「よそもの」として30年。私と盛岡の、ちょうどいい距離感|文:鈴木いづみ

著者: 鈴木いづみ

就職を機に、盛岡で暮らし始めた。

それからおよそ30年。ちょこちょこ海外を放浪したりしていた数年を除き、人生の大半を盛岡で生活していることになる。

気楽な独り身で賃貸暮らし。仕事はフリーランス。根無草のようにふわふわと漂い「ここに根を下ろそう」という決意もしないまま、30年も経ってしまった。「故郷」ではないけれど、故郷より長く住み続けているこの場所のこと、なんと呼べばいいんだろう。心の隅に「よそもの」の意識が張りついている私は、いつまで経っても「盛岡の人間」になりきれない。

でも、その距離感こそが、私がずっとここにいる理由のような気もしている。

ほぼ知らない土地だった盛岡

私は岩手県北部にある山間の集落で生まれ育ち、高校を卒業するまで暮らしていた。「いちばん近い都会」は青森県八戸市で、家族でデパートに行くといったら八戸。初めて食べたマックやミスドも八戸。盛岡は同じ県ではあるけど少し遠くて、数えるぐらいしか行ったことがなかった。

私の地元・一戸町鳥越地区。民芸品「鳥越竹細工」の産地でもある。第二次ベビーブーム世代だが、同級生は10人しかいない。「全員知り合い」みたいな集落で、のんびり育った

「なりたいもの」が特になかった私は、先生に勧められるまま東京の短大に進学した。最寄駅行きのバスが1日に10本あるかないか(今は5本しかない)の田舎から、大都会東京へ。

とはいえ、キャンパスは西東京のちょっとのどかなところにあり、住んでいた寮もキャンパスの敷地内。自転車で吉祥寺まで出ればなんでも用が足りて、電車に乗る機会もあまりなかった。だからそこまで「都会の洗礼」を受けることもなかったのだが、2年生から始まった就職活動で通勤ラッシュに遭遇し「毎日これに乗るのは無理かもしれない」と思った。バブル崩壊直後で就活自体も厳しく、競争に耐性がない私は、東京で生きていくことを早々に諦めた。

そうして、選んだのが盛岡だった。

「東京はちょっとしんどい」「でも地元にはまだ戻りたくない」のどちらの気持ちも肯定できる、ちょうどいいところに盛岡があった。ただそれだけの理由だ。仙台は私にとっては東京とあまり変わらない感じがしたし、「いちばん身近な都会」の八戸は、東京から少し離れすぎていると思った(当時はまだ八戸まで新幹線が通っていなかった)。

何社か受けて運よく地元企業への就職が決まり、20歳の春、盛岡に引っ越した。

「岩山(いわやま)」の展望台から見渡す、盛岡のまちと岩手山。

盛岡駅から徒歩数分の「開運橋」から見た岩手山(いわてさん)と北上川。都市と自然が共存する、盛岡を代表する風景

ちょうどよくて便利なまち

特段思い入れもなく暮らし始めた盛岡は、ほどよく都会で、ほどよく田舎。歩いて回れる中心市街地の規模感や路地の多さ、穏やかな雰囲気が、吉祥寺にどこか似ている気がした。

当初は車を持っておらず、移動手段は自転車かバス。それでも特に不自由は感じなかった。

「なんかちょうどいいんだよなあ」というのが、今もずっと変わらない、盛岡の印象だ。

(私が思う)都市生活に必要なものはだいたい揃っている。デパート、駅ビル、映画館、美術館。全国チェーンのファストフード、ファミレスもひと通りあるが、個人経営の喫茶店やレストラン、セレクトショップなんかも多い。

特に「自家焙煎コーヒー店の多さ」は、ちょっとしたカルチャーショックだった。おじいちゃん、おばあちゃんと呼ばれるような世代の人たちも、コーヒーを飲みに来たり、豆を買いに来たりする。実家はコーヒーを飲む習慣がなく、インスタントコーヒーがせいぜい。「盛岡の人はハイカラだなあ」と感心した。

