Side A
京都市には海がない。何を今さらと思われるかもしれないが、私はそんな海のない盆地の、京都御所より少し左側で生まれ育った。妻もそうだ。夏は銭湯の脱衣所のように蒸し暑く、冬は冬で冷蔵庫のなかのように底冷えが酷い。そんな盆地は、日本の観光テーマパークへと自らを着飾ることで何とか切り盛りを続けていた。
40歳が視野に入ってきたころ、音楽活動からは少し離れていたものの、定職に就き、社会的な生活は安定していた。しかし私生活では妻が病を患っていたこともあって、疲弊しきっていた。ヤングケアラー、老老介護、少し世間に認知され始めた社会問題のそのどれもが私たちの世代や状況にピッタリではなかった。頼りになる社会的支援も特になく、なんとかして自分たちだけで大きく状況を変える必要があった。
その頃の私は、自分の仕事に関する研究のために、仕事を退職しフランスへの留学を考えていた。もしかすると内心では、この状況を打開するために将来を設計し直したかったのかもしれない。働きながら妻と共に、週末ドライブさながらに転地療養先となる海のある街を回った。とはいえ現実はそんな生優しいものではなかった。妻は病気で家には帰れなくなり、ホテルを転々とする日々が続いていた。
そんな私たちが全く見知らぬ街、赤穂(あこう)に住むことを決めたのは、とある公園で過ごした何気ない時間と、そこで出会った「さびちゃん」がきっかけだった。
赤穂御崎公園と野良猫のさびちゃん

赤穂に私たちが立ち寄ったのは愛媛県を訪れた帰り道だったか、とにかくどこかの帰り道だったように思う。綿密に調べてきたわけでもなかったので、JRの駅でもらった手書きの地図を頼りに立ち寄ったのが赤穂御崎公園である。
この公園には、いらないものが全くなかった。電話ボックス、トイレ、自販機、ベンチという最低限のインフラと、赤穂のシンボルである大石内蔵助像のみ。ただ野良猫だけがたくさんいた。完全に観光地へと変わってしまった故郷を出る私たちにとって、なんだかぴったりな場所に思われた。
そのうちの一匹が「連れて帰って」と言わんばかりに「にゃぁ」と鳴いては、やたらと妻にべったりくっついていた。私がその様子をベンチに座って遠巻きに見ていると、一匹のタヌキのような猫が、人一人分のあいだを開けて同じベンチに座ってきた。それが「さびちゃん」だった。
その飄々とした佇まいは、私の知る他の猫とは全く違っていた。毛が長くもふもふで、長い毛に葉っぱが絡まっている有様は、まさにタヌキが猫に化けているといったムードだった。
少し距離をとる「さびちゃん」に嫌われないよう、私たちは彼女を撫でることはしなかった。後に「さびちゃん」は撫でてほしい猫だとわかるのだけれど、それがわかるまでは私も妻も彼女に触れず、その距離感を大切にした。

私も妻もこの公園がとても気に入った。「また猫にも会いたいし、一度、しっかり赤穂に来よう」そう言い合った。きっと「さびちゃん」に出会ってなければ赤穂には住んではいなかったと思う。
私たちは赤穂に移住してからも、ほぼ数日おきのペースで公園に来た。この公園は眺めが良いだけでなく、そこから坂道(と言うと聞こえはいいがどちらかと言えば登山道に近い)を下りると浜辺に出ることもできる。浜辺から別の浜辺へと連なる遊歩道があるので、私たちはしばしば海沿いの散歩を楽しんだ。海沿いの岩場に時折、釣りをする人、本を読んでいる人などいる程度で、柔らかい波の音だけが聞こえていた。
この公園に通うたびに私たちは「さびちゃん」に話しかけた。そのうち彼女の姿が見えないときでも、「おーい、さびちゃ〜ん」と呼びかけると崖の下から一直線にこちらへ走り寄ってきてくれることもあった。いつしか妻は「さびちゃん」と一緒に園内を散歩できるくらいまで仲良くなっていた。
ずっと悩んでいたが、赤穂を離れる時に「さびちゃん」を保護することに決めた。彼女は多分、赤穂の猫で初めて海を渡ってフランスへやってきた猫だと思う。今や、動物用のユーロパスポートまで持つようになった。フランスに行くというのに家族を増やすのは、さまざまな面でリスクが大きかったが後悔はなかった。
重力のない海岸、坂越

赤穂は塩の原産地として知られる以外は、基本的には赤穂浪士の一本柱で踏ん張っている街だ。兵庫県の端っこ、いわゆる、田んぼと畑ばかりの「田舎」でもなければ、幹線道路沿いの「郊外」でもない、ちょうど良い小さな街。それが赤穂だ。
そんな赤穂の東部に、坂越という小さな港町がある。車だと10分くらい、自転車だと30分くらい。牡蠣の養殖が盛んで、至る所に牡蠣小屋があり、私たちも冬にはしばしば牡蠣を買いにきた。
牡蠣といえば私の地元では非常に高級だったのだが、赤穂は坂越と、隣町の岡山県の端っこ、日生という二つの巨大な牡蠣の養殖地に挟まれているため、新鮮な牡蠣が簡単に安価で手に入る。生で食べるもよし、レンジでチンして食べるもよしだ。レンジに臭いがつくという理由で牡蠣専用のフライパンを持っている人が赤穂には多いらしい。

