作家・高橋源一郎が語る、誰かと住むこと、生きること

編集: 小沢あや(ピース株式会社) 構成: 山田宗太朗 写真:小原聡太

先日、東京探訪記『失われたTOKIOを求めて』を上梓した作家の高橋源一郎さん。本書には、現在の東京の風景の向こうに、高橋さんが生きてきた時間が埋め込まれています。

高橋さんは、これまでに50回近い引越しを繰り返してきたそう。一体これまでどんな基準で街を選び、家を移ってきたのでしょうか。街の愛し方や「誰かと住む」ことについても伺いました。

約50回引越しを繰り返し……家選びは「ひとめぼれ」重視

―― 高橋さんはこれまでに、50回近く引越したそうですね。

高橋源一郎さん(以下、高橋):たぶん合計で、47回か48回なんですよね。母の実家のある広島の尾道市で生まれ、0歳のうちに父の実家のある大阪の帝塚山に引越して、またすぐに兵庫県の尼崎市に移動しているから、0歳の時点ですでに2回引越してるんです。

大人になって自分の意思で引越すようになってからも、だいたい2年の更新期間ごとに住処を変えていく。だからそのうち、不動産屋より街と物件に詳しくなっちゃいました。ぼく、SUUMOも大好きで、毎週見てるんですよ(笑)。

―― ありがとうございます!

高橋:昔はネットがなかったから、基本は駅で降りて不動産屋に行くんです。で、いい物件があるとする。でも、それらはたいてい見せかけの、おとり、駅近くの物件なんですよね。

そういうことを何十回、何百回と経験しているうちに、もはや不動産屋の物件情報を見るだけで「これはおとり」とか「この物件はもうない」とか、わかるようになってしまった。周辺相場よりも条件がよすぎるから、こんなの残ってるわけないと。そうやって不動産屋と知識レベルが同じになってきて、ついには「こういう物件があります」とか勧められても「それはもうないはずです」って、ぼくの方が詳しくなってました(笑)。

―― (笑)。高橋さんが住む街や部屋を決める際は、何を重視するんですか?

高橋:最初は広さとか、日当たりとか、いろいろ考えるんですが、最終的には、「ひとめぼれ」ですね。

―― ひとめぼれ!

高橋:家の中に入る前にわかるようになるんです。ぼくは、鎌倉に住むのは今回で3回目なんです。最初は18歳のころで、大学の寮があって、2回目は20年前。そのときは鎌倉で不動産を探したんだけど、いい物件があると聞いて見に行ったんです。緑の多いところで、和風の家があって。見た瞬間に恋に落ちた(笑)。「ああ、この家は、ぼくを呼んでる」と思ったんです。それで、家の中に入る前に案内してくれた不動産屋さんに「ここ、借りたいんですけど」って言いました。

ただ、作家は自由業だから大家さんに嫌われるものなんです。審査が心配だったけど、その家はすぐOKが出ました。なぜかというと、その家にはかつて、チェーホフの翻訳で有名なロシア文学者の神西清という人が住んでいたんです。大家さんも「この家、三島由紀夫もよく遊びにきてました」とか言っていて、作家大歓迎の物件だったんですね。だから、そういう「出会った感じ」で家は決めますね。

―― そんな運命的な出会いがあったんですね。

高橋:その物件は元々、大地主だった大家さんの先代か先々代の隠居所だから、そのエリアでいちばんいいところに建っていて。日当たりもよくて、すごくきれいで、生涯でいちばんいい物件だったかもしれない。裏には竹藪があって、風呂なんか入ってると極楽なんだけど、唯一、欠点があって。寒いんですよ、冬は。

―― ああ、木造の日本家屋だから……。

高橋:竹藪から風が吹いてくるんだよね。夏は冷房がいらないくらい気持ちよくて最高だと思ったら、冬は、寒い。夏用の隠居所だったんだね。っていうか、昔の人の方が寒さに強かったのかも。

