海の美しさに惹かれて宮古島に移住して、建物や家具のリペア職人になった元人力舎の芸人「のぐお」の現在【いろんな街で捕まえて食べる】

著: 玉置 標本 

人力舎という芸能事務所でアンタッチャブルと同期だったお笑い芸人「のぐお」さんが、東京から沖縄の宮古島に移住して、建物や家具などをリペア(補修)する職人として暮らしているから、一緒に会いに行かないかと友人に誘われた。

多くの人が一度は憧れる南国での移住生活。離島に仕事はあるのか、暮らしやすさはどうか、地元の人とうまくやっていけるのか。のぐおさんのことは存じ上げなかったが、一緒にたっぷりと観光をしながら、その暮らしぶりを覗かせてもらった。

栃木県出身の遅咲きピン芸人、のぐおの誕生

「のぐお」こと野口和人さん(53歳)が芸人の道を志すまでには、かなりの紆余曲折があったようだ。

北関東出身を感じさせる朴訥とした喋り方で、その長き道のりを語っていただいた。

宮古島の居酒屋でのぐおさんと待ち合わせ。同行した友人曰く、宮古島のおもしろおじさん

ここに向かう途中の路線バスで、ゾンビの集団(高校生のパレード?)が手を振ってくれた

――のぐおさんは、どういう経緯で芸人になったんですか。

野口和人さん(以下、のぐお):「地元栃木の高校の商業科を卒業して、勉強はできなかったから東京の会社に就職しようと思って、大手製パン会社に入ったの。やっぱり東京に対する憧れがあったから。

もちろん勤務地は東京工場。でも行ってみたら東京工場なのに埼玉県八潮市の工業団地。え、東京じゃないの?って。東京ディズニーランドとか東京ドイツ村みたいなネーミングに惑わされたよね」

――八潮市、ほぼ足立区みたいな場所ですけどね。

関係ないけど宮古島には「うえのドイツ文化村」がある

宮古島のドイツ村、行けばよかったかな

のぐお:「俺のやる気のなさが出ていたのか、研修の時から上司に目をつけられて。配属希望にシュークリームとかエクレアとかのラインがいいですって書いて提出したの。もしくはロールケーキとか。そっちは女の子もいて華やかだったから。

なのに新卒で俺だけ、男ばっかりの食パンラインにされて。第三希望まで書いたのに。新人歓迎会も夜勤だったから行けない。給料も安かったし、寮だって(以下、愚痴が続く)」

イラブチャー(ブダイ)の刺身、旨味が強い白身でうまい

――高校卒業してすぐにそれだと、すねちゃいそうですね。もちろん食パンも大事なラインですけど。

のぐお:「やってられるかって3カ月くらいでやめて寮を出て、新小岩にある隣の部屋が見えちゃうくらい壁が薄いアパートに引越した。家賃32,000円だったかな。

当時はまだバブルだったから、フロムエーとかanみたいな求人雑誌に、すごい高い給料の仕事がいろいろ載っていて。東京すげえ!って。それで入った会社が親子電話機の訪問販売で、一式30万円くらいするのよ」

――子機が付いている電話、ありましたね。それにしても高い。それを飛び込み営業ですか。

のぐお:「ぜんぜん契約が取れなくてね。たまたまプロレスの話で盛り上がって買ってくれそうなおじさんがいたんだけど、そこに帰ってきた娘さんが女性警察官で、壁の向こうで『おとうさん、あんなの買っちゃ絶対ダメだからね!』って怒られている。売れなかったね。

会社の人も最初は優しい口調だったんだけど、俺の呼び方が『野口君』から、次に『野口』、そして『お前』。さっさと電話機売ってこんかい!って毎日怒られて。初めて生の関西弁をそこで聞いた。本当に関西弁ってあるんだって。その営業の夢と初恋の夢はいまだに見るね」

――そんな悪夢と初恋を並べないでください。

せっかくなので宮古そばを食べ歩いてきた

昔ながらの宮古そば、丸吉食堂。具がないように見えるでしょ?

麺の下に具を隠しているのが宮古そばの特徴。今もこのスタイルで出す店は少ないらしい

のぐお:「高い商品を売るのは無理だと思って、次は3,000円くらいのドアストッパーを売る会社に入ってね。ビルとかマンションのドアって勝手に締まるでしょ。それを押さえておくストッパー。30万円の電話に比べたら1/100の値段だから、これならいくらでも売れるだろうと」

――ドアストッパーの存在はわかりますが、飛び込み営業で売れる商品なんですか。

のぐお:「売れなかったね。成績優秀な人はたくさん売って月50万円とかもらっていたけど。10個売れると賞金が出るし褒められるから、どうにか8個売れたら2個は自分で買ったりして。家にドアストッパーの在庫が溜まっていく。この夢もよく見るよね」

――不毛な自爆営業だ。

のぐお:「そこも関西の人が上司で、俺は仕事ができなかったけどすごく仲良くなって。その人に向こうのお笑いを教えてもらった。当時ダウンタウンがやっていた『4時ですよーだ』のビデオをコンビニで買って見せてくれたり。あれは衝撃的だったね」

――ダウンタウンに影響を受けたんですか。

のぐお:「その人から『ダウンタウンのネタを一緒にやろうや!』って誘われて、谷隼人のセリフとか言わされて。全然わかんないんだけど。寝ぼけて出社すると『新喜劇の坂田利夫みたいやぞ、お前』って褒められたり。それも全然ピンとこないんだけど。

