著者:安里和哲(あさと・かずあき)

フリーライター、インタビュアー。1990年、沖縄県生まれ。映画、芸能、文芸など、ポップカルチャーを中心に取材・執筆を行う。ブログは『ひとつ恋でもしてみようか』。Xアカウント @massarassa
上京のはずが、相模原だった
学芸大学駅を最寄りにするようになったのは、2012年のこと。青山学院大学に通う大学生だった。当時の青学は文系1〜2年生は神奈川の相模原キャンパスに通い、3年生になると表参道キャンパスで授業を受けるようになる。2010年に沖縄から上京した僕は、そのことを大学に合格して初めて知った。そんな基本情報さえ知らずに大学受験をするだらしない若者だった。
ただただ沖縄を離れて東京で暮らしたかったから、相模原という聞いたこともない土地で大学の2年間を過ごすことに落ち込んだ。実際に通ってみれば、それはそれで青春だったし、あれこそが大学生活だったなと思える。しかし3年生になって、表参道キャンパスに通えるようになった頃の高揚感ったらなかった。ようやく上京するんだ、と思えた。
ようやく晴れて“青学生”になれる──しかし相模原キャンパスに染まりきった自分が、青山の空気を胸いっぱいに吸い込めるわけがなかった。あのエリアを当たり前の顔して歩ける内部生や帰国子女、屈託のない若者たちに圧倒された。僕は青山・表参道エリアに背を向けて、宮益坂を下った谷底の安居酒屋で管を巻いて終電で“学大”に帰るのだった。背伸びして青山に染まる努力をすればいいのに、自意識が邪魔した。
自意識に絡め取られていた。身動きがとれなくなっていた。勉強はもちろんのこと、就活にもまったく身が入らず、2014年の秋に大学を卒業して、そのまま無職になった。母親には「就活がんばってるんだけどさ……」とバレバレの嘘をつきながら、東京に居座った。
卒業した僕は、友人がいなくなっても、恋人に振られても、母親が死んでも、学芸大学にしがみつくことになる。2014年秋から2017年秋まで、ニートとして過ごした町だ。

夜の公園に癒やされた学芸大学での暮らし
学芸大学は庶民的でありながら小洒落ていて、そのナチュラルな洗練が、野暮ったい自分にはマッチしなかった。気になる飲食店があっても入れなかった。とはいえ、いい感じの本屋が多かったのはうれしかった。陳列方法がユニークだった「古本遊戯 流浪堂」や、昔ながらの渋い古本屋「飯島書店」、サブカルチャー系に強かった印象の「e-Books」(閉店)、居心地の良い「SUNNY BOY BOOKS」(こちらも閉店)、など魅力的な店が多かった。
2階建てのBOOKOFFにもお世話になったし、駅前の「恭文堂書店」でもたくさんの本を買った。当時、恭文堂はマンガ専門店の「コミッククラフト店 」もあった。

しかし、本を買っても読む場所はもっぱらワンルームの部屋かマクドナルド。ドトールにすら気後れして一人で入れなかったあの頃の自意識は相当なものだった。なにかにつけ「自分なんかが……」と思っていた。
そんな自意識まみれの若者にとって、居場所は夜の公園だけだった。
東横線の高架に沿って下り方面に向かうと碑文谷公園に出くわす。大きな池を囲む広い公園だ。日中は地域住民の憩いの場であり、遠方から来た人たちもボートや動物とのふれあいコーナーで楽しむことができる。が、僕は夜中に行くことが多かった。

