しれっとガンコに「町」で居る。桜新町わたしの聖地。

著: 清水幹太 

先日、富山県に行った際に、「聖地巡礼」をする機会があった。藤子不二雄(A)先生による自伝的作品「まんが道」の前半は先生の故郷である富山県を舞台にしていて、先生の漫画人生における象徴的な出来事が描かれた場所は、「聖地」になっている。「この郵便局から先生は原稿を東京の出版社に送ったんだなあ」とか、「先生はこのへんの新聞社で働いていたんだなあ」とか。

私の自伝的作品はまだ、ない。私は藤子先生のように何か大きなことを成し遂げた部類の人ではないので、今後も自分の人生が物語になって人の目に触れることなんてないのかもしれない。しかし、自分の人生が物語になるのなら、例えばどういった場所が「聖地」になるんだろう? なんて妄想してみる。

私が生まれ育った場所は、東京都世田谷区桜新町。サザエさんの舞台として有名な桜新町は、三軒茶屋や駒沢大学、用賀といった周辺の世田谷の「街」と較べると、でかいビルも立っていないし、空が広く、妙なローカル感を漂わせている「町」であり続けている。桜新町が繁華街っぽい発展をしない理由は、地元の有力者がそういう方針をもっているとか、そんな話を聞いたこともある。

1997年くらいだったか、私が大学生のころ、桜新町の駅前にマクドナルドが開店したのは、桜新町民にとって「事件」だった。ずっと、周囲の街の中で、桜新町にだけマクドナルドがない、という時代が続いていたからだ。突然駅前にマクドナルドが開店したとき、「ああ、ついに桜新町もいっちょまえの街になるのか」なんて思ったものだった。

そんな歴史的なマクドナルド開店から二十数年。桜新町はそれなりに様変わりして今っぽくなったし、おしゃれな住宅街といわれればそう思えなくもない雰囲気すら醸し出している。

子どものころ、500円を握り締めてファミコンのディスクシステムの書き換えに行った町のおもちゃ屋さんはドトールになっているし、サザエさん通りの角にあった古い電気屋はカルディハウスになった。足しげく通った駅前の本屋も小さいCD屋もどでかいツタヤに駆逐されてなくなってしまった。そうしてみると、桜新町も、時代の要請に抗えずに変化してきたのだろう。

しかし、桜新町の面白いところは、それでも頑固に「町の酒屋さん」とか「町の食堂」みたいな「町の○○」みたいなものがしっかり根を張っていて、一皮むけば、他の街々とは違う「町」の姿を見ることができるところだ。そしてそういった「町」の姿は、筆者の幼少期から頑固に変わっていない、しれっと続いている昭和の姿だったりする。筆者のここまでの個人的な人生を一つの物語に見立てたとき、その物語の「聖地」が桜新町のそこかしこに、そのままの形で残っている。

今回は、そんな桜新町生まれ桜新町育ちの筆者による、今も残る桜新町の「町の○○」、もとい「マイ聖地」をご紹介していければと思う。

桜新町の駒沢寄りの地域には、地元の神社、桜神宮があって、東京ガスと東京電力の社屋がある。そこからほど近くには、「おもちゃのホビー」という、小さなプラモデル屋があって、私が小学校に上がる前から地元の子どもたちが安いプラモデルを求めて集まるコミュニティスペースになっていた。

筆者がまだ幼稚園の幼少期、毎月一度、うちの父親が「500円サービス」というテーマ(?)で、この「おもちゃのホビー」に連れて行って、500円以内のプラモデルを買ってくれる、というのが定例イベント化していた。500円サービスに連れてきてくれた父は、今の私より若い30代の青年だったはずだ。その若かった父は、70代の老人としていまだに桜新町に住んでいる。

