
大学進学を機に岐阜県岐阜市から上京し、9年間で引越すこと5回。まわりと比べるとすこし多いかもしれませんが、その都度事情があったり、契約更新のたびに気分を変えたくなってしまったり。それまで住んでいた世田谷区・経堂の次の住まいとして選んだ街は、京王線の下高井戸でした。
新卒で入社した銀行を辞めたあと、大学図書館のスタッフとして働きはじめて3年目のことです。パートナーと2人で暮らすことになり、経堂に後ろ髪を引かれながらも、新たに部屋探しをすることになりました。

物件を探す際、前回の引越しでお世話になった不動産屋さんに連絡をしてみることにしました。そういうことは今までなかったのですが、わたしが初めて出会った "いい感じの不動産屋さん" だったし、経堂での生活は楽しい思い出が多かったので、この人に頼めば、運気の上がる物件に出会えるだろうという期待がありました。いつも根拠のない縁起の良さに乗っかりたいのです。
経堂の周辺でいくつか紹介された中に、下高井戸の物件もありました。その人は下高井戸の不動産屋さんで、下高井戸に住むことの魅力を熱心に伝えてくれました。決め手となったのは広さと家賃ではありましたが、同時に、この人のようにこの街のことを好きになれたらいいな、と思ったのも、理由のひとつでした。
そして、いつも新しい土地に惹かれるように移り住んでしまうのは、自分のことを知らない環境に身を置くことが心地いいからでもあります。そうやって、いままでも少しずつ住む場所を変えてきました。

この街に住むことになって、わたしがなにより気に入ったのは、駅前の景色でした。下高井戸は世田谷線と京王線が交差する駅で、大きな駅ではないものの、乗降客数は京王線と世田谷線あわせて約4万7000人で、日々多くの人々が行き交っています。さらに駅から斜めに交わるように細長い「下高井戸商店街」が続いているのも特徴で、いつも地元の人たちで賑わっていました。
また、電線が垂れる方向(写真・左手側)に見えるのは、昭和の風情を感じさせる「下高井戸駅前市場」という大きな看板です。市場の中には、住民の生活を支えるさまざまなお店が今も営業しています。そうしたごちゃっとしたにぎやかな、でもなぜだか落ちつく雰囲気は、わたしをわくわくさせ、心を穏やかにさせてくれるものでした。
この街は、下高井戸駅や飲み屋街こそ喧騒があるものの、半面、常に穏やかで気負ったところのない、いつも自然体でいられるような不思議な空気感を纏(まと)っていました。

誰しも、住んだ街それぞれに思い出す景色があるはずです。わたしにとって、下高井戸で一番印象的だったのは、自宅の窓から見えた甲州街道と首都高を絶え間なく続く車の連なりでした。
わたしが住んでいたのは、甲州街道と首都高沿いに位置する、築50年以上のマンションで、部屋は、エレベーターのない5階建ての、4階。室内はというと、四六時中、車の走る音がしていました。
深夜の自宅で、わたしの世界は止まっているのに、周りは常にごうごうと音を立てて動いている。想像してみるとなかなかに不思議なことです。アスファルト上では、時間の進み方さえも異なるように錯覚させるほど、日中夜、車やバイクが移動し続けていました。
この街に来てから、以前よりもどこかに出かけることが増えたり、新しいことに取り組む気持ちにさせられたりしたのは、この「常に誰かが動いている、移動をしている」という空気に背中を押されているような感覚もあったのかもしれません。たくさんのことが始まったり、終わったりしながら、4年を過ごしました。

出入りの自由な屋上も、わたしのお気に入りの場所でした。屋上を吹きすさぶ強い風は、迷いを吹き飛ばしてくれるようだったし、遮る高い建物もないその場所で、ぼーっと夕焼けを見るのも好きでした。他の住人はあまり利用していなかったけれど、わたしはよく写真の撮影に使っていました。
写真を撮り始めたのは、2015年から。きっかけは、私がベースとして参加しているロックバンドcarpool (カープール)のツアーを記録するために、ミラーレスカメラを買ったことでした。正直、それまでは写真には特に興味がなかったし、もっと言うならば友人には撮るのが下手だと言われるほどでした。
なんとなく始めたことでしたが、カメラがあれば、わたしにとって決して居心地のよくない場所でさえ、大げさではなく存在が許されるような、そんな発見がありました。
個人的な趣味から、だんだんとまわりのバンドのアーティスト写真の撮影を頼まれることが増え、活動の幅が広がっていきました。今では、写真を撮ることが主な生業になっていて、また、気持ちの面でも自分の支えになっているということは、とても信じられないことです。


