
人の暮らす場所は1つの「点」にとどまらず、人生の中で移り変わって「線」を描きます。その点と点のつながりを生み出すのが、日常の足となる路線です。普段何気なく乗っている路線がどれほど愛すべきものであり、日々の生活に寄り添ってくれていたのかを、その路線にゆかりのある方々に語っていただく企画「私の好きな路線と街」。
渋谷から世田谷区、川崎市、横浜市を通り抜け、町田市をかすめて大和市の中央林間まで至る東急田園都市線。代表的な駅の1つに、住みたい街ランキングの常連でもある二子玉川(東京都世田谷区)があります。
渋谷と二子玉川の間には、かつて「玉電」の愛称で親しまれた路面電車、東急玉川線が走っていました。玉電の廃止後、地下鉄「新玉川線」が開通し、営団地下鉄(現在の東京メトロ)半蔵門線と接続して都心への乗り入れが実現します。田園都市線としての終点も、当初の溝の口(川崎市高津区)から長津田(横浜市緑区)、さらに西へと延伸し、沿線に多数の人気住宅地がある現在の姿になります。
今回登場いただくのは、その二子玉川で生まれ育った音楽家の向谷実さん。フュージョンバンド・カシオペアの元メンバーで、キーボーディストとして世界を飛び回る一方、鉄道ファンが高じて鉄道シミュレーターの制作や駅の発車メロディの作曲者としても活躍する向谷さんに、日本の経済成長と歩調を合わせて発展してきた地元の二子玉川と田園都市線(そして玉電)について語っていただきました。
- 二子玉川(ふたこたまがわ)
- 世田谷区の多摩川沿い中ほどの旧・玉川村を中心とする地域。江戸時代は大山街道(現在の国道246号線)の宿場で、川を挟んだ二子村との「二子の渡し」があった。1907年(明治40年)に玉川線の「玉川駅」が開業。1929年(昭和4年) に大井町線の延伸で初めて「二子玉川駅」が開業(記事末に年表あり)。戦後は宅地化も進んで、モータリゼーションを前提とした玉川高島屋S・Cが1969年に開業し、延伸する東急田園都市線沿線の住宅開発によって商業地区として大きく発展。近年は東口の再開発によりにぎわいを増している。なお、一般に「にこたま」の愛称で知られるが、地元では地域名から「ふたこ」と呼ばれる。
玉電で渋谷に向かうとデパートが口を開けて待ち構えている
── 向谷さんは二子玉川のご出身としてテレビ番組などにも出演されていますね。
向谷実さん(以下、向谷さん) 昭和31年(1956年)に生まれて25歳くらいまで、四半世紀ほど住んでいて、その後も60歳ぐらいまで世田谷区の東急沿線に住んでいました。生家は今の玉川高島屋の裏手になります。何回か建て直して、今でも母親は同じところに住んでいます。
そのころは世田谷区鎌田町(住居表示実施後に玉川)といって東京の郊外で、農地から宅地への転用が進んでいたんですね。人がそれまで住んでなかったところが借地として出てて、若い夫婦が工務店に頼んで家を建てる。それが主流で、デベロッパーが大規模に開発するような、計画的につくられたエリアではなかったですね。本当に静かな、普通の住宅地でした。今でもそのテイストは残ってると思います。
家から歩いて5分くらいに二子玉川の駅があって、当時は「二子玉川園」駅でしたけど、路面電車の「玉電」だけでなく、砧線(玉電の支線)と東急大井町線の3線が交わった“ハブ”になっていました。
砧線というのは、もう廃線になりましたがもともと砂利を運んでいた軌道で、二子玉川から砧本村(世田谷区鎌田)まで走っていたんです。1駅目の中耕地(なかこうち)には、八百屋さんや乾物屋さんなど普段の買い物をする商店街がありました。1駅っていっても246号線(旧道、玉川通り)を渡ったらすぐ着いちゃうんですけど。
