地形マニアの聖地「赤羽」 スリバチあり、歴史あり、酒場ありの魅惑的な町

著: 皆川典久(東京スリバチ学会 会長)

土地の高低差が町の個性を育み、町並みに意外な奥行き感を与えていることがある。

東京で「山の手」と呼ばれているエリアは坂道が多い。そして坂を上る、あるいは下りることで町の雰囲気が一変する場面にしばしば出会う。坂の上と坂の下では、性格の異なる町が崖を境に隣り合っているためだ。

だから街角で坂道や階段を見つけたら、面倒がらずに上り下りを楽しんでみてほしい。あなたの知らない世界が待っていることがある。北区の「赤羽」は、そんな楽しみが味わえる、特有の凸凹地形を持つ町である。

赤羽駅で途中下車し、スリバチと歴史の世界へ

私は、「谷」が多い東京の地形を観賞・体感する「東京スリバチ学会」を主宰し、休日に各地を歩き回っている。ちなみにスリバチとは都心に多い谷間や窪地のことで、地形の第一印象から、私が勝手に名付けた。詳しくは、記事最後のプロフィールを読んでほしい。

そんな私も平日は普通のサラリーマンである。建設会社の設計部門に所属し、建物の設計を手掛けている。

ようやく涼しくなった10月、設計提案のプレゼンテーションが無事に終わり、埼玉県のとある町から東京へと戻る電車の窓越しに、秋色に染まりつつある郊外の風景をぼんやりと眺めていた。リノベーションを骨子にした設計提案はクライアントに受け入れられたのだろうか。この2カ月間、会社の同僚とチームを組んで議論を交わしながら提案づくりに没頭し、まとめ上げた自慢の提案だった。

電車が長い鉄橋を渡りはじめ、車内に「次は赤羽」というアナウンスが流れてきた。昼飲みの聖地として有名な赤羽であるが、地形マニアの自分にとっては想い出の土地でもあった。地形に着目し町歩きを始めた15年前、土地の起伏の激しさと町並みの面白さに魅了され、見知らぬ町への冒険へといざなってくれた土地、それが赤羽なのだ。

納得できる提案に仕上げるため、ここしばらくは残業続きの日々だった。本日の帰社は諦めることにしよう。人生、山あり谷あり、働き方にもメリハリが必要なはずだ。赤羽には山も谷もある。プレゼン後もクライアントのオフィスに残り打ち合わせを続けていた同僚に「赤羽で打ち上げをやろう!」とメールし、途中下車をして赤羽の町を久しぶりに歩いてみることにした。

カシミール3Dで作成した赤羽駅周辺の段彩地形図*1

東京と埼玉の境に位置する北区の中でも、北部に位置する赤羽は、交通の便がよく「北の玄関口」と呼ばれている。最近では、町を舞台にしたドラマが放送されたり、ディープな酒場が注目を集めたりと、にぎやかな印象が強い町だ。ただ、そのイメージは駅前のほんの一部の場所のもので、少し離れれば閑静な住宅街が広がっている。昔ながらの商店街も、大きなスーパーも共存しており、非常に利便性が高いわりに、他の都心部の町に比べれば家賃は比較的安めだ。

今回は赤羽駅西口から出て、日光御成道(岩槻街道)と呼ばれた街道を歩き、まずは静勝寺(稲付城跡)を目指すことにした。

日光御成道とはその名の通り、将軍が日光へ参詣する道として江戸時代に整備されたものだ。街道沿いにはかつて木造2階建の町屋が軒を並べていたが、現在は道路拡幅と区画整備が進み、町並みは様変わりした。ただし町並みをじっくり眺めると、間口が統一された道路沿いの建物が、かつての宿場町の記憶を伝えていることに気付く。赤羽の繁華街は日光御成道の宿場町・岩淵本宿として栄えたのが起源なのだ。

