魅力的な新3K(かっこよくて、稼げて、革新的)の産業にしたいんですよ」

f:id:tamaokiyutaka:20210727021754j:plain震災ボランティアをきっかけに松戸から移住して「いまむら」を構えた今村正輝さんもフィッシャーマンの大切な一員。「生産者と共につくる料理」というテーマを掲げ、漁の同行などもしているそうだ。残念ながら本日はお休みで食べられず

長谷川:「メインの活動は次世代フィッシャーマンの育成事業である『TRITON PROJECT(トリトンプロジェクト)』。全国的に水産業の担い手がどんどん減っている。だけど増やす手立てが当事者にはわからない。でも実は漁師になりたい、魚屋になりたいっていう人も結構いて、そっち側からすると入口がわからない。その構造を変えていこうと、我々事務局員がサポートしています」

――確かに漁師をやりたいと思っても、どの門を叩けばいいのかわからないですね。私も20年くらい前にちょっと検討して、よくわからなくて断念したことがあります。

長谷川:「ただ募集をするだけではなく、津波で家が流されたこともあり、漁師町には一人暮らし向きの物件があまりないので、古民家再生や空き家の活用という文脈も兼ねて、フィッシャーマン専用のシェアハウスもつくりました。シェアハウスならすぐに仲間もできる。せっかく漁師になろうと遠くから来ても、一人だと寂しくて帰っちゃうから。

住むところを用意してくれるからと石巻を選んでくれる人も多いです。やめちゃった人もいますが、これまでに50人くらいが来てくれました」

f:id:tamaokiyutaka:20210727021600j:plainフィッシャーマン・ジャパンのメンバーたち

f:id:tamaokiyutaka:20210727113448j:plainフィッシャーマン・ジャパン代表理事の阿部勝太さんはワカメ漁師(写真提供:長谷川琢也)

長谷川:「代表をしている阿部勝太は、出逢ったときはまだ25歳とかだった。この10年を振り返ってフィッシャーマン・ジャパンが残せたものって何だと思いますかっていうインタビューを彼が受けて、一番は漁師とか水産業界に変わっていい、変化していいんだよっていう例を見せられたことで、それを一緒にやってくれのたがヤフーでしたって言ってくれたんですよ。

漁業はそれくらい変われない産業だった。そもそも思考停止状態というか、漁業法も2018年まで70年間も変わっていなかったし。ファックスをこれだけ多用している業界はないんじゃないかっていうくらい変化がなく、IT化どころじゃない。いろんな理由をつけて拒否するんですよ、機械が濡れちゃうとか。でも紙だって濡れるじゃないですか」

――ヤフーが扱う仕事から一番遠い現場だからこそ、変化のきっかけを生むことができた。

長谷川:「地方から問題解決の事例をつくる。自分が住む地域のことを考えてアクションをするとグローバルな変化につながり、大きな影響を与える。それがすごく実感としてありますよね」

f:id:tamaokiyutaka:20210727022654j:plain震災前に石巻までホヤの取材に来て、そのコンビニホテルに泊まって三吉で飲んだことを思い出した

――漁業だけにという訳ではなくちょっと生臭い話を聞きますけど、フィッシャーマン・ジャパンの仕事は、ヤフーから給料をもらって、ヤフーの社員という立場でしているんですか。

長谷川:「立ち上げ当初はヤフーの『課題解決エンジン』の一環として、自分のリソース(業務時間)を使っていいよと許可が出ていたので、一日フルでヤフーからの支援としてやらせてもらいました。フィッシャーマン・ジャパンからお金はずっともらっていません。

でも支援は延々に続けるべきものではないから、だんだんヤフー(自分)がいなくなっても成り立つようにしようねという話はずっとしていて、今は事務局長ではあるけど、勤務時間外にできる範囲でだけ手伝う形です。もう俺が抜けても回る組織になった。

そんな流れがあった中で、そろそろ自分の軸足をヤフーに戻していかなきゃというときに、海の課題をもっと広くわかりやすく伝えないとダメだということで、これまで自分が学んできたとことを伝えるメディアをつくろうと『Gyoppy!(ギョッピー)』を立ち上げました」

f:id:tamaokiyutaka:20210730154116j:plain私も記事を書かせてもらいました。詳しくはこちら

――フィッシャーマン・ジャパンが手を離れた今も、やっぱり漁業が長谷川さんにとっての大きなテーマなんですね。

長谷川:「漁業っていうテーマを選んだとき、マニアックすぎるというか、ターゲットがギューっと狭まるので大丈夫かなと思ったけれど、結果として絞ったことで後の広がりがすごく出ました。

