著者: 矢島まどか
東京と能登の二拠点で暮らしはじめてもうすぐ3年になる。「TOGISO(とぎそう)」という能登の古民家宿で管理人の仕事をしながら、ライターとして活動している。
通いはじめて半年が経った頃、令和6年能登半島地震が起きた。その約9カ月後には奥能登豪雨。「なぜそんな場所に通い続けるのか」と聞かれることもある。そんな大層な理由は持ち合わせていないけれども、震災の外側から能登を見る自分の立場が、いつのまにか私の心を深く揺さぶるようになっていた。

海のそばで暮らしたかっただけ
はじめは能登じゃなくても良かった。どこでもいいから海の近くで暮らしてみたかった。あわよくばそこで仕事があればいいな、くらいの気持ちだった。そんな漠然とした思いを抱えていた頃、X(当時はTwitter)で突然TOGISOのオーナーの投稿が流れてきた。

写真をひと目見て心が動いた。応募なんて殺到しているに違いない。でも送るだけタダだ、と軽い気持ちでDMを送ったら、そのままオンライン面談まで話が進んだ。後から知ったのだが、応募は私ひとりだけだったらしい。
画面に現れたオーナー(ぴんぽいんとさん)は、少し強面な印象はあったものの、話す内容はとても誠実だった。町の景色に惚れ込んで古民家を買ったこと、TOGISOのある赤崎集落の景観を残したいこと、今は何もないこの集落にパン屋やカフェ、スナックをつくりたいこと。少年のように語る姿に、ついうっかり共感してしまった。
その瞬間、私と「能登」が繋がった。

2023年7月 初めて会った日に、名所である巌門を案内してくれるぴんぽいんとさん
会社員の私が羨望していた“自由に生きる人たち”
これでも元は会社員。不動産業界に身を置き、営業や人事など幅広い経験をさせてもらった。時には港区OLだったこともある。ヒールをコツコツと鳴らして、某有名ホテルのなかにあるオフィスフロアを歩く自分に酔いしれていた時代だ。

取引先との名刺交換会
様々な職場があったが、キャリアアップという形での転職は自己肯定感を高めてくれたし、終電近くまで働いて同僚と一杯飲んで帰るような、そんな日々も割と楽しかった。
その一方で、私が憧れている友人が3人いた。
・脱サラ後、北海道に移住して地域おこし協力隊に所属した友人
・脱サラ後、千葉の最東端に移住してシェアハウスの料理を担当していた友人
・脱サラ後、専門学校に通い介護美容を学び自営業になった友人
会社員という安定した枠組みを飛び超えて、好きな生き方を選んだ彼らを心の底から応援していたし、彼らの話を聞くのが好きだった。そして心の底から羨ましいと思っていた。
ある日、羨ましいということは私も彼・彼女らの生活に近いことがしたいのだと気がついた。それからは四六時中移住系のサイトや記事を読み漁り、地域おこし協力隊の話も何度か聞き、一人旅をしては住んでみたい場所を探したりした。

2023年5月 伊豆大島の民宿で厨房飲みに混ぜてもらった
どこか別の土地で暮らして別の仕事がしてみたい、そう思いながらも「行けない理由」を並べて東京を離れる勇気を出せずにいた。
そんなとき、ぴんぽいんとさんが「通いでもいいよ」と言ってくれた。
カンダタも飛びつくようなキラキラとした糸が私の上に垂れてきた。私はその糸を「まあ合わなきゃ別の場所を探せばいいか」くらいの気持ちで握りしめた。お釈迦様ならこの浅い考えを察して糸を切っているだろう。つまりぴんぽいんとさんはお釈迦様よりも器が大きくて優しい人ということになる。

TOGISOに通い始めてすぐ、私は「お茶会」を主催した。近所のおじいちゃんやおばあちゃんと集まって、コーヒーを飲みながらおしゃべりするだけの小さな会。ご近所さんたちの名前と顔が一致していない私にとって、地域の人と自然に距離を縮められる大切な時間になった。

