桜林直子が愛す「富ヶ谷」――個人同士がつかず離れずの距離でいられる街

取材・編集: 小沢あや(ピース株式会社) 撮影: なかむらしんたろう 原稿協力: 吉玉サキ

クッキー店「SAC about cookies」のオーナーであり、ジェーン・スーさんとのポッドキャスト「となりの雑談」が話題の桜林直子さん。
東京都渋谷区の富ヶ谷。都会にありながら、どこかローカルな雰囲気が漂うこの街に、桜林さんは長年暮らしてきました。シングルマザーとして子育てをしながら、地域とのつながりを築いてきた日々についてお話を伺いました。

たまたま移り住んだ街で、クッキー屋さんを始めた

―― 桜林さんはもともと富ヶ谷の洋菓子店で働かれていたことで、この街にはなじみがあったんですよね。

桜林:そうなんです。もともと職場の近くに住みたいと考えていたものの、家賃が高くて住めなくて。シングルマザーだったこともあり、働きながら子育てをする中で「家と職場が近いほうがいいな」と考えるようになったんです。学校行事や子どもの生活リズムを考えると、できるだけ職場の近くがいいし、子どもが小学生になるタイミングで思い切って富ヶ谷に引越しました。

―― そしてこの街で、自分でクッキー店を始めたんですよね。

桜林:クッキー屋さんを始めたのは、富ヶ谷に住み始めて3年ほど経ったときです。商店街にある元定食屋さんの物件を借りました。

大家さんに物件契約の交渉をしに行ったとき、娘も連れて行ったんですよ。そこで大家さんが娘を見て、「私、この子知ってるわ」と。毎朝、登校するときに娘の顔を見ていたようで安心感があったのか、快く物件を貸してくださいました。

これまで住んできた街では近所の人と顔見知りになることがなかったので「顔がわかるのっていいな」と思いましたね。

―― 富ヶ谷に住む前と後で、この街の印象は変わりましたか?

桜林:商店街がなんだか昭和っぽくて、ほのぼのしているところが意外でした。高級住宅街のイメージがあったので、下町のような密な人付き合いはあまりないのかなと思っていたんですけど、意外と地域の交流がありました。

―― 商店街があると住みやすそうですね。

桜林:でも、すごく便利かと言うと、そうでもないんです。今は肉のハナマサやビオセボンができたけど、住み始めた当時は大きなスーパーもなくて、駅前のマルマンストアしかなかったですし。だけど、小さなお肉屋さんや八百屋さんやおそば屋さんがあって、みんな私と娘のことを知っていたので、すごく安心して暮らせました。

あとは、2011年くらいにTwitter(現X)が盛んになって、当時は富ヶ谷をもじったハッシュタグ「#tomigayeah」で、日常をつぶやいている人がたくさんいたんですよ。「おでんつくったからみんな食べにおいでよ!」みたいなつぶやきがありました。

―― インターネットに情報全開で、すごいですね。今のXの空気からすると、信じられないです。

桜林:古き良きTwitterの使い方でしたね。あるとき、もうすぐ富ヶ谷から引越すという人が「いらないもの持ってっていいよ。家はここです」みたいな投稿をしていたんです。それで娘が絵を描くのに使えそうなものをもらいに行って、いろいろ話していたら、「この街に友達がいっぱいいるから紹介するよ」とお別れ会に呼んでくれました。そこでも新しい出会いがありましたね。人が人をつなげてくれて、だんだんと友達が増えてうれしかったです。

近所の人たちとかかわりながら成長していった娘


―― お店をもったことで、お客さんとの交流も盛んだったんでしょうか?

桜林:娘のほうがお客さんと交流していました。というのも、自宅のすぐ近くでお店をやっていたから、学校が終わった娘がランドセルを背負って、お店に帰ってくるんです。

それで「私もお店屋さんやりたい」って言って、店の前にちっちゃいテーブルを出して商品を並べるの。「ローリングスコーンズ」っていう名前でスコーンを売っていたこともありました。そんなの、絶対買っちゃうでしょう(笑)? 「今日の在庫はあーちんが売り切る!」と、娘も工夫して、楽しんでいました。

―― あーちんさん(娘さん)はその後、イラストレーターとして、クッキーのパッケージイラストも手がけていましたね。

桜林:はい。あと、娘は「クッキー新聞」という手書きの新聞を書いていました。印刷してお店に置いていたんですけど、近所のお客さんが「クッキー新聞のファンです!」と言ってくださることもありましたね。

あるとき、近所の方が結婚式の引き出物にクッキーを注文してくれて、「私たちのためにクッキー新聞を書いてください」と依頼してくれたんです。娘は張り切って執筆していました。「だんだん家族になっていくよ」とか書いてあって、私も驚きましたね。お客さんはすごく喜んでくれて、娘にとってもいい経験になったと思います。

―― 近所の人やお客さんとの交流が娘さんの成長につながったんですね。

桜林:そうですね、富ヶ谷はそういうところがすごく良かった。お店っていつも同じ人がいるから、娘としても安心だったんだと思います。近所にお蕎麦屋さんがあって、娘が3年生くらいのとき、夕方に帰ってきて「ちょっと蕎麦屋で働いてきた」って言うんですよ。よくわからないので詳しく話を聞いてみたら、蕎麦屋のお兄ちゃんがゆで卵の殻をむいているのを見て、「私、殻をむくコツ知ってるよ!」と話しかけて、手伝ってきたみたいです。

