
「その街の暮らし」をお題に文章を書かせていただく機会を得た。私が書ける街と言えばただのひとつ、東京は大田区の蒲田しかないので、自分と蒲田にまつわるエピソードを記したいと思う。
私が一人暮らしを始めた経緯は少し変わっているかもしれない。
父は漫画家だった。“だった”と書いたのは、私が21歳の頃に亡くなったからである。青年漫画誌で週刊連載を続けている半ばのことだった。
「モノづくりで生きていくこと」を背中で伝えた漫画家だった父のこと

父の仕事場はJR蒲田駅近くにあるマンションの一室。そこでアシスタントのみなさんと漫画を描いていた。ある時、父の癌が判明し、大手術を行なった後も仕事を続けていたのだが、それ以降、私はアルバイトという名目でその現場に呼んでもらったことが何度かあった。
繁華街からほんの少し外れたところにあるその仕事場で、私はベタ塗りとホワイト塗りを手伝った。小遣いがもらえるから喜んだものだが、アシスタントの方たちからすれば、素人がそんなことをしたところで仕事の邪魔でしかなかっただろう。しかしおそらく、いや、間違いなく、父は自分の働いている姿を子に見せたかったのだと思う。
親子間のコミュニケーションがなかったわけではないが、父は普段無口な私以上に言葉数が少なかった。当時、私は音楽をやっていたこともあり、父はモノを作って生きていくことの厳しさを伝えてくれた。しかし、その伝えかたがあまりにヘタクソすぎて、年頃の若造だった自分はただただムカつくばかりで、うまく意思疎通ができていなかった。だからこそ、実際の作業現場を直接見せ、その難しさや厳しさを背で伝えたかったのかもしれない。
とはいえ、当時呑気な大学生だった私は、じつに情けないことに、そこで創作のなんたるかを肌で感じることもなかった。ただただ穏やかな空気の流れる仕事場だったことだけを思い出してしまう。しばらくして父の癌は再発。闘病の末に息を引き取った。
それから数年経ち、父の仕事場だった蒲田の部屋に移り住む機会を得た。それが自分にとって初めての一人暮らしになる。ある種のファザー・コンプレックスかもしれないが、ここに暮らせば、遅まきながら父のことを少しでも理解できるかもしれないし、当時、歩み始めていたが不安で仕方のなかった「音楽で生きていくこと」へのヒントや力を得られるかもしれないと思ったのだ。その部屋で暮らし始めたことと、とにかくなんでも挑戦してみようという気持ちはリンクしていた。
便利な駅ビルと長く続く商店街、活気がある個人商店の数々

蒲田という街はコンパクトかつ雑然としていて、駅ビルを除くとこれといった大型の複合施設がないためか、今どき珍しいほど昔ながらのアーケード商店街のなかにさまざまな小売店が並び、活気づいている。一方、夜に輝く妖しげな店もいくつもひしめいている。
JR京浜東北線、東急池上線、東急多摩川線が乗り入れており、さらには少し離れたところに京急蒲田もある。人の往来は激しい。「月曜から夜ふかし」に取り上げられそうな個性的な人々もいれば(実際によく特集されている)、駅のすぐそばには日本工学院のキャンパスがあり、ポジティヴな希望を抱いた学生があちこちにいたりもして、とにかく大勢の老若男女が行き交っている。

多国籍な街でもあって、そこらじゅうで様々な言語が飛び交っているし、飲食店を見てみても羽根付き餃子の「歓迎」や「你好」は言うに及ばず、不動の人気ベトナム料理店である「ミ・レイ」や「ティティ」、ディープなフィリピン料理を提供する「シンディーズレストラン」、韓国料理店やインド料理店にいたっては挙げればキリがないほど多数存在し、どこもおいしい。

なかでも私のよく行くお店は「AMIGO 剛」。東急線ガード下沿いの飲み屋街「バーボンロード」(直球なネーミングだ)にあるタイ料理店で、ジャパナイズされすぎていない味が気に入っているし、自分でガパオライスを作るときはこのお店の味を参考にしている。頑張ればそういった料理を自宅でも近い形で再現できてしまうアジア食材店もいくつか点在している。

都市開発が進行する一方で、昭和の風情の残る街並みは都内にして都会的ではない。駅ビル「東急プラザ蒲田」には東京唯一の屋上観覧車がずっと鎮座している。この小さな観覧車に乗ったことはないし、なんなら普段意識することもあまりないのだが、テレビや雑誌などで蒲田が取り上げられる時はかなりの頻度で登場するし、そのたびに「可愛らしいな」と思ってしまう。間違いなく街のシグネチャーのひとつだろう。
およそ70年もの歴史がある「喫茶チェリー」は近年のレトロブームとともに広く知られるようになった店だ。外観も内装も雰囲気たっぷりで、なおかつ写真映えもばっちりな裏メニューのプリンアラモードが“発見”されて、いつも混み合っている。
その一方で、ブームなどどこ吹く風と言わんばかりの喫茶店もあちこちにある。“銀座”を謳いながらも蒲田に二店舗ある老舗の喫茶店「銀座和蘭豆」は、今でも時々打ち合わせやインタビューなどで利用する。分厚い生クリームがのったアイスコーヒーは唯一無二の味だと思う。

