【小説:広島県・呉市】夜の港のわたしたち

著: 土門 蘭 

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 実家の近くの朝日町公園の時計は、直しても直しても時間が狂うという噂で、幼いころはそれが気味悪かった。

 ここに来るのは何年ぶりだろう。遊具はぴかぴかに新しくなっているのに、時計は古いままで、わたしはコートのポケットに手を突っ込みながらそれを見上げる。取り出したスマートフォンの液晶は午後六時二十三分を示していて、公園の時計はやはりそれより五分ほど遅れていた。

 三月。すでに日は暮れていて、夜風が冷たい。吐く息が、薄暗い空気に現れては消えていく。

「やっぱり狂っとる」

 そうつぶやく声が聴こえた気がして、わたしは後ろを振り返った。でもそこには誰もいなくて、無人のブランコが二つ並んで静かにぶら下がっているだけだった。

 わたしは自分がひとりごとを言ったのだと気付く。

 ほっとすると同時に自分をおかしく思いながら前を向き、ぎくりとした。今まで誰もいなかったはずなのに、そこにはいつの間にか高校生が立っていて、時計を見上げている。

「いっつも五分遅れとるが」

 そう言って、高校生が振り返る。

「ほんまに誰か直しよんかね?」

 その顔を見て、わたしは言葉を失った。
 マフラーにうずもれているその顔は、まぎれもなく十六歳のわたしなのだった。

 

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 母が交通事故にあったと病院から連絡が来たのはゆうべのことだ。自転車に乗っているときに、左折してきた軽自動車にはねられてしまったらしい。骨は折れていないけれど打撲がひどいらしく、精密検査をするために入院が必要だという。それで、わたし以外に親族のいない母のために、日帰りで故郷の呉市へと帰ることになった。

 ベッドの上に横たわっていた母は、からだを起こすのも一苦労だった。顔からアスファルトに倒れこんでしまったらしく、頬骨や目の周りに青あざや擦り傷があり痛々しい。

「ひどい顔じゃろう」

 母があんまり悲しそうに言うので、わたしも胸を痛める。そして、努めて何でもなさそうに言った。

「全然大したことないじゃん。すぐ治るよ」

 ほうかねえ、と母は肩を落とす。スナックをやっている母は、店を閉めねばならないこと、そしてこの顔でカウンターに立たねばならないことを嘆いていた。猫背の母は、急に年老いたように小さく見えて、わたしは胸がどきどきした。

 入院手続きを終え、必要なものを母のもとにそろえ、これから京都へ戻るところだった。公園を突っ切れば大きな通りに出る。そこでタクシーを捕まえて、呉駅まで行くつもりだったのだ。

  

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 目の前のわたしが、わたしに聞く。

「今からどっか行くん?」

 わたしは声が出ない。十六歳のわたしは紺色のスカートから伸びたむき出しの脚を、寒そうにぴっちり合わせて立っている。

「とりあえずお腹空いたんじゃけど」

 何がとりあえずなのだろう。でも、唖然としているわたしに構わず、彼女が大通りへとすたすた歩き出すので、慌ててついていく。教科書が入った重たそうなリュック、かかとの磨り減ったスニーカー、グレーの厚手のマフラー。十六歳のわたしの後ろ姿の、あまりの懐かしさにくらくらしながら、彼女が呼び止めたタクシーに乗り込んだ。その慣れた調子に、わたしは彼女がわたしであることを思い知る。

 

 運転手に、十六歳のわたしはファミリーレストランの名前を伝えた。
「サンデーサンまで」

 それをすかさずわたしが訂正する。
「あ、すみません。ココスまでお願いします」

 運転手は無言で走りだす。十六歳のわたしは目を丸くして「何、ココスって」と言った。

「サンデーサンはもうないなった。今はココスって名前になっちょる」

 そう言うと彼女は「ふうん」と言い、窓の外を見た。

 