「おもちゃのホビー」は既に無く、しかし、ほぼ同じ場所で、同じくらいのサイズの小さい「町のプラモデル屋」である「AXIAL」が営まれている。

その帰りなどに、よく父が連れて行ってくれたのが「増田屋」だ。AXIALを後にして、駅の方向に戻ると、駅がある新町通りと、世田谷線の上町方面に延びる「教育センター通り」とが交差するところに、ちょっと立派なそば屋さんがある。それが「増田屋」だ。入口には、立派な鯉が泳ぐ池があり、敷地も、町の小さいそば屋というにはちょっと違和感があるくらいは大きい。このお店は、筆者が幼少期、40年以上前から存在する古い店だ。

幼少期から食べていたものというのは、普通の食べ物よりうまいと相場が決まっているが、恐らく増田屋のそばは、筆者が生まれて初めて食べたそばだ。それが故なのか、筆者は、増田屋のそばよりおいしいそばというのを知らない。まさに自分にとって、聖地の食べ物だ。

増田屋の大きめの店内には常に、香ばしい揚げ玉の匂いが漂い、みんな店の真ん中のテレビを横目にそばをすすっている。このテレビも、ブラウン管の小さいテレビだったのが、いつしか液晶の平べったいテレビになってしまったが、そのほかは、私がこのお店で初めてそばを食べた昭和50年代から何も変わっていない。何より変わっていないのは、増田屋の冷やしたぬきの味わいだ。町のそば屋をなめてはいけない。何十年もお店が続くのには理由があるのだ。昭和50年代の冷やしたぬきを味わうなら、桜新町の増田屋だ。

増田屋は以前は出前もやっていた(今はやっていない)。筆者は、少年時代に何回か桜新町の地域の中で引越しを経験しているが、最初に住んでいたアパートは、増田屋の出前エリア外だった。故に、増田屋でそばを食べる、というのはイコール、ちょっと特別な外食の日ということになり、増田屋の冷やしたぬきは、かなりテンションが上がる食べ物だった。増田屋に入ると、まだ若い父と母と、一人っ子の自分が店のテーブルを囲んで冷やしたぬきをすすっている姿が目に浮かぶ。

幼少期を経て、小学校に上がると、父が「ゼビウス」にはまって、一緒に桜新町のゲームセンターに入り浸るようになった。毎日小さい子どもを連れてゲーセンでシューティングゲームに興じているのもどうかと思うが、あのゲームセンターのタバコ臭い空気がたまに無性に懐かしくなる。しかしそのゲームセンターは随分前に閉店してしまった。

ゲームセンターに代わってやってきたのがファミコンだった。ご多分に漏れず、桜新町の子どもたちの間でもカルチャーの中心はファミコンになった。お小遣いで買ったり、誕生日などに買ってもらえるゲームソフトは限られていたから、小学校の同級生とソフトを貸し借りして遊ぶことになる。

小学4年生のときの冬だった。発売されて間もないファミコンソフト「キン肉マン マッスルタッグマッチ」を、同級生の島倉くんから借りて、自宅で遊ぶのを楽しみに、走って帰途についた。楽しみ過ぎてロクに信号機を見ていなくて、島倉くんの家からほど近い横断歩道で信号無視をして個人タクシーに轢かれてしまった。連絡を受けた両親は、今も語り草にするほど肝を冷やしたという。

幸い怪我は軽症で済んだが、私が「キン肉マン マッスルタッグマッチ」を片手に交通事故に遭ったのが、現在の世田谷区立教育センターの前の横断歩道だった。事故に遭った当時は、教育センターは建設中で、子どもにはそこに何ができるのか謎だった。

事故からしばらくして、そこにできたのは、当時としてはこの上なく近代的で洗練されたかっこ良くてでかい図書館と、そこに併設されたプラネタリウムだった。

このプラネタリウムは、当時の近隣の少年少女にとっては非常にセンセーショナルなものだった。プラネタリウムなんていうものは渋谷まで出て(当時は渋谷にプラネタリウムがあった)お金を払って楽しむようなもので、自分たちの町にそんなものが突然やってくるなんて誰も想像していなかったからだ。