腕がよいのにいつ行っても空いていて、朝から深夜遅くまで営業しており、しかも料金も驚くほど安かった「蒲田マッサージ指圧院」。清潔感はあるものの、足を踏み入れると一目で年季の入った空間だとわかるその隠れた名店は、インターネット上に情報がほとんどないので今回紹介してみたいと思っていた場所のひとつなのだが、今回の執筆のオファーをいただいた直後に閉院してしまった。「自分だけが知っている」という気持ちにさせてくれる、リラックスできる場所がなくなるのは寂しい。いつまでもなくならなそうなものがあっけなくなくなってしまうという現象は、やはりコロナ以降、加速していると感じる。
リラックスと言えば、蒲田近辺は真っ黒いお湯の温泉に入れる銭湯や入浴施設が多いのも触れておかねばなるまい。時代の趨勢(すうせい)ゆえ減少傾向にはあるものの、まだまだあちこちに存在していて、自分も気軽に利用してきた。
今ではなくなってしまったが、「ホテル末広」は駅からもっとも近い場所にあった黒湯温泉で、気分転換のために濃厚な黒湯に浸かりに行ったものだ。最近だと、宴会場で音楽やお笑いのイベントが行われたりもする「黒湯の温泉 ゆ~シティー蒲田」や「蒲田温泉」に行く機会が増えつつある。そもそも宴会場が設けられている温泉がこの時代に続いているのもなんとも我が地元らしいところだと感じる次第だし、これができるだけ長く続いてほしいと切に思う。
私が蒲田に馴染めた理由
多種多様でエネルギッシュ、スピーディーに変化するけれど、どこかのんびりもしている。ごちゃごちゃしているものの、それぞれ個々に独立していて、したたかに存在している。フレンドリーだが過度に干渉してくるわけでもない。そんな街の佇まいを知れば知るほどに、自分の性分に合っているのだなと思うようになった。私は人付き合いがそれほど得意ではないので、仲間の集まりやすい渋谷や新宿や下北沢からほどよく距離を取れるのも都合がよかった。自分は音楽が好きだけど音楽を奏でるのが得意でないというコンプレックスが常にあって、一人でレコードやDAWソフトや機材や楽器に触れる時間を一分でも増やしたかったというのもあった。父がペンを握っていた姿と重ねるようにして自分を鼓舞し、自室で黙々と音楽に触れていた。結論だけ書くが、私の音楽の道は20代後半で潰え、それから音楽について書くライターの道に進むことになった。それらひとつひとつの決断を下したのもその部屋だった。
地方出張に便利なうえに、ハロー!プロジェクトもやってくる街
ライターの仕事が徐々に軌道に乗っていくなかで、地方に行く機会も増えていった。蒲田駅近くという立地は、新幹線の通る品川駅や羽田空港に近いのもいいなと思うようになった。しかし、それはただ便利なだけだ。自分のなかでどこかお守りのように思っていた父の仕事場への執着が、いつしか消えていたことに気づいた。今考えると、私はいつまでも大人になれていなかったのだと思う。ちょうど都合よく様々な事情が重なり、長く暮らしたその部屋を出ることにした。街自体は、パブリックイメージとは裏腹に(?)とても住みよいので、今は駅前から少し離れたところに暮らしている。明るくて雑多な街中にいるのもよかったけれど、静かすぎるここも居心地がよい。先にも述べた通り、蒲田はコンパクトなので、駅から少し歩くだけで閑静な住宅街が広がっているのだ。
2020年、駅前の大田区民ホール・アプリコでハロー!プロジェクトのコンサート「Hello! Project 2020 ~The Ballad~」が行われた時は「ハロプロが我が街に!」と興奮してしまった。金澤朋子さんの歌う「Jupiter」が蒲田を宇宙空間に一変させていたのは、コロナ禍で街も自分も沈んでいた時の強烈なインパクトとして記憶に残っている。少し前には鈴木愛理さんが「NIBOSHIMANIA」に行ったというInstagramの投稿を見て、思わず「蒲田のラーメン店の行列すらオシャレかつキュートに撮れてしまうのか!」と仰け反った。
蒲田を巡る大小様々なトピックを目にする機会は増えているが、韓国のボーイズグループのRIIZEが年明けに公開した「LOVE119」のミュージックビデオのロケ地が駅近の見知った場所だったのはとりわけ驚いたニュースだった。
それらの出来事がこの街で暮らすことに直接的な影響を及ぼすわけではないのだれけど、そういったことでなんだか嬉しくなるくらいには愛着があるのだなと実感するし、なにかとややネガティブな方向でネタにされがちな街だったのが、少しずつよい方向に変容しているのを感じてもいる。それは長年暮らしてきたからこそ感じられる面白みなのかな、とも思う。自分を形成した街として大切に思っているし、このまま変化を見守りながら暮らしていくのも悪くないのかもしれない。この文章を書いていて、改めてそんなことを考えている。
書いた人:南波一海(なんばかずみ)
1978年生まれの音楽ライター。レーベルPENGUIN DISC主宰。代表著作に『ハロプロ スッペシャ〜ル』『ヒロインたちのうた』(ともに音楽出版社)がある。小出祐介と共にパーソナリティーを務めるTBSポッドキャスト『こんプロラジオ』が配信中。