 夕飯どきだというのに、ファミリーレストランは空いていて、わたしたちは窓際の四人掛けのテーブルに通された。硬くて冷たいソファに座るやいなや、十六歳のわたしは大きなメニュー表を開いて、ほおづえをついて覗き込む。

 ベリーショートの髪の毛、化粧気のない丸い顔、白いカッターシャツ、紺のブレザー。見れば見るほど、目の前のわたしは確かに十六歳のわたしだ。彼女はメニュー表をじっくりと見て、カロリー数を見比べているようだった。そう言えば、わたしは高校時代いつもダイエットをしていたなと、メニューに影を落とすふっくらとした頰を見ながら思う。

 

 「決めた?」
 突然顔を上げ、聞く。わたしがうなずくと、
 「じゃ、呼ぶね」
 と言って、店員を呼ぶボタンをぐーで押した。

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「なんであんたは、出てきたの?」
 店員が去って、なんとなく声を抑えながら聞く。すると、十六歳のわたしはむっとしたような顔をした。

「何よそれ、人をおばけみたいに」

 思わずわたしは「ごめん」と謝る。

「うちだって、ようわからん」

 不機嫌そうに言うので、何を話せばいいのかわからなくなって、ドリンクバーに飲み物を取りに行った。何かいるかと聞くと、十六歳のわたしは「オレンジジュース」と言う。コーヒーマシンのボタンを押しながら、席にもどったらもしかしたらもう消えているかもしれない、と思ったけれど、十六歳のわたしは変わらずそこにいて、ぼんやりと窓の外の夜を眺めていた。

「何考えとるん?」

 オレンジジュースを前に置くと、十六歳のわたしはストローをさして、ごくごくと飲んだ。

「ここは十六年後じゃろう」
「うん……そういうことに、なるんじゃろうね」
「それにしては、何も変わっとらんのじゃなあって、思いよった」

 窓の外を見ると、向かいの公園沿いに屋台が立っていて、提灯の赤い灯りがぽかんといくつか浮かんでいる。

「変わっとるはずじゃのに、変わらんね」

 窓には、十六歳のわたしと三十二歳のわたしの顔が、並んで映っている。

「三十二歳のうちは、今何しよるん?」

 そう彼女が聞いたとき、オーダーしたスパゲティが届いた。十六歳のわたしは、ぱんと音をたてて両手を合わせ、「いただきます」と言う。

 フォークでくるくると巻き取られるスパゲティを見ながら、わたしは彼女の質問に答えた。

「小説書きよるよ」

 すると、彼女は開けた口元に持っていきかけたフォークをがしゃんと皿に戻し、「はあ?」と言って両目を大きく開いた。びっくりすると自分はこんなに目が大きくなるのか。わたしは感心しながらその目を見つめる。

「小説家になっとるってこと?」
「まだできていないし、出版されとらんけど、小説を書きよる」
「何それ、どゆこと」

 十六歳のわたしは疑わしそうに眉をひそめる。

「もう三十二じゃろ? ちゃんと働いとるん?」

 十六歳のわたしに詰められながら、わたしは言い訳するかのように答えた。

「うん、まあ、そのほかにも書き仕事はしよるよ」
「書き仕事」
「それに、本も一冊出したし」
「うそ、何の本ね?」
「歌集。短歌の本」
「たんかぁー。うちが詠みよんね?」

 わたしがうなずくと、彼女はフォークを放り投げた両手で顔を覆った。それから閉じた両目を指でぐりぐりと押して(落ち着こうとするときにやる癖だ)、顔を上げ、気を取り直すかのようにまたフォークを手にとった。「なんかようわからん」と言いながらスパゲティをもぐもぐと頬張る。

「ねえ。短歌でうち賞とったの、覚えとる? 中三のとき」

 そう言われて、あ、とわたしは思い出す。今の今まですっかり忘れていた。

「そうじゃったね。思い出した。なんじゃったかいね。『おかえりと……』」
「ちがうちがう、『ドアを開け』よ」

 十六歳のわたしは、その短歌を口にした。

 