そして、そのプラネタリウムは、真新しい洗練された建物だったあのときから30年以上の時を経て、「町のプラネタリウム」としてすっかり桜新町の風景の一部になり、今なお健在だ。投影機械は変わって高機能・高解像度になっているが、建物は当時のままだ。週末にちょっと子どもを連れて行くにはちょうどよい、近所のお手ごろなエンターテインメント施設だ。

図書館に調べ物に行ったり、プラネタリウムを訪ねたりするたびに、「あのときは親に心配をかけたなあ」「タクシーの運転手さんに悪いことしたなあ」などと思って申し訳なくなってしまう。

中学・高校と、私は相変わらず桜新町と一緒に年を重ねた。そして大学生になり、冒頭に書いたように、ついに桜新町の駅前にマクドナルドが開店した。

そんな桜新町にとって記念碑的なマクドナルドの開店と同時に、同じマクドナルドの建物の3階にひっそりと開店していたジャズバーがあった。それが、「CHERRYJAM」だ。

筆者は、当時ジャズバンドのサークルに入っていたのもあって、開店前の「CHERRYJAM」のアルバイト募集を見かけて、思い切って応募した。私は、そうして、「CHERRYJAM」の初代アルバイトとして、真新しいマクドナルドの3階で働き始めた。

マクドナルドの3階なんて、入りにくいことこの上ない。開店したばかりというのもあって、お店は暇過ぎるほどに暇だった。マクドナルドが建つ前から同じ土地で喫茶店を営んでいたマスターは、筋金入りのジャズ好きで、暇にかまけていろんな音源を聴かされ、いろんなお酒を飲ませてもらった。そして、将来に悩む大学生の私の相談も、たくさん聞いてもらった。

実は今回、桜新町について文章を書いてみないか、という依頼を受けたときに、ふと思い出したのが、ある夜、「CHERRYJAM」でバイト中にマスターに伝えたことだった。

当時の私は、特になりたいものもなくて、就職をする気分にもならず、どうしたものか迷っていた。そんなとき、ふと、マスターに「お前、物書きになるといいよ。向いてるよ」と言われた。どういう考えだったのか想像がつかなかったが、そんなことを言われて、私はこう返したのだ。

「じゃあ、物書きになったら、きっとこの店のことを書きますよ」と。

結局私は物書きにはならず、「テクニカルディレクター」という、当時は存在しなかったような職能で、デジタルのものづくりに携わっている。しかし、ひょんなことから桜新町について文章を書く機会を頂いた。

二十数年ぶりに、「CHERRYJAM」の扉をくぐった。お店は、ここまでに書いてきた「マイ聖地」と同じように、変わらぬ佇まいでそこにあった。そしてもう70を超えていらっしゃるであろうマスターも、相変わらずそこでジャズを聴いていた(正確には、現在は日中はマスターが担当して、夜のバーは息子さんがやられている)。

店の隣には、マクドナルドのバイトさんの控室がある。廊下に足音が聞こえて、「客が来たぞ!」と思ったらマクドナルドのバイトさんだった、みたいな現象も当時のままだ。

マスターは、私に言ったことなど覚えていなかったけれど、当時のバイトの気まぐれな帰還をとても喜んでくれていた。自分には、このお店が「町のバー」として存在し続けているだけでありがたかったし、マスターにとっては、こんな四半世紀ぶりのアルバイトの来訪みたいな出来事も、「町のバー」をやり続ける醍醐味なんだろう。

二十数年ぶりにお会いしたマスターに「また来ますよ」と言って店を出た。私の物語は続いていくし、桜新町もまた、続いていくのだ。うまく言葉にできないけれど、桜新町とは、そういう「町」だ。


著者:清水幹太

清水幹太

東京大学法学部中退。2005年12月より株式会社イメージソース/ノングリッドに参加し、クリエイティブディレクター/テクニカルディレクターとしてウェブサービス、システム構築から体験展示まで様々なフィールドに渡るコンテンツ企画・制作に関わる。2011年4月、株式会社PARTYチーフ・テクノロジー・オフィサーに就任。2013年9月、PARTY NYを設立。2018年、BASSDRUMを設立。

編集:ツドイ