著者: 高橋一(思い出野郎Aチーム)

今から19年前、中学校3年生のときに初めて友人たちとパンクロックのコピーバンドを組んだ。吹奏楽部でトランペットを吹く冴えない少年だった僕は、部活の休憩時間に少しだけ練習していたドラムを担当することになった。
中学生の少ない小遣いでは頻繁にリハーサル・スタジオに入ることもできないので、練習はもっぱら地元の世田谷区が運営する児童館だった。
児童館とは、子どもたちが誰でも体育館や音楽室などを無料で使える公共の施設で、ドラムセットが置いてある所も多いので、さまざまな中高生のバンドが練習に利用していた。

僕らの地元は下馬や野沢といった三軒茶屋にほど近いエリアだったので、世田谷線で三茶から二駅離れた若林児童館の音楽室でよく練習していた。
しかし「音楽室」と言っても、年季が入ったドラムとボーカルスピーカーがあるのみだったので、毎回自転車のカゴに小さなギターやベースのアンプを積んで、世田谷線の脇道を汗だくになりながら走って向かった。

音響はあまり整っていないし、他の部屋で遊んでいる小さな子どもたちがしょっちゅう入ってきて僕らを物珍しそうに眺める。
壁には折り紙の飾りが無数に貼ってあって、黒板には誰かがチョークで書いたドラえもんとカービィの絵。どんなに激しい曲を演奏してもカッコがつかず、憧れのパンクとは程遠いのどかな環境だった。
しかしそれでもあのころは、下手でも大きな音を出し続けるだけでどんどん自分たちを取り巻く世界が広がるような気がして、ただただ楽しかった。
児童館の閉館時間になって練習が終わってもみんな興奮が冷めず、いつも買い食いしながら公園で次は何の曲をやるか相談したりして、ダラダラ帰宅を先延ばしにしてばかりいた。


初ライブで出会ったローカルシーン
高校一年生の6月、いつものように練習していると、児童館の職員のおばさんがニコニコしながら「これ、出てみない?」と紙を渡してくれた。
それは、毎年初夏に児童館からエントリーした各町の中高生バンドが20組近く区のホールに集まって演奏する、ローカルなフェスのようなイベントの申込用紙だった。ついに初ライブがやってきたのだ。
皆かなり意気込んで二つ返事で出場を決め、その日から練習後は児童館でコピーしてもらったチラシを自転車で中学校時代の同級生に配って回った。今思えば迷惑な話である。
そして迎えた当日、わざわざ朝からメンバーの家に集まって、ワックスで髪を立たせてからみんなで会場に向かった。全員平常心を装っていたが、無理やりセットして不自然に黒光りする髪と、緊張で青ざめた顔が情けないコントラストをつくり出していた。
ホールに世田谷中の高校生バンドが集まり、15分くらいの持ち時間で思い思いの曲を披露していく。流行りの曲からビジュアル系、ラッパーがいるミクスチャーバンドまで、プロ顔負けのバンドも、結成して間もない初心者バンドも、皆いい顔で演奏していて本当に楽しそうだった。
そんなライブを見ているうちに、少しずつ緊張よりも興奮が強くなっていった。そして迎えた初ステージは一瞬で終わった。音量バランスの整え方なんて何も知らなかったので(全員とにかく音量をMAXにしていた)演奏中はろくに自分の音も聞こえないような状態だった。
けれど、今までに味わったことのない高揚感があって、ぼんやりと「これはずっと続けていきたいな」と思ったことを今でも覚えている。
そのイベントをきっかけに、地元以外のバンドの知り合いができたり新しい交流が生まれて、聴いているCDやMD、バンドスコアを貸しあって情報交換したり、ときにはお互いが練習している児童館に遊びに行ったりするようになった。

YouTubeが設立される数年前、音楽の配信サービスやSNSも発達していなかった2000年代初頭において、中高生に流行っている音楽は、誰もが知っているヒット曲以外は今よりもすこしだけ地域ごとに細分化されていたように思う。
だからこそ住んでいる街や、そこに住む特定のジャンルに詳しい人との出会いがとても大きな影響を及ぼしていたのかもしれない。
例えば、僕らの中学校には謎の『電撃バップ』ブームがあった。
当時学校では「青春パンク」と呼ばれたインディーズの日本語バンドが人気だったのだが、音楽好きのお姉さんがいるベースのKくんの熱烈な啓蒙により、みんなMDにラモーンズの曲が入っていた。
僕らはまだクラッシュやダムドは知らなかったのに、日本語の曲と一緒に元祖パンクナンバー『電撃バップ』を練習することは当たり前になっていた。
正直最初に聞いたときはラモーンズの良さはあまり分からなかったけど、あの有名な掛け声は一度聞くと忘れられず、体育の持久走のときもふざけて「ヘイ! ホー! レッツゴー!」と叫んだ。
一方深沢のほうには、ファッションを含めてかなり本格的なハードコアパンクやスカをやる高校生バンドがいたり、蒲田の児童館にはアップテンポのメロコア・ビートがやたらうまいドラマーがいて仲間内で少し話題になったり、駒沢には早くも大人たちとセッションしているブルース好きの早熟なギター少年がいたり……。
今まで特に行こうとも思わなかった隣町に行くと、そこには自分たちと似ているようで全然違うカルチャーがあって楽しかった。
そして彼らが聴いている音楽を教えてもらう度に(今思えば誰もが知っているような名盤だったが)「とんでもない未知の音楽を知った!」というような気持ちになった。
隣町の音楽
児童館や区のイベント以外にも、自分たちが住む野沢や下馬から自転車で20分くらいの街中に、スナックを改装したようなライブハウスがポツンと建っていた。
よく地元の若いバンドが集まっていて、そこでも交流が生まれたり、年上の人たちの本格的なバンドを少しビビリながら見に行って影響を受けたりもした。
お客さんも近郊の若者ばかりなので、入り口付近に止めてある自転車の数でその日の動員具合が分かるような感じだった。