── 今でいう「2駅利用可・駅近」ですね。電車好きになったのも身近だったからでしょうか。
向谷さん 当時の車両なので、モーターむき出しでぶわーって走ってくるのがよく見えて、音もよく聞こえて、普通に生活してれば、いつでも電車が見られるところでした。わざわざ電車を見に行くということもなくて、普通に遊んでいればそこに鉄道があった感じです。
今のように高架じゃなくて駅が地上にあったから、渋谷からの玉電と交わるように、上野毛から大井町線がガーッて降りてきて、川崎側に渡る二子橋が道路併用なのでいったん単線になって、両側の国道(246号線)を自動車もバーッて走ってる。子ども心に時代の先端技術を目の当たりにする気分でした。
やはり自分が住んでいる街に小規模ながら3つの路線が交わっていて、目の高さにホームがあって、鉄道も道路も一緒になって走っているとなると、そこにハイテクが集約されているということで、結局は鉄道ファンになっちゃうわけです。僕自身が鉄道ビジネスをやるきっかけでもありますね。
── 「玉電」は現在の田園都市線(渋谷―二子玉川間)の前身ですね。
向谷さん 玉電に乗れば渋谷まで一本でなんです。玉川高島屋がないころ、大きな街といえばやっぱり渋谷だったので、年に何回か、母親が買い物に行くときに連れていってもらいました。東急東横店は、昔は東横デパートといったんですけど、駅ビルの中に玉電の発着所があったんです。道玄坂のほうから下っていくとデパートが口を開けて待っていて、まるでSFでしたね。
河川敷と二子玉川園 ─ 豊かな自然とちょっとわくわくする場所
── 子どものころ遊んでいた二子玉川はどんな場所でしたか?
向谷さん 今でこそ「ニコタマ」なんて華やかな印象ですけど、当時は都心からすると相当な田舎でした。多摩川のせせらぎが聞こえるような、自然が豊かな街でしたね。多摩川も今のように整備されていなくて、雨がたくさん降ったりすると川の筋が変わったり。
郊外に家を建てて引っ越してくるのは若い夫婦が多かったので、近所の家族構成もだいたい近くて、年の差が2~3年くらいの子どもたちみんなでよく遊んでました。河原も広くて、いくらでもスペースがありましたし。探検隊をつくったり、鬼ごっこや缶蹴りをしたり、あとは草野球。半ズボンで跳び回ってました。
ただ、基本はのどかで何もないところですけど、ちょっとわくわくするものが、豊かな自然と共生してるような場所でもありましたね。
珍しいところでは、多摩川の河川敷に読売新聞の飛行場があって、すぐ目の前で飛行機が離着陸しているのを見たりできました。もっと下流に行くと、自転車で15分くらいだったかな、読売巨人軍の練習グラウンドもあって、王や長嶋がご飯を食べていたり。
── 駅名になった「二子玉川園」もすぐ近くだったんですよね。
向谷さん 僕たちが住んでいるのは駅の西側で、二子玉川園は東側のエリア(現在の二子玉川ライズ)にありました。小学校も高学年になると、遊び場所も東の方にシフトしましたね。二子玉川園の隣に映画館もあって、今のようなシネコンとは違って単館なんですけどよく行きました。だいたい怪獣映画とグループサウンズ、それか洋画。2本立てで、男の子と女の子では見る映画が違ったり。
映画の券を持ってると、二子玉川園にも専用の入口から入れるサービスがあったんですよ。それでよくタダで入りましたねえ。もう時効だろうから言っちゃいますけど、乗り物チケットの回数券の余りが遊園地の周りに落ちていることがあって、拾い集めて乗り物にも乗ったりね(笑)。
── 休日には都心から人が遊びに来る郊外の行楽地といった雰囲気だったんでしょうか?
