上新庄、淀川、東南の角部屋|岸政彦

著: 岸政彦 

 わたしはこれまでにあったすべてのことがこれからもありつづけるだろうこと、これからあるだろうすべてのことがこれまでにもつねにあったことを、閃光のようにさとったんだ
 ──ウィンストン・ナイルズ・ラムファード

 大阪と猫のことに関しては、これまでさんざんあちこちで書いてきた。だから、ここでこれから書くことも、たぶんすでにどこかで書いたことばかりで、「この話どこかで読んだことがあるぞ」と思うような話ばかりになるだろう。でもそれも仕方がない、ひとりの平凡な男の人生に、書く価値がある物語がそれほどたくさんあるわけがないのだから。だからここでも同じ話を書く。

 実家がとにかく嫌だった。子どものころから、家のなかで会話ができる相手が犬(当時はまだ珍しかったミニチュアシュナウザー、名前は「エル」)と猫(拾った黒猫、名前は「ねこ」)しかいなかった。

 大学を受験することになった。

 生涯ひとびとの人生の聞き書きを続けたスタッズ・ターケルという作家と、『ポンプ』という読者投稿欄だけでできた変わった雑誌のおかげで、自分もひとの人生を書き留める仕事をしたいと思っていた。でも人見知りで人間嫌いで(犬と猫しか友だちがいなかったから)、だからとりあえず大学に入って、そして大学を出たあと大学院に進んで、社会学者になろうと思った。とにかくみんなどうやって生きているんだろうと不思議に思っていた。真っ黒に汚れた運河の土手をエルと一緒に歩きながら、向こう岸の団地やアパートの明かりを見て、どんな人がどんなふうに暮らしているんだろうと思っていた。

 ゆらゆら。人びとは、生きているときに光を発する。生きているあかしの光が夜の川面に反射して、その明かりがゆらゆらと揺れる。水面でゆらゆらと、きらきらとゆれる団地の明かりを見ながら、東京と関西の大学の入学願書に名前と住所を書く。やがて新幹線は東と西に同時に発車する。はじめはゆっくりと進む。ゆらゆらとゆれる明かりは徐々に速度を増して、後ろのほうへと流れていく。おなじ速度で私は東京と新大阪へと運ばれる。人びとの人生が発する明かりが後ろへ流れていく速度と、私が過去を捨てるために前へ進む速度は、正確に同じで、だから足すとちょうどゼロになる。エルの散歩から家に帰り、ねこをひざの上に抱いて、入学願書を記入する手をとめてふと窓から外を見ると、いつのまにか35年が経っていて、団地の窓の明かりと新幹線はあいかわらずものすごい速度で反対方向に進んでいる。

 ほんとうに受験勉強というものを1秒もしていなかった。それでも東京と大阪の、いくつかの大学の社会学部(社会学部がある大学しか受けなかった)に合格した。その瞬間、ちょっとだけ窓の明かりと新幹線の速度にズレが生じ、明かりが一瞬遅くなり、新幹線が一瞬速くなって、私の体と意識は西に飛ばされた。このようにして私は新大阪の駅に降り立ち、そしてここを終生暮らす街として定めたのだった。

 当時はまだひかり号のトイレの脇には折りたたみの紙コップが備え付けてあって、それでいくらでも冷たい水を飲むことができた。私は冷たい水を喉に流し込むと、勢いよく紙コップを備え付けのゴミ箱に捨てた。こうして私と大阪は義兄弟の契りを交わしたのだった。生まれ育ったネイティブではないので、あくまでも義理の兄弟である。

 同時に私は、東京で暮らすという選択肢を捨てた。

 意気揚々と飛び込んだ新大阪の不動産屋で騙されて、阪急電車の上新庄駅から徒歩30分近くかかる下宿を紹介され、何も知らない私は地図も見ずにその場で契約した。いや、たしか物件を実際に見にいったのだが、車で連れていかれたので、駅からどれくらい遠いかまったくわからなかったのだ。そして、駅から遠いだけでなく、上新庄の駅から私が進学する関西大学へ行くには、淡路駅でいちど乗り換えなければならないのだった。しかし私には何の不満もなかった。

 こうして、上新庄の駅から遠く離れた、離れ小島のような小さな小さなワンルームマンションで、ほんとうの人生がスタートしたのである。1987年4月1日は、私の誕生日にも等しい。この日に岸政彦が開始されたのである。それは酒と、本と、音楽の日々だった。いまに至るまでそれはあまり変わらない。