その人とは平井駅にできた新築のマンションに、一緒に引越したりもした。新築だから調子に乗って150センチの水槽を買っちゃって」

――でかい。アロワナを飼いましたか。

のぐお:「いやネオンテトラだったね。150匹」

――小さい。

のぐお:「ちゃんと水草とかも植えて。でも水換えが大変で。その会社も結局やめちゃったんだけど、お笑いの基礎をつくってくれた人だと思う。

今思えば、あの人とコンビを組んでいればよかった。浜ちゃんと同じ高校の人で、いろいろエピソードトークも持っていたし」

伊良部島にある「かめ」。通称かめそば。人気店はどこもすごく混んでいた

かめそばは三枚肉(豚の皮付きバラ肉)、ソーキ(豚バラ軟骨)、ゆし豆腐がのったオリジナル。マグロのお寿司とのセットが人気

――会社を辞めて、どうしたんですか。

のぐお:「ある日、気づいたんだよね。これまで新小岩とか平井に住んでいたけど、ここは東京じゃないと。なんのために俺は栃木から出てきたんだと」

――八潮市と違ってちゃんと東京都ではあるけれど、栃木の高校生だったころに憧れていた東京は、葛飾区や江戸川区じゃないぞと。

のぐお:「それで中野と高円寺の間くらいに引越した。当時オウム真理教の道場があった近くに。この場所で自分と向き合おうと思いつつガテンっていう肉体労働系の求人雑誌を見ていたら、鉄の芸術家のクマさんが弟子募集をやっていたのよ」

――篠原勝之さんだ。ガテンで弟子募集なんてしていたんですか。

のぐお:「これは!と思って、いろんな空き缶とか拾ってきてて、作品をつくって送ったんだよ。地球はいずれ滅びるって壮大なテーマで」

――芸術家のぐおの誕生ですか。

のぐお:「そしたら落ちてさ。ちょっと待てと。せっかく俺も鉄の芸術家になりたいって思ったのに、いきなり挫折じゃんって。

それで思ったんだけど、まず芸人として有名になって、それから鉄の芸術家になった方が楽じゃないかと。単純な考えで」

――まさかここで芸人のぐおがスタートですか。

宮古島北部にある、にいまそば

一般的な宮古そばとちょっと違う、自家製麺の多加水ちぢれ麺をいただいた

豚ではなく鶏でダシをとっている中休味(なかやすみ)商店。良い名前だ

残ったスープにライスを入れて締めるのがこの店のスタイル。どの店も柔らかく煮込まれたソーキが本当にうまい

のぐお:「どうやって芸人になろうかなって考えていた時、中野ブロードウェイに行ったら演劇ぶっくっていう雑誌があって、ペってめくったらすぐ近くで劇団員を募集していて。そのままアポなしで行ったらあっさり受かっちゃった」

――芸人の前に劇団員のぐおだ。

のぐお:「それで3回ぐらい公演をやったの。子泣きじじいの役とか。でも知り合いからは最低な芝居を見たよって否定されて。そんなつもりじゃなかったんだけど、調子に乗っていたのかな。水槽を買ったときみたいな感じだったのかも。

それで劇団も解散になったんだけど、その時に知り合った劇団員にお笑い芸人志望の人がいたの。その人からコンビを組まないかって言われて」

――ようやく芸人への道を歩みだしましたか。

のぐお:「どんなネタやるんだろうと話を聞きに行ったら、もうバケツに水が汲んであって、お前ここの水に頭からつっこめよとか言うの。大きな風船を顔の前で割ったり。何この昭和な感じって。いやいや無理って」

――たけし軍団とかダチョウ倶楽部に憧れているタイプだったんですかね。のぐおさんとは芸風が合いませんでしたか。

宮古そばの手打ち教室があったので行ってみたが、教えてくれる人が関西からの移住者で、宮古そばづくりは本業ではないという、ある意味現在の宮古島を表している体験となった

のぐお:「でも怖いんだよ。プロレスラーがやっているジムに通ってる人だったから力が強くて。結局解散っていうか、なんもやらずに消滅したんだけど、その人が東京のお笑いライブに連れてってくれたことがあって。

そこに人力舎の養成所『スクールJCA』の、一期生募集のチラシがあった」

――人力舎といえば、アンジャッシュ、アンタッチャブル、おぎやはぎ、東京03とかが所属しているお笑いの事務所ですよね。

のぐお:「よし、ここに入って芸人になってやると。でも学費が年間60万円かかる。だから郵便局でがんばって働いて、学費と一年間暮らせるだけのお金を貯めて、1994年に三期生として入学したの。25歳だったかな」

芸人時代の王子様のような写真を見せていただいた

――芸人としては少し遅めのスタートですね。

のぐお:「みんなに遅いって言われたね。ダウンタウンに憧れていたから吉本のNSC(養成所)も考えたけど、当時は年齢制限があって入れなかった。

JCAの一期生にはアンジャッシュの児嶋さんがいて、二期生にアンジャッシュの渡部さん、東京03の飯塚さん、ユリオカ超特Qさんとか。同期の三期生がアンタッチャブルの二人、東京03の豊本さん。

