父が倒れてしまったあの日、ぼくにとって「塩竈」はかけがえのない街になった

著者: 五十嵐 大 

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ぼくの父は、強面で身体が大きく、とても真面目な人だった。塗装工として休みなく働き、家族をしっかり養ってくれた。

でも、あまり感情を表に出さずぶすっとしている父は、ちょっと怖い。幼いころのぼくは、父が少し苦手だった。

「大ちゃん、お父さん、倒れたの! これから緊急手術だって!」

そんな父が倒れてしまったと連絡が入ったのは、ぼくが編プロでライター修行をしていたころ。いまから7年前のことだ。

病状は、くも膜下出血。電話をくれた従姉妹は、これから手術が行われること、家族は急いで病院に集まるように言われたこと、手術が成功するかどうかはまだ分からないことなどをまくしたてていた。

でも、その声がどんどん遠ざかっていく。

嘘だろ……。ぼくの耳は、電話の向こうで起きている現実をなかなか受け入れようとしなかった。

「だから、いますぐ帰ってきて!」

耳元で従姉妹が狼狽しながら叫ぶ声を聞き、ぼくは呆然としながら事務所を飛び出した。

ぼくは「なにもない」塩竈が、大嫌いだった

ぼくは宮城県塩竈市で生まれ育った。東北の最大都市・仙台から電車で30分ほどの場所に位置する、港町だ。鼻につく潮のにおいとシャッター商店街。それくらいしかない街だった。

ぼくの両親は耳が聴こえなかった。父は幼少期に聴力を失い、母はまったく聴こえない状態で生まれた。そんなふたりに育てられたぼくは、いつも周囲から「可哀想な子」として扱われてきた。なにをしても、「両親の代わりに頑張っていて、偉いね」と言われた。

憐れみの目を向ける大人たちも、両親も、自分自身のことも嫌いだった。そしてなにより、「障害者から生まれた子ども」でしかいられない、とても狭い塩竈という街が大嫌いだった。

だから、二十歳を過ぎたころ、ぼくは地元を離れた。なかば生まれ故郷を捨てるような気持ちで上京したぼくは、念願だったライターの仕事に就き、忙しい毎日を送っていた。

忙しさを理由に、ほとんど帰省はしなかった。年に1回帰ればマシなほう。会うたびに老け込んでいく両親の顔も、見てみぬフリをしていた。そうやって現実と距離を置いていれば、なんの問題も起きないと信じ込んでいたのだ。

それなのに、父が倒れてしまった――。

東京駅で新幹線の切符を購入し、座席に座ると、ぼくはすぐに従姉妹にメッセージを送った。

「いま、新幹線乗ったから。なにかあったら、すぐに連絡して」

東京から仙台までは、新幹線で2時間ほど。その間、ぼくは10分おきに携帯電話をチェックしていた。でも、従姉妹からはなんのメッセージもない。父なら大丈夫、いや死んじゃうかもしれない、でもタフな人だし、でも万が一、いや……。頭のなかは堂々巡りするばかりだった。

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22時をまわるころ、ようやく仙台駅に到着した。駅前でタクシーを拾い、父が搬送された病院へと向かう。まだ携帯電話は鳴らない。一体、父はどうなったんだろうか。不安と緊張を胸に、ぼくは車窓を流れる景色を眺めていた。

病院に到着すると、集まっていた親戚たちがぼくを迎えてくれた。

「忙しいのに来てくれてよかった」
「大丈夫だから、心配いらないよ」
「お父さん、喜ぶね」

彼らと一緒に待合スペースに向かうと、そこには心細そうにしている母がいた。耳が聴こえない母は状況を把握しづらい分、誰よりも不安なのだろう。ぼくは隣に座ると、母の手を握った。母はそれを、弱々しく握り返してきた。

手術が終わったのは、深夜1時をまわったころ。疲労の色を浮かべながらぼくらのもとにやって来た医師が、「成功しましたよ」と告げた。それを聞き、みんなが安堵する。

けれど、母はぼくの隣で不安そうな顔をしている。そうだ、彼女には医師の言葉が届かない。ぼくは母に向き合い、指先を左胸から右胸へとゆっくり動かした。「大丈夫だよ」という意味の手話だ。ぼくの手話を理解した途端、母は号泣した。そして、うまく発音できない声で、何度も医師に対し「ありがとうございます」と述べた。

それから母は、毎日、父の病室へ足を運んだ。洗濯したての着替えとフルーツやお菓子、雑誌をカバンに詰め込み、病院へと向かう。

――別に毎日行かなくてもいいんじゃないの?
――お父さん、寂しがるでしょ。

母はぼくの意見を無視して、父のもとに足繁く通い続けた。

もう心配ないかな。そうは思ったものの、せめて父が退院するまではふたりの側にいたかったぼくは、上司にお願いをして、遠隔で仕事をさせてもらうことにした。とはいえ、できることは限られてしまう。時間を持て余したぼくは、なんとなく、外をふらつくことにした。

海が近く、いつだって新鮮な魚が食べられる街

自宅から歩いて15分ほどの場所に、市場がある。

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ここには塩釜港で水揚げされた魚介類が並び、いつも人でいっぱいだ。

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しかも、安い。都内では信じられないくらいの値段で、新鮮な魚介類が売られている。

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父は刺し身が大好物だ。特にマグロに目がなく、一切れでお茶碗半分くらいのご飯を平らげてしまう。だから、実家の食卓には、毎日刺し身が並んだ。

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市場内を散策し、強烈な潮のにおいに顔をしかめながら、ぼくは美味しそうに刺し身を食べる父を思い出していた。父はとにかく食欲が旺盛な人だ。

