著者: 田渕徹
「川は少年の気持ちに寄り添ってくれた」
2022年2月半ば、「街と音楽」をテーマにしたエッセイの執筆依頼があった。受け取ったテーマから、私は自分の音楽のルーツについて書くイメージを思い浮かべていた。
音楽との関わりが薄かった生い立ちの中で、私と音楽がどのように結びつき、歌うことに辿り着いたのか?音楽に出合う前と後で見えた風景はどう変わっていったのか?
エッセイを書くにあたって、まずは少年時代の記憶をかき集めることにした。すぐ頭に浮かんできたのは、子どものころよく遊んだ近所の川の風景だった。
私の生まれ育った家のすぐ近くには「大和川」という大きな川が流れていた。大和川は、大阪市と堺市を隔てて東西に流れる一級河川で、地元の大阪市住吉区、住之江区に面している。
川は、渡り鳥が羽を休める場所であり、人々が思い思いの時間を過ごす「心の解放区」でもあった。朝の堤防は散歩する犬や運動する人でにぎわい、夕方には学生の溜まり場やサラリーマンが黄昏る場所にもなっていた。
気弱な少年時代。川は私にとって安らぎの場所だった。
落ち込んだときは、よく一人で川を訪れ、焦点の定まらない目でぼーっと川の流れを見ていた。日々の嫌な出来事からピントをズラすことで、気持ちに逃げ場をつくっていたのかもしれない。川に石を投げたり、魚がはねる様子を観察したりしているうちに、夕暮れが私の肩を叩いた。川で過ごす空っぽの時間は、絡まった感情をほぐすのに必要な時間だった。堤防を吹き抜ける風は危ない目をした少年にも優しかった。
「つまずくところなどない街でつまずいた私」
大阪市内の最南端に位置する住吉区清水丘に生まれ育った家があった。すぐ近くには大和川が流れていた。
中学までを過ごした住吉区は、大阪市内でも比較的静かな地域で、繁華街や観光地は少ない。そのかわりと言ってはなんだが、子どもが安心して遊べる小さな公園や、野良猫が暮らしやすい路地があり、街全体にのんびりとした空気があった。
文化住宅や団地、長屋や古民家が軒を連ねる住宅街。
あちこちの換気扇から漏れてくる夕飯のにおい。
壁ごしに聞こえる家族の談笑。
回覧板について回る世間話とうわさ話。
近隣を飛び交う厄介とお節介。
下町特有の雑多な愛の中で、私は生まれ育った。
少年時代の私は食が細く、あばら骨が浮き出ており、その体型と釣り合った細い神経の持ち主だった。物心ついたときには、すでに生きづらさを感じていたように思う。近所には遊び仲間もいたし、鍵っ子でも寂しさを感じることなく育った。決して暗い少年時代を過ごしたわけではないのに、強く残っているのはつまずいた記憶。
少年のころの私には、軽いチック症(みたいなもの)や対人への不安があった。
テレビのスイッチを消した途端、スイッチがつくのかが不安になり、スイッチをつけたら、消えるのかが不安になり、気がつくと何度も何度もテレビのスイッチをオンオフしていた。人と話をするときには、その間にある時間と空気が重いもののように感じ、気持ちのやり場と、表情のつくり方がわからず、高速でまばたきを繰り返すことで何とかその間をやり過ごしていた。相手のことを好きか嫌いかを判断する余裕もなかった。
また、過度の心配症で、小学生にして親の老後を心配し、眠れなくなるような子どもだった。何かの体験からそうなったのか、元々の性質がそうだったのかはわからない。とにかくあのころの私には、テレビで見かけるような関西人のノリはなく、ツッコミにくいボケで他人に気を遣わせるヤツだったに違いない。