俺も最初はJCAで出会った人とコンビを組んでいたの。『とんちんかんちん』とかいう名前で。ネタもとんちんかんでダメだったけどね」

――アンタッチャブルも養成所で組んだコンビだから、もしかしたらのぐおさんと組んでいた可能性もあったんですね。

のぐお:「いや、組めないね。あそこは組んで当然みたいな二人だった。当時から圧倒的におもしろくて、ライブをやっても最初からトリだった。

アンジャッシュの渡部さんは最寄駅が同じだったから、ネタづくりに行った喫茶店で一緒になったときとか、真剣にアドバイスをしてくれましたよ。向こうが売れてからは会ってないけど、僕は渡部さんに良い思い出しかないです」

意外とシュっとした芸人だったのだろうか

――養成所に入れば簡単に売れるっていうものでもないですよね。

のぐお:「最初は同期が60人くらいいて、その中でライブに出られるのは10組くらいだけ。そこに残れないとやめちゃうんだよね。だから最後は20人くらいだった。

2年目はさらに10万円払うと事務所に残れるんだけど、そのお金が払えなくて。今日払わないとクビっていう日に、アレジンっていう機種のパチンコで勝負したら、ペペペペペって7がそろって払えた。

それで1年事務所に所属して、単独ライブとかもやったんだけど売れない。当時はまだ人力舎に売れている芸人も少なかったから、ここにいてもダメだって思うようになって、別の事務所に移ったんです」

――俺が売れないのは事務所のせいだと。ちなみに当時はどんなネタをやっていたんですか。

のぐお:「ま、一人ネタだね。『のぐのぐのぐのぐの~ぐお~~』っていうブリッヂ(つなぎ)で、短いネタをいろいろやってくみたいな感じ」

大人計画とも交流があったようだ

のぐお:「知り合いに誘われて入った新しい事務所はテレビの映像制作会社で、アニメとかをつくっていた。そこで俺を売り出してくれると。でもふたを開けてみたら芸人の仕事はなんにもなくて、映像のテープを運ぶ配達員になっちゃって」

――元郵便局員のスキルを活かしている場合じゃないのに。

のぐお:「そんな運び屋みたいなことをやりつつ、バラエティ番組の説明映像とかを粘土でつくるようになったの。3DCGが盛り上がってきた時代だけどアナログで。手先が器用だったから。だから芸人として所属したのに、俺の仕事は配達と粘土だけ。

芸人としての才能が求められるようなことは少なかったけど、漫画家のしりあがり寿さんに誘ってもらって、アスキーが出していた『テックウィン』っていう雑誌の付録CD-ROM用に『のぐお放送局』っていうニセ通販番組みたいな映像をつくったりはしていたね。まだデジタルコンテンツなんていう言葉もなかった時代で、大人計画の宮崎吐夢さんがペリー提督のネタをやってた」

――懐かしい!

ちなみに当時の担当編集者である小松さんが、この取材に誘ってくれた人である。

右が担当編集者だった小松さん

この前日が私の誕生日で、途中で急にハッピーバースデーの曲が流れてきたので、私へのお祝いかなとドキドキしたら、全然関係ない隣のテーブルでのサプライズだった。おめでとうございます

家族で宮古島への移住を決める

その後、都内で引越しを繰り返しながら、現在の妻である真喜子さんと幡ヶ谷で知り合って結婚したり、代々木上原で取り壊し予定の一軒家をDIYでリフォームしてみたり、セレブ相手のお土産づくりをしたり、中国でクレイアニメ作家として活動しようとして挫折したり、粘土が得意ならパンもこねられるだろうとパン屋の開業スクールに通って後悔したり(あんなに嫌がったパン屋なのに)、住宅のリペアをするバイトで人間関係に疲れたりしていたら、気が付けば芸人のぐおは40歳を過ぎていた。

浮かれ気分で来間島にあるAOSORA PARLORのマンゴースムージーを飲んだ

――そろそろ話を宮古島に近づけましょうか(インタビュー三日目)。移住をしたいっていう気持ちは昔からあったんですか。

のぐお:「日産のキャラバンっていうワゴンで車中泊をしながら、よく温泉地とかを家族3人で回っていて、その流れで沖縄に来たことがあって、いずれこっちに住みたいなっていうのは思っていた」

野口真喜子さん(以下、真喜子):「どこかに移住したいっていう話は前からしていました。でも私は埼玉育ちで秩父とかが好きだったから、田んぼとか里山が広がっているようなイメージだった。でも、のぐたん(夫婦間での呼び名)に聞いたら、移住イコール沖縄だと。派手なことが好きだから。とにかく移住の準備はしていこうと」

のぐお:「秩父じゃ移住じゃなくて、ちょっとした引越しだよね。地方は仕事が少ないだろうから手に職をつけておかなきゃと職安の紹介で職業訓練校に通って、俺は介護福祉士、真喜子さんは保育士の資格を取ったの」

マンゴージュースの穴場は市立図書館の売店だそうです。確かに安くておいしかった

――そのころには、もう芸人として成り上がろうみたいな気持ちはなくなっていたんですか。

のぐお:「確かR-1グランプリの3回目か4回目くらいにエントリーして(35歳前後)、そこで敗退して、芸人としての諦めがつきましたみたいな宣言をしたのかな」

――これからは家族のためにも、移住を視野にいれつつ真面目に働こうと。

のぐお:「そう。芸人をやめて、音楽でやっていこうと、『宇宙公務員』っていうバンドを組んだ」

――はー?

