多摩の独立を妄想し、ホームページを制作するほど多摩地区愛が止まらない土屋礼央さん【東京っ子に聞け!】

インタビューと文章: 榎並紀行(やじろべえ) 写真: 小野奈那子

土屋礼央さん

東京に住む人のおよそ半分が、他県からの移住者*1というデータがあります。勉学や仕事の機会を求め、その華やかさに憧れ、全国からある種の期待を胸に大勢の人が集まってきます。一方で、東京で生まれ育った「東京っ子」は、地元・東京をどのように捉えているのでしょうか。インタビュー企画「東京っ子に聞け!」では、東京出身の方々にスポットライトを当て、幼少期の思い出や原風景、内側から見る東京の変化について伺います。

◆ ◆ ◆

今回お話を伺ったのは、ミュージシャンの土屋礼央さん。アカペラグループRAG FAIRのリードボーカルをはじめ、バンドやソロプロジェクト、さらにはラジオパーソナリティなど幅広く活動しています。

土屋さんが生まれ育ったのは、東京の国分寺市。多摩への思いがあふれすぎて「多摩独立宣言」なるホームページを運営していたこともあるほど、地元を愛しています。デビュー後、仕事のために23区内に引っ越した後も、その愛が冷めることはなかったそう。

一方で、大好きな多摩にも負けない熱量で向き合ってきたのが「歌」。ミュージシャンになると決めた中学1年生から、まっすぐに音楽の道を突き進んできました。地元のこと、音楽のことを話しだすと止まらない土屋さん。その思いの丈を、たっぷりと語ってもらいました。

行動範囲はほぼ市内。多摩地区で過ごした青春時代

── 土屋さんの地元は東京の国分寺市。子どもの頃の思い出の場所を教えてください。

土屋礼央さん(以下、土屋) 僕は小学2年生のときに、国分寺市の西恋ヶ窪から「北町」というところに引っ越しました。名前の通り、市内で最も北にある地域で、すぐそこは小平市。家の近くを玉川上水が流れていましたね。とても静かな地域で、十字路の四隅すべてが畑というような環境でした。

よく遊んだのは、市民プールの横にあった空き地です。一応、バスのロータリーになっているのですが、バスは1時間に一度しか来ないし、ほとんど誰も利用しません。だから、いつも友達の中川くんを誘って、カラーボールとカラーバットで野球をしていました。

土屋礼央さん

── 野球ができるくらい、広い空き地だったんですか。

土屋 まあ、野球といっても1人対1人ですからね。バスのロータリースペースは正方形のアスファルトでそのスペースの4つ角を本塁、ファースト、セカンド、サードのベースに見立て野球をしていました。レフト方面にフェンス越しの芝生があって、ライト側には民家があって、フェンス替わりの植物が並んでいて。当時の僕らにとっては芝生とフェンスがあってメジャーリーグの球場に感じられる場所なんです!

中川くんがいないときは、北町全域を「土屋鉄道」の路線に見立て、自転車で運行するひとり遊びをしていました。十字路やロータリーを「駅」に見立てたり、信号機のところは急行が通過する設定にして、わざと赤信号を2回待ってから進んだりしていましたね。

── 北町を遊び尽くしていたんですね。ちなみに、その空き地は今もあるんですか?

土屋 今は住宅街として整備され、空き地ではなくなりました。市民プールもなくなって、あたり一帯が大きな公園として整備されています。住民にとっては便利になったけど、僕の思い出はもう跡形もないですね。

── 当時、ご両親と遊んだ記憶は?

土屋 遊んでもらった記憶はあまりないかな。両親ともに画家なので、週末は銀座の画廊めぐりに連れていかれたりしましたけど。あとは母親に連れられて、そしてたまには1人で秋葉原の交通博物館に行って、鉄道模型を見ていました。ちなみに、親と都心に出かけるときは、北町公園からバスに乗って国立駅まで行き、そこから電車に乗っていました。だから、最寄駅は「国分寺駅」ではなく、「国立駅」という感覚が強いですね。

── 中高生になってからは、どんなところで遊んでいましたか?