  ドアを開けおかえりと言う母探ししんとしている部屋が冷たい

 

 恥ずかしそうに、最後らへんは小さな声になった。あー、とわたしは言う。

「そのとき、五千円分の図書カードを副賞でもらったんよね。それがぶち嬉しゅうて、大事にたんすに入れとったのに、なくしてしもうたんよ。ほいで泣いて探してからねえ」

「……よう覚えとるね。短歌は忘れとるくせに」

 十六歳のわたしは呆れたように言い、またスパゲティを大きな口に入れた。

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「それじゃあ、小説を書いたんも忘れとるじゃろう」

 えっ? とわたしが声をあげると、彼女は水をごくんと飲んで、

「やっぱりね」

 と言った。十六歳のときのことなんて、バスケ部だったこと以外何をしていたかほとんど思い出せない。

「どんなん書いたっけ」

「別に普通のよ。普通の女の子ふたりが、普通の夏を過ごす話じゃ。数学の授業があんまり暇なけえ、授業のたびに紙に書いた」

「それ、できあがったん?」

「できたはできた」

「すごいじゃん。じゃあそれがうちの処女作じゃん」

 そう言うと、十六歳のわたしはうさんくさそうな顔をした。タイトルを聞くと「蝉」と言った。その瞬間、ルーズリーフにシャープペンシルで文字を書く、自分の手が見えたような気がした。

 高校の校舎は急な坂の頂上にあって、一年生の教室はさらにその校舎のいちばん上の階にあった。教室を出ると港の海が光っているのが見えた。開けはなした窓から風がよく吹きこんできて、時折ばらばらとプリントが飛んだ。わたしはいつも眠たかった。

 

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「その小説は?」

「捨てた」

 あっさりと十六歳のわたしは言った。わたしは、そうなん、と言う。あったとしても、読み返さないだろう。

「それ、誰かに読ませたっけ」

「ひとりだけ。土井さんに読ませたじゃん。感想の手紙もくれたのに」

 土井さんというのは、同じクラスだった女の子だ。出席番号と席が、わたしのひとつ前の。すごく勉強のできる子で、いつも真面目に授業を聞いていた。わたしはその後ろで隠れて、小説を書いていた。

「蘭ちゃん、授業中何書きよるん?」

 土井さんはある日、そう遠慮がちに尋ねてきたのだ。前の席から、こちらを振り返りながら。そうじゃったね、とわたしは思い出す。

「あのね、土井さん、歌集出したときにもすぐに手紙をくれたんよ」

 そう言うと、十六歳のわたしは目を大きくして「うそじゃろう?」と言った。

「ほんまよ」
「まだ友達なん?」
「そういうことになるね」

 十六歳のわたしは、「まじか」とつぶやき、嬉しそうに椅子をかかとで何度か蹴った。

「十六歳のときって、将来の夢とかあったっけ」
「夢とか、ないよ」
「そうじゃったかな」
「大人になると、全部忘れるんじゃねえ」

 十六歳のわたしはまた呆れた声を出し、わたしのコーヒーを一口飲む。そして「にが」と言って顔をしかめた。

「保育園の先生とか、花屋さんとか、弁護士とか言いよったけど、そのどれもほんまじゃない。こないだ進路のアンケートとられたけど、なりたいもんなんか何もなくて、白紙で出してしもうた」

「小説家は?」

 そう尋ねると、十六歳のわたしは「それはない」と笑って首を振った。

「それはない?」
「ないよ。うちが小説家になる言うたら、終わりじゃろ」
 終わり。わたしは彼女の言葉を繰り返す。

「何が、終わりなんじゃろう」
「全部よね」
 十六歳のわたしは即答する。

「うちが小説書く言うようなったら、そんときはほかに夢も希望もない、ほんまにあとがないときじゃ。お母さんが泣くわいね」

 確かに、わたしはそう思っていた気がする。

 十六歳のわたしは、はたと気がついたようにわたしを見て、

「あんたはもう、あとがないんね?」

 と、心配そうな顔で言った。

 

