ジブリの秘密は“4階”にあった――「時間と空間」をめぐる、鈴木敏夫プロデューサーの50年【上京物語】

インタビューと文章: 佐藤 譲 写真:関口佳代

進学、就職、結婚、憧れ、変化の追求、夢の実現――。上京する理由は人それぞれで、きっとその一つ一つにドラマがあるはず。地方から東京に住まいを移した人たちにスポットライトを当てたインタビュー企画「上京物語」をお届けします。

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今回「上京物語」にご登場いただくのは、スタジオジブリ・プロデューサーの鈴木敏夫さんです。高畑勲監督・宮崎駿監督と数々の作品を手掛けてきた鈴木さんは、1948年に名古屋市で生まれ、1967年に慶應義塾大学入学とともに上京しました。東京で暮らし始めて、およそ50年。学生時代は5回以上引越した一方で、結婚後は恵比寿の同じ家に40年以上も住み続けています。

インタビュアーの佐藤譲さんは、鈴木さんのもとで働いていたスタジオジブリ出身の編集者・プロデューサー。鈴木家の別階に住んでいたこともある、鈴木さんを公私ともよく知る方です。

取材は、住居と同じ恵比寿にある鈴木さんの隠れ家で、ジブリスタッフをはじめさまざまな人が集う「れんが屋」で2時間にわたって行われました。1967年から2018年までの長いスパンのなかで、鈴木さんの「時間と空間」にまつわる「哲学」や、「れんが屋」の秘密などが明かされました。

「恵比寿か、鎌倉か」人生の分岐点

――上京のきっかけは、著書『風に吹かれて』(2013年/中央公論新社)で「父親に慶應義塾大学への進学を勧められた」「名古屋にいるのが嫌で東京へ行ってみたかった」と書かれているので、まずは学生時代から、ご結婚後に恵比寿へ引越すまでのことを聞かせてください。

鈴木敏夫さん(以下、鈴木):大学生のときから徳間書店に入るまで、確か6回くらい引越したんじゃないかな。「引越し魔」だったの。日吉本町、中延、大崎、東松原、渋谷、戸越公園といろんな場所に住んだよね。日吉本町に住んだのはね、大学のそばだったからです。慶應の学生はみんなそこらへんに下宿したわけですよ。たしか朝晩のまかないつきで、月13,000円くらいだった。

日吉本町は古典的な4畳半の部屋でした。そのころは、3畳や4畳半が普通で、本当に狭いんだよね。その分、みんな、大したものを持ってなかったんですよ。俺らの世代の必需品は、電気ポット。これでお湯を沸かす。それさえあればお茶は飲めるし、インスタントラーメンもつくれる。

部屋にあったのは、机。布団が一式。電気こたつ。そして、電気ポット。これだけ。引越すときは自分たちでやるんだけどさ、僕の友達なんかは電車で引越してたよね(笑)

――たしかに、それだけ物が少ないと、運べそうですよね。

鈴木:そう。布団を含めても、3、4人集まれば運べる。本だって大した量を持っていないしね。洋服もないし。なんか楽しかったよね。

日吉本町の次に住んだのは、中延。その次が大崎。隣の五反田方面へ川沿いを歩いたところに、「五反田東映劇場(のちの五反田TOEIシネマ)」という映画館があって。そこで(高倉)健さんの映画とかね、ずいぶん見ましたよ。オールナイト上映を見たあとも、家まで歩いて帰れた。

大崎の次に東松原に住んだあと、渋谷で暮らした。渋谷に住んだのは、街が好きだったからなんだけど、今とはちょっと違う雰囲気だった。よく食べたのは、家の目の前にあった青山学院大学の学食。青学は学食なのにナイフとフォークがあったりして、ハイカラなんだよね。安かったし、かなりあそこで食べたね。

渋谷のあとは、戸越公園。そこで初めて風呂付きの部屋になった。そのあと、結婚して青物横丁で1年ほど暮らしたあと、子どもが生まれてすぐに恵比寿へ引越した。

――以前、鈴木さんに引越しの秘訣を聞いたとき「どう生きるか」だとおっしゃってましたよね。そして、「俺も恵比寿を選ぶときに、恵比寿なのか、あるいは鎌倉なのか、という選択があった。鎌倉に行くとしたら、俺はマイホームパパになる」と奥様に伝えたと。

