創作しながら暮らす場所として、あえて「東京」以外の場所を選んだクリエイターたち。その土地は彼、彼女らにとってどんな場所で、どのように作品とかかわってきたのでしょうか? クリエイター自身が「場所」と「創作」の関係について語る企画「ここから生み出す私たち」をお届けします。
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今回の「ここから生み出す私たち」に登場いただくのは、福岡晃子さん。2002年から「チャットモンチー」のメンバーとして活動し、バンド完結後も作詞作曲家、演奏家としてはもちろん、徳島のイベントスペース「OLUYO」の社長として、毎月さまざまなイベントを企画・開催しています。
徳島市内で生まれ育った福岡さんは、2005年、大学在学中にチャットモンチーのデビューが決まると同時に上京。2018年にチャットモンチーとしての活動を完結させたあとも東京で音楽をつくり続けていました。しかし、コロナをきっかけに再び徳島へ移住。常に走り続けていた東京を離れてみて、音楽への向き合い方も変わったと言います。
東京時代とは180度違う、海辺の古民家での穏やかな暮らしや、そこで生まれる音楽について、福岡さんに語っていただきました。
THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのライブに魅せられ、SUPERCARのフルカワミキに憧れて
── 福岡さんは徳島で生まれ育ったということですが、22歳で上京するまでの地元での一番の思い出といえばなんですか?
福岡晃子さん(以降、福岡) 印象深いのは、やはり阿波踊りです。実家は徳島市内の、ちょうど阿波踊りが一番盛り上がるエリア近くにありました。その日は街中の道が歩行者天国になって、10万人くらいの踊り子さんたちが集まります。小さい頃から見てきたあの光景は、上京してからも地元の誇りのように思っていました。
── 福岡さんも、踊り手として参加していましたか?
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福岡 私も周りの友達も、みんな参加していました。だから、地元の知り合いは阿波踊りのおはやしが鳴ったら自然と体が動いちゃう人が多いですね。徳島でやる結婚式は、気づいたらみんな阿波踊りを踊っていたりして。徳島県人にとっての阿波踊りは、沖縄の人のエイサーに似ているのかもしれません。
── 中高生の頃によく遊んでいた場所も教えてください。

福岡 阿波踊りのルートでもある「東新町商店街」が遊び場でした。アーケードがある商店街はいつもにぎやかで、そこを友達とぶらぶらしたり、喫茶店でお茶をするのが楽しみでしたね。
近くを流れる新町川は川沿いが板張りの散歩コースになっていて、商店街で買ったアイスクリームを食べながら歩いたことを思い出します。

── 音楽、特にロックに目覚めたのもその頃ですか?
福岡 小さい頃からピアノは習っていましたが、ロックを好きになったのは中学生の頃です。友達がTHEE MICHELLE GUN ELEPHANT(ミッシェル・ガン・エレファント)の大ファンで、私も影響されて聴くようになって。隣の県で開催されたライブにも、その友達と一緒に行きました。それが、生まれて初めて生で観たライブでしたね。
── 中学生が初めて体験するライブとしては、わりとハードな気もしますが。
福岡 とにかく、お客さんがすごかったです。当時はライブ中のモッシュとかも激しい時代だったので、中学生にとっては恐怖でしかなくて。まじで二度とライブなんて行きたくないと思うくらい、めっちゃ怖かったです(笑)。
でも、それ以上にステージのかっこよさに圧倒されました。それまではTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの曲(歌)が好きで聴いていたんですけど「バンドってボーカル以外も全員かっこいいんや!」って、衝撃を受けたんです。それからロックにどっぷりハマって、演奏にも興味をもち始めました。
── それでベースを手にとった。
福岡 ベースを始めたのは、当時の音楽雑誌に載っていたSUPERCARのインタビューを読んだことがきっかけです。ベース・ボーカルのフルカワミキさんが「(楽器)初心者の頃にバンドを組んでデビューした」みたいなお話をされていて。バンドって初心者でも組んでいいんや!って思って、中古のベースを従兄弟から譲ってもらいました。
「えっちゃん」の熱量に引っ張られプロの道へ
── バンド仲間はすぐに集まったんですか?
福岡 それが全然集まらなくて。当時はバンド=不良みたいなイメージがあったから、友達を誘おうにも親の手前ちょっと難しかったです。結局、中学時代は好きなバンドのスコアを見ながら一人でベースをボンボン弾くくらいで終わってしまいましたね。
高校生になってからはヒップホップやミクスチャーがはやり始めて、徳島市内のクラブにもこっそり遊びに行っていました。そしたら、たまたま行ったクラブのイベントで結成したばかりのチャットモンチーがライブをしていたんです。まず、中学生みたいな見た目の女子たちがロックバンドを組んでいることに驚いて、しかもよくよく見たら高校の同級生がいたっていう。本当に衝撃でした。
── そこからチャットモンチーのファンになったんですよね。
福岡 彼女たちの曲をいろんな人に聴かせて「チャットモンチーっていうすごいバンドがいるぞ!」って勝手に広報していました。ライブにもしょっちゅう行って、めちゃくちゃファンでした。
でも、えっちゃん(チャットモンチーメンバー・橋本絵莉子さん)はたぶん、当時からデビューすることしか考えていなかったですね。直接「プロになりたい」みたいな話をしたわけではないけど、彼女の背中がそう語っていました。大学の軽音楽部のスタジオでバンドの練習をしているときも、えっちゃんの熱の入れようは半端じゃなくて。言葉にはしないけど、全ての行動から本気が伝わってきた。それに引っ張られる形で、私も大学2年生のときには同じ思いを抱くようになりました。