のぐお:「俺がボーカルでメンバーを知り合いから集めてね。下北沢でライブを2回くらいやったのかな。でもまあだんだんフェイドアウトしていって。人と一緒にやっていくっていうのが苦手なのかな。やっぱり一人がいいやって」

これはトロピカルなジュースではなく、伊良部島のピンク玄米というドロッとした飲み物

――話を戻しますけど、なんで宮古島に移住しようと思ったんですか。

のぐお:「最初に宮古へ来たのは息子が3歳のころ。もともと沖縄っていうワードに引かれていて、移住先は沖縄のどこかって考えていた」

真喜子:「でも沖縄っていってもいろいろあって、沖縄のどこっていうイメージはまだなかった。本島よりも石垣島がなんとなく良さそうだって思って。離島は石垣島くらいしかわからないし」

のぐお:「当時は石垣島がすごくメジャーで、宮古島なんて全然知らなかった」

真喜子:「じゃあ石垣島に1回行ってみるかってなって、宮古島に移住した人がたまたま知り合いにいたから、ついでに話を聞いてみようと先に宮古を訪れたんです」

――宮古島を見に行くというよりは、離島への移住者の先輩から話を聞くために。

真喜子:「伊良部大橋もドン・キホーテもまだなかった時代。もうコンビニはあったかな。来てみたら池間島の海がめっちゃ奇麗で一目惚れ。見たことのないようなエメラルドグリーンの海だった」

――シンプルに海の美しさに感動したんだ。

二人が一目惚れしたという池間島の海。確かに美しい

大潮の干潮の時にだけ現れる干潟がちょうど出現していた

ものすごい透明度の海

真喜子:「出会う人もなんかいい人ばっかりだし、 宮古楽しい~って思って。そのあと石垣島に行ったら、宮古島で見た海の印象が強すぎて、そこまで綺麗だと思わなかった。天気もいまいちだったのかな。もし日程が逆だったら違う結果だったかもしれないけど

のぐお:「石垣島はハブもいるしね。宮古島はいないから」

真喜子:「沖縄本島もいいところは絶対あると思うけれど、見きれなかった。広すぎてピンときづらいというか、選びきれない。ずっと東京にいたから、本島や石垣の便利な街にはそこまで興味なかったし。宮古島は小さい分、焦点が合いやすかった」

のぐお:「そうそう、本島だと選択肢が多すぎて。それで息子が小学4年生になるっていうタイミングで引越すことにしたけど、物件が全然なかったね」

東洋一美しいともいわれている与那覇前浜ビーチ

シュノーケルで魚が見られる吉野海岸にも案内してもらった

カマスやイカの大群などが見られて感激したけど写真はのぐおさんの脚

ウミガメが見られる場所があるよと連れて行ってもらったら、本当に大きなカメがいて驚いた

のぐお:「もう5年前か。2015年に伊良部大橋ができて、下地島空港にLCCの飛行機が来る(2019年)少し前。本当にあのころの宮古島はバブルがすごくて。移住希望者がすごく多いけど、まだ受け入れる状態になっていなかった。賃貸物件がゼロ件、ネットでどこの不動産屋を検索しても1軒もなくて。

どうしようかって困っていたら、たまたま知り合いの劇団にゲストで出た時、打ち上げの席に『宮古島』って書かれた青いTシャツを着てた人がいて、話しかけたら宮古島に住んでる人だったの。 それで『今度宮古島に移住しようと思ってるんですよ。物件があったら教えてください』ってお願いしたら、『こういう物件が出てきました』って連絡が来て。

急いで図面と家賃を確認して、内覧もなにもしないで、もうここに決めた」

――ここを逃したら、もう宮古島に住む家はないぞと。

のぐお:「でも来てみたら築70年近くて、ボロボロの家だった。最初は本当に人が住める状態じゃないぐらい。焦ってひどいとこ借りちゃったと思ったよね」

――そんなにひどかったんですか。今はすごくきれいですけど。

のぐお:「ネズミは走り回っているし、ヤモリのうんこがたくさん落ちているし、すごかった

真喜子:「家の中に段ボールを重ねて敷いて寝ていたよね。こうするとちょっと柔らかいって」

コンクリートの住宅としてはかなり初期のものらしい

台風が来ても飛ばされない頑丈なコンクリートの枠の中に、木造住宅が入っているような構造なのかな

移住してから飼い始めた宮古島の保護猫、ミヤ

ミヤ~

屋根に上らせてもらった。この集落はもっと海の近く、今は高級ホテルが並んでいる場所にあったが、海沿いは津波の心配があるため、みんなで高台に引越してきたそうだ

隣に仔牛(こうし)がいた。のどかだ

そして宮古島でリペア職人になった

――宮古島に来る前から、こっちでやる仕事は決めてたんですか。

のぐお:「なんにも決めてなかったね。ハローワークに通って、失業保険をもらいながらゆっくり探そうと思っていた」

真喜子:「家の片付けとかもしたいし、しばらくはのんびりしようと考えていたんだけど、仕事がやたらある。島だから仕事がないと思っていたら」

――意外と求人があったんだ。

真喜子:「できる仕事がないから失業保険をもらいますっていう状況じゃない。自己都合の退職だから失業保険も3カ月間は出ないし、働かざるを得ないっていうか。それで私は6月からもう働き始めた」