鈴木:違うよ、「働かない」って言ったの(笑)。恵比寿に暮らすってことは「働く」。会社から遠い鎌倉へ行くってことは「働かない」。で、鎌倉へ行くためには、月給泥棒になる、と。そう言ったんですよ。それで、どっちがいいか聞いたら、「働いて」と言われたの。それで恵比寿へ引越した。

サラリーマンで月給泥棒って、一番大変だと思うんですよ。働いて給料をもらうなら楽じゃん。月給泥棒って、働かずに、クビにもならずに、給料をもらうんだよ? その苦難の道を歩もうかな、と思ったんですよ。まあ、そういう時代だったんですね。

でも「働いて」と言われたから、働こうかなと思った。そこが、ひとつの分岐点だよね。そこから恵比寿に40年以上住んでいます

学生運動とアルバイト――鈴木敏夫の2つの顔

――恵比寿の話を深掘りする前に、学生時代の話をもう少しだけ聞かせてください。

鈴木:俺が入学した1967年ごろって、学生運動が本格的にスタートした時期なんですよ。俺がいた文学部は他の学部と違って1年生だけ日吉で、2年生から三田のキャンパスへ行っちゃうわけ。すると、1年生だけで日吉の自治会をつくらなきゃいけない。

入学してすぐにその選挙があって、加賀谷くんという人の委員長選を応援したことがきっかけで、広報局長をやることになって。世の中は政治問題その他で揺れ動いてたんだけど、慶應では、学食のカレーライスが45円から60円に上がるっていうので全学闘争になったんだよね。このころはまだのんびりして楽しかったね、俺なんかギターばっか弾いてて。だけど、どの大学にも確実に学生運動の波が迫って来ていた。学生運動抜きには語れない時代なんだよね。

中延に住んだのは、2年生になって三田に通いつつ、自治会のために日吉にも行かなきゃならなかったから。中延は日吉と三田の中間地点だったんだよね。いろんな学部の自治会の連中が集まるときは、五反田のとある旅館に幹部が集まって闘争方針を決めていたんだけど、そこに30歳を超えた「プロ」の学生運動家がいて。「プロにならないか」って誘われたあたりから、嫌になっちゃったんだよね。

俺には、「本当の友達」って人たちがいるけど、その人たちは学生運動をほとんどやらなかった。俺のもう一つの顔で学生運動をやっていたんだよね。両方の社会に、身を置いていた。

――学生運動をする一方で、アルバイトもたくさんやられていたじゃないですか。どのように要領よく学生生活を送っていたんですか。

鈴木:アルバイトは30種類くらいやったよ。でも、本格的にやったのは、「プロにならないか」という誘いを断ってからじゃないかな。明治神宮の団子屋とか、川崎のゴム工場とか、花月園競輪場のガードマンとか、いろんなバイトをやったよね。

珍しいのでは、作家の深沢七郎さんが曳舟でやっていた今川焼き屋*1の手伝い。当時『話の特集』という矢崎泰久さんが編集長を務める月刊誌があって、深沢七郎さんを取り扱ってたの。俺はその編集部へ出入りしているうちに、『話の特集』班として今川焼き屋を手伝うことになって。

あと、子ども調査研究所といういろんな調査・研究をするところが渋谷にあって、そこが幼稚園でやってる人形劇を手伝ったり。そこにいたのが寺山修司さんだったのよ。寺山さんを横目で見ながら、バイトしていましたね。学生時代に出会った有名人は、寺山修司と深沢七郎じゃないかな。

学生生活の前半は学生運動で、後半がアルバイトだったんだよね。いろんなことを考えるのは面倒くさいし、バイトしてれば考えなくなるじゃん。それも青春の一つでしょう

恵比寿から通った徳間書店とスタジオジブリ

――ここからは、鈴木さんにとっての恵比寿について聞いていきたいと思います。

鈴木:恵比寿はね、学生時代によく来ていたんですよ。恵比寿駅の目黒側に同級生がいたんです。それで、恵比寿っていいなと思った。当時の恵比寿って、渋谷と目黒に挟まれていたのに、本当に静かなところだった。目黒より恵比寿のほうがずっと小さかったしね。駅だって、アトレができるころまでは本当に小さな駅だったし。