ちょうどいい曇り空の下、何年かぶりに歩いた街は、あのころと変わらずとてもゆっくりとした時間が流れていて、何なら止まっているような気さえした。そんなマイペースな街には、そのままの愛しくておかしな日常があった。
100円の使い道を教えてくれた三丁目の駄菓子屋のおばあちゃん。
散髪をするとプラモデルをおまけしてくれる理髪店の兄ちゃん。
新聞紙で覆い隠された少年ジャンプをフライング販売してくれた商店のおばちゃん。
どこからともなくやってきて、夕暮れ時を知らせるホラ貝吹きのおじさん。
いつも何かしら上手くいかなくて、よく落ち込んだ少年時代。この街の少しズレた日常とのんびりした空気が、私の気持ちをホッとさせてくれたのかもしれない。
世の中は目まぐるしく変わるのに、昔とそれほど変わらない街並みを見ていると、必死だった少年の日々が、急にスローモーションに見えた。よく考えたら「どこで何につまずいていたのだろう?」と、あのころの自分が少しおかしくもあった。
「空想を育んだ街と、空想もしなかった歌の目覚め」
少年時代の私は、空想と仲良しだった。三丁目の長屋にも仲良しの友達はいたけど、辛いときや苦しいときは、よく空想と一緒に遊んだ。空想の世界はいつも優しくて、一番の理解者だった。
情報量の少ない街は、空想を育むために必要な余白が充実していた。
高いビルがなく、遮られることのない空。
秘密基地をつくるのにふさわしい空き地。
かくれんぼにもってこいの路地裏。
この街の余白で育んだ空想は、やがて「想像すること」から「創造すること」へ。
そうして私は、イメージを形にすることを覚えていった。
自分が忍者になって悪者に囚われたお姫様を救出するというベタなヒーロー漫画「忍者タブ丸くん」は、コロコロコミック半分くらいの分厚さがある力作であった。
ほかにも、小学生当時はやっていた「ゲームブック」という読む人間の選択によってストーリーが変化する形式の本を、オリジナルストーリーで作成しては友達に見せていた。タイトルや内容、友達の評価は忘れた。
スタジオジブリの映画「天空の城ラピュタ」が好き過ぎて、フラップター(というハエみたいな飛行船)を廃材と釘だけでつくろうとした。その制作に失敗するまでは良かったが、ある日、小学校の校庭から見た雲が、龍の巣(ラピュタを囲む低気圧の塊)だと信じこみ、好きな子から「空想し過ぎ」とドン引きされてしまったのは苦い思い出である。
今思えば、空想のスケールは平凡だったが、頭の中にあるイメージを形にできたときの快感は、物づくりの原点となり、今も作曲のモチベーションとなっていることは確かである。
私の家にファミコンはなかったが、CDラジカセがあった。ビートルズのレコードはなく、河島英五のカセットテープがあった。私のルーツミュージックは、酔った父がアカペラで歌う「酒と泪と男と女」だった。芸術が爆発しようもんなら軽く吹き飛んでしまいそうな木造二階建てで、私はCDラジカセと一緒によくはやり歌を歌っていた。
誰に聞かせるわけでもない歌。
ある日私は、一階で夕飯の支度をしていた母に聞こえるように大きな声で歌ってみたら「徹は歌上手やねぇ。」と褒めてくれた。そのときの褒め方は”褒めて伸ばす”ような息子への姿勢でなく、一観客としての母の評価だったように聞こえて、ずいぶんうれしかった記憶がある。その当時、母はパート・家事・育児に追われ毎日イライラしている印象だったので、そんな母の素の言葉を聞けたことが、なおさら心を弾ませたのだ。
あのときの言葉がなかったら、私に「人前で歌う」という選択肢はなかったと思う。母に認められるだけで満足だったのに、やがて自分でつくった歌を誰かに聞かせることになろうとは、そのときの私は空想もしなかったのである。
