根拠のない自信を、いつだって自分の味方にしていい。世田谷代田と東京暮色|文・小日向雪

著: 小日向雪

「下北沢から三軒茶屋の間で……家賃は、5万円以下でお願いします! あ、お風呂は欲しいです!」

地元である北海道の北斗市を離れ、神奈川県で一人暮らしをして2年ちょっとの月日が経った、20歳の頃のことだった。我ながら、不動産屋さんにとんでもない無茶振りをしたなと思う。


私が人生でつかんだ一番の奇跡

小さい頃から役者になりたかった。
まだ北海道にいた中学生の頃、今年の5月までお世話になった東京の事務所に所属することになり、それ以来、他の将来の夢が一度も浮かんだことがないくらい、芝居の世界に魅了されて生きてきた。

役者を目指そうと思った理由は結構めちゃくちゃだった。幼稚園で将来の夢を書いてくださいと先生に言われ、花屋、ケーキ屋、看護師、ディズニープリンセス、セーラームーン、ホッキョクグマの飼育員……と、なりたいものが多すぎて将来の夢が決められないと母に相談したところ、「女優さんになったら、役でいろんなお仕事が経験できるかもね!」と答えてくれ、「その通りだ!」と思って、それから将来の夢はいつだって「女優さんになること」だった。

母は幼稚園児だった私の相談に、もちろん本気で答えたわけではなかったそうで、その言葉を鵜呑(うの)みにした私が、小学校5年生の頃、初めてオーディション雑誌を買いたいと言い出した時はかなり驚いたそうだ。

大人になってから母と当時の話をしていた時に、「本当に東京の事務所から連絡もらえるなんて思ってなかったし、小さい頃に本気で頑張ってたことの一つになればいいねって気持ちで雑誌を買ってあげてたんだよ」と、言われた。

改めて私の両親は、いつも私の気持ちを優先してくれて、いろんな選択を与えてくれて、とにかくのびのびとした幼少期を過ごさせてくれたな、それって特別なことだよなと思ったりした。

全国規模のオーディションにいくつも応募し、北海道予選を突破できない日々が続いていた。そこで両親に、このままオーディションを受けるのではなく、東京の事務所に履歴書を送ってみたいと伝えた。

「1カ所だけならいいよ」と言われ、どこに送ろうかと悩んだ末に、憧れだった蒼井優さんの所属している事務所に履歴書を送ることにした。

両親はその時、もしこれだけ本気で挑戦してダメなら、諦めもつくだろうからと思い、「1カ所だけならいいよ」と言ったそうだ。

半年が過ぎた頃、「面接に来ませんか?」と連絡をもらい、東京での面接を経て、事務所に所属することになった。後にも先にも、私が人生でつかんだ一番の奇跡だと思う。

焦燥感に駆られ、いつも不安な気持ちでいっぱいだった

面接後から、所属に至るまでの期間には両親とたくさんの話し合いを重ね、私が本気であることを中学生なりに伝えた。そして、学業優先で仕事をすることを約束として、高校在学中に上京するのではなく、基本は週末と長期休みで東京に通うことになった。

高校2年生の頃、back numberの曲の一つ、『世田谷ラブストーリー』を学校の帰り道に、そして通学電車の中でも何度も繰り返し聴いていた。当時私が乗っていたのは、函館市内の路面電車で、各駅停車ではあるが、この曲に出てくる「もう終電に間に合うように/送るようなヘマはしない」という歌詞にあるような、最終列車ではなかったけれど。東京、特に世田谷への憧れは増すばかりだった。

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今となっては、地元から東京へ通いで仕事をすることを提案してくれた両親には、感謝してもしきれない。きっちり話し合いをしてくれたことや、そもそも得体のわからない芸能界に入ることを許可してくれた両親の覚悟、交通費などの金銭的な面での援助にはとにかく頭が下がる思いなのだが、当時は、高校生の時にしかできないお芝居のチャンスを私はどんどん逃している、という焦燥感に駆られて、いつも不安な気持ちでいっぱいだった。

早く東京で暮らしたい、東京でお芝居がしたい、東京の劇場へ行きたい、たくさんの作品に触れたい、いろいろな人と出会いたい……欲を言えば、素敵な恋もしたい。そんな思いで聴く『世田谷ラブストーリー』は特別で、いつか絶対に世田谷に住むんだと心の中で決めていた。

これらの理想をひっそりと抱きながらも、地元の人たちにたくさんの愛情を貰いながら高校3年間を過ごし、都内の大学に進学を決めて、念願の上京を果たした。私が初めて住んだ街は世田谷ではなく、もはや都内でもなく、川崎市だった。上京、ではなかった。