――鈴木さんは、ずっと変わらず同じマンションに住んでいますが、マンション内にいくつか部屋を持っていますよね。僕もある時期、妻と一緒に暮らしていました。

鈴木最初に住んだのは4階。途中から8階が空いたので、それも2軒目として購入しました。当時は『アニメージュ』の編集長をやっていて、スタッフがみんな入れるように、部屋を改造して、20畳の居間をつくった。そうすると、そこに60人くらい出入りできるわけ。若い連中はお金がないから、ご飯を食べさせてね。昼から明け方まで続いたよね。

――今回の取材の前にいろいろ調べてみたところ、どうやら宮崎さんと出会ったころに8階の部屋ができたみたいなんです。つまり「ジブリの鈴木敏夫」としての人生でいうと、ずっと恵比寿の部屋を拠点に働かれている。

鈴木:結果として、恵比寿ってすごくよかったんですよ。ジブリは最初、吉祥寺にスタジオがあった(編集部注:現在は東小金井)。俺は徳間書店にいて、会社は新橋。そしたら、恵比寿って、吉祥寺と新橋の、真ん中だったんだよね。移動時間がほぼ同じ。高畑さんと宮さんに出会ってから、僕は本格的に働き始めました。

ジブリ成功の秘密は鈴木家の“4階”にあった

――同じマンションに部屋が増えるのは、なぜなのでしょう?

鈴木:カミさんの親父さんが、僕に影響を与えているんですよ。結婚してひと部屋自分たちで買ったんですが、そのうち狭くなってもう少し広いところへ行こうと。そういうとき、普通だったら前のところを売るじゃない? でも、親父さんが「ダメだ」と言うわけ。「2軒目も買え、1軒目を貸せばなんとかなるから」ってね。僕、親父さんとすごく気が合ったんだけど、2軒目を買ったあと、すぐに「3軒目を買え」と言われて。そのときは反発したんだけど、結果として、部屋が増えたよね(笑)

部屋が増えたのは、運が良かった、というのもある。もちろん、家を買うお金なんて持ってなかったんだけど、ジブリをつくったことがものすごく大きくてね。1989年に徳間書店から出向してジブリ専従になって、翌年徳間書店を辞めることになるんだけど、すると、退職金が出るんですよ。つまり、その退職金で部屋を買えた。さらに、1997年にジブリが徳間書店と合併したら、今度はジブリから退職金が出た。のちに2005年にジブリがまた徳間書店と分離独立するわけ。すると、また退職金が(笑)

結局、40年以上、同じマンションに住み続けている。若き日は引越しを繰り返したのに、ある年齢からは全然動いていない。そのうち、おふくろが来たり、病気になった僕の親父が来たり。2人が出した条件が「同じ部屋に暮らしたくない」だったから、もう一つ別の部屋を買わなきゃいけなくて、どんどん部屋が増幅していった(笑)。カミさんの親父さんの言葉が残っていたんだろうなぁ。

――僕ら夫婦も本当にお世話になりました。

鈴木:そうやって部屋が増えていくうちに、最初に住んだ4階の部屋が余ったんです。この4階の空き部屋に、俺が持っていたいろんな本やビデオを全部集めたんだよね。そうこうしてるうちに、4階がうちの家族のいろんなものを保管する大倉庫になっちゃって。

ジブリの仕事をやっていくってときに、夜、その部屋で打ち合わせをしていたんです。そこで話し合うと、一番うまくいったんですよ。ジブリの成功の秘密は、その4階にあった

――初めて聞きました。

鈴木:4階には本があり、ビデオがある。いろんなものが雑多に置いてあって、必ずしもきれいじゃない。そういう場所が、みんなで話し合って、ある考えをまとめるときには役に立つということを、体験したんだよね。10年くらい、4階の部屋を使いまくった。

でも、いろいろあって、その部屋を他で使わなきゃいけなくなったの。「どうしよう」ってことになって、つくったのがこの「れんが屋」なんです(編集部注:鈴木家とれんが屋は歩いてすぐのところにある)。4階の特徴として、恵比寿にいるくせに、その雑多な部屋の中にいると、なんか自分たちがどこにいるのか分からなくなるの。おまけに、時間を忘れるわけ。気が付いたら朝になってることもいっぱいあった。そのくらい集中力が増したんだよね。それを人為的につくれないかと考えたのがこの「れんが屋」で。

僕の最大のテーマは「時間」

――「れんが屋」があるマンションにも、別階にいろんな部屋があって、それぞれの「時間」が流れていますよね。その始まりともいえるこの部屋に、ある種、自然発生的に生まれた「鈴木家の4階」を再現するため、鈴木さんはどう「空間」をつくったのですか?

