たどり着いた町で、民話未満と神話未満を採集する。鳥取県・湯梨浜町の暮らし

著: モリテツヤ

 鳥取県に暮らし始めて10年以上になる。転勤の多い家庭に生まれた僕にとって、鳥取県は一つの場所で過ごした期間が人生の中で最も長い場所になった。

 生まれた場所は福岡県の北九州市、八幡というエリアだった。1986年に生まれ、そこで10歳まで育ち、インドネシアに2年暮らし、そして千葉県の幕張で22歳まで過ごした。祖父母はそれぞれ広島と大阪に暮らしている。

「のたれ死んだ所が、本当のふるさと」だと思っていた

 「会社員」という生き方が一般化されて以降、僕のように生まれた場所を離れ、会社の都合で転々と居を移しながら暮らした人は多いだろう。そのように育った人間は「ふるさと」をどのように捉えているだろうかと時々考える。

 僕の場合は、特定のふるさとというものはなく、土地と自分との結びつきのようなものとは縁がないということにして生きることにしていた。それは自分の強みでもあり、弱みでもある。どこにでも住めるから、今まで一度も訪れたことのなかった鳥取という土地にポーンと移り住むことができた。

 ブルーハーツの歌の歌詞に「のたれ死んだ所で本当のふるさと」という詩がある。僕はこの詩をそのままインストールして、どこにでも行き、どこで死んでも構わないというマインドで生きてきた。だが、心のどこかでは、こうした生き方の弱みも感じていた。その弱みとは何か。根を張った生活の力強さがもたらす、どっしりとした幸福感みたいなもの。土地と深く結びついている人間にはそれがあり、自分にはないような気がしていた。人生の節々で不安を覚える状況に陥るようなとき、もし自分が先祖代々の土地に暮らしていたら、もし自分が生まれた北九州の土地でずっと暮らしていたら、時折そんなことを考えるのが10歳以降の自分の習慣となった。

たどり着いたのは温泉、梨、美しいビーチのある「湯梨浜町」

 さて、今回は自分が今暮らしている町についての話である。僕が暮らしているのは鳥取県中部にある湯梨浜町という町。その名の通り、温泉、梨、美しいビーチのある町。この町で僕は田畑仕事をしながら「汽水空港」という名の本屋を運営している。なぜこの町を選んだのか、人に時々聞かれるが、美しい物語を特に持っていない。僕はただ家賃が安いだろうと思って田舎を目指し、田畑仕事がしたいと思って田舎を目指し、田舎といえど駅から歩いてこれる立地で本屋がしたいと望んで、うろちょろしていてこの町にたどり着いた。どこか別の町と比較、検証してこの町に住むと決めたわけではない。流れのままに自分の求める条件と、この町の条件とが一致したというだけだった。そして店を始めて、気付けば7年。

1歳の息子と、見えてきた風景

 ただ自分の目的、夢をかなえるために悪戦苦闘し、そしてビンボー暮らしをサバイブすることに必死で、10年も暮らしていながらこの土地のことを何も知らないと気付いたのは最近のことだ。

 きっかけは去年の9月に自分に息子が生まれたことだった。まだ言葉を話さない息子を抱きながら、僕ら夫婦は自分たちが気持ちいいと感じられる場所へ行く。海を眺めながら、「海は広いぞ。大きいぞ」と息子に語るとき、僕は自分の言葉を通じて「そうか、海ってめちゃくちゃ広いよな。でかいよな。信じられないほど無数の生き物がいるよな」と、目の前に広がる海の壮大さに気付いて、自分が一番驚いている。目にしている風景を誰かと眺めながら、目に映るものを言葉にしてみたとき、初めてその風景に気付くということがあるのだと知った。息子と一緒に葉っぱを眺めながら、花を見つめながら、その風景を共に見て言葉を語るとき、初めてを体験しているのは息子だけではない。僕もそうなのだ。僕も今、初めてこの町の風景を見ている。そのことに気付いてから、今まで見ていたけど見過ごしていたもの、見ていたけど名前を知らなかったものの存在を感じるようになった。それと同時に、幸福も覚えていた。そしてこの幸福感には覚えがあった。それは幼いころに過ごした北九州の八幡という土地で感じていたものだった。「ふるさと」という存在について、再び考えを巡らせるようになった。僕の息子はこの土地で生まれた。彼にとってのふるさとはこの町になるのかもしれない。どこに暮らし、どこで死んでも構わないという自分の生き方を見つめ直し始めた。

