きよらかな水、摩訶不思議薬膳中華にアドベンチャー――松本で暮らした1年半

著者: 森かおる 

2018年春、10年暮らした東京から長野県松本市に引越した。勤めていた出版社をわりと勢いで辞め、その後に入った会社も相性が良くなく、フリーランスを名乗り始めていつの間にか2年ほど経っていた。仕事は楽しいものの、どこか浮ついて、地に足のつかないまま、東京の忙しさに乗っかって日々を過ごしていた。

そんなとき、実家のある長野県に戻ることを決めた。大学進学時に京都で一人暮らしを始め、就職先は東京。しかも出版業界だったので、哀しいかな出版社がほぼゼロに等しい長野県で暮らそうと考えたことは働き始めてから一度もなかったのだけど、その年の初めに父が亡くなり、1人になってしまった母がさすがに心配だったのだ。

私は新しもの好きで、美術館やギャラリーに行くのも好きだし、山手線から見えるごみごみした駅前にすら愛着があり、いつか磯野家のような縁側のある一軒家を大好きな古本の街・神保町に買って骨を埋めたいと願うくらい東京という街が肌に合っていたと思うのだけど、離れることは意外と苦にならなかった。もう会社員じゃないし、特急あずさに乗れば2時間半で新宿に着くし。

きよらかな井戸水が、日本酒になり、ワインになり、ビールになる。

借りた部屋は、JR松本駅から徒歩1時間(!)、バスだと最寄りのバス停まで約20分(ただし1時間に1、2本しか走ってない)という、田んぼの中の3階建てアパート。風通しと日当たり、広さを考慮して検索しまくった結果、独立洗面台と一人暮らしには広すぎるベランダ、駐車場付きの広々とした最上階角部屋の2DKを東京の1DKの半分程度の家賃で借りられた。南西向きで西日がきついけど、大きく開いた窓から北アルプスが一望でき、朝の眺めは本当にすばらしかった(気温が上がる日中よりも早朝のほうがクリアに見えるのだ)。

その北アルプスの雪解け水のおかげで松本にはそこここに井戸が残っていて、市によって整備・開放されている。しかも、井戸の所在地によってまったく水質が違い味も違う。うちはここの井戸、と使う水を決めている喫茶店やカフェもあるらしい。

f:id:SUUMO:20200630144431j:plainf:id:SUUMO:20200630144402j:plain

伊織霊水という井戸。東京から遊びに来た友人の顔がすべてを物語る。しかし、こんなに水が豊富なのに水道代は東京の2倍近いという謎

長野県に日本酒の蔵元が多いのは、米どころであり、水どころでもあるから。小学生のころ、田んぼの間をはしる用水路の清水に手を突っ込んで遊んだっけ。夏でも勢いよく雪解け水が流れていて冷たかった。そりゃおいしいお酒もできるわけだ(個人的なおすすめは「大信州」と「大雪渓」)。日本酒、ワインにクラフトビール、最近ではりんご農家の4代目が仲間と始めたハードサイダーメーカーがあったりもする。

水がおいしいということは、野菜も米もお肉も、それに蕎麦や山菜も、大地から採れるものはすべておいしい。凝った料理は少ないかもしれないけど、新鮮な食材を使ったシンプルな焼きものやちょっとしたツマミとよく冷えた地酒があれば、十分幸せになれる。ああ、呑みたくなってきた(長野に住むには車が必須だけど、運転代行の会社がたくさんあるのでご安心を)。

冒険まで10分

雨が降り続いていたある梅雨の日の夕方、仕事先から帰宅しようと駐車場に向かって歩きながらふと近くの山を見ると、深い霧に包まれて、まるで雲の中にあるみたいだった。無性にその雲の中に入ってみたくなって、簡単に道を調べて山に向かった。

さびれた温泉街を通り抜け、ちょっと大きい裏山程度のその山を目指して進んでいくと、マイナスイオンが充満した気温の低いサウナのような薄暗い山道に突入。山頂に向かう一本道を、馬力のない軽自動車でぐいぐいアクセルを踏んで上っていく。

f:id:SUUMO:20200630144644j:plain

ふと空が見えて、平坦な道に出た。猫と、カフェのような古い一軒家が見える。看板は出ていないけどダメ元でそろっとドアを開けてみると、やはりカフェだった。梅雨だというのになぜか暖炉に火が入っている。聞くと、オーナーがコーヒー豆を焙煎するためとのこと。たしかに、部屋じゅう煙が満ちている。思った通り定休日だったのだけど、こんなところまで来てくれたのだし、ちょっと待ってくれたらコーヒーくらい淹れてあげる、というお言葉に甘えた。このあたりはロードレーサーが練習に集まるエリアらしい。本棚には『弱虫ペダル』が全巻並んでいた。

f:id:SUUMO:20200630144736j:plain

雲は晴れてしまったけど、冒険の果てに静寂を独り占め。美鈴湖(標高1000m)

