自分がどこにいるのかわからなくなる瞬間が、いちばん高円寺っぽい

著: 藤岡みなみ 

photo by Yuusuke Katsunaga

“寄り道して帰ろう
路地裏が手招きしている
青春が足踏みしてる”
(『純情ブルース』 / 藤岡みなみ&ザ・モローンズ)

高円寺に住んでいた時に書いた歌詞に乗せて、この街のことを思い出してみたい。自作の詩を通して語るなんてロマンチックすぎるというか、ちょっとクサいやり方な気もするけれど、そんなことが許される街だと思う。

いつも誰かがいる街

17歳から27歳まで高円寺に住んでいた。家族で引越したから、自分で選んで住んだというわけじゃない。その直前は新中野にいたので、丸ノ内線沿線と中央線沿線の雰囲気の違いに驚いたのをよく覚えている。丸ノ内線は人が家にいて、中央線は人が街にいる。居場所が家じゃなくて街。高円寺は街に人がずっといて、いつもお祭りみたいだと思った。

にぎわいだけじゃなくて、例えばこんなものを見つけた時に街の人の気配を感じた。高架下のくぼみにあった無人の本の交換システム「渡り鳥文庫 」。特に説明もないけれど、いらない本を置いていって、欲しい人が取っていくみたいなことだと思う。毎日ラインナップが変わるので見ごたえがある。コンビニ漫画ばかりの日もあればミステリー小説が全巻そろっている日もあった。この首の長いファニーなイラストが大好きだったのに、ある日突然看板がなくなりショックだった。少しの空白の後なぜか荒々しい文字の「スパイラル文庫」なるものに取って代わられ、その後また渡り鳥文庫に戻っていた気がする。今はどうなっているのだろう。

渡り鳥。転勤族の家庭に生まれ、どこに行っても常にうっすら疎外感があった。東京から関西に引越せば「東京の子」と言われたし、東京に戻ってきて関西のノリを続けたら浮いた。出身は淡路島だけど記憶はない。そんな私が初めてしっくりきたアイデンティティが「高円寺の人」だ。

高円寺によくいる人になる

photo by Yuusuke Katsunaga

“中古楽器店の前まで行っては引き返して
きみにもらったギター”

20歳ごろ音楽を始めて、ちっとも上達しないギターを背負って商店街をうろうろするようになると、あっという間に高円寺によくいる人になった。駅前のリハーサルスタジオに通い、「高円寺HIGH」でよくライブをした。衣装は「Jacob's Ladder」や「Small Change」などの古着店で買って、「七ツ森」で固めのプリンを食べながら歌詞を書いた。沖縄料理店「きよ香」の路地裏感がたまらなく好きで、よく仲間と集まった。

多様性の街

“今日はどこで食べよう
中華・メキシコ・ペルシャ・インド
誰かのふるさとの味”

特に私に居心地よさを与えてくれたのは、高円寺の多国籍なお店の数々だった。日本人がやっている店もあれば、日本にやってきた人が経営する店もある。地方出身者が集まっている街、どころじゃない。世界中から集まって来ている。

ペルシャ料理レストラン「ボルボル」

大学のゼミでは「高円寺にはなぜインド料理店が多いのか」という研究をしていた。私にとって高円寺は心を動かし続けるフィールドワークの場でもあった。高円寺じゅうのインド料理店にインタビューをして回ったが、私が調べた限り、当時インド料理店で働く人の9割以上はネパール出身の方だった。みなさんが高円寺を選ぶシステムやなにかはっきりとした理由がわかったわけではないが 、「高円寺が好き」「なんかいい」と言っている人は多かった。あらゆるバックグラウンドを持つ人たちがそれぞれに居心地のよさを感じているとしたら、これ以上のことはない。そんな社会になってほしいといつも願っている。

2015年のネパール地震の時には、仲のいいインド料理店の店員さんと一緒にチャリティーTシャツをつくった。黒板の日替わりメニューを伝える丸みのある文字が好きで、お願いしてロゴを描いてもらったのだ。

さらに高円寺の多様性にせまりたくて、「高円寺で世界一周 」という連載を始めた。毎回ひとつの国を決めて高円寺でその国ゆかりの店を取材する。最初は無理があるかもと思っていたが、楽々20回続いた。高円寺と親和性の高そうなイメージのあるインド、中国などはもちろんのこと、ハワイでも、オーストラリアでも、スペインでもメキシコでも成立した。

「カフェバリチャンプル」のナシチャンプル

アメリカンハンバーガーショップ「FATZ'S」、イランのラーメン店「ビアビア」、トルコのケバブ屋「ラーレ」、スペイン料理とフラメンコの「エスペランサ」、韓国の美容ショップ、イタリア語教室。イタリア語教室で習った会話文は今でも覚えている。

高円寺で明日使えるイタリア語

「一緒に四文屋に行きませんか?」
Andiamo insieme a Simonya?
(アンディアモ インシエメ ア シモンヤ)


「大将の本店ですか? 2号店ですか?」
Quale ristorante Taisho, il primo, il secondo...?
(クアレ リストランテ タイショウ、イルプリモ、イルセコンド?)


