
子役から俳優としてのキャリアを経て、いまやムード歌謡グループ「純烈」のリーダーとして全国を飛び回っている酒井一圭さん。現在はプロデューサーとして今話題の新人グループ『モナキ』も手がけ、大忙しです。
その原点は、華やかな芸能の世界ではなく、意外にも思春期を過ごした郊外の街にあるそう。2025年「しろいふるさと大使」に就任した酒井さんに、子役を辞めてから過ごした千葉県白井(しろい)市での5年間の記憶を語っていただきました。
多摩から千葉・白井市へ。「棲み分け」を意識した中高時代

―― 酒井さんは関西弁のイメージが強いですが、大阪に住んでいた期間は短かったんですね。白井市には、どのタイミングで住んでいたんですか?
酒井一圭(以下、酒井):12歳から、高校2年生までの期間ですね。もともと両親が大阪で、家の中ではみんな関西弁だったんです。僕は3歳まで大阪で暮らして、そのあと親の仕事の都合で多摩ニュータウンに引越して、そこからさらに千葉ニュータウンに来たんです。今、僕は府中に住んでいますが、実家は今も白井にあります。
―― 多摩ニュータウンから千葉ニュータウンへの引越しだったんですね。
酒井:千葉ニュータウンは多摩ニュータウンの少し後につくられたんですよね。でも、多摩に比べて千葉の方が条件が良くて、「ほぼ同じ家賃で広さが2倍になる!」ということで引越すことになったんです。
うちは3人兄弟で、成長とともに当時住んでいた多摩の公団住宅が手狭になったんです。両親も「1人一部屋与えてあげたい」っていう親心があったんだと思います。
―― 土地勘があったわけではなかったんですね。白井の第一印象は?
酒井:最初は正直苦手でしたね。シンプルに「田舎やな」って。でも、だからこそ白井では流れ星がよく見えました。自転車を漕いでいるとき、斜めじゃなくて、縦にストンって落ちる流れ星を何度も見たことが記憶に残っています。
―― 空が開けていて、自然豊かだったんですね。
酒井:カブトムシもクワガタムシも、わざわざ採りに行かなくても家の網戸にくっついてくるし、ちょっと土掘ったら幼虫がいっぱい出てくるんです。多摩ニュータウンの頃には考えられないほど生き物がたくさんいて、びっくりしました。白井の友達はヘビの捕まえ方まで知っていて、「ここを触ったら噛まれないよ」とか教えてくれるんです。ただの田舎じゃなくて、遊び方がめちゃくちゃ野生的でしたね。

―― 野生的、というと?
酒井:遊びのスケールが全然違うんです。多摩やったら「何丁目エリアで」と少し範囲を狭めてドロケイをやるんですけど、白井やと市全体を走り回っていましたね(笑)。みんなとにかく元気で、やんちゃな子らがたくさんいました。
―― 酒井さんは、すぐ白井になじめましたか?
酒井:多摩にいたときは、学級委員とか応援団長とかをやるリーダータイプだったんですけど、白井に行ってからは「もうやらんでええな」って思いました。「棲み分け」を意識していましたね。
―― 棲み分け、ですか?
酒井:無理してヤンキーたちの仲間に入る必要はないし、担がれるのも嫌だったんです。友達とサッカーや野球は一緒にやるけど、それ以外は距離を取る感じです。白井では、1人で静かに過ごしてましたね。
―― 子役時代にガキ大将『あばれはっちゃく』を演じた酒井さんが、白井では静かに過ごしたんですね。
酒井:白井には白井のガキ大将がいるからね(笑)。
「好き」より先に「なぜ流行る?」 分析しながら観たエンタメの世界