川崎も、「帰ってきた」と感じられる素敵な街なのだが、やはり世田谷に対する憧れの気持ちは、日々を重ねるごとに強くなっていった。同時に、世田谷区の広さに驚く。

世田谷区のいろいろな場所へ足を運んでみたのだが、とにかく広い。川崎市内から都内に出る時の通過駅だった三軒茶屋、そして演劇の街である下北沢、この区間のどこかに住もうと狙いを絞り、引越すには半端な時期にもかかわらず、1人不動産屋さんへ向かい、冒頭に記した条件で物件探しを始めた。

夢だった世田谷暮らしは家賃5万円のアパートから始まった

不動産屋さんで担当についてくれたのはとても親切な人で、都会に来て2年経ったとは思えないほど田舎者丸出しの私に、「女の子で、このエリアで5万円以下で住むとなると……セキュリティ的な問題や、物件の古さとか……本当に大丈夫ですか?」と、何度も確認をしてくれた。
 
それに対して、お願いしますの一点張りを貫いた結果(申し訳ない)、いくつかの物件を提案してもらった。その中で、ここだ! と一目惚れをし、出会ってしまったのが下北沢の隣駅、世田谷代田にある、とても味のある物件だった。

世田谷代田の駅周辺は、再開発が行われていて、とても美しい。昨年話題になったドラマ「silent」のロケ地としても名を馳せた、閑静な住宅街もある。

綺麗な街の一角にある、家賃5万円の木造2階建てアパートの、畳の部屋に住むことになり、夢に描いていた通りの、念願の世田谷暮らしが始まった。2018年6月16日のことだった。

「演劇を見に行く場所」だった下北沢が隣駅であることが、世田谷が「帰る場所」になったことが、嬉しかった。終電を気にせず下北でお酒が飲めることも嬉しくてたまらなかった。下北沢はたくさんの劇場や飲食店が立ち並ぶ賑やかな街だが、繁華街から徒歩10分ほどの世田谷代田は、とにかく静かで、近くにはスーパーや学校があって、生活感のある街だった。

私が住んでいたアパートの1階には大家のおばあさんが住んでいて、夕方になるといつもご飯のいい匂いがした。川崎に住んでいる時もきっとどこかのお家の夕飯の匂いはしていたはずだけれど、私は世田谷代田に来てから初めて感じることができた。

夕方に家の周りを歩くと、たくさんの家からそうした匂いがしていることに気がついた。「今日も一日お疲れ様でした」と街中から言われているような気がした。地元にいる時も、こうやってお疲れ様とおかえりをもらっていたんだな、と思ったりした。

そして、家々の隙間から小さく見える東京タワーの、夕日に照らされて反射する赤い光。その美々しい光が私の目に何度も映るたびに、私は東京で生きているんだなと強く実感した。

大家さんはとてもいい人で、玄関先で会うといつもニコニコと挨拶をしてくれたし、セリフの練習をする私の声が聞こえていそうなほどに壁が薄い家ではあったが、何も言わず、私の役者活動を応援してくれていた。

地方出身者の感覚かもしれないが、東京特有の訛りのない言い回しは、感情を読み取るのが難しいなと思っていた。良い意味で互いにどこか無関心である点など、北海道にいた頃に比べて、人のあたたかさを感じられる機会がとても少なかった。

しかし、物件探しの際に優しくしてくれた不動産屋さんや大家さん、その他さまざまな人たちとの出会いを経て、「東京の人は冷たいから」と勝手に線を引いていたのは私だったことに、初めて自覚的になることができた。

世田谷代田と下北沢での暮らし

近所となった下北沢の劇場にはかなりの頻度で通った。実際に私が下北沢で演劇をやる時は、小屋入り(稽古を終え、実際に本番をする劇場に入ること)すると、通勤時間平均約15分の立地であることを、共演者の人たちから羨ましがられたりもした。「えへへ、そうなんです」と、何度もニヤニヤしながら返事をした。

それと同時に、住んでいるアパートの詳細を話して驚かれるのだが、それも含めて、夢に描いた世田谷暮らしだったのでその度に一人で心を熱くさせていた。


初舞台の時の劇場、小劇場B1。客席が二面になっていて、観劇するのも、作品をやるのも最高に好き。思い出の劇場


「スズナリ」も観劇する際のお気に入り劇場であり、大好きな劇場の一つ。中学生の時に読んだ石田衣良の『下北サンデーズ』で初めて劇場の名前を知った。いつか演れますように