カフェオレにしないとコーヒーを飲めなかった私も、盛岡で暮らし始めてからブラックコーヒーをよく飲むようになった。

コーヒーが好きになったきっかけのひとつ、紺屋町にある老舗の自家焙煎コーヒー店「クラムボン」。店の近くを通ると、焙煎のいい香りが漂ってくる。プリンも美味しい

55年以上の歴史があり、年間300日以上営業している「神子田朝市」の名物「マドカ珈琲店」。朝市に行ったら立ち寄らずにはいられない。そして何回見ても「うろばんが……?」と読んでしまう

「盛岡はまちの規模のわりに個人商店が強い・多い」というフレーズをよく耳にするけれど、つまりそれを支えるお客さん(ファン)がちゃんといるということだ。盛岡って「好きなものにちゃんとお金を出す」みたいなところ、あるような気がする。そして自分もそのひとりでありたいなと思う。

盛岡駅から歩いてすぐのところにある、1982年創業「カプチーノ詩季(しき)」のホットサンド。美味しいのはもちろん、はみ出したパンの耳もついてくるところが好き

古い建物がまちなかに溶け込んでいるのも、なんかいい。特に、小さな飲食店がひしめく「桜山界隈」(※)や、歴史的建造物と個性的なお店が集まる「中ノ橋通〜紺屋町」は、県外から友人知人が遊びに来たらほぼ必ず案内するエリアだ。

※盛岡城跡公園(岩手公園)の北側、亀ケ池と鶴ケ池を挟むように広がるエリアを指す

2012年まで現役の銀行だった「岩手銀行赤レンガ館」。東京駅駅舎(現・丸の内駅舎)を手がけた辰野・葛西建築設計事務所によるもので、東京駅駅舎ができる3年前の1911年に落成。国の重要文化財にもなっている

「赤レンガ館」から徒歩数分のところにある「紺屋町番屋」。1891年に消防屯所として建てられ、1913年に現在の姿に改築。2005年まで現役だった。今は交流・体験施設になっていて、カフェやクラフトショップもある

一方、自然とのバランスもほどよくて、中心市街地を川が流れ、川のほとりや緑地には散策路が整備されている。少し郊外に行けば畑や田んぼが広がっていて、地元産のお米や野菜、果物を産直や無人販売所で買うことができる。

まちの中心部を流れる中津川。秋になると鮭が遡上し、橋の上から川を覗き込む人が増える

そして、岩手山の存在感。

石川啄木が「ふるさとの山はありがたきかな」と詠った(東に対面する「姫神山」だという説もある)岩手山は、標高2038.0m。東側は美しい裾野をひき、西は奥羽山脈に繋がっているため「南部片富士」とも呼ばれている。

山の中で生まれ育った私にとって、平地にどっかりと居座っているような岩手山の姿は新鮮だった。大きくてかっこいいし、少し離れたところから見守っている感じが、とてもいい。

盛岡の西側を流れる雫石川と岩手山を「盛南大橋」から撮影。川の多い盛岡にはあちこちに橋があり、そのほとんどから岩手山が見える

何年か前に、仕事でやむを得ず岩手山に登った。運動が得意ではない私にとってはとてもしんどい体験で、今でも「もう二度と登りたくない」と思っているのだけど、毎日どこかで岩手山を目にするたび「あのてっぺんまで登ったんだなあ、私」と、感慨深いような誇らしいような気持ちになり、自己肯定感がちょっと上がる。

だから、盛岡やその近郊で暮らす人には、一度は岩手山に登ることを個人的にお勧めしたい。

「姫神山」の山頂から見た岩手山

完璧じゃないのがいい「盛岡じゃじゃ麺」

盛岡の名物といえば「わんこそば」「盛岡冷麺」「盛岡じゃじゃ麺」の「盛岡三大麺」。「名物にうまいものなし」とか「名物ほど地元民は食べない」という言葉があるけれど、三大麺は、盛岡の暮らしにめちゃくちゃ溶け込んでいると思う。

わんこそばは、子ども会行事を始めとするレクリエーションの定番だし、盛岡市民は「冷麺だけを食べに焼肉屋に行く」ことも珍しくない。そして、盛岡じゃじゃ麺にはものすごい中毒性がある。