久住 あまり市外に出ていくことはなかったですね。高校も国分寺市内でしたし、国分寺駅近くにあった「パークレーン」というボウリング場に行ったり、国立の「いたりあ小僧」でスパゲッティを食べたり。行動範囲は狭かったです。

イタリア小僧

特に、当時、立川は「不良がいる」とうわさに聞いていたので近寄らないようにしていたのですが、中学生になって初めて彼女ができたときは、覚悟を決めて立川の映画館に行きました。

シネマシティ
▲立川シネマシティ

確か、『ホーム・アローン』を見たのかな。不良はいませんでしたが、彼女には2カ月でふられました。

絶対にプロになれる。中1で芽生えた絶対の自信

── 音楽の道で生きていこうと決めたのはいつですか?

土屋 中学1年生の頃だったと思います。妙な自信があって「俺には音楽の道しかない」と。高校は進学校だったんですけど、途中からまったく勉強をしなくなり、徐々に昼夜逆転の生活になっていきました。うちは画家の親父が朝まで絵を描き、昼過ぎに起きてくるという生活だったので、自分もそれに合わせて夜中に音楽をつくってそのまま学校に行き、帰ってから寝るという毎日でした。

高校3年生に進級して周囲が一気に受験モードになると、つるむ友達がいなくなったこともあって、渋谷にあるヤマハのスクールに通って音楽を学び始めたんです。

土屋礼央さん

── 大学に進学する気はゼロだった?

土屋 大学に行く目的があるとしたら、バンドサークルに入ることくらいでしたからね。それも、サークルによっては大学生じゃなくても入れるらしいし、だったら進学する意味もないかなと。もともと就職するつもりもなかったですし。だから受験はせず、早稲田大学のサークルに潜り込んでバンドメンバーを探しつつ、最短でミュージシャンになれる道を探そうと思いました。

── ちなみに、ご両親からは反対されませんでしたか?

土屋 父親も母親も画家なので、世間一般の家庭に比べれば、あっさり認めてくれたように思います。「せめて大学は行ったら?」くらいは言われましたけど。

まあ、うちは両親がそもそも、まったく社会性のない人間ですからね。むしろ僕が一番まともで、自分が土屋家と社会を接続させないと、世間から追放されてしまうと思っていたくらい(笑)。

両親ともに「作品がすべて」という考え方なんです。作品づくりに没頭しているときは、ご飯も一緒に食べないし、呼びもしない。記念日とかもまったく関係ない。各々が作品に没頭して、お腹が空いたらリビングに下りてきて勝手にご飯を食べる感じでした。タイミングが合えば、そこで話をするという。決して仲が悪いわけじゃないけど、特殊といえば特殊な家庭環境でしたね。

だから、一般的な会社員の家庭とは、そもそも考え方がズレているんだと思います。

── では、高校を出てからは音楽漬けの毎日だったんでしょうか?

土屋 そうですね。深夜のアルバイトと週に1度の音楽スクール通い、2週に1度のバンドサークルの会合以外は、基本的に曲づくりの時間に充てていました。僕は能動的にフリーターになったので、自分のなかで「ヒマだな」と思うことを禁じたんです。特に、友達に「ヒマだから遊ぼう」と言うのは自分に負けた気がして、余剰時間はすべて音楽のために使おうと考えていました。

そうはいっても、当時はほとんど音楽の知識がないから手探りでした。バイト代で買ったパソコンで音源を鳴らして、3カ月かけて1曲つくるみたいな感じだったと思います。

── バンドメンバーはすぐに見つかりましたか?

土屋 それが、なかなか見つからなくて。バンドサークルも、僕は早稲田大学の学生じゃないから2週間に1度の会合にしか参加できないんですよ。気付いたらサークルの人たちはすでにバンドを組んでいる状態で、付け入るスキがまったくなかった。音楽スタジオに貼ってあるバンドメンバー募集の電話番号に連絡してみたりもしましたが、なかなかうまくいかなかったですね。

初めてバンドに入れてもらい、人前で歌うことができたのは19歳のときです。外部の大学の人たちが声をかけてくれて、サークルの発表会に出演させてもらいました。ただ、その後はあまりそういう機会もなく、サークルを卒業することになって。

── このままではプロになれない、みたいな焦りはなかったですか?

