四天王寺再生工場

著者: 日下慶太 

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体がむくみはじめた。夕方になるとむくみが激しくなる。はじめヨーロッパまでずっと飛行機に乗っていたかのように足がむくんだ。やがて太ももまでむくんできた。体がたぷたぷだった。寝て起きると顔がむくんで目が開けられなくなった。これはおかしいと病院に駆け込んだ。腎臓の病気だった。明日から入院するようにと医者は告げた。

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ぼくは広告代理店でコピーライターをしている。大阪に配属され20代は大阪で働いていた。まったくいい仕事はできず、うだつの上がらぬ毎日を送っていた。東京へ異動になった。このままでは冴えないコピーライターで一生が終わってしまう。東京で何かしなくてはと一念発起した。寸暇を惜しんで企画を続けた。結果、「東京コピーライターズクラブ最高新人賞」という漫才師にとってのM1グランプリのような大きな広告賞を取ることができた。

賞の効果は大きく、さまざまな人から仕事が来るようになった。スターへの階段の入口が見えた。今からまさに階段を一歩踏み出そうとするその時だった、病気になってしまったのは。『微小変化型ネフローゼ症候群』という腎臓の病気だった。命に別状はなかったが、2カ月入院せざるを得なかった。薬の副作用が強く、退院後もしばらく自宅療養を命じられた。退院して4カ月後に第一子が生まれ、その2カ月後に妹が亡くなった。その半年後に父親が脳溢血で倒れた。母親が一人実家に残ったので、ぼくは自宅療養中の身ながら、実家にしばらく住むことになった。実家で母親の面倒を見て、妻の実家に出かけて子どもの面倒を見る。成長する、よりよい作品をつくる、さまざまな人と交流するといった前向きの慣性がぼくの人生には働いていたが、完全になくなってしまった。人生が静止してしまった。どうしたものだろう。

たまに外に出たくなった。買い物をするにも金がない。体力もない。梅田やなんばなどの繁華街に行ってもむなしくなるばかりだった。実家の最寄りの阪急山田駅から天下茶屋行に乗って動物園前までよく行った。降りれば大阪のディープサウスだ。1本で大阪の真逆に来れる。ぼくは生まれも育ちも千里ニュータウンだ。そこは歴史も地縁も祭りもない場所だった。効率や利便性を考え抜いてつくり出された新しい町は交通のアクセスはよく、緑も豊富で暮らしやすかった。しかし、人間関係は薄かった。地元の祭りもなかった。神輿も担げなかった。それから下町や祭りといったものに憧れを抱くようになった。

動物園前駅を降りてすぐの新世界、少し南へ下った釜ヶ崎、そこではおっさんが昼から飲んで路上で寝ている。電柱に向かって話しかけている。人形を並べて割り箸を振って人形オーケストラを指揮している。靴が片一方で売られている。タバコがバラ売りされている。じゃがりこもバラ売りされている。人間にはさまざまな生き方がある。ここに来るといつも楽になった。東京はギチギチとして息苦しかった。金があれば楽しかったが金がないと楽しみ方は限られる。大阪ではおっちゃんたちが楽しそうに生きている。みんないい顔をしている。大阪は敗者に優しい。だから、ブルースが合う。ぼくは病に倒れ、いわゆる会社の競争に負けてしまった。敗者である。ぼくも住むには大阪がいいのかもしれない。

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自宅療養は終わった。東京で復帰するには第一線でバリバリやるしかない。しかし、まだ病気は完治していなかった。大阪に戻って仕事量が少ない部署から始めることになった。東京では地震が頻繁に起こっていたので、地盤がしっかりした上町台地に絞り家を探した。上町台地とは大阪市中心部の北は大阪城あたりから南は住吉大社あたりまでおよそ12kmの台地である。大阪市内はその昔、ほとんどが海であり埋立られた場所が多い。しかしながら、上町台地はずっと昔から陸地だったので地盤がしっかりしていた。四天王寺の近くにいいマンションがあったので引越した。そこには縁もゆかりもなかったが、いいマンションが見つかったことと、新世界から徒歩10分という立地でありながら、閑静な住宅街であるというところが決め手となった。

四天王寺によく散歩に行った。境内は広く、穏やかで、いつも優しい気持ちになる。四天王寺のキャッチコピーは「日本仏法最初の官寺」。四天王寺には宗派がない。門限もない。境内には24時間入ることができる。その懐の広さが気に入った。五重塔やお堂は戦争で焼かれてしまい、今はすべて再建されたものであるが、もし現存していれば法隆寺と同じころに建てられているので間違いなく世界遺産であったろう。境内の東側にある「極楽浄土の庭」という日本庭園は、入園料300円が必要であるが、緑にあふれ、人は少なく、平日の昼間は一人で静かに庭園を歩きながら思索に耽ることができる。まさに都会の極楽である。

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歴史がある寺社仏閣なので祭りや行事がたくさんある。春には聖霊会という古代から続く祭り、夏には七夕と河内音頭と万灯供養、冬には『どやどや』というふんどしの男たちがお札を奪い合う祭りがある。