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 ファミリーレストランの正面には、大きなすべりだいのある公園がある。

 そのすぐ脇を堺川が流れている。濁った緑色の、たいしてきれいでもない川で、夏にはくさいにおいがした。その橋を渡ると「れんがどおり」という、名前の通りれんがが敷き詰められた繁華街に入る。そこにはゲームセンターやファストフード店や大型スーパーなどがあって、横にそれるとそれぞれの通りに小さなスナックやバーが無数にあった。今ではその大半がシャッターを閉じて、ずいぶん寂れてしまっている。

 そこに、わたしたちの母の店はある。もともとホステスをしていた母は、わたしが小学校に上がるときに、そこでスナックを開業した。父とはその数年後に別れてしまったが、店は二十年以上続いている。

 彼女は一年に三日も休まない。正月、あとは本当に体調が悪いときだけ店を閉める。

「家におっても金は入ってこん」

 というのが母の口癖だった。学校から家に帰ってくると、化粧をした母が入れ違いで出ていく。夕飯代だけが置かれているときもあった。わたしは母が父と別れて以来、ほぼすべての夜をひとりで過ごした。

 高校生になると、わたしは夜に家に帰らなくなった。学校が終わるとファミリーレストランの真横にある図書館に行き、閉館までの時間をそこで過ごした。誰もいない自分の家よりも、本がいっぱいある静かな図書館のほうが安心した。

 ソファにもたれかかって本を読んでいると、時々母から携帯電話に呼び出しがあった。きりのよいところまで読み進め、そこに栞ひもを挟んで本棚に戻す。そしてまた次の日は、続きから読み進めるのだ。自動ドアを開けると、いつも外は夜になっていた。 

 店に顔を出すと、顔を赤くしたお客さんが

「ママの娘? 大きい子がいるんだね」

 と言って、万札をわたしのポケットにねじこんでくれる。

「自衛隊さんなんよ」

 母は、そのお小遣いが目当てでわたしを呼び出すのだった。

 わたしはお客さんがくれた万札と、母がくれたタクシーチケットをなくさぬように握りしめながら、夜の繁華街を通り抜ける。髪の長いフィリピン人や韓国人の女の子が、お客さんに「マタキテネー」「アイシトルヨー」などと言っているのが聴こえる。自衛隊さんは、がたいがいいからすぐわかる。酔いつぶれてうずくまっているのは、たいてい年老いたおじいさんだった。

 小便くさい駐車場には、母が猫にあげるえさのタッパーが置かれていて、わたしはそこに店から持ってきたキャットフードをざらざらと流し込む。野良猫が、こちらを用心深そうに見ている。わたしはきびすを返して、流しのタクシーを捕まえる。

「朝日町公園まで」

 そして、運転手にそう告げるのだった。

 

