著者:ななすけ

東京都板橋区出身。YouTubeチャンネル「ななすけの散歩録」を通して散歩の奥深さや街の歴史を伝える散歩系映像クリエイター。チャンネルでは主に街の谷地や暗渠などに着目した散歩コースを提案している。過度な散歩が原因で腰痛を繰り返す。犬が大好き。
X : https://x.com/nanasuke_55
Instagram : https://www.instagram.com/nanasuke_55
「志村三丁目」、と聞いてピンとくる人はきっと少ないだろう。東京都板橋区の志村三丁目。この町は私の故郷である。
志村三丁目は都営三田線の終点「西高島平駅」に近い、住宅街と工業地帯の広がるベッドタウンだ。比較的大きくて便利なスーパーマーケットに「セブンタウン小豆沢」といった商業施設に恵まれている事から生活に不便はないが、正直、特にこれといった特徴的なものもない……。そこそこに静かな住宅街で、都心へのアクセスは良好。そんな住む場所としてはちょうど良すぎる町で、私は生まれ育った。

私のYouTubeチャンネル「ななすけの散歩録」では、土地土地の暗渠(埋設された水路)や地形に触れながら散歩を続けているが、このエッセイでも動画のように街を気ままに歩きながら地元・志村三丁目で過ごした日々を振り返りたいと思う。
志村の地形と湧水
志村三丁目は関東大震災後の都市計画で工業地域に指定されており、後に軍需工場も多く立地した地域である。そのために現在でも多くの工場が見られ、特に凸版印刷をはじめとする印刷会社や製本工場が多い。
そんな志村三丁目は「荒川低地」と呼ばれる低地に位置している。遥か大昔、荒川によって削られてできた土地なのだ。地形図を見ると、ひとつ手前にある「志村坂上駅」は、坂上という名の通り武蔵野台地上にあり、志村三丁目には、台地の崖が迫っていることがお分かりいただけるだろう。

だから都営地下鉄三田線は志村坂上駅から志村三丁目駅の間で、地上に顔を出す。地下鉄と言いつつ、三田線は志村三丁目から終点の西高島平まで地上を走るのだ。私は三田線のトンネルが開ける瞬間の長い夢から覚めたような感覚がとても好きだ。

志村三丁目駅から程近くにある「志村城山公園」では、剥き出しの荒々しい武蔵野台地の崖を観測できる。私が子どもの頃には、この崖によじ登る事がちょっとしたブームになっており、近隣の方によく叱られたものだ。

志村城山公園内には小さな川が流れており、暖かい時期にはよくザリガニ釣りをしていた。流れは停滞しているようにも見えるが、崖線からわずかに滲み出てくる湧水が確認できる。湧水の量には日によって若干差があるようだ。


このように志村の崖下には湧水が確認できるポイントがいくつか存在する。崖沿いの一線を進んだ先にも、自噴井戸(地下水が自然に地上に噴出する井戸。 扇状地の末端、単斜構造や盆地構造の地域などにみられる)がある。当時は空き地だったが、現在はマンションが建設中。しかし、この井戸かなりの量の湧水があるようで、簡単に潰すわけにもいかず、工事中は一時的にパイプを繋ぎ隣宅の排水枡へ逃しているようだ。近隣の方にお話を伺ったところ、宅地化が進む以前はもっと多くの井戸があったという。志村は水の都なのだ。


井戸周辺の戦後の地図を確認してみたところ、この一帯にだけ水田が残っているのが分かる。この井戸は、きっと遥か昔からこの地を潤してきたのだろう。どうにか残り続けてほしいものだ。

話を志村城山公園に戻そう。志村城山公園という名の通り、この武蔵野台地の崖上には豊島氏一族の志村氏により築かれた志村城が存在した。詳しい築城年数は不明だが15世紀に築城され、小田原征伐後に廃城したとされている。

志村城本丸跡には、現在マンションが建っている。


志村城二の丸跡には「城山熊野神社」がある。

本殿の裏手には閑静な森が広がっていて、志村城の空堀の跡が残っていた。埋もれてだいぶ浅くはなっているものの、横矢掛り(敵に対して側面から集中攻撃するための防衛設備)と思わしき跡まで確認できる。

中学生のころには志村熊野神社例大祭の裏で、この空堀を使って肝試しをしたものだ。迷い込んでくる小学生を待ち伏せして驚かし、泣かせた。最低だ。
ちょうどよく晴れた日で、志村熊野神社周辺からは荒川低地に広がる志村三丁目の景色が一望できた。

この崖下のY字路(志村城山公園のすぐお隣)に、珈琲の名店「自家焙煎の珈琲屋 カフェ・ベルニーニ」がある。

小さいころは、毎朝ベルニーニの珈琲豆を使ったカフェオレを父に作ってもらっていた。それももちろん美味しかったが、大きくなってお店で味わった珈琲の味は格別だった。
数々のバリスタ大会で審査員を務める実力派のマスターが淹れるコーヒーは、なんとも繊細な風味と心地の良い後味がたまらない。志村三丁目へ訪れる際には、ぜひベルニーニのブレンドを味わっていただきたい。