農研機構農業環境変動研究センターの迅速測図を元に、カシミール3Dで作成した明治初期の岩淵宿周辺の様子

街道をしばらく歩いて右に曲がると、急峻な崖と、崖に張り付くように斜面を上る石の階段が見えてきた。

静勝寺へと上る急な石段

丘の上は静勝寺の境内だが、戦国時代には太田道灌が築城したといわれる稲付城があった地らしい。たしかに、三方向を急な崖で囲まれた天然の要害で、城に相応しい地勢に思える。太田道灌は江戸城を開いたことで知られているが、荒川や利根川の広大な平野を望む、北方への備えとしてこの城を築いたのだ。

都内には中世の城跡が数多く点在しているが、牛込城や石神井城など、どれも地形的に特徴のある場所に造られていることが分かる。地形に敏感になると、江戸時代以前の地理歴史が見え隠れしたりする。

「スリバチの空が広い」町

上ってきた参道を振り返り、崖下に広がるかつての宿場町を見下ろす。建造物は残されていないけど、土地の形状はこの地で繰り広げられた歴史を伝えてくれる。戦国の武将たちは、どんな想いでこの風景を眺めたのだろうか。台地の中央、静勝寺の境内へと足を進めた。人影のないお堂の前で猫が昼寝をしていた。「猫は谷間を好む」と書いたばかりであるが、猫は居心地がよければ丘の上でもたたずむのだ。

猫もまどろむ静勝寺の静かな境内

静勝寺を出て、上ってきた参道とは反対側へと進むとすぐに崖を下りる急な階段が待っている。慎重に階段を下りながら、谷間のビューを楽しむ。特に赤羽の場合、反対側の台地が近いため、凸凹地形を把握しやすい。

静勝寺裏の階段を下りながらスリバチビューを楽しむ

谷底にはかつて小川が流れていたが、現在は暗渠*2(あんきょ)化され商店街に整備されている。通りの名は弁天通り。その名の由来となった亀ヶ池弁財天と小さな池が商店街の裏にひっそりと残されている。2枚目の地図画像にあるようにもともとは大きな池だったが、この地に工場が進出した際、大半が埋め立てられ、現在の池の姿になったのだそうだ。この地にあった大きな池は稲付城の水堀だったともされている。凸凹地形には郷土の歴史を紐解くヒントが隠されている。

商店街の裏にひっそりとたたずむ亀ヶ池弁財天の赤い祠(ほこら)と小さな池。池の周りでは亀が甲羅干しをしている

かつて弁天通りの谷間を流れた小川の水源は、すぐ近くの赤羽自然観察公園内にある。ここから徒歩で10分もかからない。山奥に行かずとも、こんな町中で水源探索が楽しめるわけだ。水の湧く場所はパワースポットとしても人気があるそうだが、身近にそんな場所が潜んでいるのも赤羽の魅力だと思う。

弁天通りから逸れ、三日月坂という急な坂道を上る。道端の道路標識によれば坂の勾配は20%もあるそうだ。坂を上り切り、振り返ると谷間を俯瞰(ふかん)する絶景が眼下に広がった。その驚きと爽快感を、私は「スリバチの空は広い」と表現している。

三日月坂より弁天通りのある谷間を見下ろす。遠くに見えるのが赤羽台団地

対岸の丘では高層のアパート群が谷間を見下ろしていた。整然としたアパート群は赤羽台団地で、戦時中は陸軍の被服本廠(ひふくほんしょう)*3があった場所だ。赤羽の台地には、他にも旧陸軍の兵営や兵器支廠(へいきししょう)など軍関係の施設が多く置かれていた。

赤羽は、平野部こそ宿場町や農村だったが、水の得にくい台地は土地利用が進まなかったため、軍関係の施設に利用できた歴史を持っている。もともと人家も少なく、用地を確保しやすかったのだろう。土地利用の違いが町の表情、あるいは雰囲気をつくっているのだ。

今昔マップタイル配信サービス」の旧版地図を元に、カシミール3Dで作成した1900年ごろの赤羽の様子*4

丘の上の神社は、町の歴史を語る証人

三日月坂を上った先に「喜久屋」という和菓子屋さんがある。以前に訪れた際にも立ち寄ったお店だ。昔と変わらず現役で営業している店のたたずまいに、旧友に再会したような懐かしさがある。終戦後、この界隈が住宅地として開発されたのに合わせて店を開いたとのことで、当時は今よりもにぎわっていたという。町歩きの途中ということもあり、糖分と塩分が摂取できる豆大福を購入した。

