著者: にたないけん
けたたましい踏切の音を聞きながら電車の通過を待っていると、隣にいる母と男児の会話が耳に飛び込んでくる。
『ちゅっちゅは電車大好きだね』
『うん』
『今度また電車乗ろっか?』
『うん、電車ね、乗るのも好きだし、降りるのも好き!』
踏切が開いて人々が歩き出す。
ちょうどその瞬間、ホームと線路に、この世のすべてを浄化するような夕陽が差し込んできて、僕はさんざん悩んでいた引っ越しをやめることを決意する。
やっぱり立石に住みたい。
「この街は僕のもの」
岸田繁の歌がファンファーレのように脳内で鳴りまくっている。
もう一度言おう。
このまま立石で暮らしたい。
芯からそう決心している。
ボトムオブダウンタウン
音楽活動を円滑にするためには中央線沿いに住むのがいい。自分で歌を作って歌い始めた24歳当時、僕はそういう考えに取り憑かれていた。ライブハウスやリハーサルスタジオや楽器屋が近いために便利だからという理由である。
東京都葛飾区立石。私鉄の京成線沿線の街で、駅名は「京成立石」。
立石にはそういった娯楽に関する店や施設や文化が一切ない。そもそもCDを買える店がまずないし、本屋も映画館もネットカフェもない。今から言うことは多少大げさなのだが、立石で暮らしていれば、それらのサービスを受け取ることよりも、甲類焼酎が飲める店に出かけていくほうを優先してしまうのである。
ビジネスホテルもないし、マクドナルドもミスタードーナツもつぶれるし、イトーヨーカドー(現在はヨークフーズ)は1階建てのただのスーパーだし、各駅停車しか止まらないし、都心からの最終電車の時刻も早い。
人に、東京生まれ東京育ちだと言うと、シティーボーイじゃん!と羨ましがられるが、やれやれ、東京イーストエンド京成立石を舐めないでいただきたい。
まだICカードなんてものがなかった当時、池袋や新宿から京成立石まで行くための乗り換え切符が駅で買えなかった、という事実が立石の田舎性とファンタジー性を物語っている。(そんな僻地に帰るやついないっしょ、と言われているような悲哀を、切符の精算をするたびに感じていた)
浅草や柴又や亀有が、言ってしまえば開発により観光地化された下町だとしたら、立石は、手つかずの加工無しのすっぴんの下町だ。
そういった理由で中央線沿いに住もうとしていたわけなのだが、そんな企みもすべて踏切の音とサンセットに一瞬で焼き尽くされ、なにが中央線だよ今さらカッコつけてんじゃねえよアホダヌキめ、不便でもいい、俺はここで悠々とのさばる真紅の竜となるのだ、ふぉっふぉっふぉ、という狂気じみた独り言をはき捨てながら、晴れて僕は立石の実家を離れて、立石で一人暮らしを始めることになる。
駆け抜けて青春
14歳までは隣町の青砥に家族で住んでいた。生まれも育ちも青砥だ。それが14歳の時に京成立石駅前のマンションに引っ越してきた。
うちの家族は「蘭州」という餃子屋を立石で経営していて、今年(2024年)で創業37年になる。少しでも自宅を店に近づけたかったのが引っ越しの理由だろう。
父が始めた小さな店で、家族以外にアルバイトを雇ったことはない。僕も音楽稼業と並行して手伝っている。
16歳の時に高校の軽音楽部に入ってドラムを始める。これが僕の音楽との出会いだ。
X JAPANやhideにハマり、そこから海外のハードロックやメタルに傾倒、YAMAHAのツインペダルを買ってツーバス奏法を習得する。
バスドラム用の練習パッドを買って、それを毎日のように両足でめこめこめこめこ踏んで練習、毎週買ってた「ファミ通」というゲーム雑誌を、ドラムセットのように机に配置して、タム回しを練習した。
僕の高校3年間はドラムとゲームだけで完結していた。
男子校だったし、その3年間で会話した女性は、母親とおばあちゃんと英語の北条先生の3人だけだった。
