完成されない横浜駅と、そこにあった断想|文・児玉雨子

写真・文: 児玉雨子

NEWoMANがCIALと東急ホテル(横浜エクセルホテル東急)だったころ

地元というのは何をもってそう定義されるのだろうか。横浜市に長らく住んでいたが、幼稚園から都内の学校に通っていたので、実家の近所に昔からの同級生はいないし、「横浜市歌」も歌えないし、市内の公立中学校に給食がないこともつい最近知った。
 
さらに親はそれぞれ西日本出身で、親戚の中で私はひとり「東京の子」であった。都内の学校に通っていたといっても23区外の町田市にある学校だったから、その「東京の子」という言葉も、ボウリングやジムのレンタルシューズみたいに、ま、ぴったりじゃないけど気にしなければ慣れるか、といったふうに甘んじて受け入れてきた。もういちいち東京じゃなくて横浜だと訂正するのも面倒だった。

かといって横浜を地元と呼ぶことにも少し後ろめたさも感じる。エッセイの仕事(この原稿もそう)で地元の話をしてほしいと依頼を受けるたびに、小さな嘘を積み上げているような気分になってきてしまう。

それでもこれを書いているのは、横浜駅そのものが大好きだからだ。横浜駅は「日本のサグラダファミリア」と揶揄されるほど、数年ごとにその駅の様相が変わってしまう。それを茶化した歌詞を書いたことがあるのだが、その際に改めて駅の歴史を調べ直してみると1872年(明治5年)の駅開業から現在まで150年以上、ひっきりなしに何かしらの工事や移転を繰り返しているそうだ。日に日に変化して懐かしさを抱けなくなる反面、よそ者、根無し草、ひとりぼっちに大変やさしい駅である。(それなりに大きいものの、新宿駅や梅田駅ほどの大迷宮でもないのがいい)

今回書こうと思うのは、現在NEWoMAN、CIAL、T・ジョイが併設されたJR横浜タワーになる前、横浜CIALのビルと東急ホテル(横浜エクセルホテル東急)だったころ、そして取り壊されて、現在の姿になるまでの、この約10年間の断片的な日々のことである。

他校の友達との出会い

高校二年生のころ、横浜にある予備校に入れてもらった。

たしか英語か世界史の授業が終わったあと、ある女の子が「友達になろうよ」とストレートに話しかけてきた。彼女は横浜でも有数の進学校の制服を着ていて、予備校の授業に追いつくだけでも精一杯だった私はちょっとたじろいでしまった。それでも彼女(以降、Rと称す)は気さくに――もはや無遠慮なくらい矢継ぎ早に、学校どこ? 横浜の学校じゃないよね? 町田? やば、遠くない? 電車何線使ってんの? 共学? いいなー。彼氏いる? と訊いてきた。そのままRと同じ学校のひと数人とも知り合った。

横浜駅西口のシンボルである、あら今日(こんにち)は像

夏期講習の時期になり、そのまま自習室が閉まる時間までRを含めた友達数人と勉強して、クリスピークリームドーナツの甘い匂いが漂う横浜CIAL周辺で解散した。ひとり、またひとりと違う路線や方面の電車に乗って帰ってゆく。私とRは同じ電車に乗った。もうさすがに何を話したか憶えていないほど些末(さまつ)なことばかりだったが、おしゃべりは数駅分途切れなかった。

東横線は反町駅を発つと地上へ這い出して、車窓の景色がトンネルと違う夜の街景にがらりと変わると、電車が最寄駅へと近づく。私ここだから、と言って掴んでいた吊り革を離すと、「私も〜」Rが返事する。最寄り同じなんだ! とうれしそうに振る舞ってみたが、初めて近所の話ができる友達ができたことに少し緊張していた。近所のスーパー、その中に入っている小さなゲームセンター、古本屋、牛丼屋、中華料理屋、コーヒーチェーン、ドーナツショップのこと。初めて外国語でコミュニケーションができた瞬間のように、頭の中で小さな光がちかちかと弾けては消えていった。

駅から私の実家までは坂道が多い。一人暮らしをするまで、家というのはきつい坂道を登らないと帰れないものだと思っていたくらいだ。前のめりでなんとか坂を登り、ふと振り返ると、メロドラマのような美しい景色ではないものの、みなとみらいのイルミネーションを見晴らすことができた。毎日見る夜景のおこぼれ。真夏の蒸し暑い夜に汗をかきながら、ふと気づく。