 上新庄! その名を聞くといまでも胸が高鳴る。淀川の向こう側ということもあり、大阪市民にさえ知名度がもひとつの、地味な住宅地だが、私にとってはそれは、限りない解放感と自由と孤独を心ゆくまで存分に味わった街だ。だから上新庄は、私にとってはいまでも、解放的で自由で孤独な街なのだ。

 戦後まで一面の田んぼと畑だったこの地域は、高度成長期からバブルにかけて急激に都市化し、びっしりと隙間なくアパートや団地や建売住宅やワンルームマンションが立ち並び、西日本のあらゆるところから学生や若者をかき集めて、私が移り住んだ80年代の終わりごろは、それなりに賑やかな街になっていた。阪急電車に乗れば梅田までは15分だ。ちょうどその頃「フリーター」という言葉が広告業者によって作られ、日本型終身雇用に縛られない、自由で新しい生き方として宣伝されていた。そして私たちはみんなそれを信じていたのだった。

 上新庄には、ぴかぴかの、新築のワンルームマンションがたくさん建っていて、そういうところに関西大学や大阪経済大学や大阪大学やそのほかの大学の学生がたくさん住んでいた。そして同じように、フリーターや若い会社員や何してるかわからないひともたくさん住んでいた。上新庄の駅前は、いまでもとても賑やかだけど、当時からたくさんのいろんな店があり、遊びにも買い物にも不自由することがなかった。

 朝起きる。なにもすることがない。当時の大学は授業なんてあってないようなものだった。東南向きの日当たりのよい部屋で、なぜかカーテンレールもなかったので、とにかく目が覚めるともう日焼けしている。窓を開けて、ああ今日は何をしようかなと思う。もうああいう朝は二度とやってこないだろう。

 ひとりの暮らし、というものが、手探りで始まったのだった。すこし歩けば大きなダイエーがあって、食料品は何でもそこで買えた。このダイエーはもうなくなっているが、その建物には別のスーパーが入っていて、いまでも大勢の客で賑わっている。当時はネットなんかまだないから、『non-no』の別冊の分厚いオレンジ色の料理の本を買ってきて、みようみまねでかんたんな料理を作った。米を炊き、出汁をとって味噌汁をつくり、肉と野菜をざっと炒めると、それだけでもう完全な晩ごはんになった。このようにして、私はひとつずつ手探りで、生きることを覚えていった。

 そして同時に、暇ができれば私は意味もなく街に出かけた。部屋にテレビもなく、当時はインターネットもなく、暇つぶしといえば読書と楽器の練習ぐらいで、あとはとにかく街に出るしかなかった。彼女がいる時期は彼女と、いない時期はひとりで、とにかくよく大阪の街を歩いた。上新庄の下宿を中心にして、そのまわりの東淀川区はほとんど制覇したのではないかと思う。大阪っぽくも何ともなく、特にこれといった特徴もない、ただの住宅地がだらだらと広がるだけの街だが、それでもほんとうに、知らない角を曲がるたびに、新鮮な驚きと感動を感じながら、いつまでもどこまでも歩いた。

 もちろん梅田やミナミにもよく出かけた。梅田の昼間は紀伊國屋書店と旭屋書店(もうなくなってしまった)、エストや茶屋町のロフト、かっぱ横丁の古本屋街、そして夜になれば東通り、堂山、お初天神、曽根崎で酒を飲み、ナビオの裏の路地でヤンキーに絡まれた。上新庄はほんとうに梅田に近くて便利だった。たまに学生のくせに夜中に酔っぱらってタクシーで帰ることがあって、長柄橋を渡るとき、淀川のむこうにきらきらと光っていた夜景をいまでもまだよく覚えている。

 上新庄からミナミに出かけるときは堺筋線で長堀橋や日本橋で降りる。すこし西に歩くともうそこは心斎橋や難波だ。道頓堀や千日前でよく飲んだ。石ノ花というバーがたまり場になっていた。後に、那覇のライブハウスで、この石ノ花にいたバーテンさんと30年ぶりぐらいにばったり再会することになる。

