土岐麻子さん「渋谷という街は私の人生に出てこなかった。Cymbalsに入るまでは」【東京っ子に聞け!】

インタビューと文章: 田中宏 写真:関口佳代

土岐麻子さん

東京に住む人のおよそ半分が、他県からの移住者*1というデータがあります。勉学や仕事の機会を求め、その華やかさに憧れ、全国からある種の期待を胸に大勢の人が集まってきます。一方で、東京で生まれ育った「東京っ子」は、地元・東京をどのように捉えているのでしょうか。インタビュー企画「東京っ子に聞け!」では、東京出身の方々にスポットライトを当て、幼少期の思い出や原風景、内側から見る東京の変化について伺います。

◆◆◆

今回お話を伺ったのは、歌手、ナレーション、ラジオDJなど“声のスペシャリスト”として八面六臂の活躍を見せる土岐麻子さん。

代々木上原で生まれた土岐さんは、千歳船橋で青春を送り、早稲田大学入学後にバンド・Cymbalsを結成。Cymbalsはその音楽性から「ポスト渋谷系」と呼ばれました。また、自身の楽曲「BOYフロム世田谷」の歌詞では、「一方通行地獄」として知られる世田谷の路地を男性の気持ちにたとえるなど、東京っ子ならではの感覚を発揮しています。

そんな土岐さんに、かつては下町だったという代々木上原、音楽人生の道筋をつくってくれた千歳船橋、「臨戦態勢」で何枚ものアルバムをつくり出した渋谷など、これまで過ごしてきた東京の街について、そして歌詞に街の名前を登場させる理由について伺いました。

※取材は新型コロナウイルス感染症対策を講じた上で実施しました

「下町」だった代々木上原

――土岐さんが生まれ育った代々木上原は、今では雑貨店や服屋さんなどが立ち並ぶおしゃれな街のイメージが強いですね。土岐さんが住んでいた70年代後半から80年代前半ごろはどんな街だったんですか?

土岐麻子さん(以下、土岐さん):当時は全然おしゃれな街ではなかったんです。むしろ、下町っぽいというか。駅前の商店街に魚屋さんが2軒、お肉屋さんが1軒、それとは別に鶏肉屋さんもあって、商店街を歩けば、生活に必要なものが全部そろうような街でした。

学校帰りには商店街の人が「麻子ちゃん、おかえり」と声をかけてくれるんです。

土岐麻子さん

3歳ごろの写真。代々木上原の地蔵通り商店会を両親とともに歩く。フォトエッセイ集『愛のでたらめ』(二見書房)より引用

――下町というのは、ちょっと意外でした。

土岐さん:少なくとも「都会に住んでいる」という意識はなかったですね。それに、自分の行動範囲も狭く、井の頭通りと甲州街道と山手通りを基本的に越えちゃいけない、という感覚がありましたから。

ただ、代々木八幡のほうへ行くと、原宿や渋谷から都会が攻めてきているような雰囲気を感じましたね。

いつだったか、代々木八幡の小さなビルにサザビー(現:サザビーリーグ)のオフィスが引越してきて、年に何回かのファミリーセールのたびに母が食器を買いに行っていたのを思い出します。その様子を見て、子ども心に「なんか都会っぽいな」と。

――隣街に行くだけでそんなに雰囲気が変わったんですね。一方で土岐さんご自身は、代々木上原でどんな風に遊んでいましたか?

土岐さん:同じマンションに住んでいる子どもたちと、みんなでかくれんぼしたり、高鬼したり。あとは猫が歩くような建物の垣根と垣根の間を歩いたり。よその家に入って怒られたこともありました(笑)。『ドラえもん』に出てくるような土管がある空き地でゴム段やドロケイもしましたね。

土岐麻子さん

4歳ごろの写真。住んでいたマンションの下で。フォトエッセイ集『愛のでたらめ』(二見書房)より引用

――いかにも昭和な風景ですね。フォトエッセイ集『愛のでたらめ』には「(​​子どものころは)笹塚最高!もっと笹塚に行きたい!と思っていた」と書かれていますが、笹塚にも遊びに行っていたんですね。

土岐さん:笹塚は親に連れられてよく足を運びました。上原と違って、ファーストキッチンやサーティワンアイスクリームみたいなチェーン店が多くて「最高」だったんです(笑)。

笹塚に行くと、TWENTY ONE(ショッピングモール)の大きな本屋さんで本を買ってもらって、アイスクリームやハンバーガーを食べる。そうやって「都会に出たい」欲を満たしていました(笑)。

笹塚

笹塚駅前の風景

サブカルチャーへの目覚め。音楽人生が開けた千歳船橋

――中学1年で引越した千歳船橋は、当時どんな街でしたか?

