
首都高中央環状線と外環を結ぶ5号池袋線と、東京の果てへ向かって走る都営三田線に囲まれた地域。高島平が、私の生まれ育った街です。どうにもこうにも寂しい街。ほぼ海抜ゼロメートル地帯*1という宿命を背負っているためか、何もかもが寂しい。それは公園の時計であろうと、駅前の噴水であろうと、スーパーマーケットの生け垣であろうと、例外はなかったように思えます。
私が多分におセンチな人間だからそう思ってしまうのかもしれません。ですが、そのおセンチな私が育った街なのです。日々の暮らしや思い出はまた別ですが、なぜか「自分が生まれ育った街」を思い出すとき、その景色は常に曇天です。
あのマンモス団地がある街、高島平
私は出身地を説明するときに「高島平」と言います。「あのマンモス団地がある高島平です」。そうして会話は終わる。もっとも出身地が「高島平」というのは、住所の上での話。駅でいうなら三田線の西台駅が最寄りで、父は練馬区の早宮(有楽町線の平和台駅付近)出身、母は板橋区の徳丸(東上線の東武練馬駅付近)出身なので、私は生粋でチャキチャキの練馬・板橋っ子ということになります。
現在の東京23区のうち、板橋区は後から足された地域であり、そこから分裂したのが練馬区*2。高島平は巨大団地と都営三田線でビジネス街としての都心へのアクセス良好のふたつを武器にベッドタウンとして発展した街なので、どちらも東京以外の人にはあまりなじみのない場所でしょう。
高島平は、埼玉県とほぼ隣接しています。子どものころ、北戸田のジャスコ(現・イオンモール北戸田)へ行くのが楽しみでした。父は運転が好きで、休日には家族で車に乗り、埼玉方面に出かけた記憶ばかりが際立ちます。高島平は東京であって埼玉ではない。でも「東京でもない」と思う瞬間がときどきあるのは、そういう記憶からかもしれません。
物心がついてだんだんと「東京に生まれた」と自覚できるようになってきましたが、大人になるにつれ「(ここは本当に)東京(なのだろうか?)」という居心地の悪さも感じていました。

ありったけの音楽をMDプレイヤーに詰め込んで
私は勉強はてんでダメでしたが、ゲタをデコっていただいてなんとか兄が通う城西大学附属城西中学校に入学する運びとなり、隣の豊島区は要町まで通学することになります。
運良く高島平操車場と池袋西口を一本で結ぶバスがあり、そのバスに乗って毎日通いました。車窓からの景色はいつも退屈で、その理由は恐らく中山道から山手通りと進む道程のおよそ半分が、首都高速5号池袋線の下を走っていたからでしょう。視界が限られた車窓からの景色が、私の性格に暗い影を落とすひとつのきっかけではないだろうか、と思うときがあります。
中学時代はビターな思い出も多くあんまり思い出したくはありませんが、入学を機に買い与えてもらったMDプレイヤーにありったけの音楽を詰め込み、毎日聴きました。
同じ付属の高校に上がるころ、自転車通学に切り替えます。バス代を節約して月の小遣いをどうにか増やしたい、という一心でした。一緒にバンドをやっていた先輩に教えてもらった裏道を縫って、荒川低地(という言葉も今回調べて初めて知った言葉だ)から武蔵野台地の端へと駆け上がり、踏切を越え、またいくつかの坂道を越え、学校に向かいました。
それまで近くだったのに知らない街の表情を見ることも増え、帰り道は迷子ギリギリの知らない道を選ぶこともよくありました。

