貧乏でも「もうちょっと広い部屋に住みたい」という気持ちで頑張れた――西原理恵子さん【上京物語】

インタビューと文章: 柴 那典 写真: 関口佳代

進学、就職、結婚、憧れ、変化の追求、夢の実現――。上京する理由は人それぞれで、きっとその一つ一つにドラマがあるはず。地方から東京に住まいを移した人たちにスポットライトを当てたインタビュー企画「上京物語」をお届けします。

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今回「上京物語」に登場いただくのは、西原理恵子さんです。毎日新聞朝刊にて2002年から16年続いた連載『毎日かあさん』は、「卒母(そつはは:母親業の卒業)」宣言と共に、最終巻となる14巻で完結。10月からは新連載『りえさん手帖』がスタートしました。愛娘への思いと共にこれから世のなかに出ていく女の子へのメッセージをつづった『女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと』も大きな話題を呼んでいる西原さんに、改めて10代の思い出と東京での暮らしについて語っていただきました。

美大への進学を目指して、19歳で高知から上京した西原さん。貧乏だったその当時に見た「初めての東京」と、そこから29年間のマンガ家人生のモチベーションとなってきた「住まいへの憧れ」について。日野、東村山、東長崎、吉祥寺と暮らしてきた街について。そして、今思う故郷の高知への思いと、この先の人生について。さまざまなお話を伺いました。

上京したてのころは、毎日「1のり弁」で暮らしていた

――西原さんは19歳のときに上京されていますが、なぜ東京を目指したんですか。

西原さん(以下、西原)勉強が大っ嫌いで、でも絵が描きたかったんですよね。親は学校のことに全然熱心じゃなかったけど、大学に行かせてくれそうな雰囲気はあって。その後、高校を退学になったり、父親が自殺したりして、どうせなら仕事をもらえる大学に行きたいと思って「東京の美大に行きたいから浪人させてくれ」と母親に伝えて。

――美大を目指して、まずは予備校に入ったんですね。

西原:そう。今はどうか知らないけど、昔は予備校に何年も通わないと美大は受からない時代だったんです。当時はネットもないし、とにかく情報がないから東京の予備校に行くしかなかった。で、私はムサビ(武蔵野美術大学)が第一志望だったんで、そこに強いと言われていた立川美術学院というところに入ったんです。

――そのころのお住まいは?

西原日野というところです。都心は怖いし、勉強しなきゃいけないから、予備校の近くのちゃんとしたところに住みなさいってお母さんが言ってくれて。駅から5分くらいのワンルームマンションで、ユニットバス付きで4万円の家賃だったかな。びっくりしましたよ。「住むのに一日1000円以上かかるんだ!」って。当時の自分にはかなり大金だったし、ちゃんと勉強しなきゃって思いましたね。そのころが生涯で一番勉強した時代でした。

――当時の日野はどんな街でしたか?

西原:何もなかったですよ。駅前にスーパーのいなげやがあって、反対側に日野自動車の工場があって、それが一番栄えてるような場所で。コンロがひとつだけあって、奥にベッドがあって、それだけ。押入れも何もない。エアコンもない。そういう4万円の部屋で東京のスタートを切ったんです。

あのころは毎日のり弁を1個買って、それにお味噌汁と茹でた菜っ葉を添えて、1日3食に分けて食べてたんですよね。たしか280円くらいだったかな。だから私、いまだに物事の単位が“1のり弁”、“2のり弁”なんです。

――“1のり弁”というと?

西原:あのときの1日の食費が“1のり弁”なんですよ。それに見合うかどうかっていう価値観で物を買うんです。だから私、スタバのなんとかスペシャルみたいなコーヒーは絶対飲まない。「もったいないじゃん!」って(笑)

「もうちょっと広い部屋に住みたい」がモチベーションだった

――美大に合格されてからはどちらにお住まいだったんですか?

西原:大学に近い東村山市に引越しました。最寄駅は西武拝島線の小川という駅ですね。駅から歩いて20分。木造モルタルで、隣の部屋のオナラの音が聞こえるくらい壁も薄くて。当時はちょうどバブルが始まるころだったから、それでも家賃4万円。そこからムサビまで自転車で15分くらいかけて通ってました。

で、西武線で新宿に行って、歌舞伎町のミニスカパブで働きながら、4万円のアパートに帰るという。駅前の駐輪場が、1カ月で3000円とかするんですよね。「自転車置くのにお金かかるんだ!」って衝撃で。それがイヤで自転車をあっちこっち置きまくって、しょっちゅう撤去されてたな。

――東村山で暮らしていたころに印象的だった思い出はありますか?

