著者: 菅原さくら
桜並木にほっとした、江古田で迎えた春
「ファミリー向け」「下町」「スタイリッシュ」などと単一的なイメージを持たないところが、江古田の良さだと思う。街の空気はおだやかだし、少し歩けば緑豊かな江古田の森公園もある。でも、雑多な多国籍料理のお店にちょっと隠れ家風の花屋、流行りのヤンニョムチキン屋などが並んでいて、カルチャーの香りも忘れない。そのごちゃ混ぜなトーンが、これから初めて子どもを育てる私たちにはぴったりだと思った。
江古田に引越してきたのは、長男の臨月を間近にひかえた冬。学生時代からずっと早稲田界隈に住んでいたけれど、出産をきっかけに、義実家の近くに移ることを決めたのだ。
新しいマンションはとても気に入っていたし、子育てに向けて暮らしを整えられるのもありがたい。ただ、江古田駅の南口を降り、千川通りの交差点に差しかかったとき、あまりに風が強くて驚いた。冷たい風とあいまって、ぱつんぱつんでままならないお腹が、感傷をちょっと強めに連れてくる。
「いよいよ二人きりの時代は終わって、私たちは『家族』になっちゃうんだな」とか「早稲田では友達としょうもないこといっぱいしたけど、もうそんな友達はできないんだろうな」なんてことを、つい考えてしまう。
でも、3月に息子が生まれ、6日間の入院から帰ると、江古田の街に咲く桜が私を出迎えてくれた。そういえば夫が「この道は向こうまで、ずーっと桜だよ」と言っていたかも。淡いピンクに染まった通りを眺めていると、単純なもので、じわじわ気持ちが明るくなっていった。
その数日後には夫に子どもを任せて、初めて身軽に江古田を散歩した。桜が好きな母に「さくら」と名付けられた私にとって、桜はどうしても特別な花だ。特別なんだけど、どこにでも咲いているところが、最高にいい。江古田の桜もすごくよかった。
それから毎年、春は千川通りの桜並木をのんびり歩く。今では子どもも増えて、私たちは4人家族になった。
パン、焼肉、コーヒーの3つがそろう街なら、間違いない。
江古田には、3つの大学がある。日本大学芸術学部、武蔵大学、武蔵野音大。防音のマンションやバイオリン工房なんかが点在しているのは、音楽をやる人が多いからなのだろう。ときどき楽器を持った学生さんが歩いているのも、なんだか好きだ。
学生に向けた、安い居酒屋や定食屋はもちろんある。けれど、完全に“学生街”というおもむきではないから、私たち子育て世代にもうれしいお店も結構多い。
まずは鉄板、この街が誇るベーカリー「パーラー江古田」。都内のハードパンといえば、必ずと言っていいほど名前のあがる有名店だ。
引越した先に、おいしくておしゃれなパン屋さんがある。この事実は、初めての子育てでなんとなく低空飛行ぎみの気持ちをめちゃくちゃに救ってくれた。子どもの顔を見に来てくれるお友達や家族には、しょっちゅうここのカシューナッツと黒胡椒のパンをお土産にした。サンドイッチでは、チキンとまいたけのオープンサンドが香ばしくて癖になる。
江古田店は落ち着いた雰囲気でちょっと気を遣うけれど、一駅歩いて姉妹店「まちのパーラー」まで行けば、ベビーカーのままイートインに入れる。できたばかりのママ友と食べに行って、お互い子どもがギャン泣きし、あんまり落ち着いて味わえなかったのも今はいい思い出だ。
なにかといえば家族で食べたくなるのは「焼肉山河」。問屋直営のお店だそうで、おいしいうえにコスパもいい。子どもたちはつくねやウインナー、私たち夫婦は特撰ハラミと特上ミノがお気に入り。5歳の長男が締めに「もりおかれいめん ください」とオーダーしたがるのを、店員さんがいつもにこやかに見守ってくださる。