―― 酒井さんが白井に住んでいた12歳から17歳というと思春期まっただ中ですが、その頃はどんなことに興味があったんですか?
酒井:エンタメが好きでしたね。子役時代に『あばれはっちゃく』でがっつり稼いだお金で、ステレオを買ってもらって、ずっとFMで音楽を聴いていました。まだネットもない時代だし、CDも簡単には手に入らない田舎だったから、駅前の本屋とステレオのある部屋が自分の居場所でしたね。
―― カルチャーとの接点が書店とFMだったんですね。当時はどんな音楽を聴いていたんですか?
酒井:世代的に、ブルーハーツとかをよく聴きました。でもFMで流れてくる流行りの音楽は、一通りなんでも。ただ聴き方がちょっと変わっていて、「この曲が好き」というより「なんで今これが流行ってるんやろ?」って考えながら聴いていました。
テレビを観ていてもそうです。「この人はどこの事務所で、どういう事情があって出てるんやろ?」と裏側を考察しながら観ている子どもでした。純粋に熱狂している友達がうらやましくなるくらいに、考え事ばかりしてましたね。
―― 子どもながらに、メタ的な視点をもっていたんですね。
酒井:そう。子役を経験して、芸能や大人の世界を知ってしまったからなんですよね。
それと、公団住宅にはいろんな人たちが住んでいるから、人をよく観察できます。今も純烈の活動で地方へ行くと、東京にいるとわからないことがたくさん見えてくるな、と感じますね。郊外の公団住宅はある意味、世の中の縮図みたいな場所だと思うんです。子どものときの観察力は、今の仕事にも生きています。
―― 千葉ニュータウンで今の酒井さんのプロデューサー的な視点が育まれたんですね。
酒井:それはあるかもしれない。いろんな人のデータがたまっていて、今につながってますね。純烈で全国を回って、いろんなファンの方たちに会うんですが、その人の雰囲気を見るだけで、だいたいどんな性格で、どのメンバーが好みなのかがわかるようになってきたんです。だからモナキのメンバーも、どんなファンに刺さるのかが、わかって採用しました。今も「この人はおヨネ推しやな」とか、わかります。
―― さすがですね。書店以外で、よく行ったお店や施設はどこですか?
酒井:駅前にある老舗のケーキ屋さん「まざあぐうす」にはたまに行っていましたね。そこのケーキとシュークリームが好きで、何かのお祝いというよりは、普段から自分で買って自分で食べていました。
あとは「白井ジャパン」という理容室で髪を切って、その並びにある塾に通っていました。ファストフード店なんてない街でしたから、本当にそれくらいです。駅前がすべてでしたね。
「馬と芸能で生きていく」15歳で人生の軸を決めた

―― 中高生になると、都会への憧れを抱く人も多いです。白井から東京は電車で1時間ほどですが、東京に遊びに行くことも増えましたか?
酒井:高校3年生のときに、東京の錦糸町に引越すことになったんですが、それまで白井からはなかなか出られなかったですね。
―― 白井の暮らしに満足していたんでしょうか。
酒井:いや、東京と千葉県北西部をつなぐ北総開発鉄道(現・北総鉄道)の運賃が、首都圏の鉄道の中でも際立って高かったんです。東京へ出るだけで、交通費が片道1000円近くもかかるんです。
―― 中高生には厳しいですね。
酒井:そうなんです。だから、ほとんどチャリ圏内で過ごしていましたね。
高校は学区内の県立高校の中でも一番遠い、柏西高校を選びました。僕の狙いは、交通費。電車とバスを乗り継いで行く必要があって、3カ月分の定期代が5万5000円もしたんです。親からもらった定期代はポケットに入れて、黙って自転車で通学していました(笑)。
―― 定期代をお小遣いに……! それにしても、自転車での行動範囲が広いですね。
酒井:移動は全部チャリだったから、毎日3時間くらい爆走してて、めちゃくちゃ体力がつきました。
ちなみに、この頃からずっと馬が好きで。僕は今、東京の府中市に長年住んでいるわけなんですが、それも東京競馬場があるから。千葉にも船橋競馬場や中山競馬場があって、白井から自転車を漕いで、しょっちゅう馬を見に行っていました。
―― 白井市から船橋競馬場まで、自転車で行くにはかなりの距離があります。そうまでして見に行くほど、馬がお好きだったんですね。
酒井:そうですね。親戚の影響もありますが、僕が馬を好きになったのは、白井で過ごした環境が大きく影響していると思います。
白井の実家の近くに、騎手や厩務員(きゅうむいん)を育成するJRAの競馬学校があるんですよ。「こんにちは! 見学させてください」と言って、学校の隣にある牧場で馬に触らせてもらいました。
当時の友達に船橋競馬場の厩務員の子どもがいて、そのツテで船橋競馬場の馬小屋や厩舎にも連れて行ってもらった思い出もあります。
―― 酒井さんは馬主資格を取得されてから、前川清さんとの共同馬主にもなられました。「馬主になる」という夢は、ここからつながっていたんですね。
酒井:そうです。ちょうどオグリキャップが活躍していた時代ですね。実は15歳の時には、「芸能と馬で生きていく」と決めていました。
―― 15歳で。かなり早い決断です。
酒井:部活を中途半端にやるくらいなら、将来を見据えて本当にやりたいことに集中するのが絶対にいいと考えていましたね。いつか馬を持ったり馬に関わる仕事がしたいなって思っていて。そこから約30年かかりましたけど、やっと馬主にもなれました。
「白井での放牧期間がなかったら、今の自分はない」