Rがまだ隣にいる。

顔を見合わせた。家どこ? と訊き合う。私はあそこ。私この坂の向こう。お互いがお互いを「こいつ家まで着いてきたのか」とほんの一瞬警戒し合っていたようで、家が近いことに気づくと緊張が緩んで笑い合った。

サザエさん、ドラえもん、ちびまる子ちゃん、クレヨンしんちゃんなど、国民的アニメの地元の友達の描写はぜんぶ一昔前の、さらに隣の別世界の出来事だと思っていた。実家の前に友達が来て、野球しようとか遊びに行こうとか、学校に遅れるよなどと、友人とはいえ他者が声をかけてくるなんてことはフィクション特有の表現であって、リアルの近所というものは顔見知りの他者のいない、私しか知らないパーソナルスペースのような感じだった。当たり前だが近所には「(知り合いかどうかは別として)他者」がたくさん住んでいて、Rもその中にいた。

「お盆、どこも行かないならあそこのお祭り行こうよ」とRが近所の公園の方角を指さす。それは地元なる、遠い遠い場所のお祭りだった。「行きたい、けど行ったことない」と返した。Rはここが地元で、行き慣れているんだろうなと思っていたが、実は彼女も昔一度だけ親と行ったきりだった。そもそも彼女も小学校から市内ではあるが私立に通っていて、母校の同級生はいても地元の友達はいなかったそうだ。

私たちは初めての地元の友達になったのだ。

Rは就職し、結婚し、数年前に夫と都内に引越した。私も都内在住なので、ふたりで会う場所はすっかり横浜ではなくなった。

彼女の娘が生まれる直前、その名前の候補に意見を訊かれた。そんな大事なことに口を挟んでいいのか戸惑いながら、名前の中にある「み」という音に当てる漢字について、「美」という字はややプレッシャーを与えそうな気がするから、別の字はどうかと提案したのだ。普段まったく私の仕事について触れてこない(おそらく興味がない)で、世間話や恋愛話ばかりしているRが「本当に、物書きなんだね」とまっすぐに感心してきて、面はゆかった。しかしそれ以上の話はせず、どんな子に育つだろうかとか、そういえば誰々がマルチにはまったとか、自然とそんな世間話に戻っていった。

それから一年以上がたって、Rの娘が生まれて、あっという間に立ち上がるようになった。その子の名前に「美」という字はない。

魔女にも先生にもならないで

横浜CIALがすっかり取り壊され、JR横浜タワー建設でひっきりなしに工事の音が西口に響いていた2016〜2017年ごろ、私は23、4歳で作詞の仕事を受けながら大学院に通い、夕方から夜は塾講師のアルバイトをしていた。最近は副業やスラッシュワーカーなんて耳ざわりのいい表現が流行っているが、当時は単にそれだけでは生活が不安だからという、いわばフリーター状態であった。

そんなふうにフワッとしていたからか、このころは「あなたのためを思って」という理由があれば、どれほど他者に干渉してもいいと勘違いしている人に遭遇しやすい時期であった。詳細は語るに値しない些末(さまつ)な出来事ばかりだが、そういう小さなストレスを処理したキャッシュだけが増え続け、メモリを圧迫し、二十代前半まではいい思い出なんて正直ほとんどない。それでも、塾講師のバイトで出会った生徒たちの存在は、そんなキャッシュの砂丘の中できらめく光の粒であった。

私は小規模の集団授業と個別指導を担当していた。特に個別指導は、中高一貫校の生徒が多い。6年間同じ環境にいるので、高等部に上がって中学レベルのことさえわかっていなかったことに気づき、暗中模索の状態で入塾する。私も長らく一貫校だったので、「何がわからないかもわからない」という状況にいる、あの感じはよくわかる。ぼんやりとしながら、毎日はなんか普通に過ぎてゆく。わからないことを調べたら、そのわからないことをわからない言葉で説明されていて、わからないが加速度的に増えてゆく。今をどうにかしないといけないことだけは明確にわかっている。しかし、やはり何から手をつければいいのかわからない。

そんな、いわば「わからないの渦」の底にいる生徒たちの中で、いつもにこにこして、機嫌のいい生徒がいた。その子のことは、仮にAとする。(個人の特定を避けるため、ところどころフェイクも入れながら綴る)

