書いた人:伊藤亜和
文筆家。1996年横浜市生まれ。学習院大学 文学部 フランス語圏文化学科卒業。 noteに投稿したエッセイ「パパと私」がX(旧Twitter)を中心に大きな話題となる。2024年6月、初の著書『存在の耐えられない愛おしさ』を上梓した。

横浜の真ん中に現れる、レトロなエリア・本牧で育った私

生まれ育った街について書くにあたり、スマホに入っている写真のデータをいちばん最初から見返してみた。地元の写真が全然ない。このヒビだらけでボロボロのiPhoneは、購入してからもう3年は経っただろうか。その前のiPhoneから引き継いだ写真もチラホラと残ってはいるが、移行作業を中途半端に終わらせてしまったせいで、零れ落ちて失われてしまった写真もたくさんある。やはり、写真は紙に印刷して残しておかなければと毎回痛感するのだが、結局実行には移せず、今に至っている。
私が生まれたのは、横浜市中区の本牧という場所である。山下公園の前にある大通りを、海沿いにひたすら真っ直ぐ進むと行きつくエリアなのだが、ここは横浜のど真ん中にあるというのになぜか駅がない。電車が通らないので、本牧に行くにはバスを使わなければならないのだが、そのおかげで周囲の観光地に比べて人の出入りがゆったりとしており、雰囲気もレトロで独特なところがある。
昔懐かしい商店街と、米軍基地によってもたらされたアメリカ文化、そして、ふ頭に積み上げられた色とりどりのコンテナの山。道は広く、歩いている人もそれほどいないが、聞き馴染みのないファミリーレストランが、一定の距離を置いてボン、ボンと大きく建てられている。幼い私にとって、この街はまるで、大きな赤ん坊が無邪気に作った積み木の街のように見えていた。上手く表現できないが、あるものにはどれも「必要だから建てた」という感じではなく「なんかかっこいいから建てた」というような大げさな佇まいがあった。
この街では昔から、カッコいいのがいちばん偉い。もちろん、私は本牧が最も栄えていた頃を知らない。夜な夜なディスコでハマチャチャが踊られていた頃も、マイカル本牧が一大レジャー施設だった頃にも私は生まれてはいないけれど、それでもこの街には粋な遊び場の名残と、そのプライドがあらゆる場所に隠れている。私は小学校入学と同時に本牧を離れてしまったが、内容より見た目から入る私の性格は本牧由来なのではないかと思ったりもする。
「横浜」を背負う桜木町エリア

多くの人にとって“横浜”とは、横浜駅のことではなく、桜木町周辺のことをいう。駅を出ると目の前にそびえ立っている横浜ランドマークタワーは、みなとみらい地区の頼もしいシンボルだ。駅前の広場からランドマークタワーまでは、訪れた人が自然とそう移動していくよう、動く歩道が設置されている。
桜木町はいつも風が強い。動く歩道に乗って、碇泊しているにっぽん丸を眺めながら、オシャレな港町の景色をゆったりと眺めるのが理想の楽しみ方なのだが、大概は暴風に襲われて、丁寧にセットした前髪が10秒とも持たず吹き飛ばされる。デート中はぜひ注意してほしい。
みなとみらいにはロープウェイがあり、いくつかのミュージアムがあり、温泉があり、遊園地まである。非日常にあふれた街であるが、実際に生活をするうえで利便性が高い街かと言われると微妙なところだ。
昔、付き合ったばかりの恋人に連れられて、横浜赤レンガ倉庫のあたりで夜景を眺めたことがあった。恋人は、ロマンチックな雰囲気を散々楽しんだ後、帰り際吐き捨てるように「こんなハリボテみてぇな街」と言った。私は派手に光り続ける観覧車を眺めながら「そうだね」と返事をした。それから今まで、ずっとモヤモヤしたものが心に留まっている。
たしかにこの街はハリボテである。海を埋め立ててつくった近代都市なのだから、当然昔ながらのお店も、懐かしい街並みもここにはない。それでも、私の青春は、ほぼこの街で形成されている。親からもらった2千円を握りしめて向かった横浜ワールドポーターズのゲームセンター、友達とお金を出し合ってポップコーンを買ったワールドポーターズの映画館、占い師に「晩婚だ」と言われ落ち込んだワールドポーターズの占いコーナー、ワールドポーターズのジェラート、ワールドポーターズの駄菓子屋、ワールドポーターズのヴィレッジヴァンガード……ワールドポーターズでしか遊んでないじゃないか。とにかく、私の思い出は、みなとみらいなしでは語れないのだ。
すべてがアミューズメントとして作られたここには“地に足のついた生活”を感じられるようなものはどこにもない。しかしだからこそ、この街は私たちの心の中の、生活から距離のある余白の部分を育ててくれたように思う。
すぐ近くにあったコンテンポラリーアートの存在

