住んだ時間、年月にかかわらず「帰りたい」と思える場所が「地元」なのではないか【東京都中央区日本橋小伝馬町】

著: 池田礼 

小伝馬町駅そばにある十思公園。江戸時代に伝馬町牢屋敷であった歴史から、公園内には処刑の合図となった「石町時の鐘」が残っている

「あなたたちは皆生まれた場所が違うの。あなたは北海道、お兄ちゃんは京都、1番上のお姉ちゃんは東京で」。小さいころに聞いた、年子の3人兄弟全員の出生地が違うという母の説明に、幼心に「へえ、私は京都がよかった」とかなんとか、適当なことを言ったのを覚えている。

幼いころはそれが普通だと思っていたけれど、歳を重ね人と会う機会が増えると、初対面で聞かれるようになった「地元はどこですか」の質問に口籠ってしまい、うまく答えられないことに気がついた。生まれたのは北海道だけど、すぐに父の実家がある香川に移ったし、小学校3年生の後半には神奈川県の新百合ヶ丘、中学に上がるころには東京に引越した。だから当時、この質問に慣れていなかったころは、兄弟間でよく「私たちの地元ってどこなんだろう」と話していた。

縁もゆかりもない東京都中央区・小伝馬町に越してきたのは中学校入学間近の、小学校を卒業したばかりのころ。隣駅の人形町で、母がカフェ・バーを開くことになったからだった。新居は小伝馬町にありながらも、道一本跨げば千代田区神田岩本町、という区の境に決まった。それまでの4年間は、小田急線に乗れば30分で東京に出られる新百合ヶ丘で暮らしていたものの、東京が慣れない土地であることに変わりはなかった。

小伝馬町は、千代田区中央区の狭間にあるオフィス街だ(住所は東京都中央区日本橋小伝馬町)。今ではマンションや飲食店が増えてきたが、当時、土日になると人とすれ違うのが珍しいほど閑散としていて、人形町と小伝馬町を結ぶ4車線一方通行の広い道路(人形町・水天宮通り)は、オフィスワーカーの出勤がない週末には、まるで歩行者天国のようになるのだった。人通りが少なくスケボーに乗りやすいのか、家にいるとよくスケボーの音が聞こえてきたのを覚えている。

新百合ヶ丘に住んでいたころは、「危ないから」という理由で、母に「1人で自転車に乗ってはいけない」と教えられてきた私も、そんな土地柄のおかげか、自転車移動が許されるようになった。メイド喫茶や電気街のある北の岩本町〜秋葉原、新旧入り交じる飲食店が軒を連ねる南の人形町〜水天宮、問屋街で有名な東の馬喰町〜浅草橋、百貨店が立ち並ぶ西の三越前〜日本橋まで、小伝馬町を起点に少し自転車を走らせれば、まったく異なる街並みが現れる。

多くの駅があり、路線が入り乱れているにもかかわらず、それぞれが交わらないエリアであるからこそ、自転車は確実にこの街での生活を豊かにしてくれたと思う。ただ、入れるお店も限られた年ごろである当時中学生の私にとって、小伝馬町がオフィス街であることは変わらず、「便利な街」、そして、「別名・子どものいない街」でしかなかった。

岩本町駅近くの歩道橋から。左端の道は浅草橋、真ん中の道は小伝馬町、右端の道は日本橋・三越前に続く。ちなみに、岩本町には山崎製パンの本社があり、この歩道橋から見える分だけでデイリーヤマザキが3つあった。ここをデイリーヤマザキの三角地帯と呼んでいた

私が勝手に名づけた「別名・子どものいない街」とはその名の通り、オフィス街である小伝馬町では、子どもを見かけることがゼロに近かったことに由来している。そもそも千代田区は都内でも人口が少なく、住んでいる人も少ない。公立の中学は3校だけで、私の通っていた公立中学は区外から越境してくる人も多かった。そのため、電車通学をしている人も多く、それぞれ通学路が異なっていた。

私はといえば、中学時代は小伝馬町駅で日比谷線に乗り、片道約30分の道のりで学校へ通っていたわけだが、同級生たちは一様にして通学路が異なり、同じ電車に乗っても途中で降りてしまうため、「下校時の寄り道禁止」の校則の下では、学校帰りに友達と寄り道することはなかった。

だから、大抵の放課後は人形町にある母の店に入り浸ったり、自転車で通りを駆け抜け水天宮前の本屋「BOOKS PISMO(現在は閉店)」や中央区立日本橋図書館に行ったりして、特に必要なものもないのに、人形町の古着・リサイクルショップ「たんぽぽハウス(現在は閉店)」や小伝馬町と人形町の間にある文具店「文具のディスカウントショップ FUKUYA(現在は閉店)」で品定めをしたりしていた。