高校を卒業して大学へ進学。文系の大学ということもあったのか生徒の7割が女子という未知の生態系の中に放り込まれ、精神がうまく順応できず自意識が崩壊、入学早々1年半引きこもりになる。
引きこもりから生還して、人生初めてのアルバイト。モスバーガー京成立石店である。
面接の時、店長に「え?きみドラムやってんの?」と言われる。履歴書の特技の欄にドラムと書いておいたのだ。
「いや~、ちょうどドラムだけいなかったんだよね。この店みんなバンド好きなんだよ。俺はギター」という漫画的な展開になり、その場で採用。
そんなわけで、アルバイトと同時に職場内バンドも始動。たまに深夜2時の閉店後にわざわざ小岩のスタジオまで行ってみんなで音合わせをしていた。店長は僕の知らない昔の洋楽をたくさん教えてくれた。
ちなみに、モスバーガーの社長や社員なんかがみんな集まる定例会?みたいな催しの出し物でライブしたこともある。立派なホテルの大きなホールで何百人もの社員の前で、T.REXの「20TH CENTURY BOY」を演奏したっけ。
モスバーガーでアルバイトを始めると同時に、人生で初めてのオリジナルバンド、ジョズエを結成。男3人編成の日本語ロックバンドだ。
主に、渋谷La.mamaや、今は無き高円寺GEAR、西荻窪TURNINGなどで、よくライブしていた。
そのジョズエが23歳の時に解散。楽器をドラムからアコースティックギターに持ち替え、歌を作って歌い始めるようになる。
初ライブは西荻窪TURNING。当時、店のブッカーであり、ドラム時代からお世話になっていたカトウタクミ(ブルボンズ)さんが、不安の塊だった初ライブから褒めてくれて、それ以降もずっとしごいて伸ばしてくれた。
あの時の自信が現在に脈々と繋がっているので、タクミさんと出会っていなかったらまったく違う人生になっていることだろう。
タクミさんとは、気心知れた戦友として今でも親交を重ねている。自分の人生におけるキーパーソンのうちの一人だ。
街の洗礼
1年半の引きこもりを終えた後、そこから真面目に大学に通い始めて、計4年半で必要単位を習得、卒業。就職しながらバンドをやろうと目論んでいたが、そのタイミングで父が右目網膜剥離となり、店の営業が困難になる。
母から「店を手伝ってほしい」と直々に言われ、僕の就職先は一般企業ではなく、実家の餃子屋「蘭州」に決まる。そのことがまさか、以後の人生において、飲酒と立石を修羅の如く愛するきっかけになろうとは、当然予想だにできなかったのである。
申し遅れたが、僕は酒が好きである。見るだけでは収まらず、思わず手に取って飲んでしまうくらい好きである。どう数えたって、今まで女人と接吻した回数よりも、グラスと交わしたそれの回数と時間のほうが長い。
しかし、最初から酒を飲めたわけではない。初めて飲んだビールは苦すぎて吐きそうになったし、最初は居酒屋で飲むのはもっぱらカルピスサワーや青りんごサワーや梅酒の類であった。
そんな軟弱な甘ちゃんが、なにをまかり間違って焼酎をストレートでぽくぽくぽくぽく空けていくようなアルコールソルジャーへと変貌を遂げてしまったのか。
その原因とは、まごうことなき立石という街が持つ魅力と魔力によるものである。
「蘭州」を手伝い始めた23歳頃、僕は一人で酒を飲むというようなことは日常でしていなかったし、それまで酒を出す店で働いたこともなかった。
なので、酒気を帯びている、酔っている、泥酔している、もはや人間じゃなくなっている、というような客を相手にすることに、正直恐怖心を抱いていた。
当時の「蘭州」の営業時間が18時~26時。開店前から20人ぐらい並んでいるのがまず怖かったし、しかもそれに加えて、なにやら軒並み酔っている。
(これから店に入るのに、ていうかまだ18時なのに、なんでみんなこんなに酔ってるんだ?)