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「何考えとるん?」

 窓の外をぼんやり見ているわたしに聞く。

「はよう出ていきたいなあって」

「呉?」

 彼女はうんと素直にうなずく。

「じゃけえ、やりたいことはないけど、勉強だけはしよる。とりあえず奨学金もらって、どっかの大学行くんがいちばん手っ取り早い」

「でも数学の授業は聞いとらんと、小説書くんじゃね」

 そう言うと、十六歳のわたしは外を眺めたままの姿勢で笑った。

「じゃって数学ようわからんのじゃもん。暇なけえ」
「暇なと、小説書くんね?」
「暇なと、さみしうなるじゃろう? さみしうなると、書きとうなるじゃろう?」

 わたしは、十六歳のわたしをじっと見る。

「あんたは、さみしいんかね?」
「さみしいよ。ずっとさみしい。もう忘れたん?」

 忘れとらんよ、とわたしはつぶやく。

 コーヒーは冷えて、わたしの手の中で半分以上残っている。黒い液体にたゆたうわたしの影は、いつの間にか夜の海の中にあった。

「あぶないよ」

 十六歳のわたしがわたしの腕を掴む。コンクリートで安直に固められた陸には、海とのあいだになんの仕切りも設けられていない。わたしは自分がその際で夜の海をのぞきこんでいたことに気づいて、はっとした。右腕には、十六歳のわたしの手が食い込むほど強く握られている。冷たい潮の風が、びゅっと耳をふさいだ。

 

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 港だ。

 向こう側からフェリーが一艘近づいてきて、海面を揺らす。ちゃぷちゃぷと、コンクリートに波がぶつかる音がする。丸い屋根のターミナルから、船を待っていた人たちがぞろぞろと出てくる。

 いつの間にここに来たんだろう。時間を見ると、終電まであと一時間を切っていた。港のすぐ裏側には呉駅がある。そこから広島まで行って、新幹線に乗らなくてはいけない。

「帰るん?」

 十六歳のわたしが聞いた。どこに、とは聞かない。今のわたしが何をやっているかはあっさりと聞くのに。

 そろそろねと言うと、彼女はふうんと言った。

 遮るものの何もない港で、冷たい風が顔を容赦なく打つ。潮を含んだ風が、十六歳のわたしの短い前髪をかきあげ、白いおでこをむき出しにさせた。

「ここは風通しが良すぎるわ」

 スカートが、はたはたと音をたててなびいている。

 乗客を乗せたフェリーが、また海を帰っていく。波立つ海に、眠っているように静かな軍艦が浮いている。その奥にはいくつものクレーンが、控えめに灯りをともしてじっと立っていた。

「造船の街じゃねえ」

 とわたしは言った。

「海っていうか、やっぱり港よね。ひとが出たり入ったりするための、人工の海じゃ」

 十六歳のわたしは黙っていた。その沈黙は、明らかに怒りだった。

 そのとき、わたしは彼女をここに置いてきぼりにしてしまったことを、急に理解した。

 十六歳のわたしが、低い声で言った。

「じゃけえ、さみしいの?」

 わたしは彼女の顔を見る。彼女もわたしの顔を見ている。

「ここを出ていけば、さみしうなくなるの?」

 うん、とも、ちがう、とも言えなくて、わたしは正直に「わからん」と答えた。

「確実に言えることは、まだうちは小説を書きよるっていうことだけじゃ」

 すると、十六歳のわたしからみるみる表情が消えた。笑ってはいけないとは思いつつも、思わず笑ってしまう。彼女はすぐにムッとした表情になって、「笑うなや」と文句を言った。

「絶望しとる?」
 と聞くと、

「絶望しとる」
 と十六歳のわたしが言う。

「まあ、しようがない。それが事実じゃ」
「それって、三十二歳になっても不幸ってこと?」
「なっても? 今、あんたは不幸なん?」
 そのとたん、十六歳のわたしは大きな声を出した。

「不幸なわけないじゃろ」

 驚いて彼女を見つめると、決まりが悪そうに下を向く。スニーカーのつま先をコンクリートにぶつけながら、彼女はつぶやいた。

「出ていこうと思えば出ていけるんじゃけえ、不幸なわけないじゃろ」

 わたしは「うん」と言って、腕を伸ばした。わたしと同じ背の高さの、彼女の頭をなでる。

「今のわたしもそう思っとる。あとがないけど、不幸ではないよ」

 潮風に吹かれた短い前髪は、なでつけるとすぐに元どおりになった。手のひらの下で、十六歳のわたしが気持ちよさそうに目を閉じた。

 