武蔵野台地の終端と荒川がつくる夕暮れ
ほぼ海抜ゼロメートル地帯でもいいところはあります。街のそばに川があり、その景色が私は好きでした。特に新河岸川にかかる舟渡大橋から眺める景色は、私にとって格別なものです。
舟渡大橋は二重になっていて、上を車が通り、下には歩道と、座ろうと思えば座れるほどの簡単な椅子があります。歩道はいつでも暗く、物悲しい。そこからは川が見える。ゴミ処理場の煙突が見える。背の高いマンションがいくつか見える。ただそれだけ。それなのに、私はなぜかその景色にいつも囚(とら)われています。理由はわかりません。「ただそれだけである」ということが重要なのかもしれない。その景色が、いくつもの歌のなかで細切れになって息づいています。
そのうち私は高校を卒業し、神奈川の本厚木にキャンパスがあった音楽大学に進学します。親に見せられなくもないが、できれば見せたくない程度に自堕落な大学生活を送っていました。すっかりナイーヴに成長した私は、日々に対して自分勝手に傷ついていましたが、毎日のように三田線に乗る生活には慣れ始めていました。
大した成果もあげることができず、失意と自棄のはざまに揺られる片道2時間半の通学路の終わりに、夕暮れが待っていることがあります。三田線は地下鉄でありながら、志村坂上過ぎで地上に出る特殊な構造をしています。武蔵野台地の終わりと荒川低地の始まりをまたいだ路線だけが勝ち得た景色。どこまでも続くような夕暮れの赤い景色。
絵でもなく、記憶でもなく、映像でもない形となって深いところにとどまり続けている景色です。

高島平から2時間半かけて大学へ通う日々
大学はAO入試だったため、人より早く受験が終わった私は、高島平の本屋、南天堂でアルバイトを始めました。人見知りだけど、うわべの社交性は持ち合わせていて、なおかつ漫画が大好きだった私にとって、本屋でのバイトは天職にも思えました。「大学生になってもそこで働くんだ」と思っていたし、そう言って雇ってもらったのです。
しかし、いざ授業が始まってみると高島平と本厚木は想像以上に遠く、シフトの交代時間である17時に戻ってこれる日なんてほとんどありません。2時間半の通学時間と、うまくいかない大学生活は精神を削り、読書や音楽鑑賞に傾倒して、性格がどんどん暗くなっていくのを感じていました。
大学2年になり、キャンパスが本厚木から新百合ヶ丘へ移転になって通学時間が1時間も短縮されたことと、だいたい3時ぐらいで授業が終わるように履修登録をして、また南天堂で働けることになりました。私は、うわべの社交性と人見知りとをとっかえひっかえしながら、のんびりと働きました。大学を卒業しても「バンドとしてやっていけそうだ」となる2013年までいたので、7年ぐらい働いたことになります。アウトサイダーに優しい職場だったのかもしれない。
高島平駅前にあった南天堂は2フロアで、1階は雑誌や文芸、地下にはコミックと参考書が展開されていました。すぐ近くの商店街「壱番街」にも支店があり、ときどきヘルプでレジに立つことがあったのだけど、そうなると密かにうれしがっていました。なぜなら南天堂の支店が入る前、そこにCDショップ「十字屋」があったからです(今では信じられないけれど、当時の高島平周辺は、蓮根にも西台にも高島平にもCDショップがあった)。
壱番街店のレジに入ると「あそこにVHSコーナーがあった」「ここはアナログレコード」「子どものころのレジはあっち側」「簡単なディスプレーの変更があって、今のこの場所がレジになったな」なんて、物思いにふけっていたのです。

高島平駅前のCDショップ・十字屋の思い出
十字屋には、子どものころから何かというと連れて行ってもらい、水泳教室のテストを頑張ったらCDを買ってもらう約束をして、母親に強く「いいか、よく頑張るんだよ、今あんたは『瀬戸際の際』にいる」と言い聞かされたのをなぜだかよく覚えています。それが何年だったかはおぼろげだけど、買ってもらったのは光GENJIの『Dream Passport』というアルバムだったので、少なくとも1992年12月以降のことだ。1995年にはスティーヴィー・ワンダーを買い、1999年にはゆずやはっぴいえんどを買い、2003年にはスピッツの『三日月ロック』のアナログ盤を予約した。
一見すると普通のCDショップなのだけど、十字屋の品ぞろえは少し変わっていたようだ。なぜ「ようだ」なのか。中学生になったころ、池袋のCDショップや中古レコード屋にも行くようになって、十字屋の歪みにようやく気がついたからだ。店の一角にモッズ・コーナーがあり、ザ・コレクターズが猛プッシュされて、いつでも在庫がストックされていた。はっぴいえんど『風街ろまん』が面陳されているような店、地元ではほかになかったはずです。
十字屋は、たしか私が高校2年生のときに閉店してしまいました。今でもときどき「あのころに店主と仲良くなっていたなら、どんなレコードを教えてくれたのだろう?」「もしまだ十字屋があったら、私は何を買うんだろう?」なんてことを考えます。