しかも今まで働いてきたチェーン店とは全く勝手が違い、みんな知り合いのような雰囲気ができていて、両親も客に対してタメ口をきいていることにカルチャーショックを受ける。
顔面を赤くして目の座った知らないおっさんに「おい、息子!頑張れよ!」などと急に言われても、「この人は誰なんだ……」となり、親も何も言ってくれないし、びっくりしてしどろもどろになってしまい、うまく返答できない。
わけがわからぬまま多忙という濁流に飲まれ、気づけば深夜になり、営業終了。僕はそれまで立石という街がどういう街なのか、10年近く暮らしていたのに全く知らなかったのである。
(おいおい、この街ってもしかして、酔っぱらいの街なのか?)
しかも客の会話を聞いていると、どうやら立石の中で何軒もの居酒屋を回っていて、その行為のことを「はしご」と呼ぶらしい。
(なんでそんなことしなくちゃいけないんだ……わけがわからねえ……)
「蘭州」を初めて手伝った日、僕はまざまざと立石の洗礼を浴びたのである。
酒都立石、その恍惚
「蘭州」で働く日々を重ねていくうちに、お客さんの会話や近所付き合いから、たくさんの店の名前を聞いて覚えた。なにせ立石は駅前に店舗がぎゅっと密集していて、お店同士の近所付き合いも濃い。商売敵という発想はない。
もつ焼き屋だけで「宇ち多゛」「江戸っ子」「ミツワ」「三平」など昔からやってる店以外にもまだまだあるし、半身の鶏の唐揚げを出す「鳥房」、立ち食いの「栄寿司」、朝8時から飲める「えびすや食堂」、おでんと燗酒の「丸忠蒲鉾店」、などなど枚挙にいとまがないが、それら昔ながらの名店がみんな徒歩3分圏内にひしめいている。
ある日「蘭州」に立っていると、常連の伊藤さんから「宇ち多゛」(うちだ、と読む)に行ってみないかと誘われる。立石の大看板とも言えるもつ焼き屋で、創業1946年の超老舗だ。伊藤さんは「宇ち多゛」に毎日行っているというので、これは頼もしいということで、連れていってもらうことに。
行列に並ぶも、意外に回転が速く、どんどん列が進み、店内へ着席。薄暗い裸電球の下でおっさんたちがぎゅうぎゅうにカウンターに敷き詰められていて、皆なにやら厚手のグラスで得体のしれない液体をすすっている。BGMは何もかかっていない。
グラスや皿の触れ合う軽やかな音、注文を通す低い声、洗い物をするせせらぎ音、一升瓶を持ってうろうろしているスキンヘッドの強面の店員、五右衛門風呂くらい大きな煮込み鍋、豚の内臓が焼かれる香ばしい匂い、床にそのままうち捨てられた吸い殻。
それらすべてが交響曲となり、一丸となって目に焼き付かれた瞬間、なんだか山賊の隠れ家みたいなヤバいとこに来ちゃったぞという不安と、人生で一度も見たことのないものを見ているという神秘に襲われたのである。
僕はその日から現在に至るまで約15年間、隙を見ては「宇ち多゛」に行って猫背をねじこんでいる。
あと僕が足繫く通っている店に「ブンカ堂」がある。
小さな店だが、真ん中に通路を挟んだ対面式のカウンターになっていて、とても会話がしやすい構造になっている。地元の常連さんと他の街から来たお客さんが同じ目線で気軽に交流できて、まさにその時ブンカが育まれていると感ずる。
手前味噌だが、筆者にたないの音楽が店内BGMになっていて、CDも購入できるようになっている。「今かかってるの、これ誰ですか?」と言ってCDを買ってくださるお客さんが結構な数いらっしゃるので、僕みたいなどこの事務所にも所属してない無名のミュージシャンにとっては真実大いなる幸福である。
街の底
蘭州の営業が終わって帰路につく深夜3時頃。駅の南北をつなぐ地下通路で、男が一人、ギターを弾きながら歌っている。その渋く色気のある声にひかれて近づいて聴いていると、歌に聞き覚えがある。ああ、そうだ。友部正人の「けらいのひとりもいない王様」だ。
