スキーに蟹にラーメンに。険しい棋士の人生をほぐす札幌の旅情

著: 先崎学

昨年の末、妻とふたりで札幌に二週間ほど滞在した。私は将棋指し、妻は碁打ちである。棋士という業種は自由な時間が多いわりに旅行の日程が立てにくい。なぜならば、対局のほとんどはトーナメントであり、勝つとどんどん忙しくなっていくからである。じゃあ負けが込んだときに行けばいいじゃないかと思われるかもしれないが、負けることを前提に予定を組むアホはいないので、必然、まとまった旅行がしにくくなる。年末は対局もなく、絶好の旅行どきなのである。

それはさておき、のんびりとした旅であった。昼間は主にスキーをして、夜は居酒屋で一杯やる。すこし仕事もした。現地の子どもたちに将棋を教えたりして、これは言っちゃあなんだが、気楽な仕事で、またなかなかに保養にいい。盤にくいいるエネルギッシュな若い目は、くたびれた中年夫婦にほのかなリラックスを与えてくれた。

私は幼少期を札幌で過ごした。正確には、幼稚園の年中から小学二年生の一学期までである。
父親は高度経済成長期を走り抜けたバリバリのモーレツサラリーマンで、金融関係の仕事をしていたこともあり非常に転勤が多かった。だから、私の出身地は青森となっているが、これは生まれただけで、一歳を前に引っ越してしまったので実感がない。物心がついたのは札幌で、将棋を覚えたのも札幌で、自分としては道産子のはしくれのつもりである。もっとも、将棋界には本物の(?)北海道出身の棋士が非常に多く、その者たちのあいだに入ると肩身がせまかったりもする。

着いてすぐ雪国の洗礼をあびた。道路もそして歩道も雪だらけである。なんでも着く前日に大量の雪が降ったらしい。用心深い妻は、行く前にスノーシューズを買いたいと言っていたのだが、私は「そんなもんは現地で買えばいい」と却下していた。私はこうも言い放ったらしい。

「クリスマスの前の雪なんて雪とはいわん。降ったそばから溶けてゆく」 

妻はなおも食い下がった。

「足が濡れて冷えるのだけはいやだ」

私はこう答えた。

「大丈夫だ。札幌には日本一の地下道がある」

そしてわれわれは着いたホテルから地下道の入り口までに、足がびしょびしょになったのである。到着直後の夫婦喧嘩が避けられたのはきっとその後に食べた蟹が美味しかったからだろう。 

もっとも、そのドカ雪のおかげでスキーは最高だった。いうまでもなく北海道の雪はふかふかのパウダースノーである。その雪がさらに良いものとなっていた。最高級の絨毯の上を歩く幼子のようにわれわれは滑りまくった。妻はボーゲンが精一杯の初級者だが、私は子供時分の経験がものをいって、まあまあの腕前である。
着いた翌日は、まだ街に慣れていないから近場がいいだろうということで、もっともホテルから近い藻岩山スキー場に行った。最寄りの地下鉄の駅まで小一時間、そして駅からバスでほどなくという便利さに妻は腰を抜かしたようだった。ガイドブックで数字を見るのと実際に体感するのではやはり違うのだろう。

さて、このスキー場に行くのは旅の目的のひとつだった。私はこの山の麓で過ごしたのである。
思い出はおぼろげなものである。すぐに将棋をおぼえて、そればっかりになってしまったから。だいたいにおいて物心がついたばかりだ。しかし、藻岩山という地名には強い郷愁をおぼえていた。
夏は麓の小川でザリガニを取り、それを大量に家に持ち帰って親にこっぴどく怒られた。冬はもちろんスキーだ。両親は、それまでも北国に赴任したことがあったにもかかわらずあまりスキーができなかったが、それは生まれてはじめてゲレンデに出る子供にとってとても心地良いものだった。なにしろ覚えたとき親と同じ技術で、すぐに自分の方がうまくなるのである。

バブル期のスキーブームの前、スキー場はあまり整備されておらず、リフトは一人乗りが主で、エスカレーターにつかまって登るような機械(名前が分からない)もあった。私はスキー教室なんかには入らず、ただただ上から下へ一日何十回も滑りおりていた。思えば当時から人にものを教わるのは性に合わなかったようだ。

ゲレンデでは、たまに山腹で豚汁の炊き出しが行われていた。ある時皆で豚汁を食べていると、すぐ近くであきらかにバランスを崩した大人がふらふらした滑りをみせて、すぐに誰もが予想したとおり派手に転倒した。私の父だった。
父はしばらくしてなんとか立ち上がると、炊き出しの会場まできて「派手にやっちまったなあ」といって会心の笑顔を見せた。
働き詰めでほとんど家にいなかったはにかみ屋の父の、もっとも印象に残る笑顔の一つである。