鈴木:まずは考えた。ある日、思いついたのが、レンガだった。レンガを内装にしたらどうだろう、って。最初は周囲から馬鹿にされたんだけど、いろいろ調べていたら、イギリスで実際に建てられた100年以上前の家のレンガが見つかった。それをスライスして内装の壁にしてみたんだよね。これが見事にハマった。

僕の最大のテーマって「時間」なんですよ。現代人って「時間に追われる」って言うじゃない? 僕はね、時間に追われないためにやっていることが二つある。

例えば人と約束して、ある時刻までにそこへ行かなきゃいけない。あるいは相手が来るというとき、最低20分から30分くらいは準備の「間」を空けるんですよ。すると、その間に思いつくことが、本番で役に立つわけ。そうすると、自分で「時間」をコントロールできて、「時間」に追われないわけ。それが一つ目。

そして、どうやったら流れている「時間」をいじることができるのか、を考えた。答えは4階にあった。周囲を壁にしちゃって、暗くすれば、自分たちがどこにいるのか分からない。「時間」を忘れるんですよ。それが二つ目。

――たしかに、鈴木さんは日々忙しいですが、誰かと会う30分前には、その人のことを考え始めていますよね。

鈴木:学生時代に読んだ本の中にこんなことが書いてあったんですよ。「人間の時間というのは二つある。一つは社会的な時間。つまり24時間。そしてもう一つ、個人的な、自分の時間」だと。そして「社会的時間がその個人的時間を搾取するとき、人はストレスを感じる」と。その言葉をすごく覚えているんだよね。

僕たちの世代って、ジャン=ポール・サルトルの『存在と無』や、マルティン・ハイデガーの『存在と時間』みたいな書物と一所懸命に格闘して、抽象的な能力を鍛えた世代なのよ。そういうことから、「時間」っていうものは自分で支配する。そのほうが人間にとって心地いいっていうことも学んだんだよね。具体的には、人と接するときに、約束の時刻より先に行くだとか、こういう「れんが屋」のような異空間をつくるということにつながった、ということだと僕の場合は思う。学生時代に考えたことって、大きいんだよね

理想の「時間と空間」パクトンチャイ

――恵比寿の自宅に暮らしながら、2007年ごろに「れんが屋」ができた一方で、2013年ごろからタイのパクトンチャイへ行かれていますよね。恵比寿という場所から、タイのパクトンチャイを求めたのは、なぜでしょう。

鈴木:このマンションのエレベーターで、偶然カンヤダという人間と出会ったんだよね。詳しくは『南の国のカンヤダ』に書いたんだけど、知れば知るほど興味深い人だったんですよ。彼女は異様に記憶力がいい。雑談でしゃべった内容も、全部覚えてるんですよ。さらに身体能力も驚くほど高い。なんでだろう、と不思議に思って。

南の国のカンヤダ』(2018年/小学館)

抽象的な言い方だけど、現代人が置き去りにし、忘れたものをカンヤダは全部持っていそうだと思った。そのうち、彼女は日本を去って故郷のパクトンチャイへ帰るんだけど、ある日彼女から「こっちへ来ないか」と連絡が来た。

パクトンチャイは、バンコクから車に乗って6時間ほどかかる田舎なんだけど、どうするとカンヤダみたいな人が生まれるのか、彼女の背景を知りたくなって、仲間とともに訪ねた。そして、少しずつ謎が解けていったんだよね。そこで僕らが見たものは、幻の日本というのか。道は、当然舗装されていない。流れている川では、子どもたちがにぎやかに遊んでいて、対岸に向けて石を投げ合っている。いつかの自分たちも、昔こうだったよな、と思った。

垢にまみれた言葉だけれど、現代人が見失った物、捨てちゃったもの、すべてがパクトンチャイに詰まっている気がした

――パクトンチャイへ行くと、東京や恵比寿を相対化することってあると思うんですよ。そういうとき、鈴木さんにとって東京や恵比寿は一体どういう場所なんですか?