のぐお:「俺は失業保険をもらいながら家を直していたんだけど、就職するとお金をもらえるっていう制度があって」

――再就職手当だ。

来間島の竜宮城展望台から宮古島を眺める

のぐお:「それで近くの高級リゾートホテルが募集していた、補修の仕事に就職したの。ホテルの家具とか床とかを直すリペアだね。そういう仕事は東京でもちょっとやってたし、嫌いな作業ではなかったから。

でもね、だんだん直すところもなくなってくんだよね。そんな毎日いたら」

――やるべきことは限られているから、仕事が早いほど暇になるシステムだ。

のぐお:「だからもう逆に苦痛でさ、仕事がなさ過ぎて。やってるふりするのも大変だから、もうこの仕事で独立しようと思って。

リペアをする人って世界中どこにでもいるんだけど、検索したらまだ宮古島にはいなかった。それで神戸にリペアの技術を教えてくれる師匠みたいな人が見つかったから、休みの日にそこまで通って、授業料を払ってノウハウを勉強したの」

――宮古島から神戸までですか。めちゃくちゃ交通費がかかりそうですね。

のぐお:「ちょうど神戸空港と下地島空港を結ぶLCCが飛んでいたから、そこまで高くないのよ。東京とか大阪にも教えてくれるところはあったんだけど、神戸の人はサイトを見たら元バンドマンっぽくてフレンドリーな感じだった」

真喜子:「のぐたん、怖い人は嫌だもんね」

のぐお:「怒られたくないのよ。俺も昔バンドをやっていたから、この人は気が合うなって」

真喜子:「なにバンドマン気取ってるの」

下地島空港の横にある17ENDビーチ。とても美しいのだが、この場所がサンゴ礁を埋め立てた上につくられているのだなと実感させられる景色

下地島の通り池。地下で海と繋がっていてダイビングスポットになっている

――リペアを仕事にしようとしたのは、芸人時代に培った粘土とか、家をリフォームしていたときの技術が生きると思ったからですか。

のぐお:「自分の中で手先が器用っていうのはずっとあったの。東京にいた時にリペアの仕事をちょっとやった時も『前にやっていたことあったんですか?』ってちょくちょく聞かれてさ。あれ、俺うまいのか?みたいな。

高級ホテルに雇われてリペアをやっていた方が収入は保証されるけど、小さい島でも島全体を顧客にしてやってけば、それよりも稼げんじゃねえのかなって」

建物や家具の壊れた場所を、パテやペンキで補修していく。布以外はだいたい直せるらしい

のぐお:「2年ぐらいでホテルは辞めて、2020年に『ノグリペア』という名前で独立して、新聞に小さい広告を出した。そしたら出した日にすぐ仕事が来たのよ。これからすごく忙しくなるぞって思ったけど、すぐぱったりこなくなって」

――あらあら。

のぐお:「他のフリーペーパーとかにも出したけど、あんまり反響がなくて。俺は営業が苦手だし、どうしようかなーって」

――元営業マンじゃないですか、ドアストッパーの。営業してくださいよ。

のぐお:「営業される側の気持ちを知っちゃってるから、向こうはこんなこと思ってるんじゃないかと気にしちゃってダメ。だから営業はこれまで2カ所しかしてなくて」

――2カ所!四捨五入したらゼロですよ。

のぐお:「どっちも宮古島にある不動産屋さん。そこでリペアをするようになったら、 ハウスクリーニング業者とかが見学に来るの。こんなことができるんだーって。そこから口コミで島内の建築業者とかにも広まって、今は20社ぐらい取引があるよね」

――すごい。まだ開業して2年くらいですよね。

のぐお:「大きい商業施設がオープンするときに、工事で傷ついた部分をリペアする作業を一人で任されたり。新築は傷が目立つから難しいのよ。めちゃくちゃ鍛えられた」

――引き渡す前にもリペアの仕事が発生するんですね。

のぐお:「今は新築物件が仕事の3割くらいかな」

――もっと営業したら、たくさん仕事はあるんじゃないですか。

真喜子:「そうだよ、新しいホテルとかもっと行ったらいいのに」

のぐお:「でも一人じゃそんなに対応できないからね。あんまり忙しくても。人を雇って教えればいいのかもしれないけど、やっぱり一人が気楽でいいしね」

ヌドクビアブという謎の洞窟でたくさん蚊に刺された

宮古島でのちょっとだけ不便な暮らし

宮古島市にある有人島は、宮古島、LCCの空港がある下地島、その隣の伊良部島、北側の池間島と大神島、南西側の来間島。大神島以外は無料の橋でつながっている。サンゴ礁が隆起してできた島々で、高い山や川がない平らな島々だ。

山はともかく川までないというのが意外である。じゃあ水はどうしているのかと調べたら、サトウキビ畑の下に世界初の地下ダムをつくって水を貯めているそうだ。地下ダム資料館に行けばよかったと後悔している。

