エアポケットの街・不動前で過ごした空白と余白の日々|文・岡田悠

筆者:岡田悠(おかだゆう)

会社員と文筆業。『0メートルの旅』(ダイヤモンド社)、『10年間飲みかけの午後の紅茶に別れを告げたい』(河出書房新社)、『1歳の君とバナナへ』(小学館)が発売中。Podcast『超旅ラジオ』を毎週更新中。

東京にはエアポケットの街がある

18歳で上京したとき、驚いたのは、どこまでも街が続いていたことだ。地方で育った僕にとって、街と街は離れているものであり、その間は太い国道でつながれているものだった。街は「点」のイメージだったのだ。

しかし、東京で電車に乗っていると、車窓から見える景色には、いつまでも街が続いている。街と街がシームレスにつながって、また次の街が始まる。街が「面」として存在していて、歩いても歩いても、次々に個性的な街が現れる。東京のそんな所が面白くて、もう20年近く住んでいる。

東京のいろいろな街に住んだ。JR中央線沿いの個性的な街。恵比寿周辺の刺激的な街。東のほうの下町感あふれる街。都心の高層ビルが並ぶ街。こうして10カ所近くの都内の街に住んできて、たどり着いた好みが「エアポケットの街」だった。

東京では大きな街と街の間を、太い国道の代わりに、小さな街がつないでいる。それがエアポケットの街である。

エアポケットと言っても、あくまで街であるので、空白地帯ではない。人が住み、店がある。でも観光客は通り過ぎるし、急行電車も止まらない。そんな街を、勝手にエアポケットの街と呼んでいる。

かつて住んだ街「不動前」も、エアポケットの街だった。

エアポケットの街、不動前

東急目黒線の不動前駅は、目黒駅の隣にある。目黒といえばJR山手線をはじめとする鉄道4社が乗り入れるターミナル駅であり、通りには数えきれないほどの飲み屋やラーメン屋がずらりと並ぶ。とりあえず目黒に行っておけば、飲む場所に困ることはない。

一方で不動前駅の住所が「西五反田」であるように、不動前はJR山手線の五反田駅からも徒歩圏内だ。五反田駅の西側にはオフィス街があり、東側には歓楽街が広がっている。とりあえず五反田に行っておけば、飲む場所に困ることはない。

つまり目黒と五反田という、飲む場所に困らない二つの大きなエリアのそばにあるのが、不動前という街なのだ。

※OpenStreetMapより作成(エリアの定義は諸説あります)

さらに目黒や五反田を背にした先には、「武蔵小山」がある。武蔵小山といえば、なんでもそろう巨大なアーケード街「武蔵小山商店街」で有名だ。

そしてそのアーケード街を端まで歩き、道を渡ると、今度は東京で最も長い商店街「戸越銀座商店街」が待ち受けている。

日本有数の商店街・戸越銀座商店街

つまりめちゃくちゃでかい商店街が二つ、道路を挟んで隣接しているのだ。これら二つの商店街を端から端まで歩くと、全長2kmあまり、600店舗以上の店を通り過ぎることになる。圧巻である。チェーン店が充実している一方で、個人商店も多く、どこか下町情緒も漂っている。

不動前の記事なのに、周辺エリアばかりをアピールしてしまった。

ここで伝えたいのは、不動前の立地の良さだ。目黒・五反田という至高の飲み屋街と、武蔵小山・戸越銀座という至高の商店街のちょうど狭間に位置しているのが、不動前という街なのだ。

※OpenStreetMapより作成(エリアの定義は諸説あります)

奇跡的な立地である。まさにエアポケット。

不動前は、周辺の「有名な街」に比べると正直、知名度では劣る。観光名所も存在するけど、やはりどこかちょっと「地味さ」が拭えない。道を歩く人の数も、音も光も、にぎやかな目黒・五反田に比べればずっと少ない。だが住む場所としては、そこがまたいいのだ。

そんな不動前の立地の良さを存分に活かし、思いきり働き遊んで暮らした日々を、かつて送っていた。

働き遊び、不動前に帰った日々

平日は朝早く不動前の家を出て、職場のある五反田へ徒歩で向かう。

一日、目いっぱい働いた後は五反田の個性的な飲み屋をはしごする。二次会で目黒まで行って、朝方に締めのラーメンを楽しむ。

そして休日になれば武蔵小山のアーケード街で買い物を済ませ、そのまま焼き鳥片手に戸越銀座商店街を散策する。

不動前に住んでいれば、これらを全部徒歩でこなせるのだ。生活のすべてが徒歩で完結するため、満員電車に悩まされることもない。歩くのにちょっと疲れたら、東急バスの路線網が張り巡らされているから、ひょいとバスに飛び乗ればいい。

また不動前からは、品川駅や羽田空港にも行きやすい。旅行好きの僕にとって、これも大きな利点だった。当時は暇さえあれば、有休をとって国内外いろいろなところに出かけていた。急に思い立ってチケットを買って、その日のうちに新幹線に乗ったり、飛行機に乗ったりしたこともある。