俺みたいに知名度のなかった人間でも、余所者の変わったやつが海のこと、水産業界のことをやっているというだけで、水産庁や全漁連が話を聞きたいと来てくれる。逆じゃない? むしろ教えてくださいよっていう人が。大学の非常勤講師をやらせてもらったり。

それはやっぱり漁業に絞ったから。東北の名産品をネットで売ってますっていうだけだと、こういう状況にはならなかった。オークションやショッピングを担当していたころ、上司の宮坂から『広いエリアで勝とうとする前に局地戦で勝て!』って言われていて、局地戦に勝つっていうのはこういうことかと」

――漁業は一般人があまり手をつけなかった特殊な分野だからこそ、挑む意味があったと。

長谷川:「それによって全国の地域活性をしている人とか社会起業家のコミュニティにも入れてもらえて、また広がりが生まれる。だから新しい仕事をするときも、他の社員に比べて知り合いが多いから、そこは役に立てている感じはありますよね」

f:id:tamaokiyutaka:20210727025401j:plain石ノ森萬画館。中州にあるため津波の被害を大きく受けた場所。私は漫画について詳しくないが、それでもすごくおもしろかった

f:id:tamaokiyutaka:20210727021511j:plain石巻市にはそこかしこに石ノ森キャラの像がある。ちなみに奥は仙台三越のサテライトショップである三越石巻

事務所が無くなっても住み続ける石巻の魅力とは

――そして今年の3月、震災から10年が経ちました。

長谷川:「震災から10年という区切りもあったし、ヤフー自体本社がいらないのではというリモートワークっぷりなので、石巻も事務所はもういいでしょと『ヤフー石巻復興ベース』を3月に閉じさせてもらいました。

もうどこに住んでもいいとなったけど、家族にも相談して、まだちょっとこっちにいさせてくれと石巻に残っています。まだまだ石巻でやれることはいっぱいあるし。

それに自分が石巻からいなくなった瞬間、大きな武器を失う気がしちゃっていて。結局はここにいてもインターネットを通じてパソコンで仕事をしているんですけど、なんかね」

f:id:tamaokiyutaka:20210727022603j:plainリモートワークが中心なので、石巻に住む必要はないが、それでも住み続けることを選んだ

――そこまで入れ込んでいる石巻の魅力を教えてください。

長谷川:「東京だと隣に住んでいる人も知らないとか普通にあるけれど、石巻ではすれ違う人とも挨拶するし、近所を歩いたら魚や野菜をもらう。頼ったり頼られたりの関係。そういう生活に超憧れていたんですよ。東京とか神奈川とかずっと関東で育ったけれど、もう石巻は自分にとっての地元っていっていいんじゃないかっていう存在になっています」

――移住組から見た石巻の悪いところも教えてください。

長谷川:「震災をきっかけに変われなかったところもあるし、元に戻っちゃったところも多少なりともある。宮城県第二の都市でそれなりに人口が多いから、まだピンチ感が薄いのかも。復興予算にぶら下がりすぎたのかもしれない。この状況だとこれから先はヤバいよねって、ちゃんと考えないといけないよとは思う。

でも仕事で全国を回って魅力的な街をたくさん見たけれど、帰りの新幹線とか飛行機で思い返すと、石巻は負けてないんですよ。世界有数の漁場があって、若い漁師が増えて、市場もでかくて、勢いのある魚屋や加工屋があって、行政も動いてくれる。そういう漁村は日本中を探してもそんなにない。

石巻はたまたまのご縁で来た場所だけど、ここで本当によかったなと思っていて。知り合いも増えて深い部分に関われているし、食べ物もすごくおいしい。宮城は養殖ギンザケの生産量が日本一なのに、地元の人は海外から輸入したサーモンを食べていたりしますが。これは漁村あるあるで、流通や意識の課題です」

――石巻の魚、食べたくなりました。

f:id:tamaokiyutaka:20210727022635j:plain石巻は魚がおいしいことを確かめねばと、長谷川さんお勧めのすし寳来へやってきた

長谷川:「でも俺はもともと魚があまり好きじゃなかった。マグロとかサーモンは食えましたけど、基本的に生臭いものと思っていたから。特に貝類が嫌いで、カキとか臭いだけでダメだったのに、二番目に仲良くなった漁師がカキ漁師。しばらくは食えないことを隠していたんですけど、あるとき食べてみたら食えたんですよね。カキうまいじゃんって。