「音楽との出合い、街との別れ」
私の高校入学のタイミングで、実家は住吉区から住ノ江区安立(あんりゅう)へと引越しをした。と言っても、前に住んでいたところから徒歩5分ほどの距離に引越し先の家はあって、引き続き大和川が寄り添う街で、私は思春期を迎えることになった。
実家の前には阪堺線という路面電車、通称“ちんちん電車”が走っており、徒歩1分の場所に最寄りの駅があった。10分ほど歩けば、南海本線の駅もあり、アクセスの良い環境にいた私の行動範囲は自ずと広がっていった。
梅田、難波、天王寺へと出かけるたびに見かける奇抜なファッションや新しいアート。同じ大阪市とは思えないその街の情報量に唖然とし、私の価値観はしばらく追いつくことができなかった。
音楽との接触は、高校三年の秋ごろ。高校生活の全てを捧げたクラブ活動が引退の時期を迎え、卒業までの半年間、私は空っぽだった。そんなある日、当時ヴィジュアル系のバンドを始めていた三丁目の長屋の兄ちゃんが、私にクラシックギターを貸してくれた。そのときに教わったコードは4つ、曲は「STAND BY ME」。
「A→F#m→D→E」と、弾き進めてみる。
「ぷすん、ポロリ、ぷすん」とギターの弦は思うように響いてはくれなかったが、私の空っぽの心を弾ませるには十分な響きだった。その夏、ようやく出合えた「音楽」に、私はすぐさま夢中になり、日がな一日中ギターを弾いていた。
練習場所は、もっぱら大和川の土手。
音楽をまとった自分が何だか無敵に思えて、日が暮れても、誰も聞いていなくても、ひたすらギターをかき鳴らし、歌う日々を送っていた。音楽を知れば知るほど、また新しい音楽が知りたくなる。生活全てから音楽臭が漂うほど、音まみれになった私は、音楽の匂いが弱いこの街にいる理由を、ついに嗅ぎ出すことができなくなった。
街を出ようと決めたのは、21歳のときだった。
「私の歌の原風景」
それから私は、東大阪の布施で一人暮らしを始めた。家賃4万2千円のワンルームで肉なしカレーを食らう毎日。音楽で満腹の生活。作詞作曲の日々。MDに収録された産みの苦しみ。溜まった言葉やメロディーの貯金は、のちに利息としてたくさんの歌を生み出してくれた。
やがて私の歌は、近所の公園から街のストリートへ、ストリートからライブハウスへと、活動場所を「人前」に移していった。ライブにも手応えを感じ始め、自信は積み上げられていった。対人への不安は他人への興味に変わり、交友関係も広がっていった。短いモテ期も経験した。音楽に出合ってからの私の人生は、少年時代のうさを晴らすかのように開かれていった。
バンド「グラサンズ」を始めたのは20代後半だっただろうか。
少しはお酒も呑めるようになっていた私は、かつてのストリート仲間と再会し、乾杯し、ブルーハーツ以外の音楽を奏でようと、バイオリンやらアコーディオンやらウッドベースやら見慣れない楽器を持ち寄った。
酒と音楽を共有し、泥酔と泥沼を繰り返しながらも、初めてのアルバム「布施からの電話」は全国発売を果たした。発売記念と称したツアー先々での失態で全国の皆さんに怒られたことは生涯忘れないだろう。酔いが過ぎて悪評も高かったグラサンズでの活動は、私の音楽人生の足を引っ張りながらも楽しい地獄を見せてくれた。
30代、ソロとバンド活動の二足のわらじに加え、私は家庭を持った。守るべきものと愛すべきもので埋まっていく人生のスケジュール。立ち止まる間もなく、日々はにぎやかに過ぎていった。
音楽と出合うためにこの街を出て20年がたった。その間に、たくさんの歌を歌った。
私は少年の私と歌った。
やり場のない感情を歌った。
失くしたくない気持ちを歌った。