そうやってがむしゃらに —— 時にやけっぱちなほどに、思いきり働き、飲んで、遊んだ後に不動前に帰ってくると、街が随分と落ち着いて見えた。

不動前の小さな商店街

不動前自体にも魅力的な飲食店はたくさんある。カレーのルーがお代わりし放題の「東印度カレー商会」とか、店中にメニュー短冊が貼られており、そこに書かれた料理がことごとくうまい居酒屋「太田屋」とか。

でもやっぱり、周辺エリアに比べると随分と落ち着いている。その落ち着きは、五反田や目黒から帰ってきたときに余計に際立つ。ああ、帰ってきたのだという感じがする。

不動前はあくまで暮らしの拠点であり、僕にとってはスイッチをオフにするのに絶好の場所だった。そこに「エアポケット」の街としての醍醐味がある。

周辺の歓楽街と商店街でオンになり、不動前でオフになる。そんな生活を続けているうちにコロナ禍がやってきて、やがて子どもが生まれた。

エアポケットの時間を、エアポケットの街で過ごす

子どもが生まれて、1年間の育児休業を取得することにした。初めての子育てに、最初こそてんやわんやだったものの、半年ほど経って慣れてくると、これまでとは異なる時間感覚の暮らしが始まった。

朝ゆっくり起きて、離乳食を用意する。子どもはすり潰したバナナ、ほぼ液体のお粥、裏ごしされたニンジンを、生えたての歯でゆっくり確かめるようにしてかんでいく。そのペースに合わせて、僕も朝ご飯を食べる。人生で最もスローな朝ご飯である。

ようやく食べ終わって、寝転がって休憩したら、今度は散歩に出かける。ベビーカーを押して、不動前の街を歩き、公園を巡る。コロナ禍もあって、遠くへは行かず、とにかく近場を歩き回った。

ベビーカーと「かむろ坂」を歩く

散歩から帰ってきて、夕方になると、もう一日が終わったような気持ちになる。またゆっくりと一緒に晩御飯を食べ、風呂に入ったら、20時には眠りにつく。

酒もなければ、外食もない。飛行機やバスに飛び乗ることもない。代わりに家でじっくりご飯を食べ、近所を歩き回って、ぐっすり眠る(夜泣きで起きることもある)。

それはエネルギーの限界まで働き、遊んできた日々にぽっかりと空いた、まさにエアポケットのような時間だった。エアポケットの街で、エアポケットの時間を過ごすようになったのだ。

働いていたころとは、まるで時間感覚が変わった。時間の流れがゆっくりになった……というよりは、これまでショートカットしてきた「食べる」「歩く」「寝る」といった生活のための時間を、目を凝らして見つめるようになった、という感覚に近い。

五反田や目黒、巨大な商店街にも行くことが減って、代わりに「地味な」不動前をひたすら歩き回った。するとこれまで知らなかった、不動前の魅力が立ち上がってきたのだ。

歩けるようになった子と歩く

まず、不動前は子育てをする上でも、恵まれた環境だということがわかった。

これまで外食ばかりで気にも留めなかったけど、いざ自炊を始めてみると、スーパーが異常に充実している。

駅前の至近距離に、オオゼキ・東急ストア・マルエツと3つのスーパーが密集しているのだ。当時は少し歩けば大黒屋もあったし、盤石の構えである。ちょうどいい量の牛肉がないから、そのまま歩いて別のスーパーをはしごする、みたいな贅沢な選択肢を気軽に取れた。

オオゼキの充実ぶりは半端じゃない

また、少し歩けば「林試の森公園」という大きな公園があって、ここが本当に素晴らしい。子どもが生まれて以来、いろいろな公園を渡り歩いてきたけど、都内屈指の公園の一つだと思う。

遊具もあれば、広い芝生もあり、「森」の名に恥じずケヤキやクスノキの巨木が立ち並んでいる。乳幼児から小学生、大人まで楽しめるエリアがそれぞれあり、公園として非常に高いレベルを誇っている。とりあえず林試の森に行っておけば、子どもはいつまでも熱中して遊び続けていた。

秋は林試の森公園で落ち葉に埋もれる

そのほかにも、近所の五反田TOCというショッピングモールには、当時は都内最大級店舗のユニクロやアカチャンホンポが入居していて、ベビー用品のほとんどをそろえられた。TOCのビルは、屋上がとにかくだだっ広くて落ち着くから、休憩するにも最適だった。

保育園も認定を含めれば充実していたし、発熱したらすぐに駆け込める病院もあった。

これまで「ほかの街に出やすくて便利」と考えていた不動前は、じっくり腰を据えてみると、それ自体が子育てに便利な街なのだと気付いた。

乱気流の散歩が新たな不動前の景色を教えてくれる

さらに子どもが歩き始めると、利便性だけにとどまらない、より奥深い不動前の魅力が見えてきた。

不動前には、細くて曲がりくねった路地がたくさんある。もともと目黒不動尊を中心として形成された、古い街並みの名残......というのは適当に考えた仮説で、詳しい理由は知らない。とにかく細い路地が入り組んでいるので、散歩に向いている。