「出井川」暗渠散歩
志村三丁目にはかつて「出井川」と呼ばれる川が流れていたという。荒川が東方向へ流れるのに対し、出井川は西方向に流れる事から「さかさ川」とも呼ばれたそうだ。出井川は首都高速5号池袋線の建設に伴い暗渠化(地下化)され、本来の川の姿は一切残っていないが、出井川の水源から、新河岸川への合流地点までをかつての流れを辿ることができる。
出井川の主な水源は、志村三丁目駅から東に2キロ程離れた(本蓮沼駅付近)「出井の泉」だ。
泉の跡地は、現在は出井の泉公園として整備されている。

公園内には出井の泉を模した人工の池や井戸ポンプが設置されている。

出井川はこの泉に発し、現在の首都高速5号線下を流れていた。出井川暗渠沿いの住宅街を抜けると、首都高速が見えてくる。

高速のガード下、出井川暗渠には流路を再現したデザインの緑道公園が淡々と続いていく。

高速下の暗渠を進んでいくと右手に現れるのが「見次の泉」だ。見次の泉も出井川の水源のひとつで、武蔵野台地の崖下に位置する。

出井川の水源となる出井の泉・見次の泉と、少し離れた中山道沿いにある「薬師の泉」を合わせて“志村三濫泉”と呼んだそうで、先ほどの自噴井戸にも見られる通り志村がとても水に恵まれた地域だったことがわかる。
志村三濫泉のうちで唯一、今でも湧水が湧いているのがこの見次の泉だ。見次の泉では、湧水に加え2001年から浄化目的の為に地下水が汲み上げられている。「見次公園」として整備されている見次の泉は手漕ぎボートを楽しめる程の規模があり、釣りを楽しむお父さんたちの姿も度々目にする。


見次公園から程近い出井川の支流付近には「さやの湯処」という人気温泉施設もある。ここでも汲み上げた地下水を利用しており、一部のお風呂は源泉が掛け流しになっているようだ。
引き続き出井川暗渠を辿ると、途中から高速道路を外れて一段下がった緑道へ突入する。この緑道は私にとって思い出深いものだ。

というのも左奥に見える中学校が私の母校なのだ。この緑道は、部活や体育の授業で使用するランニングコースの一部。在学中は「出井川に集合」という指示を度々耳にしていた。志村三丁目の子どもたちは、目には見えない過去の川、出井川の存在をなんとなく意識しながら育っている。



緑道を抜けると、三田線の高架に当たる。この高架下でやっと「出井川」の三文字を確認し、不思議な安堵を覚えた。


そして出井川暗渠は、三田線の線路下に続いていく。線路沿いの暗渠はほとんどが駐輪場になっていた。

駐輪場を抜け進むと、再び静かな緑道が姿を現す。脇ではネコがこちらに気付く事なくぐっすりと眠っていた。

緑道には「松の湯」という銭湯。

このあたりは板橋区の坂下にあたるが、周辺を見上げてみると「長後」(ちょうご)と記されている電柱があったりする。長後とは坂下の旧町名で、1966(昭和41)年に消滅した。電柱にはこのように旧町名が残っていることがあって、散歩中に出会う興味深い発見のひとつだ。ちなみに今でも坂下1〜3丁目には「長後町会」という町内会が存在している。

そのまま淡々と緑道を進んでいくと中山道に出た。ここでついに橋跡を発見!

白いペンキで綺麗に塗り直されているものの、横へ回り込むと「しんこぶくろばし(新小袋橋)」と「昭和四十年九月完成」の文字が確認できる。間違いなくかつて出井川に架かっていた橋だ。
出井川暗渠に残る橋はおそらく新小袋橋だけではないだろうか? 「小袋」というのもこの周辺の旧地名で、湿地だったことがうかがえる。

ひっきりなしに車両が行き交う中山道のそばで、ひっそりと残り続ける新小袋橋。この小さな橋を――出井川の記憶を後世に残さんとした人物がいることに、深く感銘を受けた。
引き続き緑道を進んでいくと、細長い空き地に到達した。目線の先に……ついに出井川が新河岸川へ注ぐ出口(出井川水門)が見えた!

目には見えない川を辿るなんて、我ながら奇妙な趣味ではあると思う。しかし今も地下を流れる過去の川の存在に、なんだか無性に魅せられてしまうのだ。川の記憶を残した小さな発見の数々に、かつての人々の暮らしぶりがありありと浮かんできて、なんともいえない不思議な懐かしさを覚える。一度も見たことのない、その川に……。

散歩の醍醐味は“予期せぬ出来事の連続”だと私は考える。それは見知らぬ家から香るカレーの匂い、見たことのない犬、気になるお店、不思議な看板や張り紙との出会い。
散歩に理由や目的など必要ない。正直、暗渠や地形などの知識は散歩をより楽しむためのスパイスのひとつに過ぎない。散歩はあらゆる場所をテーマパークに変える。何もなさそうな町を、あてもなく歩いてみてほしい。そこにはネットにも雑誌にも載っていない、素晴らしき偶然の出会いが潜んでいるのだから。
編集:ツドイ
