著: 根岸達朗
この街にやってきてかれこれ3年になる。
縁もゆかりもない土地だったけれど、住めばそれなりに親しみが湧くもので、地域の知り合いも増えたし、子どもが通っている保育園ではママ友・パパ友もできた。結局その街を好きになれるかどうかというのは、そこでどんな人間関係を築いたか、ということに尽きるのだと思う。
稲城。東京・多摩地域南部にある人口約9万人のこの街は、1980年代後半の多摩ニュータウン開発で開かれた丘陵地帯の住宅地と、ナシ園などが広がる多摩川流域の既存住宅地から主に形成される。
僕が(といっても、正確には会社員の妻がローンを組んで)購入したマンションは、多摩ニュータウンのなかでも後期に開発された向陽台という地区にある。
高層マンション、中層マンション、低層の戸建て群がバランス良く配置されていて、1995年には国土交通省の「都市景観100選」に選ばれた。
都心にも京王相模原線やJR南武線などを利用すれば1時間圏内。丘陵地帯にある住宅地なので坂道の移動が少々大変だが、大きなスーパーもあるし、公園もたくさんある。住まいのつくりも全体的にゆとりがあって、住環境は申し分ない。
都会ではないけれど、田舎でもない。適度な自然が残されていて、子育て環境も悪くない。住まいを転々とする人生を歩んできたこともあって、ここはひとつ覚悟を決めて、ひとところに落ち着いた暮らしをしようと思ったのである。
僕は稲城に来てから、地域の暮らしを楽しみたい思いで、JR南武線の稲城長沼駅の高架下にある地域拠点「くらすクラス」や、里山の有効利用を進めている「東京稲城里山義塾」といった団体と交流した。自然を愛し、この街の暮らしを大切にする人たちとゆるやかにつながれたことは、僕の生活にひとつの安らぎを与えてくれたと思う。
一方、仕事では「ジモコロ」などのメディアを中心に、全国各地のローカルで活動する人たちを取材した。「パーマカルチャー」や「発酵デザイン」といった思想にも出会い、自宅ではコンポストや野菜づくり、発酵食品仕込みなど、さまざまなことを実践した。
街の外で出会った考え方を、この街の暮らしのなかに取り込んでいく。そうして僕は自分らしい「健やかな生き方」を探求するようになった。
特に「発酵」は、日常的に家族の食事をつくっていた僕に大きな気付きを与えた。
この世界には目に見えない微生物が人間の数よりもたくさんいる。微生物がいるから自分は生きている。そんな壮大な命の物語に想いを巡らせると、日々の子育てや結婚生活において僕が困難だと感じていたあらゆることが、取るに足らないことに思えた。
当時の僕は「発酵おじさん」を自称し、発酵の魅力を出会う人すべてに話していた。そんな僕に関心を持ってくれた地域の仲間が「根岸さんが発酵にハマった理由を街の人たちにも話してくれませんか?」と声をかけてくれて、公共施設で2時間近くお話しさせてもらったこともあった。
地域のご高齢の方々が多く集まるなか、自分の生い立ちから発酵に出会うまでの人生を語り尽くした。気持ちが昂ぶっていて、ほとんど何を話したか覚えていないが、忘れられない思い出だ。
元々僕はとても人見知りだし、自己主張が苦手な引っ込み思案の性格だった。貧困ではなかったが家族関係には恵まれず、親の離婚や自己破産など、さまざまな節目で住まいを変えてきた。
20代はバンド活動をしていて、特定の仲間としか交流していなかったし、新たに人間関係を広げようなんて考えたこともなかった。そもそも地域社会とつながる生き方があるなんてことも知らなかった。
アルバイトをしながら、ずっと人生の意味を模索していた。どこにも居場所がないと感じていたし、何をやっても心の底から楽しめたことがなかった。
そんな僕が生活を築くことに向き合い、発酵に出会ったあたりから、少しずつ自分らしさのようなものを出せるようになっていった。人と話すのが楽しくて、自発的にローカルに飛び込んでは新たな出会いもつくるようになった。そして実際、人と仲良くなることもどんどん増えた。面白かったし、そんな自分になれたことが何よりうれしかった。
好きになれるものを入り口にして、多少は自己理解が深まったのかもしれない。仕事を通じて多くの知性に出会い、自分という人間の程度も知った。そして、変われない部分を丸ごと受け入れて「諦める」ことができるようにもなった。
そこから僕の人生は前に進みだしたような気がするし、だからこそ、僕はこの稲城という街の人とつながる暮らしも楽しむことができたのだと思っている。
さらに僕は、もうひとつ人生の大きな転機となることをこの稲城の生活のなかで経験した。
それは離婚である。