一服して美鈴湖を眺めていると日が暮れてきたので、暗くなる前に山を下りることにした(尾根伝いに隣の山の上まで行きたかったのだけど、カフェのオーナーに結構本気で止められて思いとどまった)。片側は山、片側は崖というオーナーに教えられた薄暗い山道を突き進む。敷き詰められた濡れ落ち葉を踏み、動物注意の看板に怯え、やばくない?帰れるの?とブツブツ独り言を言いながら、ハンドルをきつく握りしめて下りていく。当然、電波も入らない。上りの倍も時間がかかっているように感じる。どのくらい下ったか分からない。突然、山道から舗装された道路に抜け出ると、そこはもう住んでいるアパートのすぐ近くだった。

f:id:SUUMO:20200630144832j:plain

別の日。家から5分でこの景色。昔の風景画家がなぜ雲を描いたか分かった気がした。名産品であるぶどう畑のど真ん中にて

f:id:SUUMO:20200630144913j:plain

車で1時間走ればこんな景色も。大町市にある木崎湖(標高764m)。真水で泳ぐ気持ちよさは海とは別物。ちなみに長野県は海なし県

心身ともにととのう、摩訶不思議な「チャイナスパイス食堂」

f:id:SUUMO:20200630145002j:plain

見切れている右側のドアが本物の入り口

松本の人におすすめのお店を聞くと、みな異口同音にここをおすすめしてくる。今となっては私もまた、真っ先にこのチャイナスパイス食堂(チャイスパ)をおすすめする。簡単に言えば薬膳中華なのだけど、初めて食べたときの衝撃は忘れられない。豚ガツと牛蒡炒め、枸杞(くこ)もやし、にらレバー炒め、麻辣豚トロ揚げ豆腐炒め……。どれも複雑で滋味深く、咀嚼しているうちにさまざまな風味が通り過ぎていく。そして唸るほどうまい(隣席のお客が30秒に1度「おいしい……」と言いながら食べていたこともある。本当だよ!)。

それに、薬膳効果なのか、おいしさがそうさせるのか分からないけれど、疲労回復効果が半端じゃない。私は当時、友人が運営するギャラリーを借りて週に一度新古書店を開いており、そこでコーヒーの焙煎に携わっている友人たちを招いて本とコーヒーのイベントをしたことがあった。慣れない本屋で初めてのイベントを終えたわれわれは話す力も残っていないほど疲労困憊の状態で、この店にたどり着くのがやっと。とりあえず瓶ビールを開けて待っていると、ひと皿ずつタイミングをはかって料理が出てくる。そのおいしいこと。食べているうちにどんどん体に力が湧いてくる。店を出るころにはすっかり元気になり、「次来るときは何食べる?」と相談し始める始末。

f:id:SUUMO:20200630145041j:plain

心身ともにととのいつつある疲れ切った友人たちと、疲れすぎて写り込んだ私の指

私はグルメじゃないし、友人と食卓を囲めば何だっておいしくなってしまう幸せな舌の持ち主なのだけど、チャイスパは一緒に行った友人全員もれなく昇天しているので間違いない。テープル4つにカウンターという狭いお店なのでこれ以上有名になってほしくないが、松本について書けと言われてここを外すのは自分に嘘をつくことになるので、正直に書いた。チャイスパがあるから松本に住む、という選択肢だってなくはないというくらい偉大なお店なのである。

一度はおいで

松本は今、変わりつつあるような気がしている。観光客のお目当ての松本城や民芸品、草間彌生作品などはもちろんすばらしいけれど、それらはすでに価値が認められた歴史。その一方で新しい風も吹いていて、地元の人だけでなくUターン、Iターンしてきた人が店や仕事を始めたり、20〜40代の若い世代がこの先のこの街をどうすればいいか、真剣に考え始めている。彼らに出会うと、また別のおもしろい人やものに数珠つなぎにつながっていく。きっと彼らがこの街を新しくつくっていくのだと思う。(詳しく書くと字数がとんでもないことになるので書かないけど、落ち着いたらぜひ一度行ってみてね!)

実はわたしは、仕事のためすでに松本を離れ、今は京都に住んでいる。引越しを悩んでいたとき、Uターンした理由だった母に「別に、東京から帰ってきてくれって言ってないよね?」と言われた。そのときはちょっとショックだったけど、この一言が背中を押してくれて、私はまたしてもあっさり引越した。話し好きな人だし、さみしくないわけはない。でも、私のためにあえてこう言ったんだと思う。そういう人なのだ。

松本で過ごした1年半は、気持ちのいい自然とおいしい食べもの、自分たちの街をつくっていこうとする同世代や若い世代と出会えてあっという間だった。今思えば、好きな仕事とはいえ脇目も振らず働き、物質にも情報にも溺れてきた10年間を一旦リセットして自分を見直す、ちょっとしたリハビリ期間だったのかもしれない。地元と、東京と、松本。帰る街がもうひとつ増えて、また先に進める気がする。

例のウイルスのせいでなかなか気軽に移動できない状況になってしまったけど、あわよくばまた松本に帰って自然にまみれたいし、変わりゆく街を見たいと思う。とても心地いい街だから。

で物件を探す
 

賃貸|マンション(新築マンション中古マンション)|新築一戸建て|中古一戸建て|土地

著者:森かおる 

弁当丸 

アートを中心にフリーランスで編集、校正、ライティングなどをしています。たまに書店主。縁あって三たび京都暮らし中。 Instagram

編集:ツドイ