西原:あのころは部屋にガスコンロも何もなくて。もちろんエアコンもないし、カーテンもないし、カーテンレールもなかったのよ。だから全部自分で買ってこなきゃいけなくて。それをなけなしのお金で買ったと思ったら、ネジがない。ドライバーもない。今だったら100円ショップで買えるようなものも、昔は高くて。それをすごく覚えてますね。

で、やっと大学に受かったのに、無職の男と同棲するっていうとんでもないことをやらかしまして(笑)。娘にも言ったんだけど、「貧乏と貧乏が一緒に暮らすと、2倍じゃないよ、20倍の貧乏になるからね」って。4万円の家賃が払えないような男とは口をきいちゃダメだ、そういう貧乏な男こそ、捨てられないジャージとかフィギュアとかを女の部屋に持ち込んだり、掃除も洗濯もしてくれって言い始めるからねって。

――歌舞伎町で働いていると、終電に間に合わないこともあったのでは?

西原:そうですね。だから朝なのに立ったまま寝てるような酔っぱらいがいっぱいいるような始発電車に乗って東村山まで帰ってね。で、駅から20分くらいかけて家に帰ったら部屋を汚部屋にしている無職の男がいるという。あのころの自分をぶん殴りたい。とにかくお金がないときだったな。

――大学時代から出版社への売り込みでイラストの仕事をされるようになったんですよね。

西原:そうそう。絵を売り込みに行って、それで仕事をもらい始めたんで。まだ大学生だったけど、大学よりイラストの仕事のほうが大事なんですよ。やっぱりお金をもらえるほうに懐いていきますよね。美大って、そこらへんに絵が落ちてるんで、課題はそれに自分の名前をつけて提出したりできるから(笑)

そうすると大学に近いより都心の出版社に近いほうが便利なんで、当時やり取りしていた出版社に通いやすい江古田に引越したんです。たしか風呂なし1Kで家賃3万8000円だったかな。そこからちょっとずつ収入が上がって、ちょっとずつ貯金ができて、ちょっとずついいアパートに住めるようになっていった。

――江古田の次はどちらに引越したんですか?

西原:西武池袋線の東長崎ですね。そこの築30年の2DKで、家賃が7万5000円。ダイニングといっても細長い廊下だったけど、部屋が2つあったのはすごくうれしかったですね。寝るとこと食べるとこと絵を描くとこが一緒じゃないという。その引越しのときにようやく無職の男を断捨離できました(笑)。あのときが一番うれしかったかな。お風呂もトイレもあって、鉄筋のアパートで、木造モルタルじゃないっていう。

――東長崎の街はどんな印象でしたか?

西原:あそこは都心なのに物価が安いんですよ。古い商店街があって、おじいちゃんとおばあちゃんがやってるようなお惣菜屋がたくさんあって。おにぎりだけ握ってくれたり、お好み焼きを小さく焼いて出してくれたり、餃子だけ売ってるお店もある。買い食いの街ですね。オシャレなところが1ミリもない。不良が店を継いで落ち着いて嫁さんもらってやってるような店が多くて。今だったら北千住とか赤羽みたいな感じかな。人情があるというか、ダメな人が多い(笑)

ちょっと失敗の匂いもする街でしたね。だから昼から酒飲んだりパチンコしたりするのにちょうどよくて。飲み屋も多いしね。あと、あのころは高田馬場にあるエロ本の出版社の仕事が多かったから、すごく近いんですよ。

――東長崎にはいつごろまで暮らしていましたか?

西原:25歳から33歳くらいまでですね。気に入っちゃって、東長崎内で2回引越しました。7万5000円のマンションの次に、15万円のマンションに引越したんです。そうしたら大家さんがすごくいい人だったのが衝撃でした。今まで貧乏アパートの意地悪な大家さんしか見たことなかったから(笑)。で、その次に引越したのが、100平米の家賃32万のマンション。そこから吉祥寺に家を買いました

今になって振り返ると「もうちょっと広い部屋に住みたい」って気持ちがモチベーションになってここまで頑張ってこれたのかなって思いますね。家賃も4万が7万5000円になり、15万円になり、32万円になって、貯金もできるようになってね。

地元の「文化」をマンガという形で東京に「輸出」にしただけ

――今日の取材も西原さんのご自宅兼事務所でお話を伺っていますが、閑静な住宅街の邸宅ですね。

西原:昔から「家」が欲しくて、憧れだったんですよね。ブランド物の靴も車もいらないんで、モダンリビングの家に住みたかった。美大のころからインテリアや家具の写真を見て「格好いいな、こういうところに住みたいな」って思ってたんです。でも、それはあまりにも大きな夢だから、代わりにいつも「もうちょっと広い物件に住みたいな」と思い続けていた。

――広い家への憧れはずっと前からあったんですね。

西原:やっぱり東京に来てから、家の値段の高さには驚きましたからね。小さな家でも6000万円とか7000万円もするんで。だから一生買えないだろうなって思ってました。最初はマンションを買おうと思って下見をしてたんですが、やっぱり憧れてたのが格好いいモダンリビングの家だったんで。建てられて良かったです。

――吉祥寺に暮らしての感触はいかがですか?