それはぼくが高校生のころだっただろうか。食べ過ぎで太ってしまった父は、母からダイエットを命じられて、おかわりを禁止されてしまった。美味しそうな刺し身を前に、しょんぼりする父。その姿があまりにもおかしくって、笑いを堪えきれなかった。

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塩竈の港からは、小さな島が見える。定期的に出ている遊覧船に乗ると、それらの島々まで足を延ばすことも可能だ。

幼稚園のころは、よく両親とともに遊覧船に乗った。父はいつも「かっぱえびせん」を用意していて、それをデッキの上でばら撒いた。すると、お腹を空かせた海鳥たちが集まってくる。ぼくが「すごいすごい!」とはしゃぐと、父は得意げにかっぱえびせんをばら撒いた。いま思えば、すごいのは父ではなくで、かっぱえびせんなのだけど。

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ここは父が教えてくれた、釣りの穴場。住宅地の奥に、魚が釣れるスポットがあるのだ。

アウトドア好きな父は、土日になるとよく釣りに出かけた。ぼくもそれについていき、一緒に釣り竿を垂らす。でも、弱虫だったぼくは、釣り餌が触れなかった。「お父さん、怖い……」と言うと、父は「弱虫だな」と笑いながら、釣り針に餌をつけてくれた。

ここではハゼがよく釣れた。あるときは、クーラーボックス2つ分も釣れてしまい、母が「こんなに釣ってどうするの!?」と困っていた。普段は無表情なくせに、そんなときの父はなんだか得意げな顔をするのだった。ぼくはそれを横目で見て、ニヤニヤ笑った。

緑も豊かで、四季の変化を体感できる

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塩竈の中心にあるのが、この鹽竈神社だ。塩竈にはあまり観光名所がないけれど、ここは自慢できるスポットのひとつだと思う。

春には桜が満開になり、秋には赤や黄色に色づく紅葉が楽しめる。

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境内は想像以上に広く、清々しい空気を味わいながら散歩するにはもってこいの場所だ。

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そして、この大階段。202段もあり、登り切るころには息が切れてしまう。

母がつくってくれたお弁当を片手に、ぼくはよく父と鹽竈神社でお花見をした。けれど、この大階段は強敵である。幼いころは、途中で「もうやだ!」と駄々をこね、父におんぶしてもらっていた。

初めて自分の力で登り切ることができたのは、小学2、3年生のころだったと思う。なんだか少しだけ大人になったような気持ちで満たされていたぼくを、父はうれしそうに見つめていた。ただし、行きで体力を使い果たしたぼくは、父におぶってもらい帰宅した。それでも、父は一度も文句を言ったことがなかった。

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この伊保石公園には、よく虫捕りに訪れた。

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園内は緑豊かで、夏になるとさまざまな虫を捕まえることができた。ただし、怖がりのぼくはチョウチョやカマキリ、バッタすら触れなかった。それでも、一端の小学生男児らしく虫の生育には興味津々だったため、わがままを言って、それらを父に捕まえてもらっては満足していた。

父が偶然にもカブトムシを捕まえた日には、テンションも最高潮。鼻高々で帰宅し、母に「これ、捕まえたの!」と自慢した。父の手柄を横取りである。しかも、その後は、父と母が手分けをして虫の世話をしていた。なんて息子だ。

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「なにもない」と思っていた街には、「思い出」が詰まっていた

父が入院している間、こうしてぼくは塩竈中を歩きまわった。すると、そこかしこに、父との思い出が眠っていることに気づいた。あんなに大嫌いだった塩竈。もう捨てたつもりでいた塩竈。だけど、忘れられない思い出がたくさん詰まっている塩竈。

そこにあったのは、「障害者から生まれた子ども」としての思い出ではなく、「親に愛されて育った子ども」としてのそれ、だった。

鼻につく潮のにおいとシャッター商店街しかないと思っていた街が、キラキラして見えた。父と過ごした日々の記憶を手繰っていくほどに、この街が、やっぱり自分の生まれ故郷なんだと実感できた。ぼくは、この街が好きなんだ。

結局、父は3週間も経たずに退院した。後遺症の心配もなく、むしろ入院前よりも元気になったのではないかと思うくらいハツラツとしていた。医師も「最短記録ですよ!」と驚いていた。

その後、数日間の自宅療養を経て、父はすぐに仕事に復帰することを決めた。「もう少しだけのんびりすれば」と言ってみたものの、「仕事が好きだから」と主張を曲げない。それだけ元気なら、もう心配はいらないだろう。ぼくは、東京へ戻ることにした。

東京へ戻る日の朝、父と母が仙台駅まで見送りに来てくれた。「大変だったね」「体調に気をつけて」と一通りの挨拶を済ませ、改札を抜ける。

なんとなく、振り返ってみると、ふたりがまだこちらを見ている。

「じゃあね」と言いかけて、それは違うな、と思った。ぼくは足を止めて、「また、すぐに帰るから」と手を動かした。

うれしそうに頷く母の横で、父は仏頂面を浮かべ、手を動かす。

――いつでも、待ってる。

そして、さらに続ける。

――大、ありがとう。

その瞬間、父が泣きそうな顔を見せたのは、ぼくの勘違いだろうか。

あれからしょっちゅう帰省するようになったけれど、それだけはいまだに訊けないでいる。


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筆者:五十嵐 大

五十嵐 大

1983年生まれ、宮城県塩竈市出身。耳の聴こえない両親のもとで育った、ひとりっ子。WEB制作会社、編プロを経て、フリーライターとして独立。現在はエンタメと福祉の両軸で活動中。 Twitter:@igarashidai0729

 

編集:ツドイ