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弘法大師の月命日である21日には『お大師さん』、聖徳太子の命日である22日には『お太子さん』という縁日が開催される。おしゃれな雑貨から、骨董、盗品めいたものまで並ぶ。土日に重なれば、赤飯屋がやってくる。この店は世界でいちばんおいしい赤飯をつくると思っている。この日にはいつも赤子のように人形を背中に背負ったおじさんがやってくる。とあるおばあさんは、通りがかりの参拝客に話しかけて、いつもアイス屋に連れて行く。そして、自分の分と参拝客のアイスを頼み、一緒に食べてからそのままどこかへ行く。代金は参拝客が払うこととなる。お太子さんにて1000円で買ったマンドリンと1500円で買った大正琴はほとんど使われないまま物置に眠っている。古来よりずっと、境内では市が開かれ活況を呈したのだろう。
 
四天王寺の歴史については公式HPから引用させていただく。

四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。
四天王寺の歴史 より


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太子殿という建物の裏に物部守屋を祀る祠がある。聖徳太子は敵まで祀っていたのである。さらに、太子は戦に敗れた物部家の人間も積極的に雇用した。また四天王寺の南には「悲田院」という場所がある。ここは今でいうところの福祉施設であり、病人や身寄りのない人間をここで面倒を見ていた。天王寺さん(四天王寺)は1300年以上も敗者に優しかったのだ。だから、大阪は敗者に優しかったのだ。大阪という土地の根源を四天王寺で発見したぼくはずっと興奮していた。そして、現在もなお、四天王寺の慈悲は周囲に溢れ、すぐ近くの釜ヶ崎にまで届いている。

さらに、物部とぼくの姓である「日下」には関係があった。東大阪市にある日下町というのがぼくのルーツだ。そこはかつて物部氏の拠点であった。ご先祖さんが祀られているようで人ごとではなかった。

四天王寺は上町台地に位置している。上町台地の歴史は古い。京都人に大阪は歴史がないとバカにされると、京都より大阪の方が200年古いと切り返す。四天王寺、難波宮、生国魂神社、鵲森宮、愛染堂、大阪城、大阪府庁。上町台地は廃れることなく1600年近くずっと歴史の表舞台、人間の活動の中心にある。こんな町は世界を見渡してもなかなかない。上町台地が好きでここに移り住んだ作家の有栖川有栖さんはこう語る。

「(歴史の声が)耳を澄ませばかすかに聴こえてくるよう」
「こちらが探して訪ねて行ったらやっと見つかる感じがいいんです」

上町台地の地域情報誌『うえまち』 2014年3月号 より


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そう、京都や奈良のようにわかりやすく歴史は現れない。注意深く探さなくては出会えない。おすすめは、有栖川さんも『幻坂』という本で題材にした天王寺七坂だ。上町台地から西は低地になっている。台地と低地の境界は寺町になっている。このあたりに七つの坂があり「え、こんな風光明媚なところが大阪にあるの?」と思ってしまうほど。特に源聖寺坂と、清水坂は美しい。上町台地から坂を下り、そのまま西へ歩いて行くと日本橋の電気街のカオスが現れ、やがて難波に至る。ぼくはこの歴史と文化の急勾配が大好きなのだ。

四天王寺の法力に癒やされたのか、ぼくの病気はよくなっていった。コピーライターの競争には負けたものの、違う生き残り方を見つけて、仕事はうまく回り出した。昨年には自著を出し、今年の7月には写真集を出し、UFOを70%近い確率で呼べるようになった。

このまま天王寺さんの近くに住んでいたかったが、どうも家賃が高かった。夕陽丘あたりに家を買いたかったが高かった。なるべくこの雰囲気が残っている場所へと思い、上町台地の南端の阿倍野へと引越しをした。近くに阿倍王子神社などはあるが天王寺さんは遠くなってしまった。JR環状線を越えてしまったことに少し悲しいのである。

この執筆の話をもらったときに、誰もマイナーなこの町のことなど書いていないだろうと思ってはいたが、調べると、吉村智樹さんが書いていた

しかも、吉村さんも東京で夢破れ帰ってきて四天王寺に住んでいたのだった。吉村さんの活躍とぼくの近年の活動を見る限り、四天王寺は見事に人間を再生している。今度、吉村さんと一緒にイベントをするので四天王寺について語ろうと思う。

 

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筆者:日下慶太(くさか・けいた)

日下慶太(くさか・けいた)

コピーライター・写真家。1976年大阪生まれ大阪在住。大学時代にユーラシア大陸を陸路で横断。チベット、カシミール、内戦中のアフガニスタンなど世界をフラフラと旅して電通に入社。商店街のユニークなポスターを制作し町おこしにつなげる「商店街ポスター展」の仕掛け人。コピーライターとして勤務する傍ら、写真家、UFOを呼ぶためのバンド「エンバーン」のリーダーとして活動している。2018年6月に初の自著『迷子のコピーライター』を出版。ツッコミたくなる風景ばかりを集めた『隙ある風景』日々更新。都築響一氏編集「ROADSIDERS' weekly」でも写真家として執筆中。佐治敬三賞、グッドデザイン賞、東京コピーライターズクラブ最高新人賞、朝日広告賞、ゆきのまち幻想文学賞ほか多数受賞。

 

編集:ツドイ