―― 白井で過ごした期間は、完全に芸能活動からは離れていたんですよね。
酒井:はい。『あばれはっちゃく』の主演は子役界ではトップなので、当然その後もオファーはいただくんですけど、自分の意思でスパッと辞めました。
辞めたあとにテレビをつけたら、ドラマ『3年B組金八先生』にあばれはっちゃくでクラスメイトを演じた仲間たちがみんな出ていましたね。「ああ、僕も役者を続けていたら、金八先生にも出られたんやろな」と想像はするんです。
それでも、あえて芸能界から離れて「テレビで活躍する仲間を観ながら、部活や勉強、普通の学校生活をちゃんとやろう」って決めたんです。大人になった時、本当に芸能界を好きな場所だと思えるのかどうか、改めて考える時間が欲しかったから。
―― その後、俳優として芸能界に復帰して、純烈としても紅白歌合戦に連続出場。今はモナキのプロデューサーとしても大活躍されています。常に人生のピークを更新しているように見える酒井さんですが、振り返ると、白井で過ごした5年間はどんな時間でしたか?
酒井:“放牧期間”です。完全にインプットの時間でした。自分が何をしたいのか、目標を決めてそれからどう生きていきたいのか、自分と向き合う時間。振り返れば、今の活動と完全につながっていますね。白井で暮らしていなかったら、今の自分はないです。
―― 今でも白井市にご実家があるんですよね。たまに帰っていますか?
酒井:家族を連れて母親に会いに帰るけど、泊まれないんですよ。帰ると、当時の思い出が全部フラッシュバックして、昔の「陰」だった自分に戻る感じがして。だからすぐに「そろそろいこか」、「ほな、また闘ってきます」と言って東京に戻ります(笑)。
―― あまり長居はしないんですね。
酒井:白井市での僕は、どこか浮いてる状態だったんですよね。家族から見ても、僕はいつも宇宙人みたいらしいんです。まともな考えで生きていたら、できない仕事をしているから仕方ない。みんなと違う感覚をキープし続ける努力もせなあかんなって思っているところはあります。だから、パッと帰って、またパッと東京に戻る。
―― 2025年には「しろいふるさと大使」に就任されましたね。
酒井:自分をかたちづくった街なので、よろこんでやらせてもらってます。でも、僕でええんかな? という気持ちもあって。僕、長いこと純烈では食えなかったから「なんらかの未納とかない!?」って就任のとき不安になったんやけど、市長が言うには「大丈夫!」って(笑)。
一緒に紅白にも出た新浜レオンくんも同郷で、同じくしろいふるさと大使を務めているので、自分は2番手か、3番手くらいの気持ちです。
―― 最後に、酒井さんにとって白井市はどんな場所ですか?
酒井:人生を決めた場所ですね。娯楽もないし、便利でもない。夜もめちゃくちゃ静かで、電車の音も車の音もしない。だから考えるしかないんですよ。とことん自分と向き合った。何もないからこそ、人生を決める全部があった場所ですね。

お話を伺った人:酒井一圭
1975年6月20日大阪府生まれ。純烈のリーダーで、モナキのプロデューサーも務める
編集:小沢あや(ピース)