そしていつしか、私には4人しかいなかったはずの祖父母が20人くらいに増えていた。

東京と能登、二つの場所を行き来しながら
二拠点生活はしんどくもあり豊かでもある。
Amazonの配達先を間違えると最高に面倒臭いし、自分の荷物が二つの場所にあるというのもなかなかに大変だ。燃えるゴミの日はカレンダーに週4回ある。
東京には友達もいるし、ふらりと行けるカフェもあるし、下町の銭湯もある。お気に入りの美容院も、整体も、バスも、電車もある。気になる美術館や博物館の展示もすぐに見に行くことができる。夜遅くまで灯りが消えず、24時過ぎまで外で飲んで帰っても駅前には人が溢れている。人混みのなかで、個人として認識されない世界はとても生きやすい。

能登には、海と風と星空と、あたたかい人がいる。車がないと生活ができなくて、バスも電車もなくて、夏の海や山にはとんでもなく強い蚊のボスみたいな虫がいるけれど、ご近所さんからいただく野菜や魚、果物はダイレクトに季節を感じさせてくれる。

能登にいると、毎日誰かしらと会話をするので心がとても健やかになった気がする。温泉で知らないおばあちゃんと背中を洗い合う。スーパーでも、ガソリンスタンドでも、私が個人として認識される。当たり前に店員さんや近所の人と挨拶を交わす。

能登半島では信じられないくらい祭りの文化が盛んで、夏になると毎日のようにどこかの地域でお祭りをしている。
夜に外を歩けば、幾千もの星が私の目を楽しませてくれる。
東京と能登、それぞれに違った便利さ、不便さ、美しさがあって、どちらも私を生かしてくれている。
能登にきて、お茶会をして、地域の方に受け入れられて、はじめて居場所のようなものを見つけた気がした。いいなあ能登。楽しいなあと思っていた矢先に起きたのが令和6年能登半島地震だった。
震災の日、私は千葉にいた
2024年1月1日16時10分。
私は千葉で買い物をしていた。町中で鳴り響く警報アラートと、知人友人親族から送られてくる嵐のようなLINEの通知で能登に異常が起きていることを知った。その瞬間から怒涛の時間が始まる。TOGISOの携帯は報道関係者から電話が鳴り続け、SNSで錯綜する現地の情報に辟易した。

能登に向かいたくても能登空港は周辺道路の寸断などで孤立状態。私は結局何もできないまま正月を過ごした。あのときの無力感は忘れられない。もし自分が能登にいたら何か変わっていたのだろうか。その問いだけがずっと胸にしこりとして残った。

思えば当時の私には、レンタカーを借りてでも、何時間かけてでも現地に向かうという、誰かのために行動を起こす覚悟をまだ持てていなかったのかもしれない。
お茶会で顔を合わせていた近所のおじいちゃんやおばあちゃん、能登で出会った友人、可愛がっていた猫たちのことは頭に浮かんだが、そもそもほとんどの人の連絡先すら知らなかったのだ。
まるで言い訳のように聞こえてしまうだろうが、今この瞬間に同じ状況に陥ったとしたら、私はどんな手段を使ってでも能登に向かうに違いない。

空白の2カ月と、ようやく戻れた日
能登空港の滑走路には震災当初、深さ約10センチ、長さ10メートル以上に及ぶ亀裂が4〜5カ所出来ていたという。私が能登に戻れたのは地震から約2カ月後の2月27日。元々1日2便だった飛行機は火曜・木曜・土曜の週3日、1日1往復の運航となり、乗客は片手で数えられるほどだった。※現在は毎日2便の運航に戻っています。
変わってしまった能登を見るのが怖くて、上空から地上を見ることができなかったのを覚えている。滑走路に残った起伏によって着陸後も大きく揺れる機体。手をギュッと握りしめたまま飛行機が停止するのを待った。

