著者: むらやまあき
「東京には魔物が潜んでおります。」
高校時代、初めて付き合った恋人が貸してくれた漫画『ソラニン』に、そんな言葉があった。
第一志望の国立大学に落ち、センター利用で合格していた私立大学に入学するために長野から上京したわたしは、恐怖におびえていた。なにしろ上京以前にも東京へ遊びに行くことはあったが、そのたび人の多さに酔い、都会の空気に圧倒され、竹下通りの入口で気持ち悪くなってうずくまる始末だったからだ。
もともと長野を出るつもりではいた。
でもいざ上京が決まると、不安で胃と心臓が締め付けられた。
行きたくない。しかし行くしかない。
そんな巨大な魔物に立ち向かうような気持ちで、わたしは東京にやってきたのだった。

地元を離れて上京したのは2014年のこと。
上京一年目は、心配性な両親の後押しもあり、東武東上線のときわ台にある女子専用寮にいた。しかし、過保護なくらいに守られたその城の家賃は非常に高く、かつ駅からゆるやかな坂を上って徒歩20分以上という悪条件もあって、たった一年で出てしまった。
その後、初めて一人暮らしをしたのが一駅隣の「上板橋」である。
大学を卒業をするまでの3年間を過ごした、思い出深い街だ。
ここでなら、生きていけると思った

板橋区と練馬区の境目のような場所にある街・上板橋。
それまで一度も降り立ったことがなく、特別住んでみたかったわけでもない。
街選びの条件は、志木駅に大学があるので東武東上線上からは外れないこと。駅名がダサくないこと。そして、ぎりぎり東京都内であること。
東武東上線は池袋から埼玉県の寄居までを繋いでいて、停車駅のほとんどは埼玉。「埼玉に入れば家賃が下がる」という情報を耳にしながらも、上京した以上どうしても「東京在住」と言いたかったわたしは、そこだけは譲れなかったのだ。
その他もろもろの部屋の条件を加味した結果、総合的に一番よかったのが上板橋だった。

アパートはオーソドックスな間取りの1Kで7.2畳。駅から徒歩6分。家の目の前にはスーパーがあり、住所に「桜川」という文字が入るのも何だか気に入った。
共益費込みで7万2000円。初めての一人暮らしにしては贅沢だとは思いつつ、両親のサポートのおかげで住めることになった。
長野からわざわざ付き添いに来てくれた母と一緒に内見を終え、ためしに駅の方へと歩いてみた。「なぜ板橋なのに銀座なのだろう……」と疑問に思いながら、初めて「上板南口銀座商店街」を通り抜けたとき、抱くはずのない感情がこみ上げた。
「東京にもあったんだ」
懐かしい街並みを見て、福山雅治の曲名が思い浮かんだ。

お肉屋さんの威勢のいいはつらつとした声、ピンクとベージュの肌着がずらりと並ぶ昔ながらの雑貨洋品店、激安野菜に群がる主婦やお年寄り、チープな名前のお弁当屋さんに、年季の入った古書店。
この街に漂うのは、ただひたすらに懐かしい匂いだった。
「ここでなら、ひとりで生きていけるかもしれない」
漠然と抱えていた不安は、すぐに商店街の活気に溶けていった。
表現を追いかけ、手に入れた居場所
幼いころから演じることと文章を書くことが好きだったわたしは、受験大学も文化や芸術、表現について学べるところを選んだ。
最終的にわたしが入学を決めた学科は、教授の多くが劇作家や映画監督、ダンサー、写真家といった表現を生業にしていて、そろいもそろって変わり者。個性的な授業はとても楽しくて、すぐに大学が好きになった。
個人で表現活動をしている学生が多く、在学中は何度か友人が制作する映画に出演したり、写真の被写体をしたりもして、いろんな表現に触れられる最高の環境だったのだ。

大学1年の5月ごろには、さまざまなカルチャーを扱うフリーマガジンのサークルに入った。
毎日のようにミーティングをし、撮影や取材に出かけて記事を書く。入稿前は代々お世話になっている24時間営業のカフェで朝まで作業。当時のスケジュール帳はサークルの予定でびっしりと埋め尽くされ、日々は目まぐるしく過ぎていった。
正直かなりしんどかったが、個性的な仲間たちと形に残るものづくりをする喜びはひとしお。わたしは自分の居場所を見つけたように思った。