土屋 焦りはなかったですね。中1の頃に抱いた自信が揺らぐことはなく、むしろ曲をつくるたびに手応えが大きくなっていきました。「俺の頭のなかで鳴っている音楽は、絶対に良いはずだ」と。

当時は、たくさんの音源をつくっていたんですけど、そのなかで初めて周囲から褒めてもらえたのが、のちにRAG FAIRのファーストシングルになる『ラブラブなカップル フリフリでチュー』です。サークルの発表会でやったら、すごく評判がよかった。そこで、デモ曲をカセットにダビングし、ジャケットやポスターも自分でつくって知り合いという知り合いに配りました。

また、新たに「ブコビッチ」という、僕が愛してやまない西武ライオンズの助っ人外国人選手の名前の響きが面白いと思って、その名を冠したバンドを組みました。このバンドで西荻窪のライブハウスで初めて『ラブラブなカップル フリフリでチュー』を歌ったんです。 

── すごい行動力ですね。

土屋 それだけプロになりたかったんでしょうね。お客さんも一生懸命集めましたよ。最初は友達とその友達を誘い、ライブに来てくれた人をリスト化して次のライブのDMを送っていました。結果的に、ずっとお客さんはいてくれる状態で、吉祥寺のライブハウスではアマチュアバンドの観客動員記録をつくったりもしました。

土屋礼央さん

大遅刻で社長を待たせ……。泣く泣く引っ越しを決意

── 2001年にRAG FAIRでデビューしたときは、まだ国分寺の実家住まいでしたか?

土屋 そうですね。しばらくは実家から仕事場に通っていました。引っ越すことになったきっかけは、忘れもしません……。とんでもないことをしでかしてしまって。

── 何があったんですか……。

土屋 レコード会社・TOY’S FACTORYの稲葉社長に新曲を聴いてもらう日に、完全に遅刻したんです。思いっきり寝坊してしまい、稲葉社長が初台のスタジオに着いた時点で、まだ北町の実家にいました。大急ぎで向かったとしても1時間半はかかるという……。さすがにこれはマズいと、都心のスタジオやテレビ局に近い街に引っ越すことにしました。

── 多摩地区を出るのは、かなり辛い決断だったそうですね。

土屋 辛かったですね。僕はそもそも多摩地区への愛が強すぎるがゆえに、23区の人たちを敵視していましたから(笑)。だって、あいつら「都民の日って多摩にもあるの?」とか聞いてくるんですよ。

そこで、僕は将来的な多摩の独立を画策し「多摩独立宣言」というホームページをつくりました。東京から独立したあかつきには「多摩の手線」つくり、都民の日ならぬ「多摩の日」を制定しようと。ちなみに、多摩の日は9月1日の祝日にして、都民より夏休みが1日多い優越感を多摩の子どもたちが味わえるようにするとか、そんなことばっかり発信していました。

── ちなみに、そのホームページは今も……?

土屋 いや、さすがにデビューするときに事務所から怒られてやめました。ただ、今でも心の中では「俺は多摩地区のスパイ」という気持ちをもって世田谷区に住んでいます(笑)。

── その話の後だと聞きづらいのですが、23区内で住み心地が良かった街や、好きな街はありますか?

土屋 最初に住んだ浜田山は最高でしたね。駅を降りた瞬間の空気感と、そこからレンガ敷きの商店街が続く風景がいいなと思って、ここに住もうと決めました。実際に、住み心地は抜群でしたよ。

ただ、その後も引っ越しを繰り返して、明大前や桜上水、高井戸、新代田、あとは渋谷にも4年くらい住んでいましたね。当時はものすごく忙しくて、特に頻繁に通っていたNHKの近くに家を借りていました。

── なぜ、そこまで頻繁に引っ越したのでしょうか?

