神泉の姿をいつか誰かが見つけられるように、とりとめのない瞬間を留めておこうと思った|文・井戸沼紀美

著: 井戸沼紀美

神泉で映画と出会う

吉祥寺と渋谷を結ぶ17駅からなる井の頭線。渋谷の一つ手前に位置する「神泉」は、東京で最も多く通った駅だ。

理由は大きく二つあって、一つ目はそこから徒歩4〜5分、道玄坂上にかつての職場があったこと。2015年の秋から2020年の春ごろまで週5で通勤していたから、ざっと数えても1000回はこの駅に降りたことになる。平日の朝、オフィスへと向かう道中では、おしぼり屋や氷屋のトラック、ホテルから出てきたばかりで眩しそうな二人組とよくすれ違った。

この駅に通うもう一つの理由は映画館である。二つのミニシアター、シネマヴェーラとユーロスペースがどちらも円山町の「キノハウス」という建物に入っていて、私はたいてい上映時間ギリギリに電車を降りては、バタバタとその方角を目指す。駅を出たらいびつな石段を登り、街を勢いよく突っ切ると、なんとか開演前に劇場へと滑り込めるのだ。

いつも急いで登る階段


キノハウス。シネマヴェーラとユーロスペースのほかに、2階と地下1階にもスクリーンがある

この建物に初めて足を踏み入れたのは今から11年も前、友人に勧められて濱口竜介監督の『親密さ』を観に行った時だった。現在はユーロライブとして運営されているキノハウスの2階は以前オーディトリウム渋谷という映画館で、そこで夏の日、4時間を超える同作のオールナイト上映が行われていたのだ。映画が単なるフィクションとしてではなく、人生の出来事の一つとして身体に流れ込んできたような、自分にとっては画期的な出来事だった。

塞ぎ込んだ気持ちの日に人知れず4階に向かい、たまたま上映されていた1950年代の映画を観たこともあった。『パスポートのない女』というその映画の劇中には「乾杯する理由が見つからなくても、小さな幸せはある」という台詞があって、思いがけず欲していた言葉をかけてもらえたような気分だった。

神泉あたりで時間を持て余していたり、なぜか気分が落ち込んでいたりする日には、軽率にこの場所へと吸い込まれてみればいい。フランスの険しい山や気持ちよさそうな川、韓国の地方のクラブやホテル、ドイツの怪しげなアパート、強い風が吹く日本の海辺……いつだって思いがけない景色や人間模様が、暗闇の中で待ち受けている。


これまでに観た映画の半券の一部


キノハウスのすぐ先、百軒店で見つけた写真。
円山町にはかつてテアトル渋谷、テアトルSS、テアトルハイツという3つの映画館があったそう

Bunkamuraと女将の色紙、更新され続ける地図

今年4月まで営業していた「Bunkamura」にも、以前は神泉駅から通っていた。今は宮益坂下で営業を続けるル・シネマに映画を観に行くことはもちろん、本館8階の喫茶トップでカフェオレを飲んだり、7階の広々とした丸善&ジュンク堂書店をゆっくり見て回ったりするのが至福のときで、ガラス貼りのエレベーター「クリスタルビュー」で心地よい重力を感じながら地上に降りれば、ご機嫌なままで街を闊歩することができたのだった。

なめらかなBunkamuraの壁面

こうしてあれこれ振り返るうちに、神泉周辺の地図が猛スピードで更新されていることにも改めて気付かされる。数年通ったオフィスはコロナ禍に明け渡されてしまったし、家の鍵を落として朝4時に満身創痍で舞い戻った「Contact」も、DEV LARGE氏の追悼イベントでスクランブルのほうまで列をなしていた「VISION」も、もう道玄坂にはない。相米慎二『ラブホテル』(1985年)のロケ地「幸和」にも、解体前に勇気を出して足を踏み入れておけばよかったなあ。建物沿いを通るあらゆる人に向けて自筆色紙を飾っていた女将は、まだお元気なのだろうか。