さらにありがたいのは、16時台から開店していること。混みはじめる前のお店で、さくっと夕飯を済ませられる。ごはんどきには行列だけど、提供が速いので回転も速い。私たちはこのお店に焼肉のすべてが詰まっていると思うくらい愛しているけれど、ほかのご近所さんは「江古田ホルモン」「焼肉ハウス」を推したりする。つまり江古田の焼肉は、非常に層が厚いのだ。
休日の散歩の途中には「江古田HUT」に立ち寄る。新桜台駅寄りにあるコーヒー&お茶のスタンドで、店の外に小さな椅子やベンチが置いてあり、子どもとくつろぐのにもってこい。
店長の奥矢さんは、じつは私が新卒で入った会社の先輩である。部署が違うから、一緒に仕事をしたことはなかった。当時は縁もゆかりもなかったこの街で、今は休日にコーヒーを淹れてもらっているなんて、人生は不思議だ。
私が「奥矢さんのところでお茶しようか」と誘うと、息子は「おくやさん、いるかな?」などとうれしそうに答える。もしかしたら最初のころは「やおやさん」「おはなやさん」「おくやさん」みたいな勘違いをしていたんじゃないかな。
長男もHUTの濃厚煎茶ラテが好きだ。そういえば、次男が生まれて1カ月くらい経ち、久しぶりに長男と二人だけでお散歩したときも、HUTに来た。
子育て世帯としては、江古田の街にはあと、ファミレスがいくつかできたら完璧なのに。テナントが空くたびにママ友と「あそこに何ができてほしい?」「ファミレス!」と言い合って、だいたいクリニックやスポーツジムが入る。
子育てをするということは、その街の公園に親しむこと
西武池袋線に乗れば10分もかからず池袋に着くから、暇な休日はつい池袋に出かけてしまいがちだ。サンシャイン水族館の年間パスポートを買っていて、コロナ禍になる前は月1~2回のペースで出かけていた。子どもも慣れたもので、自分が見たいペンギンとリクガメ、大水槽の前でしか立ち止まらない。貴族のような楽しみ方にも余裕をもっていられるのが、たった2回で元が取れる年間パスポートというものなのだ。
しかも、西武池袋線は車掌さんがべらぼうに子どもに優しい。子どもたちが運転席に向かって手を振れば8割方振り返してくれるし、ときどき電車の写真のカードをくれる。子連れでいろんな路線に乗っているけれど、ここまでキッズフレンドリーな対応はあまり見ない。
それから江古田は、副都心線直通の西武有楽町線 新桜台駅にも、都営大江戸線の新江古田駅にも、徒歩圏内。つまり、池袋だけでなく渋谷にも新宿にも、頑張れば横浜あたりまで乗り換えなしで行けるのだ。
ただ、わざわざ電車に乗って行かなくても、子どもを遊ばせるところは少なくない。まぁ、おもに公園なんだけど、中小さまざま取りそろえているから気分によって行き先が選べる。
千川通りを少し入ったところにある「えごのみ児童遊園」は、こぢんまりしていて使いやすい。うんてい付きのすべり台やお砂場、ブランコがコンパクトにまとまっているから、1歳の次男にぴったり。長男が走りまわれるようなスペースは少ないものの、カラフルな遊具と垣根のお花を使って、しばしば色鬼をやる。
反対に、思いっきり走りまわれて長男が喜ぶのは「江古田駅北公園」。基本の遊具は押さえられているうえ、ネットに囲まれた球技エリアがあるのも熱い。ドッジボールやキャッチボール(らしきゲーム)をしていても、まだまだ力いっぱい暴投してしまう幼児たちなので、ネットがあるとかなり助かる。
もちろんネットエリアは人気で、だいたい小学生がサッカーをしていたり、高校生がわざわざコートを分けるための紐を持ち込んで、バレーボールをしていたりする。でも縦半分で2面に分けられるから、頼めばみんな快く、半面を我が家のちびっこに譲ってくれるのだ。
それからもうひとつ、ベンチやテーブルが豊富なところがいい。あるときなんて、子どもを遊ばせている親たちがみんな、片手になにかしらのお酒を持っていた。もちろんたしなむ程度で、健全に。そのくらい肩の力を抜いて子育てできる空気が、江古田にはある。