25年越しに訪れた土地で成仏された、「ふるさと」コンプレックス

 今年の夏、そんな思いを抱えながら仕事で長崎へ行った。家族みんなで車で長崎へ向かう道中、北九州で一泊することにした。鳥取から長崎へ向かう距離と疲れ具合を鑑みて、北九州辺りで休憩するのがいいだろうと判断しただけだったが、夕方、まだ明るいうちにホテルに着いた僕は、もしかしたら生まれ育った町のすぐ近くに来ているのかもしれないと思い、グーグルマップで確認してみた。予想通り、ホテルから生まれた町までは車で約15分。家族を連れて、生地・北九州市八幡西区鷹見台へ向かった。

 久しぶりに訪れた鷹見台。車のドアを開け放った途端にツクツクボウシの大合唱が車内に入り込んできた。それと同時によみがえる記憶。

 そうだった。北九州での夏はこのセミの声と共にあった。鷹見台の町はまるでパックマンのステージのように住宅と道路が整然と区画されているような、いわゆる新興住宅地で、はっきりいって味気ない。だが、どの通りを歩いても思い出す出来事がある。そこにある全ての道と自分の記憶が結びついている。息子を抱きながら、妻の明菜にあふれ出る記憶を語った。路上で立ち話をするおばちゃんたちを見つけて、25年ほど前までこの町に暮らしていたのだと伝え、当時お世話になった人たちの現在について教わる。首にタオルを巻きながら北九州弁で喋るおばちゃんたち。そのノリが懐かしい。僕が暮らしていた当時、この町には同年代の子どもがたくさんいた。今はもう子どもの数が少ないとおばちゃんたちは言い、息子を抱きしめてくれる。共に25年以上前の町を思い出していた。よくお世話をしてくれていた隣に暮らすMおばちゃんは数年前に亡くなったという。

 記憶の中で時が止まっていたこの場所にも、確かに時間は流れている。それでも夕暮れの鷹見台の路上、この路上がまとう空気、夏のこの時期にここから見える空の感じ、それは今も変わらなかった。滞在したのは数時間だったが、自分が10歳のころからずっと心の奥に抱えていたさまざまな思いが成仏していくような気がした。

「THE・ふるさと」ではないけれど

 鷹見台は自然豊かな田園風景のような場所ではない。よく遊んでいた山は通称「禿げ山」で、おそらく石炭採掘で元々の姿からだいぶ様子を変えてしまった後の山だった。よく魚をとっていたのも三面張のドブ川だった。この町は「THE・ふるさと」のイメージとはかけ離れている。でも久しぶりに訪れたこの町で、僕はふるさとを感じた。人はコンクリートやアスファルトからでさえ、ふるさとを感じることができるのだと知った。人と土地を結びつけるものは、その人がその土地にどれだけ多くの記憶をもつことができるかということなのだと思った。人類学や民族学の本を読むと、例えばネイティブアメリカンの人々は土地の神話と自分との間に強い結びつきをもっている。そのことが生きることを支え、知恵を育むことを助けている。僕はずっとそれが欲しかった。神話を現代の日本で生きる人々が手にすることは難しい。だが、今暮らしている土地のもつ風景、風景が生み出すもの、そこに暮らす人々、その存在と共にこれからたくさんの良い記憶をもつことなら、今からでもできる。