店頭に並ぶ和菓子はどれも美味しそうだ

そのまま静かな住宅地を歩くことにした。この辺りは交通量が少なく、落ち着いて散歩を楽しめる。

しばらく行くと香取神社にたどり着いた。静勝寺と同じく、岬状の台地突端にあり、境内が崖で縁取られた絶景スポットでもある。一気に開けたスリバチビューに思わず「おーっ」と声が出る。

香取神社から稲付谷を見渡すスリバチビュー

相対する丘との間には、波打つような屋根がどこまでも続き、海原を眺めているようだった。眼下に横たわる細長い谷は稲付谷と呼ばれ、かつては稲付川が流れていた。宅地化とともにほとんどの区間が暗渠化されたが、元は農業用水としても利用された川だった。北耕地用水とも呼ばれ、上流部で石神井川から引水し、荒川にかけての平野一帯に開墾された水田へと水を届けていた。しかし荒川が洪水になると、岩淵本宿などの村々で干していた稲が崖下に流れ着いた。それが稲付川の名の由来だ。

香取神社に限らず、こうした岬状の地に神社が祀(まつ)られ、地域に開かれているケースは多い。最も目立つ「村の鎮守」は誰にも公平で、訪れることの叶う場所だ。そして、いにしえから継承された公共空間は、町の歴史を語る証人でもある。だから「まち歩きイベント」を行うときは、神社にお参りをするように心掛けている。

同潤会が分譲した、ふたつの対象的な住宅地

絶景の台地を後に、再び谷あいの町へと下りてゆく。曲がりくねった路地が複雑に絡んだラビリンスのような町が続いている。先ほどまでいた整然とした台地の町とは対照的だ。路地では子どもたちが路面に落書きをして遊んでいた。

自然ふれあい情報館の裏庭に残された湧水池

しばらく行くと、北向きの斜面を整備した清水坂公園にたどり着く。公園内に「自然ふれあい情報館」という山小屋風の建物があったので一休みすることにした。館内に入り、児童向けの展示をぼんやりと眺めていると、建物の裏にひっそりと小さな池が残されていることに気付いた。コーフンを隠しながら、係の女性に声をかけてみた。

「裏庭に池がありますね。自然の池ですか?」
「ええ、あの池は湧水を溜めたものですよ。崖の下では今でも湧水が見られます」

清水坂という名からしてアヤシイと思っていたので聞いてみてよかった。スリバチ学会として、スリバチ状の土地から湧き出る清水を追いかけているため、湧水には敏感なのだ。

公園内もスリバチ

スリバチ状の清水坂公園を上ってゆくと、高台の閑静な住宅地に着く。碁盤の目状の住宅地は同潤会が分譲した、かつての十条普通住宅街である。

同潤会といえば、原宿や代官山にあったRC造のアパートを思い浮かべる人が多いと思う。同潤会は、関東大震災後に復興事業の一環として、住宅の不燃化と高層化に取り組んだ財団法人だ。しかし、国が戦争体制に入ってからは、建設費の高かったRC造の集合住宅供給から、木造分譲住宅の供給へとシフトしていった。かつて多くの軍事施設があった赤羽では、軍需産業に従事する労働者向けの分譲が行われたが、十条住宅地もその一つだった。分譲当時の木造住宅は残っていないが、整然とした町割りはそのままなので、当時の面影を偲ぶことができる。

同じ同潤会が、十条普通住宅街の高台と稲付谷を挟んで対岸に広がる台地面に分譲したのが、西が丘の住宅地(旧赤羽分譲住宅地)だ。碁盤の目状の街路と広い区画、そして分譲時に植えられた桜の木が町の上品さと風格を醸し出している。昔ながらの和菓子屋さんや畳屋さんが今でも営業中なのがうれしい。赤羽住宅地の歴史性とバリエーションの豊富さには感嘆せずにはいられない。