カキをネット販売するために、どれくらい日持ちするか実験したことがあるんですけど、俺が東京とかでウッてなっていたのは七日目くらいの鮮度だった」

――カキが嫌いだったんじゃなくて、新鮮なカキを食べる機会がなかっただけだった。

長谷川:「骨がある魚は未だに苦手。幼稚園で魚の骨が喉に刺さってお昼寝ができなかったというトラウマがあって、小樽出身のばあちゃんが俺のために全部ほぐしてくれていたから自分でできない。でもサンマとかは鮮度がいいとピッピッピってやってピャーってやるとダーって骨が綺麗に剥がれるんですよ。それでこれは生のサンマだとか、ツーフローズンだなとかわかります。魚の解像度はメチャクチャ上がりました。

酒も弱くて日本酒が飲めなかった。でもその土地で採れた魚と日本酒は同じ空気と水でできているから合うんだと言われた瞬間に飲めるようになりました。プラシーボ野郎なので。ホヤは人間の味覚5つをすべて刺激する唯一の食べ物だと言われた瞬間に好きになった。あと熱い生産者に会っちゃうとだいたい好きになりますね!」

f:id:tamaokiyutaka:20210727022734j:plain石巻の地魚が食べられるという金華すしを注文。日本酒は我慢した

長谷川:「そろそろ石巻の生活が終わっちゃうかもなと思い始めた二年前くらいに、『海を目の前にして海で遊んでないじゃん!』って宮坂から指摘されたんですが、実は俺、泳げないんですよ。水が怖かったんです。だからドキドキしながら漁船に乗っていたりする。

でもそこにしかないもので産業とかビジネスをつくらなきゃっていう発想で動いていたのに、そこにしかないもので遊ぶっていうことをやってなかったなって反省して、泳げないけど強引にサーフィンを始めました。やってみたらハマって、今朝も海に入ってからここにきました。

海は楽しいし、飯もうまいし、友達もたくさんいる。髪を切ってもらっている美容室のコーヒーもすごくうまい。もう無理ですよね、東京の暮らしなんて」

f:id:tamaokiyutaka:20210727022752j:plainクジラ、マグロ、アカムツ、カツオ、サバ、ホッキガイ、シャコ、マダラのタラコ、ウニ。どれも最高だったので夜に改めて来店した。右下は「アニメージュとジブリ展」コラボメニューの「隣りのトロトロ海鮮丼」

そして、これからのこと

――ヤフーの社員として石巻でやってきた活動は、会社に還元されてますか。

長谷川:「社の内外で賛否はあると思います。好き勝手やりやがってとか。でも俺の中ではヤフーのミッションである『課題解決エンジン』とか『UPDATE JAPAN(アップデートジャパン)』の活動であり、日本とか地方とか漁業とか、必ず何かの役に立つと信じてやってきました。

十分できなかったという想いもありますが、ヤフーという会社の一社員でも地域や社会の課題に立ち向かって、少なからず影響を与えることができるという道を多少は示せたかなという自負はあります。

でも、まだまだ『……で?』って言われたときに返し切れないから、今年4月からの新しい仕事で成果を残したい。俺が10年間好き勝手させてもらって得たものを、もっとヤフーに還元したい」

f:id:tamaokiyutaka:20210727021133j:plainお土産物がそろう「いしのまき元気いちば」を案内していただいた

f:id:tamaokiyutaka:20210727021144j:plainたまたま会った長谷川さんがお世話になっている方によると「彼のように新しく入ってくれる人はとても大切。地元に溶け込もうという意志がすごくある」とのこと

――いい会社ですね。

長谷川:「媚びを売る訳じゃないですけど、ヤフーが好きなんですよ。検索エンジンやネット広告だけじゃなく、すごくいろんなサービスがあって、それをつくったり支えたり回したりするためにいろんな人がいる。だから会社としての総合力がすごくて、なにかあったとき誰かに頼ったりすると、何でもやれちゃうんですよ。それも気持ちのいい人が多くて応援してくれる。