 旅を終え、鳥取へ帰ってきた僕は改めてこの土地と向き合おうとしている。「ここに一生暮らす」というようなことは言えないし、それはわからない。だけど明菜と、息子と、今周囲にいる友人と、たくさんの記憶をつくっていこうとしている。そのモードでこの町を改めて眺めてみるとき、店の目の前に広がる東郷湖は眺める対象から、いつか舟をつくって漕ぎ出すかもしれない最高の遊び場として認識が変わった。見るだけで通り過ぎていた山、川、滝、あらゆる場所の認識が変わってきた。

鳥取に戻ってはじめた、「民話未満採集」

 土地そのものだけではなく、この土地で起きた出来事についても人に積極的に聞くことを始めた。それを僕は「民話未満採集」と名付けている。名前の通り、民話にもならない、記録にも残らないような少し昔の話に耳を傾けるという活動。例えば今まで聞いた地元の人の昔話。ここには東郷湖という大きな湖があり、数十年前には、この湖には渡し船が行き来し、船着き場ではソフトクリームを食べることができたという話。若いころに湖を泳いで露天風呂に潜入し、怒られたらそのまま湖へ飛び込んで泳いで逃げたという話。かつて大八車で魚を売りにきていたおばあちゃんがいたという話。こうしたこれまでに聞いた話を思い出しながら、その風景をイメージしてみる。僕がこの町に来た時点での東郷湖は泳ぎたいと思えるような湖ではなかったが、かつては人が泳ぐほど水が澄んでいたのだと知る。すると、今見えている風景がこの土地の全てではないのだということがわかる。かつて綺麗な湖だったときがあるのなら、未来において、この湖の水が綺麗に澄む可能性もある。船着き場の話を聞けば、湖沿いで繰り広げられた子どもたちのかつての日常を思う。なんてことのない鷹見台の路上に自分が大切だと思っている記憶が宿っているのと同じように、ここで生まれ育った人々は僕が通り過ぎて何も思わないスポット一つひとつに対して、それぞれ固有の記憶をもっている。その記憶を自分が体験することはできない。できないが、船着き場でソフトクリームを食べたということを知る前と以降では、目の前の風景を見る心持ちが少し変わってくる。このようにして、この土地に今あるもの、過去にあった出来事、未来において起こりうるかもしれない出来事と自分とを結びつけるさまざまな点をつくっていくことを始めた。

 最近は、ドライブしていてでかい木のある気配を感じたらそこへ立ち寄り、樹齢数百年を超えるであろう木を実際にこの目で見て、手で触れる。そして、この木はこの町で暮らす誰よりも昔から生きていて、自分が死んだ遙か先にもここにこうして生きているだろうということを確かめる。そして、今生きているこの土地の日常とは異なる時間軸をそこに見出す。そこに住んでいる人ではなく、こうした圧倒的な時間軸を感じさせてくれる木が語りかけてくるものを、「神話未満」と呼ぶこともできるのではないか。神話未満を語りかけてくる木が、この町には点在している。そのことも最近になってようやくわかった。人が語る民話未満と、木や土地から感じられる神話未満。この二つを今は採集している。

 相変わらず、「ふるさと」がどこかと聞かれたら返答に困る。だが、自分にはインドネシアと日本のあちこちの土地に、記憶を通じて結びつきを感じられるスポットがある。そしてそれはこれからどんどんつくっていくことができる。今は、今暮らしている鳥取の湯梨浜町という場所で、深く呼吸できるような場所を見つけている。

著者:モリテツヤ

モリテツヤ

汽水空港店主。1986年北九州生まれ。インドネシアと千葉で過ごす。2011年に鳥取へ漂着。2015年から汽水空港という本屋を運営するほか、汽水空港ターミナル2と名付けた畑を「食える公園」として、訪れる人全てに実りを開放している。

 

編集:ツドイ