藤棚の下に並ぶベンチに腰かけて、夜の水面を眺めたり、文庫本を読んだり、イヤフォンから音楽を爆音で聴いたりした。木立が色づいたり葉を落としたりするさまを写真に撮っては、変わっていく景色に時間の流れを感じる。自分の行く末ばかりを案じていた。
沖縄に住んでいる頃はもちろん、前に住んでいた相模原エリアでも、公園には馴染みがなかった。しかし学芸大学駅は公園が多い。悶々と徘徊ばかりしていた僕はこの場所を歩き回った。社会に居場所のない自分を受け入れてくれる公園の居心地の良さに気づいていった。
深夜の散歩ではだいたい、山手通りを目指して東の方向に向かった。最初に出くわすのが中央緑地公園だ。夜中に鬱蒼とした木々の下、柔らかい土の上を歩くと気持ちが落ち着いた。
中央緑地公園の東側の出口を出るとすぐに唐ヶ崎児童遊園が見える。その名の通り日中は小学生がよく遊んでいるので、ニートの僕に居場所はなかった。深夜にやってきては、ここのテーブルでコンビニ弁当を食べていた。街灯に照らされた大きなプラタナスが、公園横のビル壁に落とす。その影を眺めるのが好きだった。
油面公園も忘れがたい。江戸時代、この場所は菜種油の産地だったため、その名がついたそう。公園の隅にはささやかな花壇があって、春頃には当然菜の花が咲く。静まり返った夜の公園にもその黄色は鮮烈だった。
馬喰坂上の希望
中央緑地公園、唐ヶ崎児童遊園、油面公園、と東に向かって歩いていく。そのクライマックスは「馬喰坂上」だ。文字通り、馬喰坂の頂上である。
学芸大学駅から北東に、目黒川へ向かって歩くとたどり着く。「馬喰」とは目黒の古い方言で「風雨にさらされ穴のあいた状態」をいい、かつてこの坂の路面は穴だらけだったから、その名がついたそう。
深夜でも意外と車が通る馬喰坂。その頂上に立つと、ビルの谷間に小さく東京タワーが見える。深夜0時になると消灯するから、なるべくその前には馬喰坂上に着くようにアパートを出る。彼方にそびえる東京タワーは、かつて憧れた東京に自分がいることを実感させてくれた。
ニートになってしまい、母親からの仕送りで東京に生かしてもらうだけの存在だったけれど、遠くに見える東京タワーの姿には励まされた。自分はまだここにいる。東京にいれば、なにかが変わるはず。そんな漠然とした希望が湧いてくるのが馬喰坂だった。
そこでUターンして帰る日もあれば、馬喰坂を下りきって山手通りまで出て、夜の目黒川を眺めることもあった。ここまで来るともはや学芸大学の話ではなくなるので割愛するが、いずれにせよ、僕にとっての学芸大学は、気軽に東京を体感できる拠点だった。少し歩けば中目黒を越えて代官山や恵比寿まで出られるし、はたまた目黒や五反田方面にも行ける。閑静な住宅街を抜けると山手通り。東京のど真ん中にワープできる感覚が好きだった。
ブログが社会に繋いでくれた
ニートの頃の僕は世間知らずで、というか世間知らずだからニートになってしまったというべきだろうが、いずれにしても本当に何も知らなかった。知らないくせに、知ろうとする意欲もなかった。今にして思えば、おそらくあまりいい精神状態じゃなかったのだろう。深夜の散歩はときに徘徊めいていて、自分が行った場所が夢だったのか現実だったのか、さだかではないこともあった。昼夜逆転で、酒に逃げるようにもなったニート生活。大学時代からの恋人は関西で就職して遠距離になり、すったもんだあって別れた。学芸大学に住む友人と、夜中に集まっては傷を舐め合うことで気を紛らわしていたのに、彼もなんだかんだきっちり大手企業に就職を決めて町を去った。
ひたすら無気力だった。深夜に町を彷徨い、明け方ワンルームに帰ってきては、夕方まで眠る。明日からがんばろう、と思いながら、季節が変わっていく。僕が就活に励んでいると信じてくれていた実家からの仕送りで生かされていた。母に「帰ってきたら?」と言われた。たしかにもう学芸大学にいる理由はなかった。引き際かもしれなかった。けど、僕は部屋のなかであがいた。ブログを書き出した。ブログのタイトルは「ひとつ恋でもしてみようか」。自分に欠けているのは、そういう軽やかさだと思った。
文章を書くことで誰かと繋がりたかった。しかし自分には書けることがない。それで鬱屈とした日々をだらだらと綴った。ここまで書いてきたような徘徊のこと、自意識のこと、映画や本の感想……。
そうやってちまちまと書いていたら、友だちができた。初めて「オフ会」にも行った。26歳にもなって初めて、学校外の人間関係を築けた瞬間だった。恥ずかしながら僕は、バイトもろくにしたことがない。
自意識まみれでうだつのあがらない僕に、年上の友人たちは当たり前のように酒を奢ってくれた。大人の彼らを見て「人間ってこんなふうに生きているんだ」と知った。社会に揉まれながらも、自分の趣味や感情を大切にしている彼らは、東京は自分を守りながら生きていける町なんだと教えてくれた。
「ヒマなら、ライターでもやってみなよ」と繋いでもらった仕事をきっかけに、僕はフリーライターになった。結局、就職することなく働きだした。
いつか帰りたい町になる
働きはじめて、恋人もできた。彼女とは学芸大学をよく散歩した。碑文谷公園では、いつもひとりで眺めていた池にボートを浮かべて、ふたりで乗った。いくつもの夜を孤独に過ごしたベンチを池から見上げる。自分はなんにも変わっちゃいないのに、少し勇気を出しただけで、見える景色が変わったことが不思議だった。彼女と出会って、学芸大学を好きになった。自分には縁がないと思っていた場所にも、ふたりでなら行けた。そうして学芸大学を知っていった。
学芸大学にはリーズナブルでうまい飯と酒を出す店が多くある。お気に入りは「学大角打」と「アオギリ(現・呑家)」だ。学大角打では、そばみそや板わさ、刺し身、天ぷらで日本酒をガブガブ飲んで、そばでしめるのが最高だった。
魚介がメインのアオギリは、いつも若者で賑わっていて、ガッツリ食べられるのがうれしい店。レモングラスに似た台湾のスパイス「マーガオ」を使ったサワーは何杯もいけてしまう。メニューに外れがないので腹いっぱいになるが、「鮭ハラコチャーハン」を頼んでしまう。

