熊に惹かれて八雲町、ぼくが北海道に通うわけ|文・安藤夏樹

著: 安藤夏樹

ぼくにとって、北海道は必ずしも身近な存在ではなかった。高校時代の友人を訪ねて大学生のときに旅した札幌。そして、家具研究家の織田憲嗣さんを仕事で訪ねた東川。30代までに北海道を訪れたのはその2回だけだったと思う。そんなぼくが、40代になって以降、年に数回は彼の地へ足を運んでいる。それどころか、空き家を購入し、時には住むように滞在するようになった。


きっかけは東京の中目黒にある骨董屋さんで出合った一つの木彫り熊だった。当時、北海道には馴染みのなかったぼくでも、木彫り熊についてはもちろん知っていた。有名なのは黒くて、テカテカで、鮭を咥えたあいつ。そして、ぼくの実家は材木屋で父は木材マニアだったから、自宅玄関には黒く塗られていない、木目のままの木彫り熊も置いてあった。

でも、中目黒で出合ったそいつは、頭の中にあるどの木彫り熊ともはっきりと違っていた。塗装はされているがマットな質感。鮭は咥えておらず優しい顔つき。そして、目には黒いガラス玉が入っていた。店主の話では、その熊は北海道の中でも八雲町と呼ばれる場所で彫られたものだという。ぼくはその姿に一瞬で魅了された。その時は、店主の私物ということで売ってもらうことはできなかったけど、1年後には最初の1体を手に入れることができた。ここから、ぼくの木彫り熊との付き合いが始まることになる。もちろん、その時には、まさか200体以上もの熊を所有するようになるとは思ってもみなかったけど。


最初の1体を手に入れるのはそれなりに苦労した。当初は木彫り熊なんてたくさん彫られているんだからすぐに見つかるはず、と思っていた。しかし、探しても探しても、あの時見たような「八雲の熊」はなかなか見つからない。毎週のように骨董市を歩き、骨董店があれば木彫り熊はないかと尋ねる日々が続いた。そして、やっとの思いで1体を手に入れると、ぼくはますますその魅力に取り憑かれることになる。いつしか、「八雲町へ行けば買える店があるかもしれない」と考えるようになった。


北海道の木彫り熊の歴史は、実はこの八雲町から始まっている。明治時代、尾張徳川家が家臣たちを入植させたことで誕生した八雲。尾張徳川家はその後も何かと面倒を見続けた。大正時代に当主となった徳川義親は、冬場に産業がなく、文化的楽しみにも乏しい状況をどうにか打開しようと考える。そこで白羽の矢を立てたのが、旧婚旅行で訪れたスイスで出合った木彫り熊だった。スイスでも、ペザントアート(農民美術)として農民たちの現金収入を得るための冬の仕事だった木彫りの熊製作。それを八雲町に持ち込むことにしたのだ。誰でも知っている北海道の木彫り熊に、そんな誰も知らない歴史があることに驚いた。


八雲町を初めて訪れたのは、今から8年ほど前の3月だったと思う。東京での仕事を終えたあと、妻とともに飛行機で函館へと向かった。翌朝からの八雲入りを前に、函館の夜は少し興奮していた。何気なく入った居酒屋で「お客さん、観光?」と尋ねられる。そんなよくある質問に、「木彫り熊を探しに八雲へ」と答えると、怪訝な顔をされた。北海道の木彫り熊が八雲の発祥だなんてことも知らないし、そもそも木彫り熊を探している人がいるなんて考えもしなかったようだ。「八雲に行くなんて、珍しいね」と何度も何度も繰り返し言われた。それほど、当時は八雲を旅の目的地とする旅人はいなかったのだと思う。

函館から八雲までは特急北斗で1時間ちょっと。駅は小さくてかわいい、テレビの「ローカル線の旅」に出てくるような佇まいだった。ぼくらの頭の中にある八雲町の予備知識は、木彫り熊を展示する「八雲町木彫り熊資料館」なるものがある、ということだけ。駅を出てまずはそこに向かおうとしたとき、最初の邂逅(かいこう)が待っていた。「まるみ食堂」と看板が出た飲食店。窓は磨りガラスになっていて、店内はよく見えなかったけど、その白く霞みがかったガラスにぼんやりと映るシルエットには見覚えがあった。木彫り熊だ! まだギリギリランチタイムだったから、閉店前にと滑り込む。そこにはやはりたくさんの木彫り熊が飾られていた。名物の「二海焼き定食」と「二海カレー スペシャル」を食べながら、食い入るような目で熊を眺めた。ちなみに、二海カレーとはご当地B級グルメで、八雲町が日本で唯一日本海と太平洋の両方に面する町であることから、それぞれで獲れる食材を具にしたカレーである。