地元・徳島でのライブは「怖かった」
── 大学在学中にデビューが決まり、2005年に上京。以降は東京を拠点に活動しつつも、徳島での凱旋ライブやレコーディングを精力的に行っています。徳島を離れてからも、地元へのつながりを大切にしたいという思いがあったのでしょうか?
福岡 もちろん地元への思いはありました。ただ、デビューからしばらくの間は徳島に帰って活動をしても、「凱旋したぜ」とか「地元だから落ち着く」みたいな気持ちにはなかなかなれなかったですね。むしろ、徳島でのライブのときはいつも以上に緊張して、気を張っていました。
デビュー後に初めて徳島でレコーディングしたときも、えっちゃんやくみこん(2011年まで所属したチャットモンチーメンバー・高橋久美子さん)は気持ちのバランスがとれなくなって体調を崩していましたね。特に、えっちゃんはちょっとバグっちゃってた。レコーディング期間中、彼女は実家に滞在していたんですけど、朝起きたときにふと「あ、制服着なきゃ」って言ったらしくて。学生時代からの知り合いと毎日顔を合わせているうちに10年くらいタイムスリップしちゃったんですよね。
── それくらい、重圧がすごかったと
福岡 そうですね。もちろん、徳島の人たちはめっちゃ温かいし、べつに厳しいことを言ってきたりはしないんですけど、自分たちで勝手に怖がっているようなところがありました。
それを払拭できたのは、2016年に徳島でフェス(チャットモンチーの徳島こなそんそんフェス2016 〜みな、おいでなしてよ!〜)を主催してからですね。徳島のフェスに県外から多くの人に来てもらうからには、私たち自身が徳島のことをちゃんとわかっていないとダメだと思い、地元のいろんな人たちに会いに行くところから始めました。
── 改めて徳島を見つめ直してみて、新たな魅力に気づきましたか?
福岡 「徳島って、こんなに面白い人たちがいるんや!」と。例えば、とある藍染職人さんは、藍染の体験に来たお客さんに地域全体の観光案内までしてくれるくらい地元愛にあふれていたりします。とにかく、ものすごく人間力の高い人が多い。そういう人たちを中心とした地域のコミュニティとつながりながら、時間をかけて地元とじっくり打ち解けていきました。
結果的にフェスもうまくいきましたし、それからは地元で活動するのが楽しくなって、2018年にチャットモンチーを完結するときも最後はやっぱり徳島がいいと思いました。7月に2回目のこなそんフェスを開催させてもらって、最後は全員で阿波踊りをして笑顔で終われたのが良かったですね。
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徳島のファンになってもらう、きっかけの場所をつくりたい
── 2016年には徳島市内にイベントスペース「OLUYO」をオープンしています。きっかけを教えてください。