街の記憶を探すと、その場所が立体的に見える

―― 「かつてチェーホフの翻訳で有名な文学者が住んでいた」というお話でしたが、高橋さんの著書『失われたTOKIOを求めて』でも、歴史や街の記憶を遡って現代の街の姿と重ね合わせていますよね。

高橋:どの街にも、その街の記憶があるはずなんです。特に日本はそういう文化が発達してきました。短歌や俳句で詠まれ、歌枕になり、場所の名前を留めることをずっとやってきた文化ですから。

でも、地層と同じで、上にどんどん時間がかぶさって下の層にあるものは、見えなくなっている。それを探すのは楽しいですよ。ふつう、歩くことは空間的じゃないですか。つまり横に移動するだけなんだけど、街の記憶を探すことで、同じ場所を縦に移動することができる。そうすると、場所が立体的に見えてくるんです。

『失われたTOKIOを求めて』集英社インターナショナル刊

高橋:『失われたTOKIOを求めて』の序文にも書いたんですが、今回、東京を歩いてみようと思ったのは、いつもの散歩コースを逆向きに歩いたことがきっかけなんです。同じ道を歩いているはずなのに、見える風景がまるで違う。道に迷った気がして、道のまん中で何度も止まってしまいました。

同じコースを散歩している友人にこの話をしたら「そんなことあるはずがない。話、盛ってるだろ」と言われたんです。でもある日、電話がかかってきて、「やばい! ほんとに迷っちゃった! ここどこ!?」って(笑)。

―― 歩き慣れたコースでも、そんなことが。

高橋:よく考えるとあたりまえで、いつも同じコースを歩いていると、一方向しか見えていないわけです。それを逆から歩くんだから、いつもの反対側を見ながら歩くことになる。つまり、見たことがない風景が続くわけ。ふだんから周りを注視していれば気づくかもしれないけれど、見てないんですよ。ぼくたちは、ふだんから慣れた道すら見ていないんです。

高橋源一郎が暮らしたTOKIO

―― 10代から20代にかけて鎌倉に住んでいた高橋さんは、やがて作家になり、31歳で東京・杉並区の荻窪に引越します。それからしばらくは東京暮らしが続きましたね。

高橋:荻窪に2年住んで、そのあと国立に住みました。中央線沿線が好きだったんですが、なんで荻窪だったのかな……あっ、思い出した! ぼくそのとき、詩人のねじめ正一さんと仲良かったんですよ。作家になって最初の引越しは、ねじめさんに軽トラックを出してもらって手伝ってもらいました。彼は高円寺に住んでいて、「中央線はいいよ、太宰治も中央線だし」と言っていたっけ。でも、高円寺は人が多そうだし、荻窪くらいがいいかなと思ったんです。

―― 家選びの基準は「ひとめぼれ」とのことですが、住む街自体はイメージで決めるんですか? 「ここは人が多そう、少なそう」っていう。

高橋:はい(笑)。そのときは、武蔵境まで行くと寂しい気がして、でも高円寺や阿佐ヶ谷は人が多そうだし、荻窪でワンルームマンションを探して13畳の部屋に住みましたね。

すぐに結婚したから隣にもう一つワンルームを借りたんです。2つに分かれて暮らすのもめんどうになってきて、次は国立に一軒家を借りました。荻窪の一軒家は高いし、吉祥寺にはそもそも入れる物件がない。できたら中央線沿線から離れたくなかったし、かといって立川まで行くのは遠いなと。

それで、国立駅に降りてみると、感じがいいんですよ。「ここは超感じいいな」と思って、一橋大学の裏のあたりに2年住みました。そのあとが石神井公園かな。

―― 石神井公園は西武池袋線沿いなので、中央線から少しだけ離れますね。

高橋:石神井公園はね、なんといっても公園がよかった。ほんとうは井の頭公園のそばにしたかったんですが、そのときもやっぱり物件がなくて。ずっと狙ってた9階建てのマンションが、全然空かないんだ(笑)。それで中央線はあきらめて、「公園っぽいところはないか」と石神井公園で探したら、いい物件があったんです。深い森のような樹々に囲まれたマンションです。緑の中、静かで気持ちよかったですよ。