食事が終わると、店主に話しかけた。すると、飾ってあるもの以外にも、家にはまだ他にもたくさんの熊があるという。懇願すると、快く見せてくれた。これまでどんなに探しても見ることが叶わなかった作家の熊もあった。

その後も、ぼくらは会う人会う人に「木彫り熊を彫っている人を知りませんか?」「木彫り熊をどこかで売ってませんか?」「木彫り熊に詳しい人をご存知ないですか?」と尋ねながら歩いた。すると、どこから来たかも、何者かもわからない我々に、地元の人たちは親身になって対応してくれた。残念ながら売っている店は見つからなかったけど、たくさんの人たちと出会い、八雲の木彫り熊についていろいろなことを教えてもらった。かつての熊彫作家のご遺族ともたくさん知り会うことができた。その話のあまりの面白さに、ぼくらは本を作りたいと考えるようになる。そうして生まれたのが、『熊彫図鑑』だった。


北海道八雲町で彫られた熊彫の種類や歴史を一冊にまとめた『熊彫図鑑』。この本の出版に前後して、新たな木彫り熊作家も全国に登場。道内でかつて熊を彫っていた作家が活動を再開するなど、木彫り熊シーンは来年の「北海道の木彫り熊100周年」を前に熱を帯び始めている

正直言えば、八雲町には、本州の人が憧れる“北海道らしい広大な風景”というものはあまりない。“のっけ丼”を楽しめるような海鮮市場もないし、歴史ある建造物が並んでいるわけでもない。けれど、この街には、木彫り熊がある。そして、何より、親切な人たちがいる。最初の訪問時に出会った人たちとは、いまも交流が続いている。それどころか、空き家を買うまでは、よくその中の一人の方の家に泊めていただいていた。もしも、そうした人たちの存在がなかったとしたら、ぼくはここまで八雲に通うことはなかっただろう。今では、東京での仕事で疲れを感じた時、「ああ、八雲に帰りたい」と思うようになった。


駅前にある喫茶ホーラクは木彫り熊好きには外せないスポット。店内には八雲町で彫られた熊彫がずらりと並ぶ

最近は、地元の若い人たちを中心に、木彫り熊のこと、八雲町のことをもっと知ってもらおうという活動も増えてきた。ぼくが最初に八雲を訪れたときには、木彫り熊に関するお土産すら買えるところがほとんどなかったけれど、いまでは、町の有志がその役を担ってくれている。

春には「冬眠あけのクマまつり」、秋には「冬眠まえのクマまつり」というイベントが開催されるようになり、道内外からたくさんの人が集まるようになった。イベントの際、東京から来た知人が道に迷って困っていたら、見ず知らずの人が車で会場まで送ってくれたそうだ。そんなところがいかにも八雲らしいと思う。こうした人の温かさこそが、この町の最大の魅力だ。

八雲町の木彫り熊は2024年に誕生から100周年を迎える。八雲町木彫り熊資料館には、北海道の木彫り熊第一号をはじめ数々の名作が飾られているし、町のお店の多くが自らの所有する八雲の熊を店頭に掲げるようになった。これまで以上にたくさんの人が木彫り熊を見にこの町を訪れ、地元の人たちの優しさに触れて欲しい。ぼくは心からそう願っている。


木彫り熊作家・鈴木吉次のお孫さんが始めた「すーさん焼き」は八雲町の新名物(販売する店コパンは年内休業予定)

著者:安藤夏樹

安藤夏樹

編集者。プレコグ・スタヂオ代表。東京903会主宰。日経BPでラグジュアリーマガジンの編集長を9年間務めたのちフリーに。現在は企業のオウンドメディアや広告の制作の傍ら、自らのレーベルで書籍の出版やイベントなども手がける。主な出版物に北海道の木彫り熊をテーマにした『熊彫図鑑』、陶芸家・黒田泰蔵の愛したモノを通して作家の人物像に迫る『Colorful』などがある。愛知県岡崎市出身。
インスタグラム @a.natsuking@tokyo903

編集:ツドイ