中央区立日本橋小学校に隣接した日本橋図書館。本やCD、雑誌を借りに行った

また、小腹が空くと、三越前にある三越のデパ地下に母と遊びに行き、試食で食欲を満たしたりもした(残念ながら、コロナ以降は試食ブースを見かけることはなくなった)。

2020年に小伝馬町の裏路地にできたフードコート「COMMISSARY」。カフェ、ベーカリー、ピザ、タコス、クラフトビールなどのお店が入っている。「COMMISSARY」の横の道を抜けると、百貨店が立ち並ぶ三越前に行き着く

高校は北区の都立高校に通ったが、高校生になったからといって放課後の過ごし方が劇的に変わるわけでもない。当時は秋葉原からJR線で学校に通っていたため、放課後は秋葉原のタワーレコードや書泉ブックタワーに行くくらいで、あとは中学生時代とほとんど変わらなかった。秋葉原から通っている同級生もおらず、結局中高6年間、誰かと通学路を共にすることはなかった。

小伝馬町の大通りから。正面に秋葉原の「書泉ブックタワー」が見える

大学生になり、大学が渋谷近辺だったことも相まって行動範囲が広がった私は、刺激的な物事は大方東京の西側にあると思うようになった。これまで、洋服といえば姉や母のお下がりをもらうか、人形町の「たんぽぽハウス」で買うしか選択肢になかったし、“カフェ”といえば、昭和45年から続いてきた人形町の怪しげな雰囲気の喫茶店「ロン(現在は閉店)」でしかなかった。渋谷〜表参道エリアに通うようになり、ライブハウスや古着屋、お洒落なカフェを目の当たりにした私は、衝撃を受けたのだった。

白いガードで覆われたところが、人形町・喫茶店「ロン」跡地。古いビル、薄暗い店内、そして中学生ながらなぜかパフェに憧れを抱いていた私は、軒先に陳列されていた薄汚れたパフェの食品サンプルに興味を誘われ、母に頼んで連れて行ってもらったことを覚えている

東京にはこんなに若者がいて、こんなにお店があることを知ったことは、「子どものいない街」こと小伝馬町で過ごしてきた私にとって紛れもなく新鮮な体験で、カフェやスーパー、居酒屋、配信スタジオなど、いろいろなアルバイトも経験し、東京には「便利」以外の街があるんだと思った。大学に入ってからしばらくして学芸大学で1人暮らしを始めてからも、時折り母がやっていたお店に遊びにいくことはあったけれど、小伝馬町界隈に足を運ぶことは少なくなっていた。

中央区立図書館の向かいにあるシュークリームが有名なパティスリー「Sucre-rie」。いつも混んでいるから自分で並んで買うことはないけれど、誰かのお裾分けでもらうのが嬉しかった

ところで、「地元」という言葉を知ったのはいつだっただろうか。振り返ると、義務教育を終え、高校生になるころだったかと思う。学区を離れ、自ら選択し入学した学校で出会った同級生らと交わした会話の中で度々耳にするようになったその言葉に、「地元ってなに?」「どこを地元と呼ぶべきなんだろう」そんな風に思ったことを覚えている。

その疑問は、成人を迎えるころに一層強くなった。引越してきてまだ数年しか経っていなかった小伝馬町のことを「地元と呼べるはずがない」と思う反面、かといって、その前に住んでいた新百合ヶ丘も同じようなものだった。幼少期を過ごした香川県・高松市は長く住んだ土地だけれど、同じ市内で引越しもしたし、同じ時期にタイやネパールを行き来していたことから、友達は少なかった。生まれた北海道に至っては、空港と温泉、スキー場、おばあちゃんの家の往復ばかりで、知ってる人は誰一人いなかった。だから、成人式を終えると周囲が「地元」の友人たちと集まる様子を隅っこで見ながら、私は同級生らと大酒を飲むこともなく、とぼとぼと帰路についたのだった。

うっすらと「地元」へのコンプレックスを意識し始めたこのころ、思い切ってデジタル一眼レフカメラを買うことにした。それまでも暇さえあれば散歩をし、スマホやコンデジで写真は撮っていたけれど、「写真を撮ることが好きかもしれない」と思い始めたことをきっかけに、一眼レフを購入した。夢中になって写真を撮りながら、なぜ自分はこんなにも写真に執着しているのだろうかとふと思った。そのとき、自分がこれまで過ごしてきた土地の記憶は、すべて写真と共にあったことに気がついた。両親が、私が母のお腹にいるころから海外旅行に連れて行ってくれていたことは写真を見て知ったし、旅行先での写真に限らず、家には父が撮った無数の写真のネガとアルバムが保管されていた。