来間島から眺めた宮古島。ものすごく平らだ

そんな宮古島市の面積は約200km²なので東京23区(約630km²)の1/3ほど。宮古島の中心地から、市内のほぼすべての場所に30分以内で到着できるサイズ感。

昭和30年代は7万人以上が(現在の宮古島市に相当する地域に)住んでいたが、今は約5万人程度。都市部からの移住者が多い印象だが、高校を卒業すると島外に出る若者が多く、実際は緩やかに減少している。以上、wikipediaより抜粋。

人口統計 年齢分布図 沖縄県宮古島市 Author: Lincun 平成17年国勢調査より 0 20 40 60 80 100
左が宮古島市(紫)と全国(緑)の年齢別人口分布(2005年)、右が男女別人口分布。20歳前後がすっぽりと抜けている。Lincun at ja.wikipedia, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

宮古島はサトウキビ畑が驚くほどたくさんある

サトウキビ畑を耕したところから出てくる生き物を鳥が狙っていた

――宮古島に移住者は多いんですか。

のぐお:「多いね。若い人も、年配の人も多い。新しくお店をやるっていう人は移住者がほとんどじゃない。移住者かどうかは名字ですぐわかる。こっちの人は宮国とか下地とか地名が名字だから。野口はすぐナイチャー(内地の人=沖縄県外の人)だってばれるね」

――最初は住むところが見つからなかったっていう話でしたけど、家賃は今も高いんですか。

のぐお:「俺らが探していたころは本当に高くて。たまに物件が出てもワンルーム10万円とかの時期があったよね。今はそのブームの時に地主さんがマンションをたくさん建てたし、コロナで宮古島バブルも収まって安くなったんだけど、また空室がなくなってきていて、物件不足になりそうだって建築会社の人がいってた。

新築で家を建てるにしても、台風対策をしないといけないし、建材をコンテナで運んでこなきゃいけないから、本土よりも建築費は高くなる。土地代を含めたら東京で建てるよりは安いけど、埼玉あたりと変わらないくらいじゃないの。栃木よりは高いかな

――リモートワークで仕事ができる人で美しい海が好きなら、宮古島は魅力的でしょうね。

宮古島の繁華街から近い宮古島空港からはJTA(JALのグループ会社)やANA、少し離れた下地島空港にはLCCのジェットスターやスカイマークが発着する

――暮らしてみて不便な部分とかはありますか。

のぐお:「生活しにくくはないよね。この辺り(宮古島の南部)はサトウキビ畑ばかりでコンビニもないけど、便利を追求すると、便利であることが当たり前になっちゃう。不便を知ると、いかに便利がありがたいかわかる。それが今の暮らし」

真喜子:「わちゃわちゃうるさいよりは、ちょっと不便なところでも、ゆっくり静かに暮らしてる方がいい。本州でも沖縄本島でも、もっと不便な場所はいくらでもあるから、ここなんて全然不便じゃないけど。

宮古島って狭いんですよ。この家からどこにいくにしても、車で20~30分ぐらいあれば着く。ここは宮古の人に田舎だっていわれるエリアだけど、15分も走れば繁華街でイオンもドン・キホーテもある。こういう宮古のコンパクトなサイズが暮らしやすいよね」

――想像よりもずっと便利で驚きました。

のぐお:「だいたいのものは島で買えるし、今はアマゾンの送料もかからないから、特に困ることもないね」

繁華街には見覚えのあるチェーン店が並んでいた

なんとドン・キホーテまである

大型ショッピングモールもオープン

地元の農産物を扱う店を覗くと、パパイヤ、島バナナ、サトウキビ、アロエ、サツマイモの葉っぱ、スベリヒユなどが売られていた

ラジバンダリも宮古島に住んでいるらしい

――宮古島の物価はどうですか。

真喜子:「全部高いよ、離島だから。サツマイモとかパパイヤみたいに島で育てているものは安く買えるけど、島外から来るものはなんでも運賃がのっちゃうから。もやし一袋88円とか最初はびっくりした。今は普通に買っているけど」

のぐお:「しょうがないね、それが離島だから。コロナ禍になってから野菜の無人販売がたくさんできて、それは安いからよく買っている。外食はそばを食べるくらいだし、勝手にバナナとか生えてくるし、そこまで食費はかからないんじゃない」

――東京だったらいくらなのに!って文句をいうのではなく、暮らしの中で安いものを選んで買えばいいと。

真喜子さんお手製のご飯をいただいた

モヤシではなくパパイヤが普通に出てくる

高級品であるモヤシ入りのフーチャンプルー。台風になると物流がストップするため、麩などの保存食をよく食べるそうだ

めでたい時に食べる豚肉入りの味噌汁、いなむどぅち(いなむるち)。甘い白味噌を使うのがポイント

固めずにつくる豆腐、ゆし豆腐

――スーパーを何軒かチェックしたら、魚よりも肉が多かったですね。地元で水揚げされたイラブチャー(ブダイ)とかも少しあったけど、主力商品という感じではない。数がそろわないから量販店だと売りづらいんですかね。

真喜子:「いつも売っている島の魚はマグロとかカツオぐらいかも。あとは運ばれてくるサーモンとかサバとか。だからお魚料理はつくる機会が本当に減った。これは住んでみて意外だったかな。島の人も意外と肉ばっかり食べてるよね」

