神楽坂8時5分【坂の記憶】

著: TUGBOAT 岡 康道

「都心に住む by SUUMO」で、2009年10月号~2018年1月号まで連載されたTUGBOAT・岡康道氏と麻生哲朗氏による東京の坂道をテーマにした短編小説「坂の記憶」をお届けします。

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 カラーの夢は見たことがなかった。

 小学校の教室に僕は立っていた。授業を聴いているふりをして、時たまキョロキョロと後ろに立っている僕を探す、息子。落ち着きがない。しかし、僕自身、授業を最後までおとなしく聞いていることができなかった。あいつは、僕に似ている。

 授業を見ているのは、7割方母親だった。僕は一人で授業参観に来ているらしい。窓の近くに立っている。廊下の近くに、彼女がいた。彼女は、鮮やかなグリーンのワンピースを着ていた。世界にはほかに色がついていない。

 17年前、大学を卒業する時に別れた彼女だ。大学時代の始めに、僕の家の事業は倒産。早稲田には奨学金を申請しストイックで忙しい大学生活だった。学費は免除されたが食費は稼がないといけない。

 彼女は、僕の事情をよく理解してくれたが、必要以上の同情を寄せることもなく、むしろ「たいしたことじゃない」と励ました。それは、僕も同感だったので気分が良かった。

 気分が悪かったのは、卒業が近づき就職活動で知り合った彼女の大学の男子から聞いた噂だった。僕たちが高校時代からの恋人だと知らない彼は、2人の出身校が同じだという彼にとっては偶然の出来事によって、彼女の近況を僕に伝えた。インターンシップで夏休みに大手商社に通った彼女は、その美貌ゆえ瞬く間にエリート商社マンをゲットし卒業後は勤めることなく結婚するというものだった。彼女は、地味な国立大学では目立つ存在だから、その動向は注目を集めたのだろう。僕は、その話の真偽を確かめることもせず、6年つきあった彼女と別れた。彼女らしい行動だと思ったし、彼女と別れることで僕も大人になれるように思ったのだ。彼女も、理由を聞かなかった。

 グリーンのワンピースは僕のほうを見ない。声をかけたかったが教室の後方は父母で込み合っていて近づくこともできない。もどかしい。と、ここで目が覚めた。

 まだ、朝の5時半だ。

 今もまた、僕は池袋の近くに住み続けていた。勤め先は、皇居の近くにある出版社だ。そう遠くはない。営業なのでクルマで通うことを許されていた。早稲田通りから神楽坂を抜けると会社まで30分。早稲田界隈を毎日眺めることもできるし、一方通行が朝と夜に入れ替わるという特殊なルールを持つ神楽坂という道が好きだった。出社と帰宅は、その方向に沿っている。「きちんと暮らせ」と坂道が僕を叱咤する。

 短い結婚生活は、浦安の分譲マンションに住んでいたが、離婚を機にまた豊島区にもどってきた。一人で暮らすなら、青春を過ごした土地がいい。幻想だが、孤独ではない気がする。

 僕はカラーの夢を見たことに驚いていたし、彼女の夢を見たことにも驚いていた。もう一度眠ろうと思ったが、うまくいかない。早朝校正の日だったこともあり、このまま起きて出社することにした。シャワーを浴び、コーヒーとビタミン剤の朝食を済ませてマンションを出た。

 神楽坂の毘沙門天近くの信号で止まった。僕のクルマは一番前にいた。目の前に歩道がある。後ろに子どもを乗せた母親が自転車を引いている。初夏の日差しがまだ優しい時間で柔らかい写真のようだ。その母親は、彼女だった。ジーンズにグリーンの麻のシャツ。グリーン!

 初めは、見間違えだろうと思った。朝の夢に影響されて、すべての女性が彼女に見える。そうではない。間違いない。後ろに座る子どもに微笑みかける彼女の横顔は、あのころと何も変わっていない。

 彼女たちはゆっくり歩道を渡りきり、そして信号が変わった。僕は呆然として、クルマを左の歩道側に寄せ、歩道へ降りた。自転車は15m離れただけだ。声をかければ彼女は振り返る。しかし声をかける代わりに腕時計を見た。8時5分。今日じゃなくてもいい。8時5分に神楽坂に来れば、彼女に会えるんだ。今日はやめておこう。僕は、偶然の恐ろしさに立ちすくんだ臆病者だった。

 僕の知らない17年がある。彼女が、あの噂のように商社マンと結婚したのかどうかは知らない。しかし、あの朝の彼女は本当に幸福そうに見えた。僕はあのとき幸福だったのか。たぶん、そうだろう。好きな仕事をして健康なら、生きていく上で十分だ。2人が幸福なら、僕たちはもう会う必要はない。人生をやっていくということはそういうことなのだ。いつの間にか僕は、臆病者として生きる方便を見つけた。

 神楽坂。朝の8時には、僕はこの坂道を通らなくなった。



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神楽坂(かぐらざか)
住所:新宿区神楽坂1丁目~6丁目にかけて
アクセス:JRおよび地下鉄各線飯田橋駅前、または東西線神楽坂駅から徒歩3分ほど


神楽坂は早稲田通りの一区間。大久保通りとの交差点から外堀通りに至るまでの坂を指す。数ある東京の坂のなかでも、屈指の知名度と長さを誇る。命名については江戸時代の神楽の音が関係したエピソードが由来としていくつか残されている。明治時代以降は花街、そして商店街として発展。複数の著名人が周辺に住まいをかまえていたこともあって、坂沿いは活況。昭和後期からは、古きよき東京の姿を残す風情ある街として人気を集めるようになった。また、クルマの場合、坂は一方通行になるが、午前と午後で進行方向が変わる逆転式一方通行方式を採用。これは全国でも珍しい例である。



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著者:岡 康道

株式会社TUGBOATクリエイティブディレクター、CMプランナー。早稲田大学法学部卒業後、株式会社電通に入社。1999年、日本初のクリエイティブエージェンシー「TUGBOAT」を設立。主な仕事にTOYOTA「ハリアー」、サントリー「ペプシ」、キヤノン「70D」シリーズ、大和ハウスなど。ADC賞、TCC最高賞など受賞歴多数。また、小説に『夏の果て』(小学館)がある



写真:坂口トモユキ

都心に住む by SUUMO」2009年10月号から転載


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books.spaceshower.jp