「多様性カオス」のある街、新大久保に僕が住んでいる理由

著: 室橋裕和

ここは「コリアンタウン」ではない

「すっかりコロナの前に戻ったなあ……」

新大久保のにぎわいの中で、改めて実感する。街は若い女性でいっぱいだ。大久保通り沿いに並ぶ韓国のレストランやコスメやK-POPアイドルグッズのショップを目指す人たちで、歩道は混みあう。ところどころ行列している店も見る。僕がときどきキムチや肉を買いに行くスーパー「韓国広場」も、かなりの混雑だ。

JRの駅からガード下をくぐった韓流エリアには韓国のレストランや食材店、コスメなどのショップがひしめく
JRの駅からガード下をくぐった韓流エリアには韓国のレストランや食材店、コスメなどのショップがひしめく

近頃は、流行を楽しむだけでなく、この街でなにかを得たいと考えてやってくる女性も増えているのだと聞いた。例えば、韓国語を勉強するために韓国のレストランでアルバイトしたり、K-POPのダンス教室に通ったり、韓国料理を習ったり。ときどき、カフェなどを使って街の姿やそこに生きる人々を切り取った写真展が開かれたりもする。表現したい、発信したい、という若い人たちが集まってくるようにもなってきた。

そんな変化を感じながら、僕は新大久保に住んでいる。
そろそろ6年目になる。韓流ブームの盛り上がりも、コロナ禍の初期に緊急事態宣言が出てゴーストタウンのようになってしまったときも、ずっとこの街を歩いてきたが、住むほどに感じるのは韓流だけにとどまらない新大久保の「多様性」だ。

ここは決して「コリアンタウン」ではないのである。

こちらは「イスラム横丁」と呼ばれる一角。南アジア系、中東系を中心にさまざまな人種・民族・宗教の人たちが行き交う
こちらは「イスラム横丁」と呼ばれる一角。南アジア系、中東系を中心にさまざまな人種・民族・宗教の人たちが行き交う

新大久保の駅を出て左方向に広がる、街の西エリアに歩いてみると、そこに韓国の匂いはあまりない。スパイスの香り漂うハラル食材店が並び、ベトナム人やインドネシア人の留学生が行き来し、インド系のおじさんが軽食スタンドでチャイを飲んでいたりする。

日本の大学進学を目指す中国人向けの予備校も多いし、ここ1年ほどは本場中国の味を伝える「ガチ中華」の進出も目立つ。ネパール料理のレストランに入ってみれば、新大久保で編集・発行されているネパール語の新聞も置かれている。僕が毎日のように行く24時間営業の八百屋では、日本人とベトナム人のスタッフが多国籍なお客を相手に今日も忙しそうだ。

この街で生きる、おおぜいの外国人がいるのだ。ここはいまや、日本屈指の「インターナショナルタウン」となりつつある。

ネパール、バングラデシュ、インド、ベトナム、中国などアジア系の食材店が20軒以上もある
ネパール、バングラデシュ、インド、ベトナム、中国などアジア系の食材店が20軒以上もある

駅の東、韓流エリアのほうは「観光」に来た日本人女性たちが多いけれど、西側の主役は「生活者」である外国人だ。彼らの暮らしに必要な食材店や食堂が密集している様子は、東南アジアか南アジアの下町のようだ。

そのごちゃごちゃさとざわめきの中にいると、日本を忘れる。旅に出ているような気分になってくる。雑多な人々が発するエネルギーと、カオスさがなんとも面白くて、僕はこの街に住み続けているのだ。

自分自身も「外国人」だった経験

そもそも、どうして新大久保に引っ越してきたのか。

よく聞かれる質問だけど、ひと言で表すならやっぱり、アジアの空気が好きだからだ。僕は学生の頃から、リュックを背負ってアジアをうろうろ旅してきた。その活気やおおらかさに引かれ、人との距離の近さ、親しみやすさに居心地の良さを感じ、アジアの魅力をどうにか伝えたいとライターになった。