土岐さん:上原に似てるなと思いました。上原ほど下町っぽくはないけど、個人商店も多かったし、上原にあったマイチャミーというマイナーなコンビニがあって、なんか運命を感じたり(笑)。

ただ、上原にないマクドナルドがあったことには驚きました。その部分では、「ちとふなの勝ちだな」って(笑)。

土岐麻子さん

――やっぱりチェーン店があるかどうかは大事なんですね(笑)。

土岐さん:あと、思い出深いのがアコムというレンタルCD屋さん。ちょうどサブカルに目覚めたころだったので、入り浸っていましたね。

――音楽というと、お父さん(サックス奏者の土岐英史さん)の影響はなかったんですか?

土岐さん:あったとは思うんですけど、当時は無自覚でしたね。父の音楽とは全然違うジャンルに興味を持ったので。ナゴムギャル*2やイカ天*3、ホコ天*4みたいな文化に憧れて、自分で情報を収集していました。

――じゃあ、千歳船橋に引越したことが、土岐さんの音楽人生にだいぶ影響を与えているんですね。

土岐さん:そうかもしれません。その意味で大きかったのは、中1のころ、アコムにナゴムレコードのコーナーができたこと。たぶん店員さんが好きだったんでしょうね(笑)。

そのコーナーで「ジャケ借り」をするうちに筋肉少女帯や有頂天、人生(電気グルーヴの前身)に出会って。ちょうど電気グルーヴのオールナイトニッポンが始まったころだったので、深夜ラジオを聞くようになり、私の音楽人生が開けていきました。

千歳船橋

学校近くのCDショップでジャーマンメタルに出会い…

――中高時代は自転車通学だったそうですが、行動範囲も広がったんじゃないですか?

土岐さん:それが全然広がらなくて(笑)。中2で学校の子たちとバンドを始めてからは、学校が終わったら部活がない日は一目散に家に帰って、ずっとバンドのことを考えていましたね。カラオケとか合コンみたいな、同級生の間で流行った遊びにはあまりタッチしていませんでした。

――バンドという軸はありつつも、地元で完結していた。

土岐さん:完結してましたね。一方で、電車通学をしていて学校帰りに新宿や三軒茶屋で遊ぶ子たちは、行動範囲と世界を広げていくわけです。交友関係や髪型、メイクが派手になったり。バンドの子たちも例外ではなく、そこに自分との「温度差」を感じて、やきもきすることはありました。

――バンドのメンバーは電車通学組だったんですか?

土岐さん:そう、他校の彼氏ができたメンバーもいましたね……。自分がそうじゃなかったからこそ、彼女たちが外の世界を知って、興味が移ろう様子が分かるんです。つい数か月前までは、一緒にすかんちとかを聴いて盛り上がっていたのに、なんか雰囲気が違ってきたな、みたいな(笑)。

土岐麻子さん

中学生のころ。バンドメンバーとの一枚(土岐さんは右から二番目)

――土岐さんご自身は、世界を広げようと挑戦したことはありますか?

土岐さん:音楽雑誌の読者投稿欄でバンドメンバーを募集していた東十条の男の子にコンタクトを取って、現地のスタジオに入ったことがあります。でも、代々木上原や千歳船橋から出たことのない私にとって、東十条はものすごく遠いわけですよ。

――1時間足らずで行ける距離なのに(笑)。

土岐さん同じ東京なのにもう外国みたいな(笑)。しかも、東十条と千歳船橋では文化が全然違うんですよね。その男の子とは結局一回しか練習に入れず仕舞いでした。

――もし電車通学をしていたら、違う出会いがあったのかもしれませんね。

土岐さん:そうですね。ただ、アコムもそうですけど、ピンポイントの出会いはあったんですよね。学校近くに小さな中古レコード・CD屋さんがあって、メタル好きの店員さんが店内BGMでジャーマンメタルを流していました。ある時、店員さんに「かかっている曲はハロウィンだよ」と教えてもらって(笑)。それでCDを買って、メタルへの愛を深めて。

土岐麻子さん

高校生のころ。ベースを弾きながら

――そんな出会いがあったとは……。そう考えると、住む街にどんなカルチャーがあるのかは人生を左右するかもしれない重要事なんですね。

土岐さん:そうですね。本当にピンポイントだったんだけど、当時はなんとかしてカルチャーに触れたいと思っていたから、嗅覚がすごかったんでしょうね。一個見つけたらめちゃくちゃ吸収するっていう感じでした(笑)。

Cymbalsの曲が、渋谷を「駆け抜けて」ほしかった

――デビューのきっかけとなったバンド・Cymbalsが結成された大学時代。どんな風に過ごしていたのでしょう?