そしていつか立ちたい憧れの劇場、本多劇場。徒歩圏内にあることが不思議だった。本多で観劇した後は、いつも誰にも会いたくなくなり、足早に劇場を出てしまう

芝居の仕事がない時はひたすらアルバイトをする日々で、飲食店をメインに、掛け持ちで派遣のバイトをするなどして生活費を稼いでいた。バイトが終わるのは基本23時過ぎで、帰る頃にはへとへとだったが、友人たちと下北沢付近の居酒屋でお酒を飲む時間が大好きだった。

最近では、感染症対策のため、打ち上げを大々的にするという文化が私の周りではほぼなくなってしまったのだが、あの頃の下北沢は「演劇の街」と言われるだけあって、公演終わりの演劇人や、観劇に来ていたであろうお客さんたちしかいないのでは? と思うほど、関係者が街に溢れており、どこの居酒屋でも芝居の話でいっぱい。そんな空間が楽しくて仕方がなかった。

私が一番好きだったお店は「ホルモン稲田屋」だ。南口商店街を三軒茶屋方面に下り、餃子の王将を通り過ぎたあと二本目の坂を登ると、赤提灯がさがったお店が見えてくる。ここはほとんどのお肉を500円で提供しており、ゴロゴロとした大きな美味しいホルモンをお腹いっぱい食べることができる。

私の友人は役者だけで食べている人や、正社員として給料をもらっている人はほとんどいなかったため、いつでも私たちは金欠だったけれど、たまのご褒美として、お酒を交わす時間を大切にしていた。明日からもがんばろうな、と言い合って解散した。

下北沢には誰かの理想や夢が漂っている

こうして、徒歩で劇場に通い、役者仲間やさまざまな夢を持つ人たちとの交流が増え、気がつくと「下北の人」となっていた私は、下北沢の居心地の良さを感じると共に、ここが本当はとんでもなく恐ろしい街なのではないかと思い始めた。

夢を追っているたくさんの人たちが集まり、夢を語り合いながらお酒を飲み交わす。なんとも言葉にするのが難しいのだが、下北沢には、私や、どこかの誰かが語った夢や理想が靄(もや)のように漂っている。

自分自身は何も成し得ていないのに、まるで自分自身が大きなことをしたような気になっていて、それは私も同じだった。

どんなに楽しい時間を過ごしても、心に空洞を感じる瞬間が何度もあった。たくさんの夢や理想に囲まれているはずなのに寂しかった。そしてチャンスがたくさん転がっているはずのこの街で、私自身は何も成長できていなかった。

そんなことを思いながら歩く鎌倉通りは、気がつくと、数カ月前まであった再開発のための重機がどんどん減り、綺麗な建物が建っていた。下北沢では新参者に過ぎないけれど、街が変化してゆく様を見てなんだか寂しい気持ちになった。同時に、高校生の時に抱いていたような焦燥感に、再び駆られた。

新型コロナウイルス感染症が日本中を蝕み始め、全国に緊急事態宣言が発令されたのは、その頃だった。決まっていた仕事がなくなり、アルバイト先の飲食店も休業。やることがなくなってしまった。恋人ともお別れをしていたので、誰にも会わない、本当に孤独な日々が始まった。

ただ起きて眠るだけの日々。映画を見る気にもなれなかった。終わらない夏休みみたいだな、と思った。マイナスな気持ちになるときが増えたことや、明らかにおかしくなる生活リズムに危機感を覚え、近所を歩いてみることにした。そこでやっと私は、世田谷代田の魅力に気づかされる。

改めて気づいた世田谷代田という街の良さ

駅の近くにある「ヤマザキショップ代田サンカツ店」には「ご飯ちゃんと食べてるかい?」と声をかけてくれるお母さんと、いつも笑顔で挨拶をしてくれる店主の男性がいる。

夜には店内で近所の人が集まり談笑している日もあって、「たまにこうして集まってるんです、いつでも歓迎しますよ」と言ってくれた。夏になると、外にビールサーバーが設置されるのも、素敵なポイントの一つ。今も置いているのかな、どうなんだろう。

その目の前にある「Light up coffee」。ここでは、店員さんの細やかな対応にいつも驚かされる。美味しいドリンクだけでなく、その日に提供している珈琲豆の、生産ストーリーが書かれた可愛いイラスト付きのカードを渡してくれる。