もっと気軽に食べたいときは、「炭屋五兵衛学芸大学店」に行っていた。あのいなたくて気楽な店で食べるパリパリの鶏皮せんべいと芋焼酎のソーダ割りが好きだった。しかしここはもう無くなってしまった。
もつ焼きの「ばん」も外しがたい。祐天寺エリアといったほうがいいのかもしれないが、学芸大学駅からも15分ほど歩けば着いてしまう。うまいもつ焼きを食べ、レモンサワーで流し込む。搾り終わった皮でレモンタワーを作るのも楽しい。

「麺処 びぎ屋」の醤油ラーメンは、今でも僕のベストラーメンだ。鶏ガラ、豚骨、煮干しなどで出汁を取ったスープは、口当たりがさっぱりしているのに濃厚で、麺にもよく絡む。肉も煮豚と焼豚の二種類乗っていてうれしい。しらすご飯がよく合うのでオススメだ。

学芸大学でケーキといえば、老舗の「マッターホーン」だろう。どれを食べてもおいしいけれど、僕はここで初めて出会った「サバラン」の虜だ。てりっとした見た目でフルーツを乗せた姿はかわいらしいが、口に入れると樽出しラム酒がむわっと香り、なかなかにパンチがある。
学芸大学は、僕が銭湯に行くようになった町でもある。
初めて行った銭湯「ぽかぽかランド 鷹番の湯」は、冒頭に書いた中央緑地公園からもほど近く、当時住んでいた部屋からも見えた。湯船だけでなくサウナと水風呂もある。露天スペースで、四角く切り取られた夜空を見上げるのが好きだった。

「千代の湯」もいい銭湯だ。2010年にリニューアルしたモダンな雰囲気の浴室には赤富士が描かれている。ふつうの風呂だけでなく、3種類のボディジェットと水風呂、炭酸泉、電気風呂と充実している。

恋人とともに満喫できた学芸大学生活だったが、結婚することになって出ることにした。もう未練はなかった。2017年の秋に5年半住んだワンルームを引き払った。
この記事を書くために、久しぶりに昼間の学芸大学を歩いてみた。
あの頃好きだった本屋も、何百本もの映画を借りたTSUTAYAも、夜な夜な一人で歌いに行ったカラオケ屋も、友人と足繁く通ったビリヤード場もなくなっていた。それでも、公園はずっとそこにあった。ニートの頃の自分を支えてくれた公園が残るこの町に、いつか妻と娘と帰ってきても楽しいかもしれない。この町にもう未練はないけれど、愛着は生まれていた。初めて日中の馬喰坂上に立ってみた。猛暑の中、まだ光らない東京タワーを眺めつつ、ニートだった頃の感傷にわずかな時間浸った。保育園に通う娘を迎えに行く時間が迫っていたから、日が暮れる前に帰った。
編集:ツドイ