また坂越には、江戸時代に赤穂藩の御用酒屋も務めた酒蔵があり、「レトロ」な街並みが少し残っている。そのため赤穂より観光地化されていて、カフェや洋菓子屋などもある。特に某ピザ屋系列のアラゴスタというイタリア菓子が非常に人気で、週末は行列もできている。
とはいえ、平日の夕方などに訪れてみると、地元の人が驚くほどゆっくり歩いている光景を見かける。そういう点で坂越は、少し文化の風を感じながら田舎暮らしがしたい人にはぴったりかもしれない。
また坂越には、穏やかな街と浜辺と神社があり、そんなところで波の音を聞いているだけで十分だった。妻は少しずつ体調もよくなって、私はというと、写真を見てもらったらわかる通り、空を飛べるくらい体がずいぶんと軽くなっていた。
Side B
凪アトラクション万歳の平福

赤穂の不動産屋の担当のお兄さんに「遊ぶところがないですよ!」と警告されるくらい、赤穂には「何も」ない。地元の若者たちのなかには、「海と山に囲まれて逃げ場がない」と感じている人もいるようだ。
たしかに赤穂は、暇と退屈に耐えられないようでは厳しいかもしれない。詩的な表現や比喩ではなく、水の流れを感じ、風の音を聴いたり、窓から日が射して猫が伸びるところを愛でられないと、その暮らしはつまらないものになるに違いない。
もし自分がここに生まれていたら、この街をどう感じるだろう。地元で「簡単に」とまでは言わないが、それでも不可能ではなかったあれやこれやが、赤穂ではどうだったんだろうか。中学生のころ、中古レコード屋を時間と体力の限界まで自転車でハシゴして、パンクに出会って、バンドを組んで、売れないながらCDを作ったりツアーをやったりした。
それが赤穂だったら?そんなふうに、ありもしない自分の青春時代を、あったかもしれない誰かの青春時代と重ね合わせ心配したりもした。そういうときには決まって、旧友のアンドウくんやノンノが畦道をダッシュして、抑えられない小さな破壊衝動を発散している姿が思い浮かんだ。
無職で過ごす赤穂は、本当に時間が弛緩しきっていて、そんな無意味なことに思いを馳せる程度には時間を持て余した。ただ幸いなことに私はもう十分、地元で文化的なことは吸収したし、満腹というよりは食べ過ぎだった。何より海の音と休息の方が私たちには必要だった。私たちは赤穂にとどまらず、周辺の自然のあるところにもしばしば出かけた。

赤穂より少し山側にいくと、平福という古くからの宿場町がある。巨大な駅舎の割に小さなホームを有する無人の駅があり、街のいたる所には空き缶で手作りされた風車が飾られている。妻は平福を散歩するのが大好きでよく通った。平福のホームのベンチに座って無人の電車が通り過ぎるのを眺めたり、風で木の葉っぱがゾワゾワっとうねる模様の変化をぼんやり眺めるという、とてつもなく凪な天然視覚アトラクションを満喫したりした。
平福には川が流れていて、ある夏の暑い日のことだったか、中学生たちがパンツ一丁で川遊びに興じていた。ぼんやり眺めていると彼らもこちらの眼差しに気がついたのか視線があったので「気持ちよさそうですね」とこちらから声をかけたら、この上ない溌剌とした声で「気持ちいいです!」と返事してくれたことを思い出す。
そんな永遠に続くような、時間が弛緩しきった夏の日の午後をフランスでも私はたまに思い出している。
知のインフラ、赤穂図書館

フランスの大学に留学すると言うと、「え!フランス語ができるなんて、すごいですね」と言われることもある。しかし、できるわけがない。40手前にして始めたのだ。「あぁ、でも英語がおできに……」。できるわけがない。もう何年もまともに英語を勉強していない。
フランス語を勉強してみてわかるのは、いかに英単語をよく知っているかということだ。たとえば「私はフランスに行きます」と言いたいとき、何も考えなくても「I」と「go」と「France」は、頭に出てくる。「私は水を飲みたい」はどうか?「I」と「want」と「drink」と「water」は出てくる。水を丸ごと飲むなんて変な表現だなと思われたところで、「水を飲む」目的は達成されるに違いない。
しかしフランス語では「水」も、「飲む」も「したい」も、何もかも知らないのである。一事が万事それなので本当に大変だ。それもまだまだ脳の若いうちはいいが、こちとら下降曲線の只中なのだから、最初から無理なのだ。
そんな私がフランスに移り住むことを決断できた要因の一つは、赤穂図書館の存在である。