当時私が担当している生徒の中でも、おとなしくて愛想のいい子だった。しかし、成績は奮わず、このままのペースでは志望校はおろか滑り止めも危うい状況だった。なんといっても自学をしない。家族、友人、辞書をなくした……さまざまな理由をつけて何もしない。週二回、Aとのコマがあるたびに、教室に向かう足取りが重かった。

ハマボール周辺

そのバイトが終わると、ビルの駐車場にそっと設置された喫煙所でタバコを吸ってから横浜西口の居酒屋やファミレスで歌詞や修論を書いたり、ハマボールの辺りをぶらぶら歩いたり、アーケードゲームをしたりした。

個人情報保護の観点としても気持ちの切り替えとしても、バイトのことは教室の外に持ち出さないようにしていたが、やはりAのことは常に頭にちらついていた。親御さんに連絡をすべき状態だろうか。家庭と塾で話し合いになるとトラブルが起こりやすいので、なるべくそこまでいかないうちに私がAのモチベーションを上げられることに越したことはない。しかしもちろん、私にできることはあくまで道筋を示すことで、歩き出すのは本人なのだ。

一方で、Aがうまく進めない状態にいることもわからないわけではなかった。私自身決して小さいころから勤勉だったわけでもなくて、ただ「わからないの渦」の経験者だった。乱れた磁場の中では、いくら指図をされても進む気が起きないだろう。ただ、私はあくまでそれに共感できるだけで、たちまち明日からテストで満点を連発できる魔術なんて知らない。(そんなのがあればこっちが知りたい)時折、それを求める生徒や保護者から塾にクレームが入ることもあった。

私は魔女じゃない。塾からどうなっているんだと訊かれるたび、何度もそう言い返したくなる。でもきっと成績が上がらなくていちばん苦しいのは生徒本人だから、言葉を飲み込む日々であった。

夏の終わりに差し掛かっても、Aのペースは変わらなかった。志望校を変えないのなら浪人も視野に入れないとまずいかもしれないところまで来ていた。私はAと休憩室に行き、周囲に誰もいないことを確認してからこれからどうしたいのか問うてみた。Aの言葉を受けて、今以上にデリカシーのなかった当時の私は、こんなことを言ってしまったのだ。

「周りがこうしろっていうからって、大事な進路まで委ねちゃうの? AはAなんだよ。いい子でいたって、他人が責任取ってくれるわけじゃない」

未成年に向けるにはあまりに鋭すぎる言葉は、ほかならぬ私自身に向いていた。やたらといろんな人が、あれやれこれやれ、お前の仕事はどうのこうの、と高説を垂れてきて、私も自分を見失いかけていたのだ。自分だってうまく生きられていないくせに、子どもに対してなんて厳しくて悲しいことを言ってしまったのだろうか。私こそ、Aの人生の責任なんて取れやしないのに。後悔の波が押し寄せて、相手より先に私が泣いてしまった。

大の大人が目の前で泣き始めたことも相まって、いつもにこにこ笑っていたAが、とても大きな涙の粒を落とした。千と千尋のおにぎりのシーンくらいの大きい粒だ。傷つけるだけ傷つけて泣いた上に泣かせるって、一体私は何がしたかったんだ? 言葉の意味が擦り切れてしまうほど何度も謝って、お互いに泣き止んだのは塾が閉まる夜の十時直前だった。

しかし、それからAの快進撃が始まった。放課後や休みの日はほぼ毎日塾の自習スペースに来るようになり、宿題も毎回提出し、あっという間に「わからないの渦」を抜けて志望校に受かったのだ。すさまじい勢いだったので、塾のスタッフやベテラン講師たちは、浪人してよりハイレベルなところを目指してもいいのではないか、と提案してきたが、Aは予定どおりの志望校に入学手続きを済ませた。

二月末、塾のスタッフから新しい生徒の紹介を受けたが、年度末でバイトを辞めたいと相談した。いくらAが素晴らしい追い上げを見せたとはいえ、やはり私がAに言ったことは高校生にはあまりに厳しすぎたという負い目は拭えず、罪悪感で潰れてしまいそうだった。