西原:あの、東長崎は大好きでしたが、あのまま家を建てなくて良かったなって思ってます(笑)。吉祥寺は緑が多いし、実は東長崎と同じ買い食いの街でもあるんですよ。100円、200円で美味しいものがいっぱい売ってるんです。二子玉川のカフェ飯ランチみたいなオシャレすぎるお店ばかりじゃなくて、単価が安いし、飲み屋もいっぱいある。楽しいところですね。

――子育てはずっと吉祥寺でされてきたんですよね。

西原:そうですね。子どもたちは地元っ子として育ちました。小学校は歩いて5分くらいのところだったし、中学校と高校も井の頭公園の向こう側にあって。全部このあたりですませちゃった。高知の田舎のアル中の家で育って、高校を中退して、貧乏な暮らしをして、そういう経歴を全部ロンダリングしたなって思います(笑)。吉祥寺に来て『毎日かあさん』を描いて、善人のイメージを定着させて、子どもたちを吉祥寺の街の子にするという。

――長年連載してきた『毎日かあさん』が完結しましたが、気持ち的にはひと段落された感じですか?

西原:次の連載がすぐに始まるので、仕事は続きますが、わざわざ子どもたちを面白いネタにしなきゃいけない苦労がなくなったので、達成感や爽快感はありますね。今は子どもたちも17歳と19歳なんで、小さいころみたいに面白くないんですよ。

「卒母宣言」したときに「娘が16、7なのに早くない?」って言われたけど、「いや、私、すごく頑張ったもん!」って。「何もないところからここまでやったから、もうよくない?」って。「あのときこうすれば良かった」とか、そういう後悔もないですしね。

――次の作品に向けて、どんなことを考えていますか?

西原:とりあえず今は、野心がなくなっちゃったのが「うれしい」ですね。次はあれやってやろう、これやってやろうって、ずっとガツガツしてたんです。誰も行っていないところに行ってやろう、誰も食べていないものを食べてやろうって。そういうのが、もうなくなっちゃった。それでダメになったって言われても、もういいやって。だって30年もマンガ描いてきたんだもん、もういいじゃんって。そういう力の抜けた状態が心地いいですね。やっと毒が抜けたかなって思います。

――西原さんは高知県の観光特使もされていますよね。東京で長年暮らしてみて、今、故郷をどんな風に見てらっしゃいますか?

西原:高知の「人」は愛しています。高知の主な特産物は「人」なんです。とにかく見切り発車で考えないで行動するタイプが多い。きちんと構築してモノを考えるタイプじゃない。私はそういう高知の文化を東京に来てマンガの世界に輸出しただけでお金を儲けられたんですよ。みかんを運んだ紀伊国屋文左衛門みたいに、高知の文化と伝統を東京にもってきただけなんです。

――西原さんが考える「高知の文化と伝統」と言うと?

西原:簡単なルールです。出会い頭に大きな嘘をついて人を笑わせる。自分の上にはケンカを売るけど、下には売らない。あと、できるだけタブーとされる宗教や政治に口を突っ込む。しかもワンセンテンスで切り込んで、必ずオチをつける。毎日お酒を飲むところなんで、そこでケンカしないで討論するための酒飲みの文化があるんですよね。その文化をもってきたんです。

――かつての西原さんと同じように、今、10代後半や20代で東京に出てきた人に向けて、メッセージやアドバイスはありますか?

西原:まあ「仕事は断らないでなんでもやってみるといいよ」ってことくらいですね。そうしたら思わぬ自分の引き出しが開くことがある。自分で得意とか苦手とか決めないほうがいいと思います。

私も、思わぬところで褒められてここまで来たので。もともと「4コマ」と「エロ」から始めたんで、断れないんですよ。たくさんやらないと食べられない。でも、そうしたら、いろんな仕事が来て、それをやってるうちにどんどん自分の仕事の幅が広がっていった。とはいえ、向いてない仕事もある。私の場合は何度やっても女性誌がダメだったな(笑)。でも、東京は仕事の選択肢が多いのが魅力ですからね。いろんな職種の人と会って、たくさん喋ってみるのがいいと思います。


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お話を伺った人:西原理恵子

西原理恵子

1964年11月1日、高知市生まれのマンガ家。武蔵野美術大学卒。1988年、週刊ヤングサンデー「ちくろ幼稚園」でデビュー。「毎日かあさん」で文化庁メディア芸術祭賞、手塚治虫文化賞、日本漫画家協会賞受賞。2017年6月に発売されたエッセー『女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと』(角川書店・画像左)がベストセラーとなっているほか、同年9月には「毎日かあさん」シリーズの最終巻『毎日 かあさん14 卒母編』(毎日新聞出版・画像右)を発売した。

聞き手:柴 那典 (id:shiba-710)

柴 那典

1976年神奈川県生まれ。音楽ジャーナリスト。ロッキング・オン社を経て独立、雑誌、ウェブなど各方面にて音楽やサブカルチャー分野を中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。

主な執筆媒体は「AERA」「ナタリー」「CINRA」「MUSICA」「リアルサウンド」「ミュージック・マガジン」「婦人公論」など。「cakes」と「フジテレビオンデマンド」にてダイノジ・大谷ノブ彦との対談「心のベストテン」連載中。著書に『ヒットの崩壊』(講談社)『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)、共著に『渋谷音楽図鑑』(太田出版)がある。

ブログ:日々の音色とことば Twitter:@shiba710

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編集:はてな編集部