「幸和」壁面にかつて飾られていた色紙

うつろいゆく街で、色褪せない蝶と詩の記憶

一つひとつの場所がみるみる姿を消して、あっという間にピカピカになっていく過程にはいつまでも慣れない。けれど一方で、自分が脳内で描くことのできる街の姿が、これからどんどんガラパゴス化していくのだと思うと、静かに心が燃えるような感覚もある。記憶の中にある忘れたくない景色を、もう一度なぞってみたい。

例えば2020年、コロナウイルスが猛威を振るい始めた後で、数ヶ月ぶりに出社したときのこと。神泉駅のホームに足をつけた瞬間、白いモンシロチョウが視界の隅をかすめた。改札へ向かう人の波をよけて振り向くと電車のドアが閉まるところで、モンシロチョウは既にガラスの向こうに閉じ込められていた。夏服を着た小学生の間をひらひらと舞うそれが加速しながら視界から遠ざかる光景は、今でも神泉駅の最も美しい一瞬として心に焼き付いている。

あるいは道玄坂の強い光のこと。会社のビルからランチを買いに外に出ると、午後の道玄坂に、「降り注ぐ」という表現がよく似合うかたちで陽が差していることがあった。詩人・吉増剛造さんの初期詩集に『今朝も道玄坂をおりて』という作品があって、学生時代にそれを何度も読んでいたからか、私には「道玄坂はおりるもの」だと確信しているような部分がある。渋谷駅を背にして坂を登るのもいいけれど、やはり神泉駅から道玄坂のてっぺんに向かい、光を背に受け下降していく運動の方に興奮を覚えるのだ。

「ほら/おまえが働くビルが/もう/眼の前だ!/疲れて/ぶったおれたって/戦うさ/おれたちの魂は/われわれの魂は羅針盤そのもの」。
(吉増剛造『黄金詩篇』思潮社、1970年より一部抜粋)

『今朝も道玄坂をおりて』を改めて読み返してみると、10代の頃には感じられなかった労働のフィーリングが、それでも理想を手放さない気高さが、切々と体に訴えてくる。いくら建物が入れ替わっても、ある場所で生まれた感情や刻みこまれた感覚は、きっとこうして何度でも蘇り続けるのだ。

選択を積み重ねること

「平凡なものを不滅にするってすごくクールだ」「しかも楽しいし」

大好きな映画『カモン カモン』の劇中には、そんな台詞がある。ホアキン・フェニックス演じる主人公ジョニーが、NYの街でフィールドレコーディングをする9歳の甥・ジェシーに語りかける場面だ。頭上を通過する電車の音や広場を滑走するスケートボードの音は、天候や時間帯などさまざまな条件に晒されているから、本来ならば二度と再現されることはない。けれどたった一度その指でRECボタンを押したなら、自分の抱いた世界への愛着を、未来へと伝えることができるのだ。

さまざまな国や年代の情景が自分の元にまで届けられてきたように、現在の神泉の姿をいつか誰かが見つけられるかどうかは、今この街を歩く私たちにかかっている。そう考えたら、たとえ拙くても、私もこの街のとりとめのない瞬間を捉えておきたいと思った。

8月のひどく暑い日、工事中の「Bunkamura」前に咲く花が綺麗で、思わず足を止める。シャッターを切るとき手元がグラついて、写真は見事にブレてしまった。でもその情けない瞬間のことを、これから何度でも思い出せるのが嬉しい。

街の変化には簡単にコントロールできない運命のようなものも付きまとうけれど、同時にこの街を「不滅」のものにする選択肢も、まだいくつも残されている。カメラや録音機材を回すこと、言葉を綴ること、誰かの記憶を伝えていくこと……。そうした選択を重ねることがどれだけクールなのかを、神泉の街が私に教えてくれた。

著者:井戸沼紀美

井戸沼紀美

2018年から映画にまつわる自主プロジェクト「肌蹴る光線」を始動。作品パンフレットや雑誌、ウェブメディアへの寄稿や不定期の上映活動を続ける。今年4月からは『Hanako』Webで毎月1人の映画人にインタビューする連載企画「エンドロールはきらめいて」を担当中。
https://hadakerukosen.studio.site/

編集:ツドイ