鈴木:やっぱり歪んでるよね。だって「必要な無駄」がないもん。それをどうすればいいのかというのは、ものすごい難しいんだけど。ささやかな抵抗として、何もない部屋があったら、そこにパクトンチャイをつくってみたい。

パクトンチャイでは、みんな一家総出で、自分たちで家をつくる。カンヤダの家だけじゃなく、誰の家もそうなの。そこで俺がふと想像をめぐらしたのはね、今から73年前、日本は戦争に負けた。東京は焼け野原。でも、数カ月後には家が建っているんだよね。誰がつくったのか? 全部自分たちでつくったんだよ。だから、人間というのは本来そういう能力をみんな持っている。でも、それを認めない社会なんだよな、今は。自分たちでつくるなんてそんなのとんでもないと。でも、本来は、全部自分たちでつくれるんだよ。そうすると、「近代って一体何なんだろう?」と思う。

――「れんが屋」の「時間と空間」って、ここが恵比寿であることを忘れさせてくれて。多分、鈴木さんは素朴なものを求め続けているんだろうな、と思いました。だからこそ、パクトンチャイへ行き着いたんだろうな、と。

鈴木:一度行った仲間が、何度も行きたがるんだよね。つらいと行きたがる。向こうへ行くと、みんな幸せな顔になるんだもん。

『南の国のカンヤダ』を書くときに、一番最初に思い浮かんだのが「時間」だった。読むと分かるんだけど、普通、物語って順番に進むでしょう。この本は、あるところまで行くと、突然元に戻るんですよ。しかも、もっとさかのぼったりする。かと思うと先に行く。そしてまた途中へ戻る。何がやりたいかっていうとね、「あなたが縛られているのは時間でしょ。そういうものから自分を解放するといいですよ」ということを訴えたかったんだよね。それが大きなテーマだった。

そして俺は、カンヤダという人をここに残しておきたかった。こういう人がいたんだって。

新たにつくられた部屋には、カンヤダさんが撮ったパクトンチャイの写真が飾られている
 
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お話を伺った人:鈴木敏夫

鈴木敏夫

1948年、名古屋市生まれ。スタジオジブリ代表取締役プロデューサー。1972年に慶應義塾大学文学部を卒業後、徳間書店に入社。『週刊アサヒ芸能』を経て、1978年にアニメーション雑誌『アニメージュ』の創刊に参加。副編集長、編集長を務めるかたわら、高畑勲・宮崎駿作品の製作に関わる。1985年にはスタジオジブリの設立に参加し、1989年からスタジオジブリの専従に。以後、スタジオジブリの全劇場作品のプロデュースを手がける。また、07年からはTOKYO FM「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ」のメインパーソナリティを務める。近著に、『禅とジブリ』(淡交社)や、初のノンフィクション小説作品『南の国のカンヤダ』(小学館)などがある。

LINE: スタジオジブリLINE公式アカウント

聞き手:佐藤 譲

佐藤譲1986年、福岡生まれ、京都在住。編集者・プロデューサー。京都大学在学中の2008年にはてなでアルバイトしたのち、2009年に鈴木敏夫プロデューサーを取材したことがきっかけでスタジオジブリへ入社。月刊誌『熱風』の編集などに携わりながら、れんが屋の別階に住んでいた。2014年に日本テレビへ入社してアニメーション映画・邦画実写映画のプロデュースに関わりながら、鈴木家の別階に住んでいた。2018年に独立し、京都移住。現在は、フリーランスとして、『ゲームマガジン』(株式会社βακα)の副編集長を務めるほか、映像作品のプロデュースを行っている。

Twitter:@comajojo

関連リンク

取材の様子は、ラジオ番組「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ」のポッドキャストでも楽しめます。

2018/12/16 『鈴木さんとジブリの上京物語』(前編)
2018/12/23 『鈴木さんとジブリの上京物語』(後編)

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編集:はてな編集部