それにしても、これまで住んできた街で、公園の数やクオリティを気にしたことなんてなかった。でも、あの街にもあの街にも、じつは小さな公園がたくさんあったんだろうな。子育てをするということは、きっと、その街の公園に詳しくなることだ。
子どもを通じて知り合う人とも、純粋な友達になれる
引越してくる前は、子どもが生まれたら私たちは「家族」になってしまう気がしていた。だけど子どもが生まれても、意外と私は私のままで、彼は彼のままで、私たちは私たちのままだった。
楽しいことはたくさんあっても、面倒なことは今のところそこまでない。息子たちが巣立ったら私がじんわり振り返るであろう、やさしい江古田の思い出だけがどんどん増えていく。
大人になってから友達をつくるのは難しいと思っていたけれど、その問題も解決した。なんのことはない。同じマンションにたまたま同い年の夫婦が住んでいて、長男もたまたま同い年で、たまたまお互いに弟が生まれて、どんどん仲良くなったのだった。
そこのパパは江古田に長く住んでいて、いろんなおすすめのお店を教えてくれる。
例えば、昔懐かしいハンバーグや生姜焼き、メンチカツなどのお弁当を出前してくれる老舗の洋食屋「好々亭」。メインを選ぶと、たっぷりのごはんにサラダ、ナポリタンなんかがついてくる。大人の分だけ頼めば、子どもにもシェアして充分お腹いっぱいになるボリューム。学生向けなのだろうこの重量は、もう30代なかばの私たちにはちょっときつい。逆にいうと、若者にも子育て世帯にも平等に優しさがある。
私たちは2家族で公園に行ったあと、ときどき一緒に好々亭をデリバリーする。太陽の下で走りまわり、ひとっ風呂浴びた夕方の揚げ物とお酒は、多幸感のかたまりだ。がっつく子どもたちもかわいい。子育ての途中には、しばしばこういう幸せが転がっている。
家でごはんと野菜のお味噌汁はできるんだけど……という日は「鳥笑」のテイクアウトが正解だ。我が家の定番は、塩鶏皮とつくね、ぼんじり。ご近所仲間のママはやげん軟骨が好きだという。鶏の胸骨の先端らしく、コリコリの食感が面白い。教えられて鳥笑で初めて食べたけど、私たちもすっかり好きになった。
テイクアウトの選択肢が多いおかげで、今日はもう何もしたくないなという日にも、食卓にはおいしいおかずが並ぶ。これは、共働き家庭にとって大きな価値だ。
仲良しご近所一家とは、公園や食事どころか旅行も一緒に行くことがある。そうやって子育てをシェアする仲になるのかと思いきや、子どもがいないときに大人だけでランチをすることもあって、いよいよ単なる友達だ。
子どもを通じて知り合う人とは、子どもの話しかできないような気がしていた。社会人になるとき、仕事ばかりの毎日で新しい友達なんかできないんじゃないか、と思ったように。でも実際は、きっかけが子どもや仕事なだけ。気が合えば、普通の友達にもなれた。
引越してきたときに思い描いていた暮らしには、夫と、お腹のなかの長男しかいなかったのに。今は次男も、ご近所の仲間もいる。「駅前のテナント、なに入った?」「あそこのヨガ、結構いいよ」なんて、街のちょっとした話を共有できる人が増えていくことが、あたたかい。
駅前の風は今日も冷たいけれど、みんなで「ほんとアホみたいに風強いよね」とかなんとか言いながら、そっと上着の前をかきあわせればいい。強い風にあおられても、子どもの手をしっかり握って歩く道には、ささやかな灯がともる。
著者: 菅原さくら
フリーランスのライター・編集者、雑誌『走るひと』チーフなど。人となりに迫るインタビューが得意で、多くの俳優やアーティスト、クリエイターに取材。PR記事や採用広報、コピーライティングなど、クライアントワークも好き。5歳1歳の兄弟育児中。Twitter:@sakura011626
編集:小沢あや