1カ月だけ、高校のときの友人が家に泊まっていたときがあり、リモートワークをする彼女が、仕事の前にここでコーヒーを買ってきてくれたのも思い出深い。

この道の先にある、「タルトヤ ハシバミ(hashibami)」は日曜日にしか現れない焼き菓子屋さんで、売り切れたらお店を閉めてしまう本当にレアなお店。日曜日にこの近くの道を通ると、ふわっと甘い匂いがして、タルトの日だ! と心が躍った。

しかし、活動時間が遅めの私はあまりタルトにありつけたことがなく、店主の方に「あと1時間早ければ、甘いの残ってたんだけど……」と言われることがほとんどだったが、その分、タルトにありつけた日の感動はものすごくて、自宅の畳の部屋で過ごす際の、最高のご褒美時間になっていた。

そして世田谷代田で私の最も好きだった場所は、「北沢川緑道」。

日中は子どもたちが川縁で何かの生き物を必死に探していたり、老夫婦がお散歩をしていたりする。夜になると、本当に静かな時間が訪れる、素敵な場所。

時間だけがあったあの頃、何度も何度もここを訪れては、「何もしない」をした。ここではなぜか、焦りの気持ちはどこかへゆき、無の時間を過ごすことが許されるような感覚になる。

当時ご近所さんだった大好きな人と、「緑道する?」と言って、ここに来て缶ビールを飲んだこともあった。大酔したことも、大泣きしたこともあった。「ええ、これってめちゃくちゃ世田谷ラブストーリーじゃん!!!」と思ったりもしてました。恥ずかしい。

東京で初めて見つけた「私の帰る場所」

現在、私はもうこの街を離れているけれど、とても情熱を注いでいた公演の一つが中止になってしまった時にも、1人でここを訪れ、缶ビールを飲んだ。

悔しい気持ちが消えたわけではなかったし、特別なことは何も起きなかったけれど、この街で過ごした思い出たちがただただ寄り添ってくれているようで、いい時間だった。

緑道で「何もしない」をしながら、ふと当時の自分を思い出した。

芸能界に飛び込んだ10代の頃、「私はこうなりたいんです、こういうことがしたいんです、今こんなことをしています」といった、自分の明確な目標や気持ち、自身の現在地を誰かに伝えることは、とても容易なことだった。

なぜなら、芝居の世界で成功するんだという絶対的な強い意志と根拠のない自信があったからだ。そして、無知であることの強さをひしひしと感じた。私がこの世界の入り口を切り拓いた時に持っていた武器は、無知が故の愚直さだったのだろう。

日々、目まぐるしく移り変わり、時間があっという間に過ぎゆく東京での生活のなかで、私は私のいちばんの武器を大切にすることを忘れていた。

もちろんそれだけでは生き抜くこと、戦っていくことはできないのだけれど、あの頃にはいなかった「頑張りたい、頑張る、頑張ろうね」と言い合える仲間・同志が今はいてくれる。

だから、どんなに理不尽なこと、苦しく辛いことが降りかかってきても、臆病になるのは違うよなと思えた。

26歳になって、理想ばかりでは生きていけないことと、ぶつかる機会が増えて現実を見せられることがますます増えた分、夢を語ることが難しくなっていたけれど、根拠のない自信を、いつだって自分の味方にしていいんだなと思う。

世田谷代田は、東京の人は冷たい、と勝手に決めつけていた私を変えてくれた大切な場所で、地元にいた頃のようなあたたかさをくれた。この街で、たくさんの人と出会えたことも、芝居の世界の近くにいられたことも、寂しかったことも、素敵な恋をしたことも、全部全部、私の財産です。

世田谷代田は、自分の気持ちを奮い立たせてくれる街であり、東京で初めて見つけた私の帰る場所になった。

著者:小日向雪(こひなた せつ)

小日向雪

1997年生まれ。北海道北斗市出身。役者。
小劇場を中心に役者として活動中。過去の主な出演作に、キ上の空論「ピーチオンザビーチノーマンズランド」、悪い芝居「ラスト・ナイト・エンド・デイドリーム・モンスター」など。また、コロナ禍で12人の俳優だけで作成した配信作品「curfew」では、第12回下北沢映画祭にて観客賞を受賞。趣味はサウナと脚本執筆、特技は焼肉を焼くこと。
今後の出演作にLIVEDOG GIRLS『TOARU (トアル)』(2023年10月6日~15日・中目黒キンケロ・シアター)、キ上の空論『ピーチオンザビーチ ノーマンズランドの再演』R-18(2023年11月23日~12月3日・上野ストアハウス)など。

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編集:岡本尚之