こういう道がたくさんある

そんな自分も、育休前までは不動前を単なる「拠点」として考えていたので、同じ道ばかり歩いていた。五反田や目黒へすぐに行けるよう、最短ルートを選んでいたのだ。

だが子どもと散歩することで、未知の道を次々と発見した。

例えば子どもは自動販売機が大好きで、あらゆる自動販売機へ無言で吸い寄せられていく。あるいはカラーコーン、あるいは工事現場。

子ども好みのランドマークは街中に散りばめられており、それらを探しながら街を歩くと、街がまるで違って見えてくる。カラーコーンを見つけるたびに道を逸れるから、どんどん知らない路地へ迷い込んでいく。

カラーコーンに到着し満足げな子

さらに、子どもが引きつけられる最大のスポットは「段差」にあった。階段を見つけるとすぐに駆け寄って、慎重に手をつきながら、取り憑かれたように上り下りを繰り返す。車道と歩道の間に段差があると、触って凹凸を確かめる。道の上にちょっと盛り上がった箇所があるだけで、なんとか上ろうと試みる。

段差を上ろうと試みている様子

こんなふうに歩き回っていると、もう全然目的地に近づかない。「家から徒歩5分のコンビニへ牛乳を買いに行く」だけのはずが、1時間近く歩き続けた揚げ句、手ぶらで帰ってきたこともあった。

コンビニへ牛乳を買いに行くルート比較イメージ

お目当てのランドマークを見つけるたび、子どもは大興奮し、こちらの予定したルートなど構いもせず、全速力で駆け寄っていく。そして体力が尽きるまで遊び尽くす。散歩は決して計画通りに進むことなく、いまその瞬間に見つけた景色に、全力で没頭する。

牛乳を買うだけで1時間かかる(というか買えない)わけだから、こちらはもうへとへとになる。だが同時に、結構楽しい。かつて小学校の帰り道に、新しい寄り道を見つけたときのような興奮すらある。子どもとの散歩は、「のんびりとした街歩き」というよりは、小さな冒険に近い。

そういえば「エアポケット」という言葉は、航空用語では「兆候なく突然、飛行機が急激に下降する空域」を指すらしい。「晴天乱気流」とも呼ばれるそうだ。

子どもとの街の冒険は、その意味でのエアポケットにも近い。子どもはなんの兆候もなく、突然見つけた景色に突き進んでいく。安定飛行を心がけていた僕は、必死でその乱気流に食らいついていく。子どもに振り回されながら、不動前の街を縦横無尽に流れ歩く。

そうやって最短ルートからかけ離れた、乱気流の散歩を繰り返すことで、エアポケットの街に新しい名所が次々と見つかった。それらは、1人だったら通り過ぎていたような、何気ない景色だった。

例えば、細い路地に数段だけ存在する石段。

住宅街に突然現れる、遊具すらない公園。

手すりの隙間から、電車を見下ろせる歩道橋。

こういった場所が、次々と僕らの定番スポットになっていった。地味だったはずの不動前は、いつの間にか、色鮮やかな街に変わっていた。

不動前は空白ではなく余白の街だった

子どもと歩くことによって、発見したエアポケットの街の新たな魅力。それは「街に色を塗って回る」という楽しみだ。

おいしい店があるとか利便性が高いとか、この街はここが良いです、という「街からの提案」を享受するのも楽しい。だが何もないように見えた街に、実は自分だけの奥行きを見つけたときは、もっと楽しい。

こういうなんでもないスポットは、きっとどんな街にもあるのだろう。

そして一見地味で、そういった提案が少なく、細くてくねくねした路地が無数につながっている不動前には、「街の塗り絵」で遊ぶ余白が特に多いように思う。いくつもの巨大な街に囲まれているぶん、余白のコントラストが際立っている。

忙しい日々に、突然ぽっかり休日が空いたとき、どう過ごそうか考えるとワクワクする。それと同じように、巨大駅に囲まれてぽっかり空いた街を、どう歩こうか考えるとワクワクする。エアポケットの街は、「空白」ではなく「余白」の街だった。

……と、ここまでさんざん不動前の良さを語っておきながら、実は家庭の事情で、数年前に別の場所に引越してしまった。

だが今でもたまに不動前には訪れている。具体的には、不動前の歯医者にまだ通っている。3カ月に一度、有休をとって歯医者に行き、終わった後に不動前の街を歩く。

最近の不動前には、絵本の充実した新しい本屋さんができていたり、

絵本の充実した「フラヌール書店」

よく訪れていた公園がリニューアル工事中で、たくさんの建設機械が稼働していたりする。きっとまた不動前に子どもを連れてきたら、こういう場所に夢中になるだろうと想像しながら、細い路地を歩く。

今でもそうやって、有休という名のエアポケットを設けて、街にささやかな変化を見つけに行く。たとえ引越した後でも、そんな時間を過ごしたくなるのが、不動前という街なのだ。

編集:はてな編集部