土岐さん:サークルでいろんな人とバンドを組んでいました。サークルの仲間とは早稲田駅前の一休と大勇によく行きましたね。どっちも安く飲める居酒屋。ある先輩が、誰が吸ったかわからない山盛りの灰皿のなかからシケモクを拾って吸っていたことを思い出します。

――(笑)。ライブハウスにも出演したり?

土岐さん:サークルで高円寺や西荻窪のライブハウスを借りて、定例ライブをしていました。

ただ、隣のサークルにいたNONA REEVESは下北沢のライブハウスですでにワンマンライブをやっていて、それが衝撃的でした。

――話は変わりますが、Cymbalsの楽曲はかつて流行した「渋谷系」になぞらえ、デビュー当時「ポスト渋谷系」と呼ばれていました。でも、ここまで渋谷というキーワードは出てきてませんね。

土岐さん私の人生のなかで、Cymbalsに入るまで渋谷という街は出てこなかったんです。逆に、Cymbalsで活動を始めてから急に渋谷がフェードインしてきて。

ちょうどFPMが最初のアルバムを出したころ、宇田川町にあったHMVの1階で、渋谷系の曲のMVがよく流れていました。私は「この並び(HMVの棚)にCymbalsも絶対入るはずだ」と確信して、そこからは頻繁に宇田川町でレコードやCDを買うようになりましたね。Cymbalsの曲が、渋谷を「駆け抜けて」ほしいと思っていた。

だから、レーベルも、当時松濤に事務所を構えていた「エスカレーター・レコーズ」にデモテープを送ったりしました。

渋谷・宇田川町

宇田川町の路地

「臨戦態勢」になれる渋谷のマンションで

――渋谷といえば、土岐さんは東急本店通り(文化村通り)沿いに住んでいたこともあるそうですね。

土岐さん:そうですね。ソロになった時、通り沿いのマンションに一人で引越しました。通り沿いだから夜も外の音がうるさかったのですが、そういう環境に住めば「勝負に出られる」のでは、と思っていました

土岐麻子さん

――どういうことでしょう?

土岐さん:「臨戦態勢」になれる気がしたんです。というのも、引越すにあたって、そのマンションの他にもうひとつ、代々木八幡神社の裏手の閑静な住宅街にあったマンションも候補にありました。でも、そこに住むと、「落ち着いてしまう」だろうなと思ったんです。

当時はソロシンガーとして、どんどん攻めていきたいタイミングだったので、創作気分を高めるためにあえて落ち着かないほうを選んだという感じですね。

渋谷がすぐそこにあって、何かあったらすぐ出かけられる。別に何もなかったんですけど(笑)。とにかく、すぐオンになれる環境だったので、創作のスイッチが入ってそのマンションでアルバムを何枚もつくりました。

あとは、(2006年に)離婚して実家に戻ったら、なぜか仕事が全然できず、自分のペースで作業に没頭できる場所がないとダメだと思ったことも大きいですね。

渋谷・宇田川町

東急本店通り(文化村通り)の風景

――そういう家の選び方もあるんですね。

土岐さん:余談ですが、私の家を選ぶ基準は、夜帰ってきて、エントランスから廊下を抜けて、玄関を通って、部屋に入るまでの過程で、気持ちが落ち込まないかどうか(笑)。最悪な気分で帰ってくる時もあるじゃないですか。特に一人暮らしだと迎えてくれる人もいないから、この動線で私は落ち込みすぎないだろうかっていう感覚は大切にしています。そのマンションも外はうるさかったけれど、照明も明るくて、なんだか元気が出る雰囲気だったんですよね。

愛着のある街の風景を曲に閉じ込めたい

――土岐さんの曲には東京の街をテーマにしたものが多いですよね。「BOYフロム世田谷」では男心を世田谷の路地にたとえている。あの歌詞は中高時代に世田谷を駆けずり回った経験が基になっているんでしょうか?