土屋 曲が書けなくなると、つい環境のせいにしてしまいそうになるんですよ。自分のせいなのに、街に責任をなすりつけてしまいそうになる。それがイヤだったので、スランプになったら引っ越すようにしていました。更新料を払った2か月後に退去したこともありますよ。

新しい街に引っ越すと、やはり感覚も変わるんですよね。新しい家で弾くピアノの音色は明らかに楽しげで、いつもより弾んでいる気がしました。だから、基本的に引っ越しは好きです。お金はその度に飛んでいきましたけど。

土屋礼央さん

いくら街が変わっても、駅前の「らしさ」は残してほしい

── 土屋さんは東京に約40年暮らしていますが、街の変化をどう捉えていますか?

土屋 どの街も、どんどん便利になっていますよね。JR中央線も全線が高架化されましたし。以前の国分寺駅は北口から南口に出るときに大回りする必要があったのですが、今はスムーズに通り抜けることができます。

国分寺駅北口
▲2018年に再開発が完了した国分寺駅北口駅前

ただ、便利にはなったけど、街の風景が均一化してしまうことへの抵抗はあります。僕がずっと“最寄駅”として使っていた国立駅も、高架化によって一時期は伝統的な三角屋根の駅舎がなくなってしまいました。あのときは寂しかったですね。

── でも、国立駅の三角屋根は2020年に「復活」しましたよね。

国立駅前
▲国立駅前

土屋 そうなんです。旧駅舎が取り壊されたあとも、国立市は部材を保存し、その後もJRに復元する交渉を続けてきたそうです。やっぱり、地元住民にとって、あの三角屋根は特別な思い入れがあるもの。多くの人の記憶に刻まれた玄関口の風景がこうして戻ってきたのは、とてもすてきなことだと感じましたね。

古いものを残し続けることが絶対だとは思わないけど、駅舎や駅前の風景くらいは均一化せずに、時間を積み重ねることでしか出せない「らしさ」を大事にしてもいいような気がします。だって、駅は街の玄関口であり象徴ですから。昔、僕が浜田山駅を降りた瞬間に「ここで暮らそう」と決めたように、駅前の表情ってそこに住む動機になると思うんです。

── では、最後に改めて国分寺をはじめとする多摩地区の魅力を教えてください。

土屋 国分寺は、“最初に住む東京”としては、けっこうオススメです。多摩地区の人って争いを好まない穏やかさがある気がするので、居心地がいいんじゃないかと。23区の下町ほど「おらが街」といった意識も強くないように感じるし、新しく引っ越してきた人も疎外感を覚えることはないと思いますよ。

あと、みなさん「多摩は遠い」と勘違いしているかもしれませんけど、そんなことないですからね。新宿駅まで最短21分ですから。僕を担当してくれている歴代のマネージャーは初めて国分寺に来ると必ず「思ったより近いですね」って言うんですけど、どれだけみんな誤解しているんだと(笑)。

これもひとえに、JRや京王線をはじめとする、さまざまな人たちの努力があってこそ。今は本当に快適ですから。そこは、最も強く言いたいですね(笑)。

土屋礼央さん

お話を伺った人:土屋礼央(つちや・れお)

土屋礼央さん

1976年9月1日生まれ。 東京都国分寺市出身。RAG FAIRとして2001年にメジャーデビュー。2011年よりソロプロジェクトTTREをスタート。RAG FAIR、ズボンドズボン、TTRE楽曲の多くの作詞作曲を手掛ける。鉄道、Apple、FC東京、西武ライオンズを深く愛する。 2018年4月より東京都国分寺市の観光大使に任命される。
Twitter: @reo_tsuchiya
公式サイト TTRE

聞き手:榎並紀行(やじろべえ)(えなみ のりゆき)

榎並紀行さん

編集者・ライター。水道橋の編集プロダクション「やじろべえ」代表。「SUUMO」をはじめとする住まい・暮らし系のメディア、グルメ、旅行、ビジネス、マネー系の取材記事・インタビュー記事などを手掛けます。
Twitter: @noriyukienami
WEBサイト: 50歳までにしたい100のコト

編集・風景写真:はてな編集部