「休日の高円寺に快速が止まらないのはなぜですか?」
Perche' il finesettimana l'espresso non ferma a Koenji?
(ぺルケ イル レスプレッソ ノン フェルマ ア コウエンジ?)


「どこのリハスタを使っていますか?」
In quale sala prove suoni?
(イン クアレ サラ プロべ スオニ?)


「みうらじゅんさんの悪口を言わないでください!」
(Non parlate male di MiuraJun!!!
(ノン パルラテ マレ ディ ミウラジュン!!!))


どれも高円寺に住むには便利なフレーズだ。

逆説的な街

食材店をめぐるのも楽しい。ネパール食材店でレンズ豆を買う時や、中国語しか聞こえてこない中華食材店で冷凍庫を開ける時。自分が今どこにいるのかわからなくなる。私の思ういちばん高円寺っぽい瞬間とは、高円寺にいることを忘れる瞬間だ。

“よく行ったお店は
いつのまにかなくなってしまったよ
コーヒーがおいしかったのに”

用事がないときでもつい商店街をうろうろしてしまうのは、毎日歩いても毎回必ず新しい店を見つける楽しさからだった。そのぶん、気に入った店があってもすぐに閉店してしまうことも多い。街の新陳代謝を感じる。どんなに店が入れ替わっても、高円寺のカラーはずっと変わらない。これもまた逆説的だけど、高円寺が変わらないのは高円寺が変わり続けているからかもしれない。

photo by Yuusuke Katsunaga

流動する街。そういえば親しい友人に、「あなたって流動的だよね」と言われたことがある。わかる気がする。ちょっと自覚がある。

現在も、文筆家、ラジオパーソナリティ、書店店主、ドキュメンタリー映画プロデューサー、クリエイティブディレクターなど年々肩書きが増え、「結局何が本業?」と言われることもある。趣味も両手で足りないくらいあって、次々に新しいことに手を出してしまう。 そのおかげで「つかめない人」と思われている気がするし、イメージを絞った方が仕事を頼む人も安心するんだろうなと思う。でも、人生のトンマナを統一しなきゃなんて考えるのは苦しい。 損をしているのかもしれないが、こういう風にしか生きられなかった。

高円寺は自分と似ているかもしれない。もしくは、多感な時期に高円寺に住んでいたから、高円寺みたいな人間になったのか。種々の要素が共存し、ごった煮のようになっている商店街を歩くと、同時にいろんなものがあっていいんだと思える。何が入っているかわからないおもちゃ箱みたい。いろいろあるのが高円寺らしさ。いろいろあるのが私らしさ。

TSUTAYAの跡地にできたヴィレッジヴァンガードで、「高円寺といえば!!」というポップをつくってもらったことがある。多分そんな風に認識しているのはごく限られた人だろうし、店員さんも何気なく書いたのだと思うけれど、かつて渡り鳥だった私にとっては嬉しい言葉だった。

なんの疎外感もなく地元だと思える場所が、初めてできた。

あれから7年


“オレンジの電車で どこでも行けるような気がした
いまでもずっとここにいる
高架下で歌う 若い詩人たちは今日はいない
ああそうだ きみはもういない”

高円寺を去って行ったたくさんの人たちのことを思い浮かべながら書いた歌詞だった。
久しぶりに聴いてみたら、歌の中の「きみ」が自分のことになっていた。高円寺を離れて7年が経つ。

“そして今日も純情商店街のアーチをくぐる 口ずさむ 
わたし純情でいられるかな
誰かが待っている いまでも待っている 高円寺のまち”

だけど私にとって高円寺は、ただ通過した街、ではない。これからも心の真ん中に近いところにずっとあり続ける街だ。今は離れてしまっているが、またいつか戻ってきたい、と思う。この先どんな私になったとしても、この街になら絶対になじめる自信があるから。

【MV】純情ブルース/藤岡みなみ&ザ・モローンズ

www.youtube.com

著者:藤岡みなみ

藤岡みなみ

1988年生まれ。文筆家、ラジオパーソナリティなど。時間SFと縄文時代が好きで、2019年からタイムトラベル専門書店utoutoを始める。新刊エッセイ『パンダのうんこはいい匂い』(左右社)発売中。
Twitter:https://twitter.com/fujiokaminami

 


編集:小沢あや(ピース)