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 そのときふと、思い出した。 

 わたしは十六歳のとき、時折タクシーでここに来ては、こんなふうにひとりで眺めていた。夜の港で、夜の海を。夜の海は冷たそうで、真っ黒で、飛び込んだらそのまま呑み込まれそうだった。

 コンクリートのぎりぎり際に突っ立って、おそるおそる海をのぞきこむ。胸がどきどきして、てのひらがびりびりする。わたしはその遊びを何度もした。頭がくらくらして、本当に落ちてしまいそうだった。

「もうそがいなことしんさんな」

 十六歳のわたしは目を閉じたまま「ふふ」と笑う。

「船に乗ったらどこでも行けるじゃろう」

 そう言うと、「そんなん昔から知っとるよ」と、彼女はゆっくり目を開けた。

 船の汽笛が聴こえたような気がして、わたしは港を振り返った。だけど真っ黒の海には何もなくて、あいかわらず静かにうずくまる軍艦と、灯りでぼんやりと浮かぶクレーンの影が見えるだけだ。

 

  行き着いた場所はようやく帰りきた場所かもしれずただいまと言う

 

 なにそれ? と、十六歳のわたしが言う。

「短歌。わたしの歌集に入っている歌」
「ふうん」

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「なんか、中三のときの短歌の、返歌みたいなね」

 そのときまた、強い風が吹いた。

 視線を戻すと、そこにはもう十六歳のわたしはいなかった。

 

(了)

 

呉の思い出を振り返る

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呉駅:

わたしは高校がある坂とはまた別の坂の上に住んでいて、自転車通学だったので、呉駅は日常的には使わなかった。上りか下りか、ひとつの線しかないシンプルな駅だ。ここから広島行きの電車に乗ると、途中で車窓の景色が一面の海になる駅がある。

 

 

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朝日町公園:

小学生のころによく遊んだ公園は、朝日町にあるから通称「朝日町公園」なのだけど、正式名称は「胡町公園」という。子どもたちのなかでも呼び名は曖昧で、わたしは「朝日町」のほうが響きが好きでそう呼んでいた。太平洋戦争が終わるまでは遊郭があった町らしい。

 
 

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朝日町公園の時計:

ここの時計は昔からいつも少し遅れている。十年以上ぶりに行ったら、やはり今も遅れていた。

 

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れんがどおり:

アーケードの入り口には「れんがどおり」と書かれているが、ライトが点かなくなっているので夜に見ると何て書いてあるのかわからない。呉駅に大きなショッピングモールができてから急速に人通りが少なくなったと母は言う。

 

 

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やよい通り:

れんがどおりの脇にはいくつかの小さな通りがあって、小さなスナックやバーがひしめいている。母のスナックはそのうちのひとつのやよい通りにある。今年で開店から25年だそうだ。退院してから、また毎日店に立っている。

 

 

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蔵本通りの屋台:

図書館とファミリーレストランの正面の横断歩道を渡ると、屋台が数軒ある。ラーメンとかおでんが食べられるし、おいしいらしいよという話はよく聞くけれど、一度も行ったことはない。

 
 

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呉中央桟橋ターミナル:

呉駅の裏にある港の待合所。ここからは広島、江田島、松山に行くフェリーが出ている。船に乗って毎日高校に通う友達もいた。ターミナルの中にはベンチや売店があるので、高校生カップルがよくここで時間を潰している。


 

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呉港:

フェリーの最終便が行ってしまうと、誰もいなくなる。夜の港は静かで暗い。白と赤のクレーンを見ると、今もなつかしい気持ちになる。

 



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著者:土門蘭

土門蘭

1985年広島生。小説家。京都在住。ウェブ制作会社でライター・ディレクターとして勤務後、2017年、出版業・執筆業を行う合同会社文鳥社を設立。インタビュー記事のライティングやコピーライティングなど行う傍ら、小説・短歌等の文芸作品を執筆する。共著に『100年後あなたもわたしもいない日に』(文鳥社刊)。

編集:Huuuu inc.