20年振りに戻ってきた鎌倉の魅力と、観光地に住む良さ

―― その後、原宿や沼袋を経て、20年ぶりに鎌倉に戻ってきます。

高橋:鎌倉は海と山があって散歩にはとてもいいですね。それから、開発が禁じられている規制区域が多いから、何年経っても「すっかり変わっちゃったなあ」ということがない。これは観光地の良さなんです。観光地はあまり街並みを変えられないでしょ? これがけっこう、住んでみるとありがたい。

ぼくは父の実家も母の実家もなくなって、ふるさとがないんです。いちばん長く住んでいるところは、気がついたら鎌倉でした。「地元はどこ?」と聞かれたら、もはや鎌倉というしかありませんね。

―― 地方移住の選択肢はなかったんですか?

高橋:地方に行くと、落ち着かないんです。今まで落ち着くと感じたのは、ロンドンとかニューヨークとか、大都会で、外からくる人に慣れているところですね。ほっといてくれるから。ニューヨークなんて英語ができなくても、まったく気にされないしね。完全にone of themになっちゃう。だからできれば都会がいいんです。1人でいるときに楽チンなので。

―― 関西から出たかったんでしょうか。

高橋:それはありましたね。関西から出たいというより、自立したい気持ちでした。とにかく家から出たかった。それで東京にきました。京都大学を受験して落ちたので「ちょうどいいや、東に行こう」と。もし京大に受かっていたら関西に残っていたかもしれないし、たぶん、作家になっていなかったでしょうね。

―― 住むところで人は変わる、という人もいますが、高橋さんは鎌倉にきて自分が変わったと感じますか?

高橋:それはないですね。ぼくは逆に、どこに行っても変わらないと思います。鎌倉は共同体意識が強いから、人によっては合わないかもしれないけれど、ぼくは気にならない。なぜなら、人と付き合う気があまりないもので(笑)。

子どもが最優先、次に妻。高橋家の絶対的順序

―― 高橋さんは育児にも主体的に取り組んでいたそうですね。お子さんが生まれてからの暮らしは?

高橋:2004年と2006年に子どもが生まれて、また東京に戻りました。子どもを飯倉の保育園に入れました。その前には六本木の無認可の保育園に1年半ぐらい通わせていました。

―― 都会ですね。

高橋:ママ友がほとんど水商売の女性。ぼくは、ママ友とは話が合うんです。というか、ママ友しかいなかった。当時、保育園にはほとんどお母さんしかこなかったから、パパ友ができなかったんです。子育てをやっていたらだんだん男性と話が合わなくなってきました(笑)。逆に子育てやってる女の人とだったら、一日中でも話ができるようになったんです。

―― お子さんが小さいころって、なかなか住みたい場所を選べないですよね。

高橋:それはもちろん。子ども優先ですからね。まずは保育園に通えるところですよね。でも、なかなか保育園には入れないし、無認可保育園も少ない。いざとなったら臨時託児所に頼るしかありません。知ってます?

―― 御用達だったんですか?

高橋:帝国ホテル、京王プラザホテル、水道橋の後楽園ホテル、この3カ所には、24時間預かってくれる臨時託児所があったんです。もちろん安くはないけれど、お仕事している人のために預かってくれるところを調べたら、当時はこの3カ所しかなくて。ぼくはぜんぶ利用しました。

―― 高橋さんにも「保活(子どもを保育園に入れるための活動)」の壁があったんですね。

高橋:そうですね。大学の先生もやっていたので、通えるところで、それから妻の都合。あとは、作家に都合のいい家の構造ってあるでしょ。作家は、家の中ぜんぶ本棚だっていいわけです。確かに、邪魔なんですよ、ふつうは。でも、これが妻と衝突する原因になるんです。「歩くところ歩くところ、本があるんですけど!」って(笑)。そう考えると、みんなが満足できるところはなかなかないんです。