向谷さん その昔は、そういった狙いだったと思うんですけど(前身となる玉川第二遊園地の開業は大正11年)、当時はもうあまりアップデートされてないようなイメージでしたね。
人があんまりいなくて、子どもが乗りたそうにしてると係員がやってきて電気を入れる。そんなのんびりした遊園地でした。
── 今の活動につながる音楽のレッスンもそのころ始められたんですよね。
向谷さん ピアノを小さいころから習っていました。今のように音楽教室がいくつもある時代じゃないので、ピアノを習う人もまだ珍しかったですね。周りにはほとんどいなかった。街にもたぶんピアノ教室は1つしかなかったんじゃないかな。
初めて人前で演奏したのは、父親が役員をしていた労働組合活動の集会でした。大井町にあった品川公会堂のステージに上げられて、それなりに弾けたんだと思いますが、そんなに楽しくはなかった(笑)。おかげでステージ度胸がついたので、そこは感謝しなきゃいけません。
実は僕より父親の方が、ピアノのレッスンには積極的でした。戦争経験者ですから、子どもに音楽をやらせることで、平和な時代に生きてる実感を味わっていたのかもしれませんね。そんなにすごく裕福な家ではなかったんですけど、子どもにいろいろな可能性を与えたいという意識もあったんじゃないでしょうか。
玉川高島屋のオープンと田園都市線の延伸で人が集まる街に
── 二子玉川のランドマークとなる玉川高島屋S・Cのオープンがが1969年(昭和44年)11月ですね。
向谷さん 中学1年生のときです。もう革命的な変化ですよ。それまで遊び場にしてた空き地で工事が始まって、入れなくなっちゃった。建物ができてきたら、壁面に“◯”に“髙”という高島屋の巨大なマーク*1が掲げられてて、家からもでっかく見える。今まで見たこともない巨大な文字で。すごく記憶に残ってます。
── オープン前から印象的だったんですね。それがすぐ家の近所にできた。
向谷さん 人生がガラっと変わりましたね。テナントがたくさん入った「ショッピングセンター(S・C)」って概念自体、それまで頭の中に一切ありませんし、言葉もすごく斬新でした。
おしゃれな服を売ってる人がいて、日本中・世界中の食品が並んだ売り場があって、とても手が出ない高級品や、ブランド品も陳列されてる。噴水広場が屋内にあって、高い吹き抜けがあって、何を見ても珍しかった。エレベーターガールに、案内のきれいな人。もう中学生には刺激が多すぎて、入り浸ってました。
館内放送が楽しくて「世田谷区玉川にお住まいの~」って呼び出しをきれいなお姉さんに頼んでみたり。開店当初はテレビがよく中継してたので、アナウンサーの後ろでピースマークして映りこんでる子どもっているじゃないですか、あれをやってました(笑)。
── それまでとずいぶん違いますね。街にも変化が表れてきたんでしょうか?
向谷さん 沿線から人が集まってくるようになりました。当時はボウリングが大ブームだったので、あちこちの空き地がボウリング場だらけになってたんですが、高島屋の向かいにも「サンピアボウル」ができて、かなりハイセンスな人気のエリアでしたね。
実は高島屋のオープン前の昭和41年(1966年)に、田園都市線(当時は大井町―二子玉川―溝の口)が延伸して、長津田(横浜市緑区)まで開通してるんです(さらに1968年にはつくし野まで延伸)。
鉄道会社が沿線の駅周辺を計画的に大規模開発し、新興住宅地がたくさんできて、それまで自然豊かで人がほとんど住んでいない土地に大勢の人が移住してきたわけです。高島屋は、二子橋を渡った神奈川側の新興住宅地の人口増を見越して、東京側で構えてキャッチすべくつくられたんだと思いますね。
もちろんそれだけではなくて、近隣の瀬田、用賀、桜新町からも、渋谷よりも近い商業エリアということで人が訪れていました。
── 一方で、住民の足だった玉電は高島屋のオープン直前(同年5月)に廃止されます。
向谷さん はい。砧線もなくなりました。国道246号線の交通量が増えて、軌道の玉電は「ジャマ電」なんて呼ばれてましたからね。地元の人はもちろん不満を口にしてましたが、代替バスも増発されて、影響はそれほど大きくなかったかな。目黒のネム音楽院に通うときも、ときどきバスを使ったりしました。