福岡 2016年に1回目のフェスをやる前に、地元の方々との交流を目的に「チャット商店」という期間限定のお店を出しました。
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チャットモンチーのグッズを売るだけでなく、地元のパン屋さんやカレー屋さんとコラボをしたり、地域のお店と連携したスタンプラリーや、街ぐるみのイベントなどをやらせてもらって。そこにチャットモンチーのファンの方が来てくれることで、徳島のことを知ってもらうきっかけづくりができているような気がしたんです。だったら、期間限定ではなく、こういうお店がずっとあってもいいんじゃないかって。
そしたら、たまたま東新町商店街のアーケードの近くに空き店舗があることがわかって、じゃあ借りてしまおうかと。
── 子どもの頃の遊び場だった、思い出の場所にオープンしたんですね。
福岡 そうなんです。私が中高生だった頃に比べるとシャッターを下ろしているお店も多くて寂しい雰囲気なんですけど、私にとって大切な場所を少しでも盛り上げるというか、ちょっと楽しいことが増えたらいいなという思いもありました。「ここに来といたら、とりあえず何かしら面白いことがある」。そう思ってもらえる場所をつくれたらなと。
── それから7年、チャットモンチーが完結してからもOLUYOで徳島のイベントを開催し続けていると。

福岡 オープンするのは月に2、3度くらいですが、自分たちの手の届く範囲でいろいろやっています。例えば、徳島の面白い人を招いたトークショーを開いたり、地元の特別支援学校と一緒にチャリティーバザーをやらせていただいたり。今年の2月には私が大尊敬するシンガーソングライターの七尾旅人さんにOLUYOでライブをしていただきました。
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徳島空港を出発して、自然豊かな那賀町までキャンプに行くバスツアーをやったこともあります。役場の方から「一緒に何かやれませんか?」とお声がけいただいたので、私がツアーのプランやコースを考え、バスガイドもやって。バスツアーに参加してくれたチャットモンチーのファンの中には、そこから毎年のように徳島へ遊びに来てくれるようになった人もいて、めっちゃうれしかったですね。
── 徳島に人を呼び込むことにも貢献していますね。
福岡 そのきっかけをつくることが一番の目的ですね。最初は私やチャットモンチーが入口だったとしても、その後は自発的に訪れたくなる魅力が徳島にはあると思うので。
徳島へ移住。穏やかな生活の中から生まれる音を曲に
── 現在は徳島在住なんですよね?
福岡 はい。2020年に東京から移住しました。今は海辺の古民家で、夫と子どもの3人暮らしです。

── 移住のきっかけを教えてください。
福岡 2020年に子どもを出産したんですけど、当時はちょうどコロナの1回目の緊急事態宣言の最中。世の中の混乱がピークだった時期で、人が多い東京では子どもを外で遊ばせることもできませんでした。それで、緊急事態宣言が明けてすぐに、いったん徳島へ帰省したんです。
滞在中、気分転換に犬を連れて海までドライブに行ったら、人っ子一人いなくて。犬もめっちゃ楽しそうに走り回っていて。それを見て、このへんに住むのもいいかもと思いました。その場で夫が町役場に「空き家ありますか?」と電話をし、翌日に内見して、その次の月には移住していましたね。