それからは旅をしながら原稿を書き続けてきたのだが、とりわけタイに通い詰めた。アジアの地理的な要衝だから航空券が安く、どの国とも外交関係のあるタイは周辺国のビザも手配しやすい。それに物価もまだまだ安かったことから、世界中のバックパッカーが集まってくる拠点になっていたのだ。

足しげく日本とタイを往復し、首都バンコクにある安宿街に寝泊まりして、タイを中心としたアジアの旅行記事を書くうちに、だんだんと現地在住の日本人とも知り合うようになる。タイに進出してきた日系企業の駐在員もいたが、現地で仕事を見つけた人も多かった。中には、現地日本人社会に向けて発行されている日本語の新聞やニュースサイトやフリーペーパーの編集部で働いている人もいた。

それなら、僕も働けないだろうか。

こうして僕は思いきってタイに移り住み、現地採用として日本語情報誌の職を得て、10年ほど暮らした。あっという間に年月が経ってしまったのは、とにかく住みやすかったからだ。タイ人のつくりだす柔らかな空気は僕に合っていた。

僕はこのバンコクで10年間暮らした

それにバンコクは日本人だけでなくさまざまな外国人が暮らす、なかなかの国際都市だった。華僑や印僑は一大勢力だし、欧米人や韓国人も多い。飲食や建築といった現場では、出稼ぎのミャンマー人やカンボジア人が働く。外国人の存在が珍しくもない社会で、だから僕も特別視されることも差別されることもなく、ごく普通の隣人としていい意味で放っておかれた。気楽だった。

そうして10年がたち、僕は日本に帰国した。もう一度、書き手として故郷で勝負しようと思ったのだ。久々の日本はなにかと新鮮だったが、とりわけ目につくのは外国人労働者の姿だった。居酒屋でもコンビニでも、どこでも彼らの姿を見る。日本の社会もずいぶん変わったんだな……と思い、それから外国人の生活が気になった。

この国で外国人はどう生きているのだろうか。僕がタイに住んでいたときのような居心地の良さを感じているのだろうか。タイには日本食はなんでもあったが、彼らは日本でなにを食べているのだろう。仕事は、子どもの学校は、ビザは……。

自分がタイで「外国人」だったときのことを思い出しつつ、僕は日本に住む外国人のことを取材し始めた。

すると、よく新大久保の話を聞くのだ。

高田馬場にはミャンマー人が集住しているが、あるミャンマー料理店のシェフは「食材は新大久保で仕入れてるよ!」と話す。西葛西に多いインド人からも「ときどき新大久保に遊びに行くよ」と聞いた。あるネパール人は「新大久保はネパール人でいっぱい。レストランもたくさんあって便利だけど、どこで誰が見てるか分からないね」と肩をすくめた。「新大久保の日本語学校に通ってた」と言う中国人もいた。

いまや首都圏各所に外国人コミュニティがあるけれど、新大久保はそれらのさながら中心地のような場所でもあると思った。だから足を運ぶ機会も多くなる。ごみごみしていてやかましいけれど、ここにはアジアの空気が流れていた。

その空気に包まれたくて、僕は新大久保に引っ越すことを決めた。

「よそもの」がつくってきた街の歴史

住んでみればいろいろなことが見えてくるものだ。新大久保が単なるコリアンタウンではなく、多民族の街として発展してきていることに、まずは気が付く。駅を出て東が韓流の街、西がアジア混在の街と、ざっくり違いがあるのだと、歩いているうちに分かってきた。

駅を出てJRのガードをくぐれば韓流エリア、手前はアジア混在エリア
駅を出てJRのガードをくぐれば韓流エリア、手前はアジア混在エリア

また大久保通りから南北に、まっすぐ延びる細い路地がいくつも並んでいるのも気になった。東西に幾筋もの狭い道が等間隔に走っている、特徴的な構造なのだ。調べてみればこれは、江戸時代の武家屋敷の構造の名残だった。徳川家康が江戸に入ったときに同道した鉄砲部隊「鉄砲同心百人」の居住地だったのだ。