そして、カメラを買ってから大量に撮り溜めてきた行き場のない写真を「誰かに見てもらいたい」と思った私は、大学2年生の末に初めて写真展を開いた。展示をやることに関して右も左もわからなかったけれど、レンタルスペースを探し、DMをつくり、押上にあるビルの一室で3日間展示をした。交友関係が広くない自分の展示に、一体何人の人が見に来てくれるだろうと不安を抱く中、SNSで展示案内を見てくれた人や、会場近隣の人が見にきてくれた。予想外に嬉しかったのは、母の店に入り浸っていたときに顔を合わせた人たちが見にきてくれたことだった。

2017年12月15日-17日、押上にあるアトリエ329・501号室で開いた写真展

「地元がない」そう思ってきたけれど、この街の人たちが駆けつけてくれたことが、中学や高校、大学の同級生から聞いた「地元」という言葉の意味を知り、兄弟間で抱いた「私たちの地元ってどこなんだろう」という疑問を晴らしてくれた気がした。

それをきっかけに、小伝馬町に足を運ぶことが多くなった。特に目的もなく散歩したり、歩き疲れたら喫茶店や居酒屋に入ったりして時間を潰した。大通りを中心に街が成り立っているから、ふらっと歩くだけで知り合いに会ったりもする。「便利な場所」としか思っていなかった街に、歳を重ねたからこそ見える佇まいがあることを知った。

小伝馬町と岩本町の間にあるメキシカンレストラン「北出食堂」。タコスはもちろん、1番のお気に入りはポークタコライス

住んでいる人が口をそろえて言う「この界隈にはパン屋がない」に応えた「BEAVER BREAD」

当時は母に誘われても頑なに拒否していたけれど(絶賛反抗期だった)、今では大晦日には、小伝馬町駅近くにある十思公園に、除夜の鐘をつきに出かけるようにもなった。都内では珍しい鐘を鳴らすことができるこの小さな公園には、地元の消防団をはじめ、近隣の人々、そして見知った顔が集う。そして、公園内に焚かれる焚火の側で飛び交う年末の挨拶が、かつて自分がこの街の一員だったこと、そしてそれは今後も変わらないことを実感させてくれた。

また、小伝馬町駅裏では毎年10月に「べったら市」というお祭りが開催されている(コロナ以降は中止)。路地一帯に屋台が引かれ、人がにぎわうそこでも、人混みの中から名前を呼んでくれる人がいることが嬉しかった。約束をしなくても、そこに知っている「誰か」がいるという体験が、小伝馬町に「足を運ぶ」、というより「帰る」、という感覚をつくってくれた気がした。

この日も、小伝馬町にある「DALIA食堂」の前を通ると、知人に声を掛けられた。「べったら市」の季節になるとこの通り一体に屋台が引かれ、多くの人でにぎわう

中学校入学と同時に東京に越してきてしばらくは、いつまで経っても東京の人じゃないような気がしていたけれど、ちゃんと数えると、東京にきて10年以上経っていることに気がつく。そのうち、小伝馬町で過ごしたのは約8年間。隣の芝生は青く見えるとはよくいったものだが、引越しても時折訪れて、散歩したり、理由もなく住んでいた家を見に行ったりしていたことを思い返すと、この街は、「地元」と呼んでもいい場所だったんだと思った。

当時母と銭湯に行くと知り合いに会うことも多かった。思春期ながら少し恥ずかしかったことを覚えている

今では、「地元はどこですか」の質問に対して、一つの地元を語れないことに恥ずかしく思ったり、口籠ったりすることは少なくなった。それに、語れないのは、住んだことのある街を知ろうとしてこなかったからだろう。

地元とは、住んだ時間にかかわらず「帰りたい」と思える場所なのではないか。そう考えるようになってから、意識的に、住んだことのある街を知ろうと思えるようになった。「帰ってきた」という気持ちと共に街を歩くと、当時見えていなかった風景が立ち上がってくる。

写真を撮りに人形町を歩いていたら、中学生のころから知ってくれている、人形町で130年以上続く 和装小物製造を行う「龍工房」代表の福田隆さんに会った。写真撮影をお願いすると、工房の前で拍子木を打ってくれた

そもそも、地元が一つじゃなきゃいけない決まりなんてないのではないか。生まれた北海道だって、幼少期を過ごした香川だって、小学生のときに4年間住んだ神奈川だって、地元と呼んでいいのかも知れない。「帰りたい」そう思える気持ち一つで、地元と呼べるはずなのだから。

著者:池田礼

池田礼

1996年北海道稚内市生まれ。2019年青山学院総合文化政策学部卒業。主な個展に「In Praise of Shadows」(2017)、「Unknown Pleasures」(2018)がある。HP | ayaikeda.com

 

編集:岡本尚之