早めに東京に慣れることができたもうひとつの理由は、営業活動をしていたことだと思う。
1号あたり6000部ものフリーマガジンを発行するお金を集めるべく、アポを取り、スーツを着てたくさんの名立たる企業に訪問した。はじめのころは同じ営業担当のサークルの先輩についてびくびくしていたが、次第に自分で提案プレゼンをして協賛をもらえるようになった。
最終的には営業代表を務め、入学式以降は出番がないと思っていたスーツは、引退までの間にすっかりくたびれた。
社会や大人との接点が急速に増えていくなかで、わたしは東京で上手く生きていく術を少しずつ覚えていったのだ。
ほっこりが溢れる便利でやさしい街
忙しさと生活力が反比例するズボラな性格のわたしにとって、上板橋はかなり便利でやさしい街だった。
大きな商業施設や娯楽施設こそないものの、暮らしに必要なものはだいたいそろうし、街にはお惣菜やお弁当の類が豊富。電車で10分ちょっとで池袋にも出られる。
駅の改札を出ると左右に北口・南口と分かれていて、それぞれ異なった生活圏がある。
北口にはイトーヨーカドーのような比較的大きめのスーパーや、チェーンの飲食店などが集まっている。実は蒙古タンメンで有名な『中本』の本店は、上板橋にある。

ご飯時には階段に行列ができる。残念ながら辛い物が苦手だったので、宝の持ち腐れ
母が長野から遊びに来ると、駅のすぐ隣にある『焼き鳥居酒屋 大(ビッグ)』でいつもお酒を飲んだ。

友達のように仲がいい母とは、学校やサークルの話だけでなく、恋人のことや最近の恋愛事情についてもたくさん話した。「あきは本当に人たらしねえ」と呆れた顔で笑われる、その時間が好きだった。

わたしが住んでいた南口は、「上板南口銀座商店街」の通りを中心に八百屋や肉屋、お弁当、ドラッグストア、洋品店など衣食住にまつわる多種多様な店がひしめいている。
新しい店と戦後から続く古い商店がごちゃまぜに並んでいて、統一感はまるでないが、その雑多さに安心感を覚えてしまう。

ちょっと頑張った日には、創業60年以上になる『肉のマルサン』でコロッケとハムカツを買って帰った。
お店のおじさんに「お姉ちゃん、おまけでもう一個あげる」とコロッケをサービスしてもらったときは、この街に受け入れてもらえたような気がしてうれしかった。

一度遊びに来たときに食べて以来、父はこのコロッケ(90円)がお気に入りで、いまだに懐かしそうに話す
大学3年のときには、入学時から仲が良かった男友達が上板橋の北口側に引越してきたので、よく『ガスト』に呼び出した。お酒も飲まずに数時間、だらだらととりとめもないことを喋った。しんどいときになんだかんだ話を聞いてくれる、とてもありがたい存在だった。
ちなみにこれは余談だけど、上板橋には心なしかお年寄りがとても多い。

ぷらぷらと散歩をしていると、背格好も年齢も変わらないおばあちゃん同士が、「ちょっと悪いねえ」「いいよ、掴まんなあ」と腕を組んで寄り添いながら歩く、なんて場面に出くわす。
きちんと年齢を重ねてシワシワになったり、腰が曲がったりしているじじとばばがのんびりと暮らす姿は、地元・長野でよく見る光景に重なり、思わずほっこりしてしまう。
東京を手懐けたはずが、飲み込まれかけていた
大学3年の夏にサークルを引退した後も、わたしは社会課題に関心を持ち、学生向けのプログラムに参加したり、いくつかのWebメディアでインターンを始めたりと忙しなく駆け回っていた。
たくさんの人に出会い、いろんなことを知るうちに、どこか東京を手懐けたような気になった。まだ見ぬ世界に導いてくれる大人たちとの出会いは、麻薬のようなものだった。
そんななかで、次第にわたしは無理をするようになっていった。
苦手な懇親会や気が乗らない誘いにも「いつかの自分のためだ」と言い聞かせて足を運び、大人たちに気に入ってもらえるように振る舞った。
疲弊していく自分に気づきながらも止まれず、何か巨大なものに飲み込まれていくようだった。
「東京には魔物が潜んでおります。」
ふと、その言葉を思い出した。

そんな毎日の終わりに上板橋に戻ってくると、いい意味で「自分はひとりだ」と思えた。誰ひとりわたしを知らず、必要以上に干渉してくることもない。
でも、決して孤独ではなかった。
にぎやかな商店街を通り抜けると心がほぐれたし、店員さんの元気のいい「いらっしゃい」を聞くと安心した。当たり前のように交わされる距離感の近いコミュニケーションは、自分が東京にいることを忘れさせてくれるようで心地がよかった。
良くも悪くも変わっていく自分に戸惑っていたわたしは、変わらず暮らしを営み続ける街にほっとしていたのかもしれない。上板橋の街は唯一、背伸びをせずに等身大の自分に戻れる場所だったのだ。
背伸びをした世界で得たものももちろんたくさんあった。でも、自分の心を殺してまで「いい子」を演じることはもうやめることにした。
久々にゆっくり夜空を見上げながら散歩したとき、「東京の空にも星は見えるのだな」と思わず泣いた。感性が死んでなくてよかったと、心から思った。