―― 家に求めるものが違うと、共同生活も大変ですよね。

高橋:だから、家族と一緒に住んでいなかった時期もあります。妻と子どもだけ逗子に住んでいるとか、葉山の方に3カ月ぐらいいるとか。あっちに行ったりこっちに行ったり、子どもたちを妻の親に預かってもらって、3カ所に分かれていた時期もありました。育児と暮らしと仕事との兼ね合いで、あらゆる暮らしのパターンを考えていたら、結果として50回くらいの引越しになっちゃったんです。

―― どこでも働ける作家さんでも、住む場所を自由に選んできたわけではないんですね。

高橋:ないです、ないです。うちには絶対的順序があって、まず、子どもが最優先。次が妻。僕は最後なんです。それが正しいと気づくまで、時間がかかりましたが。

家では「夫は妻に100%ゆずるべき」……その心は?

―― 高橋さんにとって、家を決めるために、絶対にゆずれない条件はありますか? あるいは、ご家族と暮らすために、あきらめたこととか。

高橋:ないですね。ぼくにはゆずれない条件はないです。あるとしたら、子ども最優先、次に妻、という優先順位だけです。

4回離婚しているぼくが言うのも変なんですけど、夫婦は、どちらかがゆずるしかないんです。そしてそれは基本、夫が100%ゆずるべきです(笑)。

―― 100%!!

高橋:そう、100%。ぜんぶです。どんな意向でも妻のいうことは聞かないとだめ。たとえ相手が間違っていても。それでいいんです。間違いは誰にでもあるから。

―― 「100%夫がゆずるべき」……いつごろからそう思われるようになったんでしょうか?

高橋:そう思えるようになったのは、4〜5年前ですかね。それまでは「8割はゆずるから」とか言ってたけれど、それがよくないんですね。だって「8割」といつも「9割」といっても主観的なもんでしょ? ぼくは8~9割ゆずっているつもりでも、相手は自分が8~9割ゆずっていると思っているかもしれない。つまり、割合を決めること自体がそもそも間違いなんです。0と100しかない。このことに気づいたら、すごくラクになりました。

これまでのケンカも「こんなに譲歩してるのに」って、ただ思っていただけでほんとうには譲歩できていなかったんじゃないかと。だから、100対0じゃないとだめですね。90対10でも、80対20でも、50対50でも、ぜんぶ同じ。100%じゃないとだめ。すべて妻の言う通りにすればいいんです(笑)。

高橋:これから結婚や同棲する人に言えることがあるとすれば、大切なのはふたつだけ。まずは、100%相手にゆずること。もう一つは、1人になれる部屋を持つこと。部屋がないと、ひとりになりたいときは外に行くしかない。そうすると、そのまま出て行っちゃう(笑)。

―― そこで、また別の問題が発生するわけですね……。

高橋:やっぱり、部屋の数は、住んでいる人の数くらいは必要なんですよね。ふたりで住むなら、ふた部屋以上。寝室と書斎みたいに、籠もれる場所が必要。リビングだとなかなか籠もれないからね。だから、個室がふたつ以上あって、相手に100%ゆずることができれば、大丈夫です。たぶん(笑)。

住むことは勉強。誰もがもつ「欠陥」を自覚した上で、どう暮らすか

―― 最近は、「リモートワークになって、一日中家族と家にいるのがしんどい」みたいな声も聞こえてきます。

高橋:たしかに同じ家にずっといると、うっとおしいと思われてしまいますよね。作家は元々リモートみたいなもんだから、ぼくは住処と仕事場を分けているんですが、一般の方なら、1Kの安いアパートを借りてみてもいいんじゃないでしょうか。毎日そこに仕事に行って帰ってくる。その方が、新鮮じゃないですか。いつも恋人みたいな関係でいられるでしょ?