だからこのあたり一帯はいまでも「百人町」という地名であること、また当時からさまざまな人が流れこんでくる土地だから「よそもの」に寛容なのだということも知った。その路地には令和のいま、小さなアパートが建て込み、多くの外国人が住む。

このような細い路地が新大久保にはいくつもある

そんなことを聞き歩き、調べながら、僕は新大久保で毎日を過ごした。

街で目立つのは留学生の姿だ。日本語学校や、外国人も受け入れる専門学校が実にたくさんあるのだ。彼らの授業が終わる夕方はにぎわう。

なんでも新大久保には、昭和初期から留学生がいたらしい。1935年(昭和10年)、新大久保の北西にあたる北新宿に「国際学友会」という施設がつくられ、留学生の受け入れを始めたことがきっかけだったという。それからこの街はいまに至るまで留学生が闊歩(かっぽ)している。

戦時中は街の北部に陸軍の拠点があったことで空爆を受けて焼け野原となり、そこに韓国・朝鮮や台湾の人々が住み着いたといわれる。陸軍の施設があった場所は現在、早稲田大学理工学部となっている。キャンパスを眺め、散歩しながら往時を思う。

またバブル期には隣接する歌舞伎町で働くアジア系、中国系の人々の「ベッドタウン」ともなった。彼らの生活に必要な食材店や国際電話の店などができ、エスニックタウンの原型が形作られていく。軍事政権に弾圧されて故郷を追われたミャンマー人が増えたり、イスラム系の商人がハラルショップを開き始めたりしたのもこの時期だ。

リミッタンス(海外送金店)も新大久保には欠かせないインフラのひとつ
リミッタンス(海外送金店)も新大久保には欠かせないインフラのひとつ

そして2002FIFAワールドカップと、翌2003年に放映された韓国ドラマ「冬のソナタ」の大ヒットで新大久保は大きく変わる。この街の中の「韓国」だけが大きくクローズアップされるようになったのだ。新大久保では韓国の文化が楽しめるようだと、にわかに「観光客」が増えた。

これにビジネスチャンスを感じた人々が、次々に韓流の店をオープンさせ、街は突然にコリアンタウンと化した。韓国からも資本が流入してくる。現在まで第4次といわれる韓流ブームが後押しする。

ここにもともと住んでいた在日韓国人ではなく、新しく進出してきた韓国人が、日本人観光客の需要を満たすために、わずか20年で急ごしらえした街……それが新大久保のコリアンタウンだ。「テーマパーク」といえるかもしれない。

だから歩いていても、韓国人たちの暮らしの息吹は感じられない。そこがちょっと物足りない。だから僕は「駅の西」、アジア密集の、生々しい生活感に満ちたエリアのほうが好きなのだ。

街角で100円のチャイが売られている新大久保がやはり僕は大好き

こちらに外国人が増えたのは2010年以降だ。日本が外国人労働者受け入れに舵を切ったことで、もとから多国籍タウンだった新大久保への流入がさらに進んだ。

こうして複雑に多様化していく街を住みながら取材し、僕は「ルポ新大久保」(辰巳出版)という本を書いた。その過程で知り合ったさまざまな人たちと、街でよく会う。ミャンマー人の食堂のおやじさん、ヒンドゥー教の寺院を運営するバングラデシュ人、ネパール語新聞の編集長、中国人のカメラマン……もちろん日本人もたくさんいる。ここはそんな人々が気さくに声をかけてくる街でもあった。昔ながらの近所づきあいを、僕は新大久保で、外国人たちとやり合っていることに気が付いた。

すると、なんだか離れがたくなってくる。引っ越してきた当初は「本を一冊書いたら出ていこう」と思っていたのだが、気が付けば住み着いて5年を超えた。取材を通してできた「人との縁」によって、この街につなぎとめられているのだろうと思う。