私は現役受験生しか担当しておらず、引き継ぎ作業はほとんどなかった。最後の出勤日、塾に置きっぱなしにしていた自分用の副教材を引き取りに行き、三月のまだ肌寒い外で肩をすくめながらタバコを吸っていると、もう授業のないはずのAが礼を言いに来てくれた。私のおかげだったということを一生懸命話してくれる。半分も吸ってないタバコを灰皿に落として「違うよ」と返すことしかできなかった。Aがうまくいったのは、当然自身の努力の賜物である。それでも、せっかく相手がそう言葉を用意してくれたのだから素直に受け取ればいいのに、最後までAの発言を否定してしまった。今でも少し後悔している。

ラーメンの名店多し。独身にも家族にもやさしい

相鉄地下街にある「龍王」

さて、そんな苦い日々と同時に思い出されるのは、塾から駅までの間に何軒かあるラーメン店の匂いだ。塾のあった西口は繁華街であり、居酒屋だけでなくラーメン店も非常に多い。

ベタかもしれないが、横浜家系ラーメンの総本山である「吉村家」のラーメンは、その行列に挫けずぜひ一度は食べてみてほしい。(ちなみにかつては岡野交差点の大通りに面していたが、現在は路地に入ったところに移転したらしい)やはり生き物は糖と脂質と塩分が必須なのだと思い知らされる。

また横浜のご当地グルメとして、サンマーメンという野菜のあんがかかった中華ラーメンもおすすめだ。私は横浜駅周辺なら「龍王」のサンマーメンがいちばん好きだ。茹だるような暑い日も芯から冷える日も、あんで熱が籠っていつまでも冷めない麺を頬張る瞬間はいちばん元気が出た。相鉄線横浜駅からほぼ直結で行けることもポイントが高い。

さっぱり系なら平沼橋の「維新商店」がいい。シンプルに見えて麺はもちもち、具の一つひとつが上質な中華そばは、淡麗でありつつ満足感がある。少し駅から歩く場所だが、その価値は間違いなくある。ぜひ怯えずにトッピング全部盛りの特製醤油ラーメンを頼んでほしい。

「龍王」のサンマーメン

私は酒を飲まないのでシメに合う合わないの差はよくわからないが、特に龍王と維新商店はおそらく飲み会の後だろうお客さんも少なくない。お昼や夕方は学生や家族連れ、友達同士など、ラーメン屋はいろんなお客さんがさっと入っては出てゆく模様がいい。個人的に、ラーメン界隈は女性に排他的な雰囲気のあるお店があることも否定できないのだが、横浜はそもそも飲み屋街もあれば遊ぶ場所もオフィスもあり、ちょっと歩くとマンションだらけという人の出入りが多い街なので、女性一人客の存在がめずらしくない気がする。決してゼロだとは思わないが、少なくともこの三店で私が不快な目に遭ったことはないし、これからも「女性だから」という理由で対応が変わることがないことを切に願う。

どこから来ても、どんな人でも、たとえ帰ってこなくても

つくづく横浜は都会と郊外が入り交じる不思議な都市だと思う。都内へのアクセスの良さから、先祖代々横浜っ子で絶対にそこから離れない人もいるだろうし、上京してきた人にとっては中継地でもあるだろう。私のように県・市外の学校に通ったため「帰るべき地元」ではないが育った場所である、という人も決して少なくないと思う。

思い出が染み込む前に、駅や建物が次々壊されてはつくり替えられる。大袈裟に受け取られるかもしれないが、本当に行くたびに知らない施設やお店ができてゆくのだ。かつてどれだけそこで過ごしたとしても、横浜は「帰る」ではなく「行く」場所という感覚がする。

懐かしさに浸る隙のない街だからこそ、どんな人にも開けた場所である。来るもの拒まず、去るもの追わずとは横浜駅そのもののことだと思えてくるのだ。横浜にいる人、来る人、通り過ぎてゆく人、乗り換えのために一時的に駅に降り立った人、帰ってくる人、もう家には帰らないと覚悟している人が、きっと今もそれぞれのペースで駅を行き交っている。

筆者:児玉雨子(こだまあめこ)

イリナ・グリゴレ

作詞家・小説家。神奈川県出身。アイドルグループ、声優、テレビアニメ主題歌、Vtuberや近田春夫などジャンルを問わず作詞提供。2023年に『##NAME##』(河出書房新社)が第169回芥川龍之介賞候補作にノミネート。
X(旧Twitter):@kodamamek

編集:はてな編集部