僕は男と少し話したような気もするが、よく覚えていない。その後、彼の姿を地下通路で見ることはなかった。10年後、立石の喫茶店「やまもと珈琲」で、店主と客として偶然再会するまでは。
葛飾区の王様は立石を再開発することに決めてしまった。
2023年8月、駅の北口商店街の飲食店や個人商店はみんな立ち退いてどこかへ行ってしまった。北口に店を構えていた「蘭州」も、例に漏れず立ち退いた。
現在(2024年3月)は白い壁のようなバリケードができて立ち入り禁止区域となっており、かつての商店街は、人が往来するだけのただの通路になっている。これからそこに新しい葛飾区役所とバスロータリーができる予定だ。
しかし、撤去予定の何棟もの建物からアスベスト(昭和の建築物によく検出される人体にとって有害な物質)が見つかったので再開発は難航が予想される。僕は専門家ではないので明確なことは言えないけど、アスベストの処理は容易なものではないらしい。
つまり、店舗や住居の立ち退きが完了したところで、そこから街に新しい血が通うまでは何年も必要だということになる。ちなみに京成立石駅高架化事業の完成は7年後の2031年だと言われている。
立石から出て他の街で再出発する店、立石の中で別の土地に物件を見つけて継続する店、高齢のためそのまま店をたたんでしまう店、さまざまな行方をそれぞれの店が模索して決めている中、「蘭州」は駅の南口に新店舗が見つかり、2024年1月にまったく別のメニューに一新して再開した。中国蘭州地方由来の、羊を使った郷土料理がメインとなっている。
なぜ今までのラーメンや餃子を辞めてしまったのかというと、簡単に言えば、父の病気(脊椎管狭窄症)によって今までのメニューの仕込みが不可能になったからである。新店舗が見つかったとはいえ、その区域も再開発該当地区にあたるため、数年のうちには立ち退きの勧告が来るはずである。
南口にはタワーマンションが3つ建つ計画だ。無論、仲見世商店街も再開発地区に該当する。
個人的には、そんな所業は文化的損失だと感ずる。そうやっていずれ東京の街はすべて同じ景色になってしまうのだろうか。旅行者の口から「なんかどこ行っても一緒だね」なんていうつぶやきが漏れる未来が来るのだろうか。
街が変わるのは仕方のないことだとは思う。きっと古代ローマの時代から「昔はよかったな」が何度も囁かれているのだ。
僕は、僕が暮らしてきた25年分の景色がなくなることに、エゴかもしれないが、正直寂しさを覚える。でも、それと同時に思うのである。
街は人である。
100年後200年後、今生きている人たちは誰もいない。僕らの暮らしのことなんて、語り継ぐ人や記録をする人がいない限り、誰も知らない。それでも、なにかおもしろいことをやりたいと思う人がいつの時代にも絶対に現れる。そういう人たちがまた、おもしろい街を作るのだ。人間は破壊ばかりしてきたけれど、創造もたくさんしてきたはずだ。
僕は、なにも不安ではない。僕もその一人として立石に残って将来何かやってみたい気持ちがある。
昔さ、こんな奴らがいたんだぜ。その声を未来まで爆音で響かせるために、今を生きる。生きまくる。
生きることは、誰かへの手紙なのだ。
友よ、案ずるな。
おおいに楽しもう。
<にたないけんのプレイリスト>
今回のエッセイにおけるサントラ的なプレイリストにしました
著者:にたないけん
男。1984年生まれ。東京都葛飾区立石在住。ひとりで歌とギターとハーモニカ。高校生からずっとドラムを叩いていたが、2008年にアコースティックギターを買って歌をつくって歌いはじめる。持ち曲は約150曲。活動10周年目に10時間ワンマンライブを完奏。
blog:http://blog.livedoor.jp/nitanaiken
編集:夜夜中さりとて(Huuuu)