――そういえば船に乗せてくれた島の漁師さんも、魚より肉が好きだって言っていました。

のぐお:「魚は食べなくなったね。自分で釣って食べればいいんだろうけど」

――道具代の方が高くなるやつだ。

真喜子:「そういう細かいところで変わったことはあるけれど、暮らし自体は変わんない。まったく変わらない。どこに住んでも自分たちの暮らしがあるだけだから」

――住めば宮古……島……。

のぐおさんの知り合いの漁師さんに船を出してもらって海釣りもした

食べたことのない派手な魚ばかりが釣れた

どれもおいしい白身だった

――ぼんやりした質問ですけど、移住はしてよかったですか。

のぐお:「してよかったね」

真喜子:「うん。息子はコミュニケーションがちょっと苦手なので、東京にいたときは多分学校に通うのがきつかった。でも宮古島に来たら、結構ボソボソ喋る子が多くて、息子と波長が合っているみたい。お互いがあまり喋らなくてもいいっていう関係。先生も息子のことをすごく褒めてくれて」

――おお。

真喜子:「東京に住んでいたころは、学校が楽しいなんて一回も言ったことがなかった。でもこっちに転校したら、すぐ楽しいって言うようになった。私はそれを初めて聞いたときに、もう何も言うことはない。この先なにがあってもいいわって思った。今はもう馴染んでいるから、 わざわざ楽しいって言わないけど」

のぐお:「完全になじんだね。この前、中学校の運動会があったんだけど、派手なサングラスを買ってくれっていうの。クラス全員が掛けて踊ったり応援したりするのかなと思って見に行ったら、息子ともう1人の子だけがサングラスをして、パーって開いた花道みたいなところを走ってきて、中心になって仕切って踊っているから、こっちとしてはめっちゃサプライズで」

真喜子:「キレッキレで踊っていたね。宮古に来て、先生とクラスメイトに恵まれているなって嬉しくなった」

花火の音が聞こえてきたので、屋根の上からしばらく眺めた

真喜子:「宮古の人は大人も言葉が少ない。だから最初はちょっと怖いんだよね。おじいとかおばあが『なんとかが~』みたいな感じで言ってくる。でも実はめっちゃ優しい。

私の職場にいたおばあは、最初は私が挨拶しても『うん』って目を合わさずにプイってするだけ。怖!って思ったけど、でもこれで向こうとしては挨拶を返しているの。私のことをわかっているよ、みたいな感じで」

――なるほど。

真喜子:「言葉じゃないんだよね、もう全部がいろいろ。急に『もってけ』って縫ってきたかわいいティッシュケースをくれたり。『使え』って。手づくりの飲み物を持ってきてくれて『これ飲め、飲んだらいいさ』とか。おいしいですっていったら『だ!』って。ツンデレだよね」

――かっこいい。

真喜子:「言葉はほんと短いし、なんか怖いし、何言ってるかもわかんない。でも、やさしさしかないっていう人にしか出会ってない。

沖縄本島の人は話好きが多くて、1を聞いたら10返ってくるぐらいのイメージ。宮古の人は『あ?』。 でも本当に冷たいわけではなくて」

――沖縄本島よりも宮古島の人は素朴な感じなんですかね。

真喜子:「基本的に知り合いだけで成り立ってるから、言葉が少ないのかな。だからこそ、コミュニケーションが苦手な息子にはちょうどよかった。みんな言葉が少ないから。でも好きな人とはすごい喋る。興奮したときとか」

――乗せてもらった船の船長もそういう人でした。すごい無口だけど、根がかりで困っていると黙って外してくれたり、釣れないと気を使って場所を変えてくれたり、誰かが大きい魚を釣ると急に地元の言葉で早口になったり。

真喜子:「私も息子と同じで結構人見知りだし、グイグイ来る人とか自分の考えを押し付けてくる人が苦手。だからこの島の人が合っているのかな。前世は宮古の人だったんじゃないかなっていうくらい合う。

みんながちょっと人見知りみたいな感じだけど、お互いが思いやってる。あったかいんだよね」

防波堤からもやってみたが、小魚しか釣れなかった。島だから簡単に釣れるとは限らないのだ

でも島の子どもは大物を釣り上げていたので、我々が下手なだけだったのかも

――今回は9月の後半に、台風の合間を縫うようにして来ましたけど、それでも結構暑いですね。真夏はやっぱり暑いんですか。

のぐお:「今は東京の方が暑いから、宮古島は避暑地っていわれている。日差しは強いけど、暑くても32度とか33度くらい。東京は35度を超える猛暑日が当たり前でしょ。そういう暑さはないのよ。この前、夏に栃木へ帰ったら暑くて死ぬかと思った」

――宮古島だと猛暑にはならないんだ。逆に冬はどんな感じなんすか。

のぐお:「南国だと思って、ちょっとなめてると寒い。冬物の服とか暖房を全部捨てちゃったんだよね」

――あー、引越しの荷物を減らすために。

のぐお:「ダウンなんてこっちじゃ着ないだろうって。でもそれが必要な時期もあるのよ。一年に2週間くらい。最低気温が17度ぐらいで」

――全然暖かいじゃないですか。

野良パパイヤが実るくらい暖かい

のぐお:「でもこっちに慣れると17度でも寒くてさ。15度なんていったらブルブル震えている。家にエアコンをつけるとき、暖房機能なんて必要ないと思って冷房専用のクーラーを買ったんだけど必要だったね。こたつまではいらないけど暖房は必要」