空港からTOGISOへ向かう道はそこかしこに亀裂が入り、陥落し、片側通行できればまだマシな状況だった。災害復興の大型車両が何台も奥能登に向かって走っていった。12月に「また来年」と思い後にした能登がこんなにも姿を変えてしまったことにショックを受けた。
見慣れた集落に到着した。太陽の光を浴びて美しく輝いていたはずの黒瓦にはブルーシートがかかっていた。
近所のおじいちゃんやおばあちゃんの姿を見つけたとき、泣きそうになるのをグッと堪えた。東京でぬくぬく過ごしていた私に泣く資格はないと思った。
自宅が壊れたり、避難所生活を送ったり、「2ヶ月経ったいまでも余震が怖い。寝るときはすぐに外へ出られる格好で寝ている」という言葉に胸が締め付けられた。

少しでも町の人たちを笑顔にしたくて、月に1度だったお茶会を毎日開いた。「ここは何も変わらないよ。いつでもあいてるよ。」と伝えたかった。だけど、3日目くらいからみんな来なくなった。お茶会はたまにやるのが良いのだとわかって少しだけ安堵した。

私が能登に戻った2月27日は、赤崎地区の断水がようやく解消された日でもあった。うれしくて踊りだしそうなくらい喜ばしい出来事なのに、戸惑っている私がいた。断水している状況下で過ごせば、少しでも被災したみんなと同じ目線に立てると思っていたのだ。なんと浅はかで不謹慎なのだと言われてしまうだろう。それでも、不便であればあるほど、震災発生時に東京にいたという罪悪感から逃れられると思っていた。

私は震災があったから能登にいるのだろうか。それとも震災とは関係なく、ここにいたかったのだろうか。
TOGISOがなかったらどうだっただろうか。
町の人とコミュニケーションを取るときにTOGISOという威を借りてのさばっている自分をやけに小さく感じることがある。もし私が個人として移住していたらここまでコミュニティを広げることができただろうか。いやきっと出来なかっただろう。
そんなもしもはないのだが、たまに考えてしまうことがある。そんなときはいつも「いま私の意思で能登に通い続けていることは事実なのだ」と自分自身に言い聞かせている。
私たちにはアイデンティティーがない
私は震災当時、被災地の外側にいた。家も壊れていないし、避難所にもいなかった。職場は被災しているが、私の財産はなにひとつ脅かされていない。それでも、周りから能登の話を求められたとき、まるで「当事者の言葉」を期待されているように感じる瞬間がある。
TOGISOの話、近所の人や知人から聞いた話を記憶の中でパッチワークのように繋げて、何人もの複雑な想いを受け止めて、その感情を自分に投影する。そしてさも自分が体験したことのように話し、涙が出そうになるのを堪えるのだ。
この曖昧な立場は、ずっと私の足元をぐらつかせている。

能登に居続けているのは、当事者ではないからこそなのかもしれない。外側にいた私のほうが、能登を離れづらくなっているのかもしれない。失ったものを語れない私だからこそ、この場所に関わり続ける理由を探し続けているのだろう。
東京にいると私は社会のなかに溶ける。能登にいると私は誰かの名前を呼び、呼ばれる存在になる。どちらの「私」が本物かなんて、きっと誰にもわからない。
震災の外側にいた私にも、能登に関わり続ける私も、そのどちらもが中途半端で、どちらも本当だ。

私が何者であるかより、どう生きているかで見てもらえる能登が好きだ。
30歳を越えても子どものように扱われる赤崎が好きだ。

毎日のように新しいことを教えてくれるおじいちゃんやおばあちゃんが好きだ。
お散歩に出てきてにこにこしているおじいちゃんと他愛のない会話をする、3分にも満たない時間が好きだ。

毎日見ても飽きない海と、夕陽と、星空が好きだ。

私は確かに、能登という土地、文化、人を愛しているのだ。

これから先、何年ここにいるかはわからない。ただひとつ言えるのは、もう私にとって能登が、赤崎が、なくてはならない場所だということである。
著者: 矢島まどか

埼玉県出身。フリーライター、古民家宿管理人。2023年に「能登の古民家宿 TOGISO」と出会い、東京との二拠点生活を始める。陸よりも水中が得意。
instagram:https://x.com/pinpoint_m
TOGISO:https://x.com/pinpoint_m
編集:吉野舞(Huuuu)