2011年に結婚し、翌年には子どもが生まれた。当時、僕はウェブ制作会社の社員として働いていたが、仕事にやりがいを見出せなかったことや、慣れない子育てによる環境の変化などから、心身に不調をきたし退職。どうやって人生を立て直したらいいのか分からず、どん底の気分で編集プロダクションに勤めていたころの人脈を頼り、どうにかライターの仕事にありついた。
子どもが生後半年を過ぎたあたりで、妻が仕事に復帰した。子どもを保育園に預けて、本格的に働き始めた妻に代わって、僕は家事・育児を全面的に引き受けるようになった。
朝食をつくり、妻と子どもを送り出してから、細々とウェブ記事をつくり続ける日々。夕方になったら保育園に子どもを迎えに行って、食事づくり、風呂、寝かしつけ。妻の帰りが終電近くになることも多かったので、取材や出張など外せない用事があるときを除いては、家に関するほとんどのことは僕が担った。
そんな日常は稲城に来てからもしばらく続いた。気付けば、子どもは5歳になっていた。
フリーランス駆け出しのころよりは仕事も安定してきたが、正直、それでも生活には疲れたなあと感じる時期もあった。でもこの家族3人の関係性ではそれがひとつの「かたち」でもあった。
妻は収入が不安定な僕を支えてくれたし、僕も収入が少ない分できるだけ家のことをやって妻を支えようという気持ちだった。僕たちはいつも、お互いに足りない部分を補い合ってやってきたのだ。
ただひとつ、僕たちにはどうしても埋め合わせることができないピースがあった。
それはセックスだ。妻が子どもを妊娠してからの約6年間、僕たちはまったくセックスをしなかった。仕事や子育てに追われる日々のなかで、コミュニケーションがうまく取れなかったこともあり、少なくとも僕は「そういう気分」になれなかったのである。
これは自分の「愛する自由について」というエッセイにも書いたことだが、あるとき僕は古代の狩猟採集社会における男女の性生活が乱交的であったということが書かれた本を読んだのだった。乱交であるがゆえに、子どもの父親が誰であるか分からない。だからみんなで子育てをすることでその共同体は連帯し、生き延びていたという話である。
昔とは人口も違うし、生活のあり方も違うだろう。けれどこれを読んで僕は、かつての時代のように「子どもはみんなで育てる」という意識が、現代社会をより寛容でピースフルな方向に導く可能性はあるだろうし、そういう考え方を多くの人が持てるような社会であれば、現実に救われる人も多いだろうなあとは思ったのだ。
それに、結婚によってセックスが縛られることもよくよく考えたら不思議だった。人の気持ちは変わるものだ。生涯を添い遂げる「契約」を結ぶことによる困難もこの世界にはたくさんある。
信頼はあるけれどセックスをしない僕たちは、もう結婚という枠組みに囚われることなく、自由に愛したい人を愛してもいいんじゃないか。この関係性ならそれができるんじゃないか、と僕は妻に問いかけたのである。
妻は僕の考えに「私もそう思う」と共感してくれた。だから僕たちは離婚した。それはそれぞれの自由な生き方を認め合う、僕と妻の関係性だからこそできたことだった。
僕と妻はこの夏、稲城に別れを告げて、それぞれの生活をスタートさせる。3年前に買ったマンションは、幸運なことに買値よりも高く売れた。どうやら地価が上がっているらしい。
それぞれにパートナーができた今、関係性は以前に増して良好だ。妻のパートナーと生活を始めることになるかもしれない子どもにも事情は説明している。子どもが父との別居を受け入れることができるかが課題ではあるけれど、何かあればいつでも僕を頼ってほしいし、僕は彼にとって安心できる存在でこれからもあり続けたいと思う。
今思えば、僕の生活における精神的困難を乗り越えるきっかけを与えてくれたコンポストや発酵は、稲城という郊外にたまたまゆとりある住まいを持てたからこそ、実践できたことでもあった。この土地での恵まれた暮らしがあって、僕が生き方を変えて、だからこそ今のパートナーとも巡り会えた。人生はすべてが一本の線でつながっているのだと思う。
もちろん、家族との同居生活が終わることに複雑な気持ちもある。でも、妻と話し合い、子どもにも気持ちを伝えて、自分でそれがいいと思って決めたことなのだから、その決断に後悔するような生き方はしたくない。
住まいが離れても、それぞれのパートナーも含めてこれからもみんなで一緒に遊んだり、子育てを助け合っていけるような関係性を築いていきたい。それが僕の願いだ。
さよなら、稲城。人生はきっと、なるようにしかならない。
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著者:根岸達朗
1981年東京生まれのライター。多摩地域に暮らしながら、哲学系フリーペーパー『欲望と妄想』を作ってます。
Twitter:@onceagain74
Facebook:tatsuro.negishi
編集:Huuuu inc.