―― 職業体験、なんだかキッザニアみたいですね。

桜林:娘の顔見知りのお店が、街中にありましたね。今は白金高輪に移転したけど、代々木上原にあった「マルイチベーグル」とか。あと、「homspun(ホームスパン)」というお洋服屋さんも。私はお客さんとしてときどき行っていたんですけど、娘はよく学校帰りに寄って、おしゃべりしていたようなんです。すっかり仲良くなって、なぜかスタッフさんたちの忘年会に呼ばれていました。

あと、富ヶ谷から渋谷に向かう道にある本屋、「SPBS」にもよく行きました。娘が6年生の夏休みにフランスに行って、「滞在中に食べたものをぜんぶ絵に描く」という自由研究をやったんです。そのスケッチブックをSPBSの方に見せたら、「これをZINEにしたい」という話になって、実際につくって売ってくれて。貴重な経験もさせてもらいましたね。

―― 飲食店も充実しているエリアだと思います。お気に入りのお店は?

桜林:代々木上原の「按田餃子」に、水餃子とラゲーライスを食べに通っていました。あとは、もう閉店してしまったけれど代々木八幡の「ハシヤ」というスパゲッティのお店。私はイカとウニ、娘はミートソースに納豆が入ってるスパゲッティがお気に入りでしたね。食べると腹15分目くらいになってしゃべれなくなるんですけど、たまにどうしても食べたくなるんですよね。

―― 夜、飲みたい気分のときは?

桜林:「アヒルストア」っていう、ワインが飲める小さなお店に行っていました。今はすごく人気があるお店なんですけど、当時はまだ隠れ家的な感じでしたね。そこにいると誰かに話しかけられたり、話に加えてもらったりすることも多かったです。

―― 当時はまだ近所の方しかいなかったでしょうし、雑談や地域情報の交換の場になっていたんですね。

桜林:そうですね。あと、富ヶ谷2丁目にある「岬屋」という小さな和菓子屋さんも大好きで、よく行っていました。毎年11月ごろに販売される名物の栗蒸しようかん(「竹栗蒸」)を食べるのが年に一度の楽しみでしたね。毎年、娘と「そろそろ岬屋の栗蒸し羊羹の季節だね」って言い合って、「今年は何日から販売するんですか?」って聞きに行って予約していました。販売期間中は何回も買うし、お土産を買うときも必ず岬屋でした。

富ヶ谷に住むようになって、人が怖くなくなった


―― 富ヶ谷で出会う人はどんなタイプが多かったですか?

桜林:たまたまかもしれないけど、オープンな方が多かった気がします。私はもともとはそういう性格じゃなかったんですが、お店をやるにあたって、頑張って心を外に開いていた感じですね。

―― 桜林さん、意識的に性格を変えたんですね。

桜林:そう。娘をひとりで育てるうえで、富ヶ谷時代はよく人とかかわっていた気がします。富ヶ谷に住んでから、やっと人が怖くなくなったかも。

以前は「友達」と「他人」の境目がくっきりしていたんですよね。だけど街のおかげで、そのグラデーションがだんだんとなだらかになっていった感じがします。知らない人に対する警戒心が解かれたというか。それは娘のおかげでもあるし、富ヶ谷で出会った人たちのおかげでもありますね。

引きこもるモード、地域とかかわるモード、どちらの自分もいる


―― 桜林さんは、住む街によってスイッチが切り替わるタイプですか?

桜林:そうかもしれません。でも、街に合わせるというよりは、「自分のモード」が先にあって、それに合った街を探す感じ。今住んでいるところはコロナ禍の引越しだったので、飲食店も休業していたし、お友達が遊びに来ることもなかったし、完全に引きこもりモードだったんですよ。だから引越し先を選ぶときにも「街」を重視していなかったんです。自炊することが多かったので、近所に「オオゼキ」がある、という点だけで選びました。娘が小さいときはもっとオープンに地域の人とかかわりたいモードだったので、富ヶ谷が合っていたと思いますね。

―― 富ヶ谷はどんなモードの人におすすめの街ですか?

桜林:富ヶ谷は「個人だけど孤独じゃない」みたいな街です。住民同士の仲が良くても、「みんな」という単位ではなく、あくまで個人単位で暮らせる。だけど、孤独ではない。そんな雰囲気があるので、個人同士がつかず離れずの距離でいられる街ですね。だから、そういうモードの人に合っていると思います。

―― もしもまた富ヶ谷に住むとしたら、どんな楽しみ方をしたいですか?

桜林:今度は地域の子どもたちを見守る側になりますね。かつて、お蕎麦屋のお兄ちゃんが娘の卵割りに付き合ってくれたみたいに。私も、放課後の小学生がちょっと寄る場所をつくれたら楽しそうですね。

―― 富ヶ谷の街で、子育てを助けられたからこその恩返しでしょうか。

桜林:どの街であっても、頑張りすぎて1人でぜんぶやろうとすると詰むので、困る手前で人に頼ることが大切かも。そのためには普段から人に対して閉じずに、ちょっとだけ意識的にオープンにしてみるといいと思います。

お話を伺った人:桜林直子(サクちゃん)

1978年、東京都生まれ。洋菓子業界で働いた後、2011年に独立。クッキー屋「SAC about cookies」を開店する(現在はオンライン販売のみ)。現在は「雑談の人」として、一般の方との雑談サービスを主宰。コラムニストのジェーン・スーさんとMCを務めるポッドキャスト番組『となりの雑談』も好評配信中。

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