あまり建築について詳しくない私だが、赤穂図書館は素敵な建物だったし、蔵書もそこそこあった。研究や勉強のためには、図書館のような「知のインフラ」は欠かすことのできない存在だ。どれほどの時間をこの場所で過ごしただろうか。ありがたいことに、研究に必要な基本的な本は、兵庫県広域圏内の図書館ネットワークを通じて、取り寄せが可能だった。私はこの図書館に通うことで、ありあまる時間を十分とはいえないまでも有効に活用して、留学・研究の準備に取り組むことができた。
図書館の向かいには、スーパーマーケット、レンタルビデオショップ、パチンコ、業務スーパーなどが大集合した、田舎にありがちな一極集中的な集合施設がある。それでも店主の趣向をこらした品揃えを見るにつけ、赤穂のそれが、どことなく地元密着的なムードを残していることが感じられた。お昼休憩がてら、そこでお弁当を買い、近くの公園の東屋で食べたのが思い出深い。
相生のソワレ、喫茶トキシラズ

いくら遊ぶところがなくても、私はそんな赤穂の暮らしに満足していた。一点不満があったとすれば、古本屋がなかったことだ。
私は古本屋が好きだ。誰かが読んだ本が、誰かの手に渡って行く。「あ、この本、いいよね。」「けどなかなか売れないね。」「今度来たときに売れてなかったら私が買おう」とか、買いもしないのに思いを巡らせてしまう。だから赤穂の隣町、相生に古本屋カフェ『トキシラズ』があることを知ったときの嬉しさたるやなかった。
おそらく、そこまで私と年齢の変わらない無口な店主が一人で切り盛りしていて、夕飯時にはお妻さまと思われる女性がお弁当を持ってきたりしていた。
このお店は本当にお気に入りで、あまり知らない人には教えたくないほどだ。店主には迷惑だったかもしれないが、本当に長居できる。たいてい私は紅茶とスコーンを頼むことが多かった。
しかもトキシラズは、大体20時には店が閉まるのが当たり前の相生・赤穂において、珍しく23時までオープンしているという、特殊な業務形態だった。雑居ビルのフロアの広い一室なのだが、ものすごく落ち着いた雰囲気で、レトロ趣味な店主のセンスが光るお店だ。店内はそこそこ広く、本が所狭しと並んでいる。その間にわりとゆったりしたカフェスペースが適度な距離感で配置されている。カフェを利用するときに、店内の本を自由に読むこともできる。
アパートの窓から

なんだかんだと結構たくさん書いたが、最後に、赤穂御崎公園と双璧をなす私たちのお気に入りの場所についても紹介したい。それはなんと言っても自分たちの住んでいたアパートだ。
大家さんとはサイクリングに行ったり、彼の友人の梅仕事を手伝ったりもした。住んでいたアパートの窓からは海が見えた。もう撤去されてしまったが、赤穂海浜公園にあった観覧車も見えた。夜には御崎の灯台の明かりがゆっくりと回転しながら、長くなったり短くなったりする様子を眺めることができた。晴れた日には「日なたで眠る猫が背中丸めて並ぶ」、そんな凪で穏やかな時間がそこにはあった。
意外なことに、私はフランスに行く前に少し歌いたいな、と思うようになっていた。心境の変化があったのかわからないが、素直にみんなとまた遊びたいなと思った。少し前に見たfOULのドキュメンタリーもきっかけの一つだったと思う。もう自分のなかから完全に消えたと思っていた音楽への情熱は、まだ少し残っていた。
いつぞやは自分や周りの人までもを燃やしてしまうほどに燃え盛った炎は、弛緩しきった穏やかな日常のなかで、小さく穏やかな灯火ほどになっていた。売れなかったミュージシャンはいつ音楽をやめるのか、いつ歌うのをやめるのか。私にはよくわからない。赤穂で過ごした2年くらいで私はまた歌いたいなと少し思うようになった。そんな思いつきに付き合ってくれたのはノンノの友達のトシちゃんだった。逆説的にも私はミュージシャンではなくなったことで、また歌いたいと思えるようになっていた。
今、私はフランスで精神医学とケアの研究をしている。帰国したらまた歌いたいし、いつかは赤穂にも戻りたい。妻の転地療養がメインで移り住んだ赤穂は、私のことも随分と癒やしてくれた。
あの時「さびちゃん」と出会い、大切という言葉ではおさまりきらないほどの時間を過ごした赤穂での日々を私はずっと忘れないでいたい。フランスへの飛行機を待つ私の頭のなかには斉藤由貴とトシちゃんの歌がずっと鳴っていた。
<佐々季節のプレイリスト>
好きな曲のなかで自分の書いたもののサウンドトラックをつくるつもりで選びました。歌と文章を往復運動してもらえたら嬉しいです。
著者:佐々季節(ささきせつ)
フランスで精神科医療と哲学のあいだのようなことを研究中。作業療法士。dOPPOというバンドとソロ名義でいくつか音源を発表しています。音楽はbandcamp、文章はnoteへ。コンタクトしてください。
bandcamp:https://treatyougoodrecords.bandcamp.com/
note:https://note.com/kisetsu_sasa