誰かとずっと一緒にいるのは、人間にとって異常な状態なのかもしれないですね。好きになったらずっと一緒にいたいと思うじゃないですか。そうね……3カ月ぐらい?(笑)
まあ、半年とか。その期間が過ぎても24時間一緒にいたら、ちょっと離れたくならないですか? 1人になりたくなるときもありますよね。

―― まさに、そうですね。

高橋:一緒にいたいと思うのは、その人のことを知りたいからですよね。でも、だんだん相手のことがわかってくる。そしたら、そこから先は別の関係になっていかなきゃならない。相手にとっても、同じです。ということは、自分も変わらないといけない。人間関係は放っておくと枯れてしまうから、水をやらないと。その一つが、100%相手にゆずること。だから、ケンカしても謝る。自分が悪くなくても謝る(笑)。

―― すぐに謝るのはとてもいい心がけだと思いますが、それで問題が解決するのでしょうか。

高橋:人がなぜケンカするか知ってます? ぼくがこれまでいちばんたくさん聞いたケンカのセリフは、「わたしあのとき、こう言ったでしょ!?」でした。不思議だったのは、相手はぼくが言ったことは忘れてるのね。「そんなこと絶対言ってない!」と言うわけ。なんでだろうと思って。

ある本を読んだら、「人間は自分がしゃべったことの98%は忘れる」って書いてあったんです。覚えているのは、自分で覚えようと思ったことだけ。つまり、お互いに言ったことなんてほとんど忘れてるんだよね。だから話が食い違うわけです。ただそれだけのことなんですよ。だから、謝ればいい。人間はそういう致命的欠陥をもった生き物で、だったら、それを自覚したもん勝ちですよね。

1人で住むなら何も問題ないけれど、誰かと住むと、そこには必ずトラブルが発生する。そのときにどう対処するか。だから、人と住むことは、勉強です。

―― すごい。さっきから、根源的な話を聞けている気がします。

高橋:20歳のころの自分に教えてやりたいですよ(笑)。最初に女の子と住んだときの部屋は、6畳一間だったんです。彼女のことがすごく好きだったのに、すぐケンカするようになってしまった。もう、ほんとうに苦しかった。

あれは、いま考えたら、部屋が一つしかなかったことも原因の一つだったと思います。しかもセミダブルのベッドがドンとあって、机もあって、物も置けない。そこでふたりで黙っちゃうと、どんなに好きな相手でも、ただもう息苦しいだけで。

―― 別れの要因の一つは、間取りにあった……という分析なんですね。

高橋:3畳でもいいから部屋がもう一つあればよかったですね。お互い家にいても、そこでクールダウンできるから、あんなにケンカしなかったのかもしれない。もちろん部屋は広い方がいいんだけど、同じふた部屋でも、6畳と8畳の部屋より、3畳と10畳の方がいいと思います。自分の家の中でメリハリが効くようになるから。

「3畳から10畳に行くとワーっと心が開かれるし」

「10畳から3畳に行くと、ホッとする」と、身振り手振りを交えて話してくれる高橋さん

―― SUUMOを見ていると、たまに「なんでここに2.5畳の部屋があるんだろう?」と思うような間取りもあるんですが、それはもしかして……。

高橋:それはね、なかなかの英知ですよ。設計したのはたぶん、人間関係で苦労した人ですね(笑)。

お話を伺った人:高橋源一郎

高橋源一郎

1951年、広島生まれの作家。1981年に『さようなら、ギャングたち』で第4回群像新人長篇小説賞優秀作受賞し、デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞を受賞。著書多数。東京探訪記『失われたTOKIOを求めて』(集英社インターナショナル)も話題に。


聞き手:小沢あや(ピース株式会社)

小沢あや

コンテンツプランナー / ピース株式会社 代表取締役。SUUMOタウンに寄稿したエッセイ「独身OLだった私にも優しく住みやすい街 池袋」をきっかけに、豊島区長公認の池袋愛好家としても活動している。 Twitter note