忘れないように歌った。
夕暮れの寂しさを歌った。
一人ぼっちで歌った。
川に吹く風の優しさを歌った。
街と暮らしを歌った。
雑多な愛を歌った。
かけがえのない日常を歌った。
路地裏で暮らす猫の自由を歌った。
公園で遊ぶ子どもの声を歌った。
家族の楽しげな食卓を歌った。
木造二階建てで歌った。
酒と泪と男と女を歌った。
母からもらった言葉を胸に歌った。
まだ歌になる前の歌を歌った。
たくさんの歌の中に、音楽と出合う前の風景が広がっていた。
そこに私の「歌の原風景」があった。
エッセイのネタ集めと写真撮影を兼ねて、私はまた何年かぶりに大和川を散歩していた。
水質が改善されてもお世辞にも綺麗とは言えない川で、あのころと同じように羽を休める渡り鳥。堤防で溜まるのは、世代が変わっても行き場のない学生たち。街の人々が過ごす思い思いの時間は今もキラキラしている。いつ訪れてもこの川には、あのころと変わらない優しい風が吹いていた。
誰もいなくなった夕暮れ。
あのころと同じ場所に腰掛けて、私は「誰に聞かせるわけでもない歌」を歌った。
地元のお気に入りスポット
お好み焼 えいちゃん
安立商店街の中にある老舗のお好み焼き屋さん。一枚250円のお好み焼きは、いつも鉄板に隙間なく並べられ、街の人々のお腹を満たしている。1週間に一度は食べたくなる味。
半゜屋 キナリ
安立商店街の中に新しくできたパン屋さん。優しそうな店主によって丁寧に焼き上げられたパンは、一口かじるとうれしくなる美味しさ。お手頃価格なのもgood!街に美味しいパン屋さんができたらテンションあがる〜!
撮影:田渕徹
魚とごはん にこ
阪堺線我孫子道駅を降りてすぐ。美味しい魚と旬の食材を活かした料理をプロデュースする女性店主。その丁寧な盛り付けと繊細な味付けは、大阪市中心部で勝負できるのでは?と思わせるほど。
おにぎり・惣菜 にんにこ
シャッター街と化した我孫子道商店街にある。午前中にほとんどの商品が完売してしまうほどの人気店で、調理場からはいつもパートのおばちゃんの笑い声とお米のいい匂いが漂っている。
BARBER しらき
散髪するとおまけにプラモデルをくれた理髪店。店は改装されて新しくなっていたが、店主のお兄さんのリーゼントはあのころのまま。
浜口温泉
姉の同級生のご家族が営む銭湯。昔は家にお風呂がない友達も多く、よく「銭湯めぐり」をした。
我孫子道駅
実家最寄りの阪堺線「我孫子道駅」。この駅を境にして西が住ノ江区、東が住吉区。
大小さまざまな公園たち
街にあるのは、こぢんまりとした公園ばかりだが、15分ほど自転車を漕げば、住吉公園や長居公園などの大きな公園もある。そういえば小学生のころ、ブランコ前の鉄柵に立ち、映画「ベストキッド」の”鶴の舞”を真似て失敗し、お腹を強打。友達に心配されず爆笑された悲しい思い出がある。
大和川
映画「愛しのアイリーン」の主題歌として、奇妙礼太郎に書き下ろした曲「水面の輪舞曲」。この曲には夜の大和川の光景が映し出されている。
<田渕徹のプレイリスト>
著者:田渕徹
音楽家、詩人、三児の父。ソロ弾き語りとバンド(グラサンズ)で全国活動中。自作曲、特に詩の世界に好評を博し、奇妙礼太郎への楽曲提供や映画「愛しのアイリーン」のエンディングテーマの作詩曲を担当。その他、詩のワークショップ「Word Watching」を主催するなど、音楽を軸とした多様な創作活動に関わっている。Instagram @tabuchitoru Twitter @tabuchitoru
「街と音楽」過去の記事
撮影:奇妙礼太郎
編集:ヤマグチナナコ(Huuuu)