玉電の代わりに地下鉄ができるというので納得してたんですけど、実際に新玉川線(現在は田園都市線に統合)が開通したのは、遅れに遅れて昭和52年(1977年)でしたから、もう僕が成人した後です。首都高の建設が優先されたみたいですね(3号渋谷線は1971年に用賀まで開通)。
── 鉄道の沿線開発と同時にモータリゼーションが進んだことが実感されるお話ですね。
二子玉川の発車メロディは人が交わるイメージで
── 20歳過ぎからは音楽活動で地元を離れることも多くなったかと思いますが。
向谷さん カシオペアで世界中をツアーで移動するようになると、二子玉川は仕事から戻って、プライベートでゆっくりする生活の場になりました。
ただ、かつて戸建てが中心だった周辺の住宅も高層マンションが増えたり、気がつくとビジネスの拠点も増えていたり、時代につれて街も進化してるなぁと感じます。10代の多感な時期から当時最新の商業施設に触れ、街が大きくなる過程を間近に見てきたことで、いろいろな刺激を自然に受けました。二子玉川が自分を育ててくれた街だ、ということはいえるでしょうね。
── 現在の向谷さんは、音楽活動の一環で駅の発車メロディも手掛けられています。
向谷さん そもそも発車メロディってその駅用につくられるケースはまだ少なくて、僕のようにわざわざ作曲するケースはけっこうレアなんですけど、それでも170駅くらいつくりました。東京メトロの東西線全駅と、東横線の渋谷駅、関西では京阪電鉄と阪神電鉄、そしてJR九州の新幹線と在来線の主要駅ですね。
東京メトロ東西線では、駅があるエリアのイメージを考えて、下町では和楽器の音を入れたり、住宅が多いところはクールにしたり、作曲者として「その駅になぜこの音楽なのか?」を説明できるように作曲しています。さらに全駅のメロディをつなげると全体として1つの曲になるようにつくりました。
── ほんのワンフレーズほどの中で、その駅の特徴を出すのは大変ですね。
向谷さん 僕が普段つくっている発車メロディは、7秒です。新幹線は10秒くらいありますけど、システムによっては4~5秒しか流せないこともある。そうなると音楽的にはけっこうつらいですね。
── 東横線渋谷駅の発車メロディも印象的ですが、どういうイメージでつくられたのでしょう?
向谷さん 東横線が副都心線とつながって地下に潜るときに新しい発車メロディを頼まれたんですが、渋谷駅の地下ホームを出発した車両が代官山に向かうとき、すごい急勾配が続くんです。だから発車メロディでは、これから体験する強い上りを意識しています。転調して転調して「これから上るぞ!」を表現しました。けっこう好評で、僕の発車メロディの中でも人気ベスト3に入ってるんじゃないかな。
── もし二子玉川駅の発車メロディを作曲するなら、どういうイメージになるでしょうか?
向谷さん 大井町線と田園都市線のハブとなる駅なので、やっぱり人が交わっているイメージですね。二子(ふたこ)に帰る人と来る人がいいバランスで両方いる。どっちにもウエイトがかかっていて、リズムがあるもの。新し目のハーモニーで、少しソリッドなテイストをもたせると、二子玉川の良さが表現できるんじゃないかな。機会があったらぜひやってみたい。今の二子を象徴したものにしたいですね。
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1907年 | 玉川電気鉄道の玉川線(渋谷―玉川)が開業 |
| 1922年7月 | 後の二子玉川園となる玉川第二遊園地を玉川電気鉄道が開業 |
| 1924年3月 | 砧線(玉川―砧)が開業 |
| 1925年7月 | 二子の渡しに代わり、二子橋が完成 |
| 1927年7月 | 玉川線と接続する溝ノ口線(玉川―溝ノ口)開業し、二子橋は鉄道道路併用に |
| 1929年11月 | 東急電鉄(当時は目黒蒲田電鉄)が大井町線の二子玉川駅を開業 |
| 1938年4月 | 玉川電気鉄道が東急電鉄(当時は東京横浜電鉄)に合併 |
| 1939年3月 | 遊園地の改称にともない玉川駅をよみうり遊園駅に改称 |
| 1940年12月 | 大井町線と玉川線の駅を統合し、二子読売園駅に改称 |
| 1943年7月 | 溝ノ口線を改軌し、大井町線に編入(大井町―二子読売園―溝ノ口) |
| 1944年10月 | 遊園地の休業にともない二子玉川駅に改称 |
| 1954年3月 | 遊園地を二子玉川園として再開し、駅名も二子玉川園駅に改称 |