元祖・パイロンのじゃじゃ麺。満州からの引揚者だった高階貫勝さんが、旧満州で食べていた「炸醤麺(ジャージャー麺)」を元に、盛岡の人の味覚に合わせてアレンジしたものが始まりだそう

平打ちの麺に、肉味噌、きゅうり、ネギなどが載っているのが「盛岡じゃじゃ麺」の基本スタイル。まずは全体を混ぜ、ラー油やお酢、にんにくなどを好みで付け足す。こうして自分好みにカスタマイズするのが醍醐味で、「ラー油は一周半、酢は半周」とか「ラー油とにんにくだけ」とか、人それぞれのこだわりを聞いてみるのも面白い。

「こんな人任せの郷土料理があるでしょうか」と(愛情を持って)表現したお笑い芸人さんがいたらしいけれど、私はそういう、こちらに余白を残してくれているような、じゃじゃ麺の不完全さを好ましく思う。

じゃじゃ麺屋さんのテーブルに置いてある調味料。ちなみに私は、ラー油ではなく「南蛮醤油(青唐辛子を米麹などと一緒に醤油に漬け込んだもの)」を、1周分回しかけるのが好み(テーブルに置いてなくても、頼むと出して来てくれる)

盛岡とその近郊にはじゃじゃ麺専門店やじゃじゃ麺を扱う飲食店がいくつもあって、それぞれに肉味噌の味わい、麺の太さや食感、きゅうりの切り方、トッピングなどが違う。

ちなみに私はきゅうりにもこだわりがあり、「パイロン」のように短くザクザク切ってあるのが好み。細長くシュッとしているのはちょっと苦手。

スーパーなどにもいろんなメーカーのじゃじゃ麺が売られていて、家でもよくつくる。私の定番は「ちーたん」。きゅうりはもちろんパイロンスタイル。

少し距離があるから心地いい

20代の終わり、海外に滞在するために仕事を辞め、住んでいたアパートも引き払った。そのときは「もう盛岡に住むことはないかもしれないな」と思っていたけれど、帰国後、1年ほどの実家暮らしを経て、結局また盛岡に戻って来た。

次の仕事を探す上での選択肢が地元に比べて多いこともそうだが、なにより「自分のペースで暮らしたかった」というのが大きい。地元や家族のことはもちろん好きだし大切だけど、好きでい続けるためにも少し距離を置きたかった。

地元から遠すぎないし、近すぎない。

知り合いばかりでもないし、見知らぬ人ばかりでもない。

ここでなくたっていいけど、ここにいてもいい。

そういう点で、やっぱり盛岡はちょうどいい。

縁があって、30代半ばでフリーランスのライターになった。取材を通していろんな人に会い、いろんな経験をして、それまで表面的にしか知らなかった盛岡の魅力、奥深さを知る機会が増えた。

ずっと「わんこそば」を食べる機会がなかったのだが、2020年に人生初のわんこそばに挑戦。記録は101杯。「これでようやく盛岡市民の一員になれた」と思ったりした

中心市街地にある「盛岡城跡公園(岩手公園)」の石垣。盛岡は花崗岩地帯にあり、これらの石垣は「地産地消」で築かれている。総石垣のお城は、東日本ではとても貴重な存在らしい。ずっと「石垣しかない」とか思っていて申し訳なかった

盛岡でさまざまな活動をしている人たちを取材するたび、盛岡への愛の深さに感嘆し「こういう人たちがいるからこそ、盛岡は盛岡であり続けるのだな」と、つくづく思う。

同時に、「よそもの」の意識が抜けない自分との「越えられない壁」を感じて「私はいつまでも盛岡の人間になれないな……」と思ったりもする。

でも、この距離感だからこそ、私はここにいるのだ。もしかしたらこの先も。

だからせめてライターとして、盛岡の良さや暮らす人の想いを「伝える」ことで役に立てられたらいいなと考えている。

著者: 鈴木いづみ

1973年生まれ、盛岡市在住。OL、複数のアルバイト、海外放浪等を経て、未経験でいきなりフリーライターに。北東北エリアマガジン「rakra」をはじめ、パンフレット、広報紙などの編集・取材執筆をしている。専門性や得意分野は特になし。頼まれた仕事は(だいたい)引き受ける雑食ライター。

編集:友光だんご(Huuuu)

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