札幌での夜はもちろん酒と美味しい食事である。われわれの泊まったホテルはすすきのから十分くらいのところで、この点の便は申し分なかった。
札幌はこの上なく賑やかだった。お店に人が溢れている。お店だけではない。広い札幌の道、アーケードのなかはもちろん、裏路地に至るまで人が行き交い、笑って酒を酌み交わして、だから街全体に活気がみなぎっていて、それはコロナを完全に意識させないものだった。 
それはあるいは札幌の繁華街が、こぢんまりしたエリアにあるからかもしれない。インバウンドの観光客が多いせいかもしれない。だが、人が多ければ空気が明るくなるという単純なものではないだろう。この街にはもっと根源的なエネルギーがある。私が感じ、思うのは、次のようなところである。

とにかく若者が多い。店は若者のグループばかりであった。カップルも多かった。最近、若者の飲酒ばなれが進んでいるというが、もしそうだとしてもこの街だけは例外である。皆元気そうでよく笑う。ほがらかに酒を飲んでいる。
若者が笑顔を作っていれば、そこにはおのずから「自由」な空気が生まれる。自由の対義語がなんだかはわからないが、もし「閉塞」ならば、街は、そこにうごめく人々は見事に閉塞感を打ち砕いていた。そして自由と「開放」がきわめて近いところにあるとするならば、開放感いっぱいだった。われわれは明るい気持ちでネオン街での時間を過ごした。
若者が集まり自由な空気を作るのか、街が自由な空気だから若者が集まるのか。どちらも正しく、両者は見事なウィンウィンの関係にある。そしてそんなことはどうでもよい。街にも若者にもそこへ一瞬まじわる中年夫婦にも。           

よく言われることだが、北海道に暮らす人の気質もあるかもしれない。道産子は一般的に争いごとを好まず他者に寛容である。ありていにいえばおおらかなのだ。理由は単純で、冬の自然との闘いが厳しすぎるから人なんかと争っているヒマはないのである。
じゃあなんで冒頭に書いたように、北海道出身の棋士が多いかというと、おそらく将棋の世界が十代半ばにして都会に出て修業しなければならないということからくると思われる。
北国から通い、または単身東京に出てくるものはやはりハングリー精神が違う、月並みだが、そういうことだろう。

札幌の夜は酒なら、朝は市場である。酒が多少残っていたとしても、その後にラーメンを食べてしまってお腹がもたれていたとしても、タウン誌やネットの海鮮丼を見るとどうしても行きたくなってしまうのだ。サーモンやいくらの鮮やかな色を見ると我慢できないわけで、まことにカラー写真というのは偉大なのである。                 
行くとビールを飲むかどうか、という悩みにぶち当たることになる。「昨日あんな飲んだんだからやめとけ」という妻の忠告は役に立たない、というよりむしろ逆効果にすらなる。
私は夜以外の時間に飲むビールが大好きだ。ただし当たり前だが日頃は飲まない。理由も当たり前のもので、仕事があるからと、その日オフだったとしても、そんな罰当たりなことはアカンというヒトとしてまっとうな理性があるためである。
しかし、旅行中なのである。もう子ども教室はとっくに終えて向こう一週間なんも仕事はないのである。ヒトとしての理性も旅先の開放感でマヒしてるわけである。 
と、いうわけで、連日朝からビールを飲みながら極上の海鮮丼を食べた。日頃厳しい勝負を闘ってるんだからたまには、という理屈を自分に言い訳しながら。

ある朝ふと思いついて市場から日頃よりお世話になっている方々に蟹をお送りした。たまに思いついてこうしたことをしたことはあるが、今回は同業者も含め十数人の人に送った。ラインで蟹送るから住所を教えてと聞くと皆いつになく返信が早く、あんたらホンマ現金やなあ、と呆れたものだったが、皆の嬉しそうな顔を思い浮かべるのは悪いものではなかった。
こんなガラにもないことができたのも、ひとえに札幌の人々が、お店が良かったからだ。そしてなによりすすきのが狸小路が大通りが、そこの持つ活気溢れる自由な空気が私を元気にさせてくれたからだ。

著者:先崎学

九段。1970年6月22日生まれ。青森県出身。1981年、小学校5年生で奨励会入会。1987年、17歳でプロデビュー。順位戦A級在位2期、棋戦優勝2回。エッセイストとしても活躍し、『うつ病九段』『将棋指しの腹のうち』など著書多数。漫画『3月のライオン』監修を担当。


編集:ツドイ