――でも外出はサンダルとかなんでしょ。

のぐお:「半ズボンにサンダルで寒がっている。体験してほしいよね、あの寒さを」

――冬も観光客は結構いますか。

のぐお:「やっぱり海に入れないから少ないけど、それなりにいる。食べ物屋巡りとかは並んだりせずにどこでもいけるし。のんびりしたいならオフシーズンもいいと思うよ。意外と寒いけど」

――冬に来るときは、ちゃんと上着をもって長ズボンを履いてきます。

真喜子:「宮古はいいとこだよ、本当に。多分、本島よりも私は落ち着くと思う。のぐたんは派手好きだから、沖縄本島の方が楽しめたのかもしれないけど」

家の庭にもバナナやグァバが勝手に実るそうだ

田舎には仕事がないと思ってしまうが、実は見えていないだけ、探そうとしていないだけで、どこでも仕事自体はたくさんあるのかもしれない。それを自分が楽しくできるかどうかは別問題だけど。

リペア職人という宮古島に存在しなかった仕事を、お金を払って勉強して、しっかり身に着けて成り立たせているのぐおさんのバイタリティは、素直にすごいと思った。

ところで先日、宮古島のビッグチーフというライブハウスで、人力舎の先輩であるユリオカ超特Qさんがライブををやったとき、のぐおさんが前座として久しぶりにネタをやったそうだ。もしかしたら、彼はまた芸人の道に戻るのかもしれない。

宮古島で生まれ育った人の声

野口家から移住者側の話をじっくりと聞いたが、宮古島で生まれ育った地元民側からも話を伺いたくなり、滞在最後の夜、のぐおさんの知り合いでライブハウス「雅歌小屋」をやっている伊良部将之さん(55歳)に、宮古島の変化を教えてもらったので最後に書き添えておく。

今度釣りに行く約束をした伊良部さん

伊良部将之さん:「宮古高校を卒業して、一浪して福岡の九州産業大学に入ったんですよ。そのころはサトウキビ畑だけでなにもなかったね。今はドンキもあればマックスバリュもあるけど。

当時は高校を卒業したら、宮古島にいてもしょうがないという空気。どこの離島もそうだけど、それで過疎化していくという流れがあった。

私は福岡に10何年か居て、30歳を過ぎて戻ってきて25年目。そこから変わっていくスピードがすごかった。昔は移住者もほとんどいなかったよ。航空チケットも高かったし。

芸能界でちょっと沖縄ブームをやってきて。安室ちゃんとかSPEEDとかDA PUMPとか。ちょっと沖縄が元気になり 、石垣島がブームになり、ついでに宮古島も人気になって。そこに橋ができてLCCが飛ぶようになって。

受入態勢が完成してないまま、全国に宮古島の魅力を気付かれちゃった。ホテルがどんどん立つのに、観光する施設がない、ご飯を食べるところもない、移住者が住む家もない。

バランスが悪いな。ちょっとスピード速すぎるね。ある意味、予想してたとおりではあるけど」

今も次々と大型ホテルが建設されている

埋め立てや開発でサンゴが死ぬと、そこにいた魚もまたいなくなり、 生態系がおかしくなるよね。小学生のころはね、今夜のおかずは釣ってきた魚ですよ。いくらでも釣れたけど、今は魚も減ったでしょ。

昔は大きなスーパーマーケットもコンビニもなかったよ、当然。でもさ、 家で食べるものに困った記憶はなかった。裏の畑で採ってきた野菜とか釣ってきた魚を食べる。肉はお祝いの時に豚とか鶏とかヤギを食べるくらい。普段は缶詰のランチョンミートとかくらいで。

それで十分、みんな健康に暮らして、たくさん子どもを育てて、長寿だったんだと思うよ。マクドナルドなんて食ったことなかった。食べたらおいしかったけどね。今は焼肉屋もたくさんあるし、肉を食べない日なんてないんじゃないですか。

これはスピリチュアルでもオカルトでもないけど、俺はある程度のしっぺ返しがあると思うね。あれだけ海を埋め立てたり自然を傷つけちゃったら。ちょっとバランスが悪すぎますよ」


伊良部さんから無茶ぶりをされて、急遽ステージに立ったのぐおさん。印象的なブリッヂ部分をどうぞ。いつかこのステージから芸人のぐおの第二章が始まるかもね

のぐおさんや伊良部さんの話を聞いて、私が知らない昔の宮古島に住んでみたかったなと思いつつ、でも住んだら絶対に「LCCがあったらいいな」とか「大きなスーパーがあればいいのに」と、さらなる便利を欲しがっていただろう。

長期的かつ客観的な視野を持った開発・発展と保全・規制のバランスは、本当に難しい。私はただの観光客であり島の部外者だが、また宮古島を訪れたときに、今回と同じように海の色で感動できたらいいなと思った。サンキュー。

猫のミヤもかわいかったので、また宮古島に行きたい

ノグリペア

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著者:玉置 標本

玉置標本

趣味は食材の採取とそれを使った冒険スペクタクル料理。週に一度はなにかを捕まえて食べるようにしている。最近は古い家庭用製麺機を使った麺づくりが趣味。『育ちすぎたタケノコでメンマを作ってみた。 実はよく知らない植物を育てる・採る・食べる』(家の光協会)発売中。

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