駅から少し歩いて移動してみると、甲州街道の北側に、静かな住宅街が広がっています。「杉並区立玉川上水第二・第三公園」という2キロ近く続く公園があり、春は桜、梅雨にはあじさいが綺麗に咲いていました。カラフルな遊具もたくさんあり、写真の撮影によく利用した思い出があります。

北のほうに向かって少し歩くと「あおぞら公園」という大きな公園もあり、よく散歩をしに行きました。ダイエットのため、(恥ずかしかったので、夜だけ)走りに行くこともありました。

お祝いのときに必ずケーキを買っていた洋菓子店、なにを借りるでもないけどいつも寄り道していたTSUTAYA(いまはもうなくなってしまった)、素敵な映画がいつも上映されている「下高井戸シネマ」、線路沿いのタイ焼き屋……。もうこの街を離れてしまって数年の月日が流れたけれど、今でもお気に入りの場所はいくらでも思い出すことができます。
世田谷線沿いの松原駅のほうへ行くと、日本で一番おいしいキーマカレーが食べられるカレー屋「ハトスアウトサイド」が、京王線の桜上水駅のほうに向かえば日本で一番おいしい餃子とチャーハンが食べられる油そば屋「あぶら〜亭」があり、忘れられなくて今も通っています。

そして、なんでもない歩道橋や、ショートカットするための脇道など、再び行ってみるまで思い出しもしなかった場所にこそ、当時考えていたこと、よく聴いていた音楽などの、記憶の残片がぷかぷかと、浮遊しているようでした。

下高井戸での生活で転機が訪れたのは、住んで2年目の夏のことでした。当時働いていた大学図書館の雇用母体が変わり、突然契約が終了してしまったのです。また別の図書館で……と考えていた矢先に、偶然、撮影の求人を見つけました。場所はスイスでした。
スポーツやアウトドアから縁遠い自分がアルプスの山々で撮影をする姿はまったく想像できず、そのことになんだかわくわくしました。自分を試してみたいと率直に思いました。
撮影技術を学びながら働ける業務内容でもあり、写真を独学で始めてしまったことでずっと痼(しこ)りになっていたものを取り除くためにも、挑戦してみたかった。そうしてわたしは、3カ月間スイスに行くことを選びました。

実際には、想像以上に体力的にも精神的にもハードな生活でしたが、なんとか心が折れずにいられたのは、仕事の合間に、自主的に写真を撮っていたからです。自分とは遠く離れている、雄大すぎるアルプスの自然に向かってシャッターを切るたびに、今までにはない感覚に没入することができました。小さな自分がどうでもよくなる感覚、自分のフレームで切り取ってしまえば自分のものになるというある意味で暴力的な、でも自分を慰められるような感覚……。
「私の血液が流れるスピードで、太陽が東から西に傾くあいだに草木が風になびくリズムと同じように、きっとぴったり落ち着く生活があるはずだと信じているのです。」、当時の日記に書いてあった一文ですが(星野道夫の『旅をする木』の言葉を引用しながらのものでした)、わたしはいつも、その土地に流れるスピードに自分の生活が左右されたり、気分が変わったらふらふらと移動したり、そういうことを望んでいるのでしょう。

帰国してみれば、長く感じていた3カ月間は「たった3カ月」で、でも幾分か、わたしは成長したのだなという実感が込み上げてきました。重いスーツケースをガラガラとひっぱり、下高井戸駅に降りたとき、なんとも言えない懐かしさを感じました。
この街の持つ独特のノスタルジックな雰囲気がそう錯覚させたのかもしれないし、故郷とまでは言えないけれど、自分の切れ端がこの街に残っているようにも感じました。下高井戸での生活は、もちろんすべてにおいて素晴らしい記憶や経験ばかりではなかったものの、確かにわたしの心の一部はここにあり、わたしが過ごした期間の余熱はこの街に今も残り続けているような気がしました。

かつては、サマセット・モームの『月と六ペンス』に出てくる「生まれる場所をまちがえた人々」が「見たことのない故郷を懐かしむ」ように、自分にも生まれ育った岐阜とは別の、故郷のような場所がどこかにあるはずだ、というのを(本気ではないけれど、楽しみのひとつとして)旅をするたび、ひそかな目的としていました。
でも、少ないながらもいくつかの旅を通じて、そんな故郷のような場所が世界中にいくつも存在するような気がしてきました。わたしは、これからもいろいろなところで暮らして、どこにだって自分の居場所があり得ることを信じたいのです。
次の旅に終わりがあるかは分かりません。これからも続く旅で出会う人や街を想像することが、ほかのどんなことよりも、わたしの心を突き動かしてくれる。次はどんなわくわくすることが待っているのだろう。そのことが、わたしはとても楽しみで仕方がありません。
編集:岡本尚之