以前撮影した西が丘の住宅地。桜の古木が町の風格を醸し出す

そしてその住宅地の北側を縁取っているのが、スリバチ状の谷間を公園化した赤羽自然観察公園だ。園内には、江戸時代の民家・旧松澤家住宅が移築されていて、当時の農家の暮らしを体験できる。

地形マニアとして何よりもおススメなのが、古民家の裏にある湧水が流れる小川だ。谷頭(こくとう)から湧き出た水が木立を抜け清流となって園内を流れている。先日まで続いた秋の長雨の影響か、流れる水の量が以前より格段に多い気がする。雨がたっぷりと浸透すれば自然湧水が豊富になる。そんな土地のポテンシャルを改めて実感する。この川の下流部こそが、最初に立ち寄った弁天池のある谷筋なのだ。随分と歩き回ったが、あまり進んではいない。

計画的な町と自然発生的な町が並列する、奥深い場所

谷戸*5(やと)風情たっぷりの赤羽自然観察公園を後に、ふたたび台地へと上る。振り返ると木立の隙間から、陽に照らされた谷戸と清らかな水の流れが輝いて見えた。

台地の上で待っているのは赤羽台団地。ところで、下記の地図画像に広大な団地をゆらゆらと横切り、彼方へと続く一筋の線が描かれていることに気付くだろうか。ゴーストのようなこのラインは、台地の上に造られた陸軍兵器支廠へと物資を運ぶために敷設された、軍専用の鉄道だ。

今昔マップタイル配信サービス」の旧版地図を元に、カシミール3Dで作成した1900年ごろの赤羽の様子。赤い線が廃線跡*6

現在は赤羽緑道公園として整備され、かつての線路に沿って歩くことができる。軍都赤羽の記憶を伝える遺構とも呼べそうだ。線路が敷かれた地は、八幡谷と呼ばれる細長く屈曲した谷間。近くにある赤羽八幡神社から付けられた名だ。八幡谷を挟んで赤羽台団地の対岸にあるのが桐ヶ丘団地で、こちらも旧陸軍の兵営地に造られたマンモス団地だ。

廃線跡を整備した赤羽緑道公園

廃線跡の緑道から逸れ、久しぶりに赤羽台団地へ赴くと、高層アパートへと建て替えが進んでいた。白くてピカピカなアパートが青空に映えていた。

赤羽台団地を背に駅へと歩きはじめたら、台地の先端にたどり着いた。眼下に広大な谷間が広がり、谷あいの集落のように密集した住宅街が夕陽に照らされていた。台地の上の団地とは、異なるタイプの町が隣り合わせに共存している。計画的な町と自然発生的な町が並列している。それが赤羽の町の特徴であり奥深さなんだと思う。

赤羽台団地のヘリから眺める谷間の絶景

赤羽は地形マニアの聖地だ

明かりが灯りはじめた夕暮れ時の住宅街を眺めていたら、会社の同僚から赤羽駅に着いたとの連絡が入った。坂を下り、赤羽駅で同僚と落ち合った。

赤羽駅の東口を出ると通りに人があふれ、まるで縁日のようだった。先ほどまで歩いていた台地の上の閑静な住宅地や整然とした大規模団地とは対照的だ。通りにまで炭火焼きの煙と匂いが漂い、赤ちょうちんのぶら下がる狭い路地に人が行き交う。

日のあるうちからにぎわう赤羽の歓楽街

立ち飲みでにぎわう一角を過ぎ、老舗感たっぷりの居酒屋ののれんをくぐってみた。店はすでに多くの客でにぎわっていた。キンキンに冷えたビールがテーブルに届く。他のみんなには悪いが、歩き回った後のビールは格別である。

「赤羽の東口って、こんな感じでいい飲み屋さんが多いけど、西口の先は意外にも閑静な住宅地なんだ。知人が西が丘に住んでいて、訪ねたときにそのギャップに驚いた記憶があるよ」