当時はCD-Rが普及し始めたころで(だれでもCDがつくれるなんて当時は夢のように感じられた)色々なバンドがラジカセで録音したような、音の悪いオリジナル曲のデモをCD-Rに焼いて交換しあった。
下北沢にあったインディーズ専門店の「ハイラインレコーズ」にもよく通って、地元のバンドのデモ音源を買ったりもした。小さなライブハウスで見た、名も知らない同年代のバンドのかっこいいデモを聞いて本気で悔しがったり、自分たちも早く次の音源をつくろうと躍起になったものだ。

デモCD-Rの録音は、いつも野沢方面の地元駅である、学芸大学から一駅の都立大学にあった目黒区の「HINO'S」というスタジオでやっていた。深夜パックが8時間1万円(カップラーメン付き)で格安だったので、オリジナル曲が溜まってきたら、一人3000円くらい出し合って、朝まで急いで何曲もレコーダーで録音した。
完成したのはどれも今となっては恥ずかしくなるような青臭くチープな音源だが、朝にヘトヘトでスタジオを出たときの何ともいえない充実感や、いつもと違って見える朝日の眩しさは、今のアルバムレコーディング最終日とあまり変わらない。

そんなふうに幸運にも半ば偶然出会えた人々によって、どんどん自分の周りの音楽が拡がっていく一方で、同じ街に住んで音楽をやっていても一生出会わない同年代の人々だって当然たくさんいる。そんな人たちの歌をふいにラジオで聞くこともあった。
コミュニティFM局の「FM世田谷」では、MCもゲストも高校生が担当する番組が毎週土曜の夜に放送されていて、デモテープを送って審査に受かった地元の高校生バンドが毎週のように出演していた。
自分の家から見えるような、すぐ隣町で暮らす同年代の誰かの会話や音楽。とても近くに暮らしていて、同じような音楽に熱中しているのに、一生会うことがないであろう人々の歌の記憶たち。夜に一人でその番組を聞いていると、とても不思議な気分になったものだ。
当時16歳くらいの自分にとって、「行ったことのない街」は自分が知らない音楽が鳴らされている場所そのものであり、街と音楽の繋がりをダイレクトに感じていたように思う。
初めて自分の音楽が電波に乗ったのもその番組だった。オンエアの日は友達の家にみんなで集まって今か今かと放送を待っていたが、どうも電波が安定しない。よく考えたら集まった友人宅は隣の目黒区だったのだ。
結局アンテナをいろんなところに置いて試行錯誤するも、かなりノイズ混じりの状態で初のラジオ出演を聞くこととなった。それでもまるでプロになったみたいでみんなで大騒ぎして喜んだ。

街と音楽は響き合う
元はロックやポップスに疎かった自分に、地元の友人たちからもたらされたバンド活動によって、音楽はどんどん生活の中心になっていった。
大学に入り、地元を離れて神奈川の橋本に移り住み、今度は日本のさまざまな場所や、海外から来た人たちと知り合い、やはり同じようにそれぞれの地元や世代で流行っていた音楽を知り、影響されながら思い出野郎Aチームを組み、また違う街で暮らし……。気づけば19年、その時々自分が暮らす街と共に、演奏する音楽も変容してきたように思う。
自分のバンド活動の原体験である地元の小さな結びつきからスタートして、同じ東京都内とはいえ色々な街で暮らしながらさまざまな人と出会うことが、自分のつくるものにも大きく影響してきたのだ。
スターにも、革新的な天才ミュージシャンにもなれなかったけど、今や離れ離れの友人たちとひたすら没頭したあの日々がスタートだったからこそ、今でも音楽を続けていられるように思う。
2020年夏、この記事を書くために久しぶりに地元を歩いてまわった。当然街並みの多くは様変わりしていたが、面影もたくさん残っていて、忘れていた記憶がどんどん蘇った。
9.11のテロをまるで映画のように無邪気に驚いていた中3のあのころから、信じられないようなことがたくさん起きたし、もう僕は音楽をつくり続けることの苦しさや、どんなに努力しても上手くいかない、どうにもならないことがあるのも知っている。
ふと通りの前に視線を移すと、楽器を担いだ高校生たちがバスを待ちながらスマートフォンを見せ合ってマスク越しに笑っていた。
あのころ、僕たちが出回り始めたばかりのCD-Rや携帯電話を使って新しい出会いやコミュニケーションを見出したように、彼らも新しい今のツールを使いこなしながら、自分たちの音楽世界をどんどん広げていくのだろう。
かつてラモーンズがニューヨーク、クイーンズの街角で既成概念をブッ飛ばして新しいロックンロールを鳴らしたように、この困難な時代でも暮らしが続く限り、あらゆる街で新しい音楽はきっと生まれ続ける。
インターネットで世界中の音楽を聞くことができる幸せとともに、隣町の知らないバンドとこれから出会うかもしれないという期待と予感は今もずっとある。いつもは曲がらない角を曲がってみれば、どこかの街の小さな音楽シーンに出会えるかもしれない。
ふらっと入った小さな店でDJがかけたレコードや、地下の小さなステージから漏れ聞こえてくるバンドの演奏が、本人も知らないうちにその街で暮らす誰かの人生を少しだけ変える。
街と音楽はいつだって響き合っている。

<高橋一のプレイリスト>
著者:高橋一

Instagram:@makoto_takahashi_oyat
バンドHP:https://oyat.jp/