その後、就活はそこそこに、西新宿のベンチャー企業に運よく内定した。結局、新しく買ったスーツはほとんど着なかった。
大学4年に上がるころにはもう単位は取り終わっていたが、どうしてもやりたかった卒業制作のために夏からほぼ毎日学校に通った。演劇ゼミの仲間と夜遅くまで議論しながら稽古を重ね、わたしは役者として舞台に出た。
公演にはサークルの仲間、仲良しの同期や後輩、当時の恋人が観に来てくれて、気恥ずかしさ半面、すごくうれしかったのを覚えている。

サークルの同期のふたりと(中央が筆者)。同期ふたりは池袋キャンパスの民なのに、新座キャンパス(志木)まで観に来てくれた
東京の私立大学に通わせてもらった以上、学業はまっとうすると決めていたし、何より仲間と一緒に大好きな演劇で学生生活を締めくくれたことがうれしかった。
その一方で厄介だったのは、卒業に近づくにつれて「表現がしたい」という気持ちが強くなり、4月から始まる仕事との間にずれを感じるようになってしまったこと。
入社直前に内定辞退まで考えたが、結局周りの励ましやアドバイスでそのまま就職することにした。「早めに経験を積んで、実績をつくったら次のステップに行く」と心に決めて。
そうして2018年の春、内定先の近くに引越すために、わたしは3年間暮らした上板橋をあとにした。
変わっていく街と自分、そして。
春が近づくたび、『東京』の名前がついた曲たちを無性に聴きたくなる。
東京に来てもう8年目になるが、曲を聴いて頭に浮かぶのはいつだって、上板橋で過ごした日々のことだ。
上板橋を離れて3年が経つ今、わたしは2社目の会社を退職し、フリーランスのライターとして働いている。たしかに書くことを仕事にすると決めていたが、25歳で独立するとは思っていなかった。
大学生だったころには想像していなかった未来を生きている。

先日、かつて上板橋メイトだった男友達を呼び出して、久しぶりに上板橋を散歩してみた。
かつて変わらないことに安心したこの街も、3年も経てば変わっていく。
商店街には見覚えのない焼肉屋ができて、疲れ果てたときの救世主『ほっともっと』は接骨院に変わり、よく映画のDVDを借りたレンタルビデオの『DORAMA』はドラッグストアになっていた。これで「上板南口銀座商店街」にドラッグストアは3軒あることになる。
ついでに、ふたりのたまり場だった『ガスト』にも行ってみた。
彼がよく食べていたサラダうどんは、カフェメニューのようにお洒落にアップデートされ、最終手段のおろしハンバーグにはいつの間にか彼の嫌いなきのこがのっていて、結局一度も頼んだことのないガストバーガーを注文した。

たぶんハンバーグメニューで出しているハンバーグをそのままパンで挟んでいて、食べるのに苦労していた。
話の内容は相変わらずとりとめもないけれど、そこに仕事や結婚、子どもといった話題が紛れるようになった。彼もわたしも、それなりに大人になったということだ。
当たり前だけど、あのころと全く同じ時間が流れることはきっと、もうない。

大切なものはそのまま変わらずにいてほしいと願うのは、ただのわたしのエゴなんだろう。
街も、景色も、店も、人も、少しずつ変わっていく。東京の空気を吸い込み、たくさんのことを経験して、自分自身が変化してきたのと同じように。それでいいのだ。
わたしは、今の自分が嫌いじゃない。ままならないことばかりだけど、少しだけ誇らしく思えるようになってきた。東京で上手く息ができるようになって、自分の好きなことを仕事にできて、大切なものも抱えきれないほど増えた。
もしかしたらそれと同時に何かを失っているのかもしれないし、正解なのかもわからない。
でも、ひとつだけ確信していることがあるとするならば。
東京の夜空を見て揺れ動く心があるうちは、わたしはきっと大丈夫。
そんなおまじないのような言葉を心の片隅に置きながら、この東京の地で明日も明後日も原稿とにらめっこをするのだ。
著者:むらやまあき

1995年長野生まれ。ライター・編集者。レモンサワーと1本80円のやきとんがあれば、結構しあわせ。現在、東京と三浦半島・三崎の小さな港町で二拠点生活をしています。
Twitter:@lune_1113
note:https://note.com/larxx_1113
編集:Huuuu inc.