| 1956年4月 | 二子玉川園がフライングコースターを設置 |
| 1956年7月 | 二子橋を含む大山道が二級国道246号東京沼津線に指定 |
| 1956年10月 | 向谷実さん生まれる |
| 1957年9月 | 映画館「二子劇場」開館。その後「二子東急」となり、1991年閉館 |
| 1960年頃 | [向谷さん]4歳半からオルガン、5歳からピアノを習う |
| 1963年10月 | 大井町線(大井町―二子玉川園―溝の口)を田園都市線に名称変更 |
| 1964年10月 | 第三京浜道路が暫定開通(玉川IC―京浜川崎IC)(翌年全線開通) 東海道新幹線が開業 |
| 1966年4月 | 田園都市線が、溝の口から長津田まで延伸 あわせて鉄道専用の多摩川橋梁が使用開始され、駅も高架化 |
| 1968年4月 | 東名高速道路が東京IC(世田谷区砧公園)から厚木ICまで開通 田園都市線が、つくし野まで延伸 |
| 1969年 | 住所表示の実施にともない、玉川町や鎌田町などが玉川1〜4丁目に |
| 1969年5月 | 玉川線・砧線が全線廃止 |
| 1969年11月 | 玉川高島屋S・Cがオープン |
| 1969年頃 | [向谷さん]中学生でピアノからエレクトーンに転向。地区のコンクールで優勝など |
| 1971年頃 | [向谷さん]姿を消すSLを追いかけ、北は北海道から南は九州まで旅をする |
| 1971年12月 | 玉電跡の高架に首都高速3号渋谷線(渋谷―用賀)が開通し東名高速道路と接続 |
| 1972年4月 | [向谷さん]東京都立大学附属高校に入学。大井町線と東横線で都立大学駅まで通学 田園都市線が、すずかけ台まで延伸 |
| 1976年4月 | [向谷さん]ネム音楽院(現:ヤマハ音楽院)エレクトーン科(当初は恵比寿)に進学 |
| 1976年10月 | 田園都市線が、つきみ野まで延伸 |
| 1977年 | [向谷さん]ネム音楽院在籍中にカシオペアに加入 |
| 1977年4月 | 新玉川線(渋谷―二子玉川園)が開業し、田園都市線が、あざみ野まで延伸 |
| 1977年10月 | 玉川高島屋S・Cで南館が開業 |
| 1978年6月 | 新二子橋が246号線バイパスの一部として上流側で供用開始 |
| 1978年8月 | 新玉川線が地下鉄半蔵門線と直通運転開始 |
| 1979年5月 | [向谷さん]カシオペアがアルバム『CASIOPEA』でメジャーデビュー |
| 1979年8月 | 田園都市線と新玉川線で全列車が直通に 田園都市線の一部だった大井町―二子玉川園を大井町線として分離 |
| 1984年4月 | 田園都市線が現在の終点である中央林間まで延伸 |
| 1985年3月 | 二子玉川園が閉園 |
| 1995年8月 | [向谷さん]鉄道運転シミュレーション『Train Simulator』を初めて発売 |
| 2000年8月 | 新玉川線が田園都市線に統合され、二子玉川園駅を二子玉川駅に再改称 |
| 2004年3月 | [向谷さん]九州新幹線の部分開業時に発車メロディを初めて提供 |
| 2009年7月 | 大井町線の改良工事が完了して溝の口まで延伸 |
| 2011年3月 | 二子玉川園などの跡地を再開発した「二子玉川ライズ・ショッピングセンター」開業 |
| 2013年3月 | [向谷さん]東急東横線渋谷駅の地下ホーム移転にあわせて発車メロディを提供 |
お話を伺った人:向谷 実(むかいや・みのる)

音楽プロデューサー、キーボーディスト。1956年生まれ、東京都出身。1979年カシオペアのメンバーとしてデビュー。日本のフュージョンを代表するグループとして国内外で活躍。ヨーロッパ、東南アジア、アメリカを中心に数多くのライブ、ジャズフェスに出演し多くのファンを持つ。熱狂的な鉄道ファンでもあったことから鉄道乗務員訓練用シミュレータの開発・制作を手がけるに至り、国内外の鉄道会社に採用されている。
Twitter:@MinoruMukaiya
HP: 株式会社音楽館
編集・風景写真:はてな編集部
*1:高島屋のロゴマークにおける丸の中の「髙」は、漢字の祖形となる金文などの字形に倣い、上部が屋根のような形をしているもの。なお本稿の本文では、公式Webサイトなどに倣って「高島屋」と表記しています。