 上新庄駅の周辺には書店や古本屋、あるいはガレージでやってるよくわかんない雑貨屋(アナログレコード盤をたくさん売っていた)、そういう店がたくさんあって、ひとりでぶらぶらするだけでも楽しかった。駅前の本屋でたまたま出会ったスティーヴン・キングにハマって、そこの棚にあるキングの文庫本をすべて買い占めて一気に読んだ。『IT』はいまでも私のバイブルのひとつだ。

 大学に入ってすぐに彼女ができた。背の高い、とてもきれいな子で、よく笑う優しい子だった。駅から遠く離れた私の下宿にも何度も泊まりにきた。でもなんとなくうまくいかなくて(私が悪いのだが)、別の子と付き合うようになった。1回生の5月ごろから梅田のお初天神のショットバーでバーテンのバイトをしていたのだが、そこにたまたま高校のときの同級生が女の子を連れて入ってきた。あまりの偶然に驚いたのだが、そのとき一緒に来ていた女の子がこっそり私に電話番号を教えてくれた。彼女も、それまで見たこともないような美人で、その後すぐに付き合うことになったのだが、すぐにうまいこといかなくなった(私が悪いのだが)。その後もたくさんの女の子と付き合ったが、だいたい最後は私がフラれていたのだった。もちろん原因はすべて私にある。

 関西大学に入ってすぐにジャズを始めた。高校のときはロックバンドだったが、実は当時もロックがあまり好きではなくて、家ではもっぱらジャズを聴いていた。でも自分ひとりでやるには難しすぎて、しかたなくロックバンドをしていたのだ。せっかく大学に入ったのだからジャズをやりたいと思って、軽音楽部に入った。軽音楽部に入って、あまりの上下関係のキツさにすぐに嫌気が差して、仲間4人でとっとと辞めてジャズ研究会というサークルを立ち上げた。このサークルはいまでも活発に活動していて、たくさんのプロのミュージシャンを輩出している。

 そこからの4年間はもう、仲間と酒を飲み、ウッドベースを練習し、ミュージシャンの真似事をして北新地や祇園や三宮のジャズクラブで演奏をしてギャラを稼ぎ、昼間は図書館にこもってフーコーやブルデューを読み、彼女と遊びに行ったり下宿で一緒に寝たり、2回生のときに一度だけ引越しをしたけどまた同じ上新庄で、結局31歳で結婚するまでずっと上新庄に住んでいた。だから私にとって、上新庄は解放感と自由と孤独の街だ。

 そして、私にとっては、そういう自由で賑やかで寂しくて、そしてやっぱり自由な上新庄の時代を象徴しているのが、淀川の河川敷だ。

 淀川の河川敷。あれほど広くて緑豊かで美しい場所が、大阪の街中の、梅田からでも歩こうと思えば歩いていけるところにあるのは、素晴らしいことだと思う。はじめに住んだ下宿は駅よりも淀川の河川敷のほうが近くて、だからほんとうによく散歩した。ひとりで、あるいは彼女と、あるいは友人たちと、そしてやっぱりひとりで、とにかくどこまでも歩いた。淀川は広くて、静かで、穏やかで、明るくて、寂しい。それはまさに、大阪に来てから始まった私のほんとうの人生そのものだ。

 そしていまも、淀川の近くで暮らしている。大阪に来てから35年という長い長い時間が経つが、淀川は何も変わらないし、私も何も変わらない。私はいまでもあの、東南向きの角部屋の、日当たりのよい、小さな離れ小島のようなワンルームに住んで、朝起きたとき、ああ今日は一日何をしようかと、ぼんやり考えているのだ。

著、撮影:岸政彦

岸政彦

1967年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。社会学。専門は沖縄、生活史、社会調査方法論。主な著作に『同化と他者化──戦後沖縄の本土就職者たち』、『街の人生』、『断片的なものの社会学』(紀伊國屋じんぶん大賞2016受賞)、『質的社会調査の方法──他者の合理性の理解社会学』、『ビニール傘』(第156回芥川賞候補、第30回三島賞候補)、『はじめての沖縄』、『マンゴーと手榴弾』、『図書室』(第32回三島賞候補)、『東京の生活史』(紀伊國屋じんぶん大賞2022受賞)、『リリアン』(第38回織田作之助賞受賞)など多数。2022年9月からは『東京の生活史』の続編にあたる、『大阪の生活史』プロジェクトがスタート(刊行は2023年予定)。
Twitter : @sociologbook 

 

編集:岡本尚之