俺は根暗だしネガティブなので、どうせみんな石巻とか俺のことなんて、とっくに忘れているでしょってずっと思っていたんですよ。ここ5年くらい。でも事務所を閉めるときに、石巻の取り組みがあったからヤフーに入ったんですとか、ずっと応援してましたとか、たくさんの人がコメントをくれた。超嬉しかったんですよね。この会社はそういうところがあるなって。

事務所が閉まるときに、もう会社から捨てられるんじゃないかって不安に思っていたけど、上司からこの10年を無駄にしないように、次のステージに行くためと、企業版ふるさと納税を使ったカーボンニュートラルの推進業務を用意してもらいました。

行政とのつなぎ方とか、地域の活動とインターネットを結び付ける方法は、自分もこっちに来るまでは全然わからなかったので、このノウハウは結構お役に立てているかなという気はします」

f:id:tamaokiyutaka:20210727021202j:plainお土産物だけでなく、生の魚もたくさん売っていて楽しい

f:id:tamaokiyutaka:20210727021216j:plain旅先で魚を捌くのは大変なので、手軽な刺身セットやホヤを購入。事務所で食べさせてもらおう

――石巻での暮らし、すごく楽しそうですね。

長谷川:「自分みたいな人がもっと増えてほしいですよね。地元があっていつか帰りたいって思っているならすぐ帰った方がいい。できるだけ早くやった方ががいいことってあるじゃないですか。チームをつくるとかビジネスをつくるとかは、そんなすぐできるもんじゃないから。都会で働いている人のスキルとか感性みたいなものを取り入れれば、一気によくなるなっていうのも地方にはいっぱいあるから、繋がることがとても大切。

失敗も成功も早い方がいい。人間関係もこじらせるなら早めにこじらせた方がいいでしょ。そこで頑張るにしろ逃げるにしろ。戻るべき故郷がない人も、今の時代ならワーケーションから始めてもいいし、入口は全然ある訳だから

f:id:tamaokiyutaka:20210727021225j:plain漁師と魚屋だったり、地元民と移住者だったり、異なる個性をうまく繋げることが地域活性の鍵と学んだ。そこで片栗粉と強力粉を、長谷川さんの熱意をイメージした熱湯で捏ねる

長谷川:「『ヤフーはそれができる会社だからいいよね』って思われるだろうけど、確かにそうなんですけど、生き方はいっぱいあると思っていて。例えば複数の『複』で『複業』をやるとか。もともと日本は一個の仕事だけで食えていた人は少なくて、半農半漁とか当たり前だった。百姓だって100個のアビリティを持って食っていた訳だから。

いろんなことにチャレンジさえすれば、別にヤフーの社員じゃなくても、地方でできることはたくさんある。やる気次第。俺も大変ですけどね

f:id:tamaokiyutaka:20210727021235j:plainモバイルサイズの製麺機で生地を熱湯に押し出すことでブリンブリンの麺が生まれた。これが俺の課題解決エンジン

f:id:tamaokiyutaka:20210727021253j:plain地元の食材を贅沢にトッピングした特製石巻冷麺。隠し味はホヤの魚醤「ほやンプラー」だ

だいぶ前から知り合いの知り合いとして知っていた長谷川琢也さん。ヤフーという超大手IT企業に勤めながら、石巻で漁師みたいなことをやっているのはどういうことだと不思議だったのだが、こうして話を聞いてとても納得した。

ヤフーの社員という立場を最大限に利用して、10年に渡って石巻を応援し、石巻での生活を存分に楽しんでいる。一見するとそれは仕事なのかと思ってしまうが、いずれは会社や社員へとすべて還元されるのだ。たぶん。

寿司も冷麺もおいしかったので、私も石巻はいいとろだと思う。

f:id:tamaokiyutaka:20210727021101j:plain居合わせたフィッシャーマン・ジャパンの事務局員に食べていただいた。ありがとうございました

■ヤフーの「社会課題解決への取り組み」

■エールマーケット

■フィッシャーマン・ジャパン

■TRITON PROJECT(トリトンプロジェクト)

■Gyoppy!(ギョッピー)


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著者:玉置 標本

玉置標本

趣味は食材の採取とそれを使った冒険スペクタクル料理。週に一度はなにかを捕まえて食べるようにしている。最近は古い家庭用製麺機を使った麺づくりが趣味。『育ちすぎたタケノコでメンマを作ってみた。 実はよく知らない植物を育てる・採る・食べる』(家の光協会)発売中。

Twitter:https://twitter.com/hyouhon ブログ:http://www.hyouhon.com/