加えて言うと、なかなか便利なエリアでもある。わが家から徒歩10分圏内に、新大久保駅(山手線)、大久保駅(中央・総武線)、西早稲田駅(副都心線)、東新宿駅(大江戸線)とあるのは実にありがたい。新宿駅からも歩いて15分程度なので、新宿での飲み会の帰りは歌舞伎町をうろうろと新大久保まで流すのが楽しい。

役場の出張所や、大久保図書館(ここも多言語の書籍がそろっている)、新宿区立図書館といった公共施設もあるし、都内でも有数のグリーンスポット・戸山公園では四季折々の木々や花々を楽しめる。「外国人の多い街」というと「日本語が通じないのでは」なんて心配があるかもしれないが、店などではだいたい日本語堪能な人がいるし、そうでなければ日本語の分かる人を呼んでくれる。いずれにせよ「コミュニケーションが取れずに困った」という経験は住んでみてほとんどない。

問題も、そして可能性も多い街

住んでいて感じるのは、多様性の面白さばかりではない。

いろいろな言語で「ゴミを捨てるな」と書かれた看板や貼り紙が、あちこちにある。外国人か日本人かは分からないが、マナーに欠ける人がけっこういるのは事実だと思う。

それに韓流エリアのほうでは、食べ歩きで出たゴミを人々がそこらに捨てていく。最近は韓国系のクラブや終夜営業の居酒屋もあって、そこで飲んだ人が道端で盛大に吐いていたり、酔いつぶれて倒れているのは日常的な光景となった。

コロナ禍を脱しつつあるいま、人出が戻ったのはいいが、週末になると歩道は身動きできないほどの混雑になることもある。オーバーツーリズムの様相も呈している。

コロナ前のような混雑が戻ってきて、週末は歩道がごった返す

そしてなんといっても新宿区、新宿駅からも歩ける範囲内なので、家賃は高めだ。単身向けの狭い物件が中心となっている。だから外国人は仲間同士でルームシェアしていることも多いそうだ。それに新大久保・大久保エリアでも、やや家賃の安い北新宿方面に住む外国人も増えている。

問題はいろいろとあるのだが、それだけ人が集まる街だということは確かだろう。新大久保に住むあるネパール人は「ここはCulture Exchangeの街だよね」と言った。文化のミックスを外国人も楽しんでいる。冒頭に挙げたように、新大久保を舞台になにかを発信したいと思う若い日本人がやってくるようにもなってきた。

それに、国を超えてともに働く動きも広がっている。

日系のスーパーマーケットではネパール人スタッフが新人らしき中国人スタッフに日本語で指導している姿を見た。ネパール人と日本人が共同で経営している八百屋もある。バングラデシュ人経営の食材店の軒先を間借りして、ベトナム人がバインミーの店を出している。内装工事に走り回るパキスタン人の業者がいる。誰もが日本語を共通語として、互いの生活のために働いているのだ。お互いの領分を守りつつ、協力できるところは協力し、この街で生きていく。共生というのはそんな姿をいうのかもしれない。

今後、新大久保はさらにカオスさが増していくだろう。その雑多さと多様さに引かれ、あるいはビジネスの可能性を感じる人々が集まってきているからだ。それゆえのトラブルはこれからも起き続けるだろうけれど、同時に新しいなにかが生まれる可能性をこの街は秘めている。その変化のスピードと、雑多な人々が生み出すエネルギーを体感したくて、僕はこの街に住み続けているのだ。

筆者:室橋裕和

室橋裕和さん

海外旅行ざんまいの学生時代を経てフリーライターに。数多くの旅行関連書籍を手がける。その後、週刊誌記者となるも激務に疲れてタイに移住。10年のバンコク暮らしから帰国後は、おもにアジアをテーマとする記者・編集者として活動。日本各地の外国人コミュニティを取材し、2019年『日本の異国(晶文社)』を上梓した。その後も『ルポ新大久保 移民最前線都市を歩く(辰巳出版)』、『ルポ コロナ禍の移民たち(明石書店)』を発表するなど、精力的に取材活動を行う。
Twitter: @muro_asia

編集:はてな編集部