「この街は変だ」と最初に思ったのは、小学三年生の頃だ。私は、市が運営している合唱団に所属していた。いつもは山下公園の決まった会場で練習会があるのだが、改装でしばらくその場所が使えなくなり、私たちは別の練習場へ移動することになった。
新しい練習場は不思議な場所だった。大きなビルの横にひっそりとある建物。中にはなにもなく、なにに使っている場所なのかもよくわからなかったが、その一角にある練習室で、私たちは平和に歌の練習をした。
数週間が経ったある日、休憩時間になって、私たちは海を眺めながらお昼を食べるべく、持ってきたお弁当を手に、練習室のドアを開けた。しかし、部屋の外に出た私たちの目の前には、信じがたい光景が広がっていたのだ。女の人、全身タイツを着た女性二人が、広い空間にまんべんなく敷き詰められたバターの上に寝転んでいるではないか。
正確にはバターだったのかは分からない。マーガリンかもしれないし、石鹸かもしれない。薄い黄色の滑らかな床が、空間を飲み込んでいた。女性たちは目を閉じたまま少しも動かず、その姿はなにか、重要な役割に徹しているように見えた。バターまみれで動かない女性の周りを、鑑賞者たちが興味深そうに取り囲んでいる。
そう、この建物は、コンテンポラリーアートを展示するための施設だったのだ。大人になり、そういったアートを進んで楽しむようになった今なら、それほどどうということもないのだが、ある日突然新しい世界の扉を開けてしまった小学三年生の衝撃は、それはそれは相当なものだったと記憶している。
その後もその施設では定期的に展示が入れ替わり、私たちはそのたびに消化しきれない感情に押し流され、「生きていくうえで必要ない」世界の一端に不可抗力で晒されたのであった。なにがあるのか見たい、だけど、見てはいけない、なにか悪いことをしているような背徳感。
まだ、大人は正しくて意味のあることしかしないのだ、と思っていた幼い私たちは、アートというものに大いに戸惑った。大人が理屈に合わないことを一生懸命やっているこの状況はなんだ。一体どう受け止めればよいのだろう。この街はなにかがおかしい。
2009年、横浜は開港150周年を迎えた。それを記念して、みなとみらいでは「開国博Y150」という博覧会が開催された。開港を記念して、いろんな最先端技術や珍しいものを見ることができるらしい。見に行こうか検討するまでもなく、横浜市の小学生は校外学習の一環としてもれなく見ることができた。
博覧会の目玉として宣伝されていた巨大なクモのロボットをみんなで見たが、なんだか思っていたのと違うような感じがした。他のみんなもそう思ったらしく、私たちは自分たちがなにを不満に思っているのかをよく考えた。私たちはたぶん、クモの中心部がしっかりと車で支えられていることに、がっかりしてしまったのだろうと思う。鉄骨でできたクモの形だけの脚が、地面に触れるたびカシャンカシャンと音を立てていた。

クイーンズスクエアの中には、地下鉄へ下るための長いエスカレーターに沿って、フリードリヒ・フォン・シラーの言葉が書かれた巨大なモニュメントが立ちはだかる。石でできた巨大な言葉の羅列にはなかなかの迫力がある。子どもの頃から何度も読んでみようと試みているのだが、結局いつも友達とのおしゃべりに夢中になり素通りしてしまう。
大学生の頃には、夜になってライトアップされた旧第一銀行横浜支店跡地にある建物の上で、ドラァグクイーンがパフォーマンスをしていた。通りかかった人々が、日常の延長線上のようにそれを眺めていたのが印象的だった。
開かれている場に、強く主張をしてくるアートがある
この街には、果敢な芸術がある。芸術を支援しているという“ポーズ”なんかではなく、果敢に試みて、表現を投げつけてくる姿勢を、私は街のいたるところに感じながら生きている。最近、表現の世界では、誰かに「不快だ」と言われてしまえばすぐにひっこめられてしまうようなものも多い。しかし、横浜のアートはそんなのお構いなしに私たちに語りかける。
横浜のアートはみんなに楽しんでほしいというような、誰にでも親しめる味をしていない。生活以外の余白でありながら、容赦なく生活に食い込んでくる、目の離せない力強い主張ばかりだ。
私はこの街の表現に何度も驚かされた。時には目を覆いたくなるようなものもあった。それでも私は、それに触れることができて心から良かったと思う。私はこの街で、常に誰かの意思を受け取り、立ち止まって考えたり、とくに気にも留めず通り過ぎたりしながら生きている。
わかっているのは、人はみなそれぞれ、違うことを考えながら生きているということ。誰にもそれを止める権利はないし、すべてを受け止める必要もないということだ。決してハリボテなんかじゃない。この街は、私たちが考える生き物であることを思い出させ続けてくれる難解さがあるのだ。
「疲れたら引き返してもかまわない」大切なことを教えてくれる街

今、横浜は3年に一度のトリエンナーレの時期を迎えている。横浜美術館の展示は途轍もない情報量で、すべてをじっくりと見て回るつもりでいた私の腰は早々に悲鳴を上げた。休憩しながら気に入ったものだけをじっくりと見て、やがてお腹が空いて美術館を出た。
重いテーマの作品が多く、なにか言わなければならないような気にもなったが、人に言えるような高尚な感想は、とくに浮かんではこなかった。心惹かれるものを見つけたら、誰に強いられるでもなく立ち止まって考える。疲れたら引き返してもかまわないのだ。アートはそれでいい。人生も、世界も、きっとそれでいいはずである。

編集:小沢あや(ピース株式会社)