チームを組んだ同僚は赤羽の町の奥深さを知っているようだ。彼は続けた。

「線路を隔てて町の雰囲気が一変することって、よくあるだろ」

正確にいうと赤羽の場合、鉄道ではなく崖が町の雰囲気の違いをつくり出している。でも訂正するのは止めておいた。

「赤羽って、まさに都市の縮図なのかもしれないな」

建築をかじっている同僚は都市へのまなざしも強い。

タイプの違う町が並列し、共存する町。土地利用の違いが育んだ町の個性、そして地形が紡いだ町の変遷。赤羽は地形マニアにとっても聖地なのだ。

同僚は続けた。

「選択肢があるのは豊かさの証かもね。そうそう選択肢といえば、プレゼンの後に施主の印象を聞いてみたけど、リノベーションの提案は他社にはなかったみたいだよ。競合他社は建て替えが前提だと思っていたようで、歴史や記憶の継承をメインテーマに掲げた提案は確かに印象に残ったみたいだ。自分たちの選択肢は間違っていなかったのかもね」

リスクはあったがクライアントの心に響く部分があったのかもしれない。

「みんなで議論した甲斐があったね。すべてを新しいものに入れ替える手法に疑問を抱く人が増えたのかも。建物や町にも思い出は必要だしね。人と同じように」

うれしさのあまりそう言ってから、ポエムみたいだなと思った。でも同僚はツッコミも入れずに返してくれた。

「変わるものと変わらぬもの、時代に応じて変わるべきものと、変わっては欲しくないものもあるよね。その見極めが大切になる。選択肢が多い自分たちにとっては特に」

そんな建築や都市にまつわる熱い議論を交わしていたら、オーダーしたハムカツがテーブルに運ばれてきた。そのハムの厚みに一同驚愕した。しかもハムは高級なやつだ。

運ばれてきたハムカツのハムが厚い

「こんなにも厚いハムは見たことがない!そもそもハムカツはトンカツの代用なんだから、チープ感が大切なんだよ」

同僚が建築論の延長で熱弁を振るいはじめた。たしかに自分が子どものころ、学校帰りに寄り道をして肉屋さんで買ったハムカツのハムは薄っぺらかった。でも塩分多めの味がたまらなかった。故郷のあの肉屋さんは今でも健在なのだろうか? 今日立ち寄った和菓子屋さんのように、個人にとってはちっぽけな思い出かもしれないけど、町にとってはかけがえのない「記憶」なのかもしれない。

「揚げたてのハムカツってサイコーだよね!」

同僚の言葉で我に返った。

「ハムカツの存在は不変でも、ハムは時代によって変わるのかもね」

「じゃあハムカツの進化を、赤羽の町で確かめてみよう!」

先ほどまでの建築談議が随分と庶民的な話題に転化してしまったな。まあいいか。オヤジの飲み会なんてこんなもんだ。自分たちは次の店でも「ハムカツを頼むこと」を縛りにして、まだ見ぬ分厚いハムを求め、今夜も熱い夜の赤羽へと繰り出していった。


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著者:皆川典久(東京スリバチ学会 会長)

皆川典久

上州の田舎町から憧れの東京に就職で上京し、「東京人」にバカにされないようにと歩き回っていたら、都心には谷間や窪地が多いことに気付く。自分にとっては不思議に思えた谷間や窪地をその第一印象から「スリバチ」と勝手に名付け、東京スリバチ学会を設立したのが2003年。以来、地形好きな変人たちを誘ってフィールドワークと記録を続けている。
2012年に『凹凸を楽しむ東京「スリバチ」地形散歩』(洋泉社)を上梓。自分と同類の地形マニアが意外にも多いことに勇気づけられ現在に至る。2017年12月には、共著『凹凸を楽しむ 東京「スリバチ」地形散歩 多摩武蔵野編』(洋泉社)を発売。合言葉は「下を向いて歩こう」。

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編集:はてな編集部

*1:この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図(タイル)を使用した。(承認番号 平29情使、第900号)

*2:水路を地下に設けたり、水路の上部を覆ったりすること

*3:廠は工場のこと

*4:この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万分1正式図を使用した。(承認番号 平29情使、第900号)

*5:谷あいの低地のこと

*6:この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万分1正式図を使用した。(承認番号 平29情使、第900号)