土岐さん:というより、Base Ball Bearの小出(祐介)くんが電話で話してくれたエピソードが“ネタ元”ですね。小出くんはその時「男心っていうのは、世田谷の一方通行の路地みたいなものなんですよ」と言っていました。迂回して、迂回して、なかなか大通り=本質にたどり着かない、みたいな。「うまいこと言うね!」って思ったんです。

ただ、世田谷の一方通行地獄は、住んでいた当時から知ってはいました。特に原付で走ると、大回りしなきゃいけない道が多くて多くて。

経堂

世田谷区経堂付近の路地

――そうした具体的な地名はどのような意図で歌詞に使っているのですか?

土岐さん:当時の街の風景を描写したい、という気持ちです。

ある時、東京の風景はどんどん変わっていくなって思ったんです。青山だったらベルコモンズ*5のある風景を海や山と同じく変わらないものだと、どこかで信じていたけれど、全然そんなことはなくて。どんどん変わっていって、自分の知らない景色、知らない街になっていく。だからこそ、自分の愛着のある景色を曲の中に閉じ込めておきたいと思いました。

青山通り

青山通りの風景(青山ベルコモンズ跡地付近)

――そういうことだったんですね。

土岐さん:ただ、街のイメージを固定するような詞にはせず、あくまで街と紐づいたその人のプライベートな風景が引き出せるようにしています。

例えば「トーキョー・ドライブ」には「ラフォーレ」という単語が出てきますが、この曲をリリース当時(2013年)に聴いた人は、当時のラフォーレ原宿が曲に閉じ込められたでしょうし、いま初めて聴いた人は、いまのラフォーレ一帯の雰囲気が曲に焼き付くかもしれません。

ラフォーレ原宿前の交差点

ラフォーレ原宿前の交差点

――なるほど。今年リリースされた「HOME TOWN ~Cover Songs~」は、カバーアルバムながら、ライナーノーツで曲ごとに「個人的ロケ地イメージ」が設定されていますね。カバー曲でも街を意識しているんだな、という驚きがありました。

土岐さん:カバーアルバムなので、リスナーの立場で私なりの風景イメージを言ってもいいかなと思って。

――「楓」(スピッツのカバー)のロケ地イメージは「都バス早81の窓際のシート」*6って、ピンポイント過ぎておもしろかったです(笑)。

土岐さん:大学生のころに、大学から遠回りして帰りたい時によく乗っていたんですよ。電車に乗ればピュッと帰れますけど、なぜか時間をかけて帰りたい日もありますよね。結局途中で寝ちゃうんですけど(笑)。でも、周りに知ってる人がいない中、ひとりの世界に入って音楽を聴きながら、何を考えるわけでもなくっていうあの時間が、私にとってはすごく大切だったんです。大学時代のモラトリアムを象徴するような時間で(笑)。

居心地はいいんだけど、ちょっと寂しいような、不安なような、だけど楽しいみたいな。「楓」を歌っている時に、当時のそんな感覚を思い出しました。

――「夏夜のマジック」(indigo la Endのカバー)のロケ地イメージは「室外機が並ぶ宇田川街の路地」(笑)。

渋谷・宇田川町の路地

宇田川町の路地にて

土岐さん:そうそう(笑)。表参道みたいなおしゃれなイメージの街も、路地裏には室外機がたくさんある。その風景を残念だと思ったこともあったのですが、ある時、音楽を聴きながら室外機の並ぶ路地裏を歩いたら、すごくしっくりきて。それで室外機という言葉を使って曲(Peppermint Town)をつくりました。以降、室外機のある街の風景が自分の中ですごくバージョンアップされて、このカバーにつながりました。見方一つ変えるだけで、街の風景をこれまでとは違う額縁に収められるんですよね。

――そんな背景があったんですね。ちなみにアルバム唯一のオリジナル曲である「HOME」にも「多摩川の街」という言葉が出てきます。

土岐さん:これはさっきと逆で、多摩川の街は全然知らないんです(笑)。いつも多摩川を電車とかで越える時に、自転車に乗った人や犬の散歩をしている人を見て、大きな川がある街の人たちは、どんな学生時代を過ごして、どんな結婚生活を過ごすんだろうって単純に興味が湧くんです。あの川と空を見ながら毎日過ごすって、どんな感じかな、帰りたくなるだろうなって。

多摩川にかかる橋

多摩川にかかる橋

――帰り道が良いから住みたいっていう考えは素敵ですね。

土岐さん:動線は家の中だけでなく、家の外も大事ですからね。

まだ見ぬ「都会」を描き続ける

――土岐さんの音楽は時に「都会的」といった表現で評されます。今回は、食器やファストフードなど、さまざまなイメージを通じて土岐さんの中にある「都会っぽさ」が語られたように思います。やや抽象的な質問になりますが、改めて、土岐さんは都会というものをどう捉えていますか?