── 急展開ですね。コロナ禍がなくても、いつかは徳島へ戻りたいという思いがあったんでしょうか?
福岡 全然なかったです。チャットモンチーが完結してからも、ありがたいことに東京でお仕事はもらえていましたし、最前線で活躍する人たちの近くでもまれながら音楽をやっていたいというギラついた思いもありました。
それには、やっぱり東京にいないと駄目なのではないか?と。それに、そもそも勝負するつもりで上京してきているから、徳島に戻るのは「負け」を意味するんじゃないかみたいな感覚もどこかにあったんですよね。
ただ、世の中がああいうことになって、全てがリモートでできるようになった。その時点で徳島に戻ることまでは考えていませんでしたが、うっすらと東京以外の選択肢が浮かび始めたタイミングでもあったと思います。
── 東京を離れることで、ギラついた気持ちが薄れてしまう怖さみたいなものはありましたか?
福岡 それはありましたね。ただ、実際に徳島に来てみたら、また新しいものが見えてきたというか。徐々に考え方が変わっていきましたね。
── どんなふうに変わったんでしょう?
福岡 東京でチャットモンチーの活動をしているときは、常に新しいことをやらないと意味がない、という気持ちがありました。ときにはファンの人を置いてけぼりにしてしまうことになっても新しい音楽を研究し、発明する。これまでのお客さんが喜びそうな楽曲ではなく、今のチャットモンチーが考える新しくて良い音楽を提示して、それを認めてもらうみたいな感覚でつくっていたんです。
でも、チャットモンチーが完結して看板がなくなったときに、そういうことを忘れて「自分はもともと、どんな音楽がやりたかったんだっけ?」という原点を見つめ直すようになりました。それが新しいかどうかとか、作品としてどうかとか、お客さんからどう思われるかとかは関係なく、今は自分が楽しくて心地よいと思える音楽をやればいいんやって。ちょうど、そんなタイミングで徳島へ移住することになって、自分が出したい音がより明確に見えてきたって感じですね。
── 確かに、徳島移住後に発表された初のソロアルバム『AMIYAMUMA』に収録されている7曲は、それまでのチャットモンチーや福岡さんのイメージとはまるで異なっていました。

福岡 あのアルバムは「生活の中から生まれた音」って言ってるんですけど、どの曲にも身の回りの音をすごく入れています。例えば海の音とか、家のトタンに雨が当たる音、あとは子どもの笑い声とか。そういう、生活の中から自然に出てくる音で構成されたアルバムなので、聴いてくれた人は今の私の生活が見えてくるというか「徳島ですごく穏やかな暮らしをしていることがわかった」と言ってくれますね。
本で例えると、チャットモンチー時代は「小説」を書いていたのに対して、今は「エッセイ」を書いているという感じ。すごくかっこいいフィクションをつくろうとしていたところから、より自分自身に近いものを出すことに重きを置くようになりました。
── チャットモンチーが完結し、福岡晃子としての音楽を模索する中で徳島にやってきたのは、タイミング的にもちょうど良かったかもしれませんね。
福岡 本当に、今思えばめっちゃ良いタイミングだったなと。東京では「チャットモンチーの福岡晃子」として、プライベートでもどこか構えて生活していましたが、こっちでは常に素の自分でいられることも大きいですね。
── ちなみに、今はどんな生活を?
福岡 今の時期(8月)だったら朝の6時に起きて、夫は犬の散歩、私は子どもにご飯を食べさせます。子どもを保育園に送り出してから家の掃除や洗濯をしつつ、ご近所のおっちゃんとしゃべったりして。お昼は友達がやっているご飯屋さんでランチをしたあとに、近所の友達の家にお茶をしに行ったりという感じですね。あとは保護猫にご飯をあげたりとか、だいたい同じような日々を過ごしています。
── 穏やかな暮らしぶりが目に浮かんできます。
福岡 なんか、全然仕事してない人みたい(笑)。音楽をつくったり、書き物の仕事だったりは午後から始めて、夕方くらいには終えることが多いですね。あとは家族と過ごしたり、ご近所さんと飲んだりしています。
周囲の方々も、私がチャットモンチーだったことを知ってからもご近所さんとして普通に接してくれるので、とても心地よいです。そうやって本来の自分を取り戻すことができたことも、かなり音楽に影響しているかもしれませんね。
お話を伺った人:福岡晃子(accobin)(ふくおか あきこ)
イベントスペース「OLUYO」社長、作詞作曲家、演奏家。徳島県徳島市出身。2002年よりチャットモンチーのメンバーとして活動し、2016年に徳島にイベントスペース
YouTubeチャンネル:「accobin_福岡晃子」
Instagram:akikofukuoka_oluyo
X(旧Twitter):@accobin
accobin HP:accobin/OLUYO(毎月イベント開催中):https://oluyo2016.wixsite.com/tokushima
聞き手:榎並紀行(やじろべえ)(えなみ のりゆき)
編集者・ライター。水道橋の編集プロダクション「やじろべえ」代表。「SUUMO」をはじめとする住まい・暮らし系のメディア、グルメ、旅行、ビジネス、マネー系の取材記事・インタビュー記事などを手掛けます。
X(旧Twitter): @noriyukienami
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編集:はてな編集部