南天堂閉店の知らせに
南天堂は、コミック担当の社員さんが「最近、新刊の1巻の配本すらない漫画が増えてきたんだ。どうやって売れっていうんだ」と嘆き始めた(のとほぼ同じぐらいだった)2013年に辞めました。友人たちと一軒家を借りて暮らすことになり、練馬区へと引っ越したのです。
それからも南天堂の社長にはときどき「こういう雑誌に載った」などとメールで報告していたし、アルバム『CALL』は店内にポスターも貼ってくれました。そんな2017年の初夏、池袋をぶらりと歩いていたらアルバイトの先輩であるNさんとばったり遭遇し、「わーっお元気でしたか!」なんて紋切り型のやりとりから「S君は元気ですか?」と雑談にシフトしていく過程で、南天堂駅前店が閉店してしまったと教えられた。
あまりの衝撃にふらふらになりながら「いつ頃ですか?」と訊いたら、1年ぐらい前だという。目の前がまっくらになりました。私は、南天堂がない世界をのうのうと1年間も生きていたのか。
この痛みは、自分本位の感傷に置き換えなければどうにもならない。まともでいられそうにない。私は、ちょうど書き終わった新しい曲の詩に、それを押し付けました。その年の『20/20』というアルバムに収録された「さよなら!さよなら!」という曲です。
「さよなら!見慣れた景色よ」と歌いきったこの曲は、シングルにもリードトラックにもなりませんでしたが、自分ではとても気に入っています。
高島平の景色は細切れになって曲の中に息づいている
スカートの詩、というものは「歌っているときぐらい自分でなくなりたい」という考えから、「思ってることは1割程度」として書いています。「さよなら!さよなら!」も、当時の私は「いつもよりちょっと『私の目線』が多めかな」ぐらいに捉えていましたし、書き上げてから「もう少し歌の中でも自分になるべきではないのか。私小説とまではいかなくとも」と考えて、「わたしのまち」という曲も書きました。
しかし「さよなら!さよなら!」の詩を読み返すと、あらゆる景色が南天堂での思い出と呼応しています。「太陽もあたらない裏通り」とは、高島通りの裏で高架に陽の光が遮られながら自転車を整理したあの通りです。「花壇」としたのは、隣のビルの生け垣でした。いくつもの景色が細切れになって、曲の中に息づいています。
この曲を書いたころは「失ったものに対してノスタルジーなんて抱かせない、癒えない傷を抱えて泣きながら生きていくんだ」と啖呵(たんか)を切った覚えがあります。しかし、コロナ禍を経験してしまった私には、もはやそのような傷を生傷として抱えて生きていける気がしません。
努めて忘れようとすれば、ノスタルジーという箱に入れることができる。小学生のころ、先生からユニコーンのベスト盤を借りたことがありました。借りた職員室の様子は今でも鮮明に覚えているのですが、学生のころの日記を読み返していたら「先生が貸してくれたユニコーンのCDは、今でもよく覚えているが『HMVの袋』に入っていた」と書いてあり、今の自分はそれをすっかり忘れていることに気がつきました。
私は途方に暮れます。20歳前後だった私が大切にしていた10年ほど前の記憶は、時間を経て、そうではなくなってしまっていたのです。抜け落ちてしまって、振り返られることもない「忘れるつもりではなかったこと」に対して、私はどういう態度を取ればいいのでしょうか。
答えは出ず、そうしてまた生まれた街を思い出すときには、曇天が空を覆うのです。
筆者:スカート・澤部 渡(さわべ・わたる)
どこか影を持ちながらも清涼感のあるソングライティングとバンドアンサンブルで職業・性別・年齢を問わず評判を集める不健康ポップバンド「スカート」のメンバー(ソロプロジェクト)。1987年、東京都板橋区生まれ。昭和音楽大学中の2006年、多重録音によるレコーディングを中心に活動を開始。2010年から自主制作で4枚のアルバムをリリース。2016年にカクバリズムからアルバム『CALL』を、2017年にメジャーデビューアルバム『20/20』を発表。Kaede(Negicco)、藤井隆、三浦透子、adieu(上白石萌歌)などへの楽曲提供や、マルチプレイヤーとしてスピッツや川本真琴、ムーンライダーズらのライヴやレコーディングに参加するなど、多彩な才能、ジャンルレスに注目が集まる素敵なシンガーソングライターであり、バンドである。
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