土岐さん:自分にとって都会は憧れの対象であり、音楽の中にしかないものだったのかな、と思うんです。

小さいころ、家に山下達郎さんのレコードがたくさん置いてありました。紙吹雪みたいなものが宙に舞っていて、日差しが強くて、ヤシの木が生えていて南国っぽい。そんなレコードジャケットを見つつ、おしゃれなメロディーを聴いて「都会っていうものは、きっとここではないどこかにあるんだろう」と思っていたんです。で、大人になったら、自分の足でそういう街に行って、「ダウンタウンに繰り出して遊ぶぞ」と。

だけど、大人になっても、あの街はどこだか分からなかった。マクドナルドやサーティワンに憧れた子どものころと同じく、都会は「ここではないどこか」でした。

――都会はみんなの心の中に存在する、と。

土岐さん:そうですね。そうやって、音楽を通じて自分が暮らしている街とは違う街があるんだって感じられたことは、今となっては宝物だったなと思うんです。

私も音楽を通じて、まだ見ぬ世界を連想してもらいたいし、同時に「自分が暮らしている街の違う一面」を感じてほしい。そんな思いで活動を続けています。

土岐麻子さん

――とても面白い視点ですね。最後に、東京で生まれ育った土岐さんは東京の「変化」をどう感じているか、教えてください。

土岐さん:時代とともに激しく移り変わる様子を、面白いと感じるようになってきました。なじみの場所がなくなったその時は悲しくなるんですけど、すぐ新しいものになじんで、前の状態を案外あっさり忘れていく。「あれ、ここに何があったっけ?」って(笑)。そうやって簡単に順応する自分の薄情さも、以前と比べて前向きに捉えられるようになりましたね。

そもそも「顔がない」のが東京の顔。昔は「ずっと変わらない海や山があるところで育った人はうらやましい。そこに帰れば自分の思い出が全部蘇る“ホーム”が欲しい」と思ったこともありました。私が生まれ育った上原は、この30年の間にものすごく変わったので。でも、よく考えれば、単に街の変化の途中に私がいただけなんですよね。だから今は、変化していく東京をとことん楽しもうと思っています。


お話を伺った人:土岐麻子

土岐麻子さん

1976年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。97年にロックバンド・Cymbalsのリードシンガーとしてデビュー。バンド解散後、2004年にソロ活動を開始。「Gift ~あなたはマドンナ~」「How Beautiful」をはじめとするCMソングや、他アーティスト作品へのゲスト参加、ナレーション、ラジオパーソナリティなど幅広い分野で活躍。著書に『愛のでたらめ』(二見書房)。
11月24日に2年ぶりのオリジナルアルバム「Twilight」リリース決定。
HP: http://www.tokiasako.com
Twitter:@tokiasako_staff
Facebook:https://www.facebook.com/tokiasako/
Instagram:@tokiasako

※土岐さんのプロフィール内容について、10月15日(金)18:00ごろ適切な表現に修正しました。ご指摘ありがとうございました。

編集・風景写真:はてな編集部

*1:第8回人口移動調査(国立社会保障・人口問題研究所)を参照

*2:1980年代後半に一世を風靡したインディーズレーベル・ナゴムレコードの所属アーティストのライブに通う女性ファンのこと。奇抜なファッションで耳目を集めた

*3:1989年に放送が始まったオーディション番組。BLANKEY JET CITYやたま、BEGINなど、後の音楽シーンをつくるバンドを数多く輩出した。正式名称は『平成名物TV 三宅裕司のいかすバンド天国』

*4:歩行者天国のこと。1980年代後半、原宿駅前の歩行者天国では、バンドをはじめさまざまなストリートパフォーマンスが繰り広げられた

*5:青山通り沿いにあった商業施設。2014年に閉店。2020年、跡地に複合ビル「the ARGYLE aoyama」がオープン

*6:早81系統は早大正門発〜渋谷駅東口行き